2009年05月25日

特殊な時代の終わり

坂本龍一氏がインタビューでこんなことを言っていました。


−−CDが売れない時代。「音楽業界の軸足はライブ(公演)に移っている」と最近の取材に答えていましたが…

坂本 もともと昔は(音楽家は)食えなかったでしょ。

−−昔の音楽家にはパトロンがいましたよね

坂本 20世紀の約100年間が特殊な時代でね。結局、元に戻ったみたいなもんですよ。(音楽家にとって)結局まだ、お金になるのはライブじゃないですか。エジソンが(蓄音機を)発明する前は、音楽は全部ライブ。むしろ、健全な姿に戻っているのかもしれません。

【話の肖像画】音楽は自由にする(下)音楽家・坂本龍一(57)


「20世紀の約100年間が特殊な時代」。ぼくもそう思います。

坂本氏がどういう経緯でこういう見方に至ったのかしりませんが、ぼくの場合は、マスメディアの中で生きてきた人間として、マスメディアについて考えるうちに、同じ結論に至りました。

かつては、マスメディアは旧メディアであり、インターネットという新しいメディアに飲み込まれるという程度の認識だったのですが、最近は、マスメディアは旧メディアではなく、欠陥メディアであり、人類史の中に登場した鬼子のような存在であり、インターネットの普及により、ようやく正常に戻りつつあるのだと考えるようになりました。

そして、マスメディアの時代とはいつだと考えると、それはまさに20世紀であり(印刷術の進歩により、新聞が大衆に急速に普及したのは19世紀末。ラジオの登場は1920年代で、テレビ放送は1950年代に始まりました)、20世紀を一言で定義しようとすれば、マスメディアの時代というしかないほどに、マスメディアに翻弄された時代だったわけです。

したがって20世紀は、19世紀を受けて21世紀へとつながる時代ではなく、人類史における奇形、まさに特殊な時代と認識すべきなのです。



人類の歴史を俯瞰してみれば、情報の伝達というのは、送り手と受け手の立場が対等なのが基本でした。対話、手紙、サロン、カフェ、同人誌的な情報誌を軸とした意見の交換、観衆と演者がインタラクティブにからむ劇場・・・。そうした情報伝達の進化は、本来ならば送り手と受け手がともに力を拡大するような形でなされなければならないのですが、マスメディアというものは、情報の送り手のみの力を拡大した集権的システムで、従来の情報伝達手段とは似て非なるものです。

いわばこれは、人間社会の神経ともいえる情報メディアの邪進化というべきかもしれません。そしてそれは、社会のあり方をがらりと変えました。19世紀末から20世紀初頭にかけて登場した思想家たちの鳴らした警鐘と、失われた“昨日の世界”へのまなざしは、単に変化への怖れや郷愁では片付けられないレベルで、時代の断絶がどれほどのものだったのかを想像させます。

やがて社会は、マスメディアというシステムの必然的結果である全体主義を生みました。そしてそれが、ナチズムやソビエトの崩壊で終わったことなのかどうかは、この世界の外に出てみなければ、見えないことです。

そう考えると、マスメディア崩壊後の世界は、なかなか輝いて見えます。

マスメディア側からなされるネット批判の要は、「マスメディアという見識フィルターを経ない大衆の意見交換など便所の落書きにすぎず、社会をカオスに導く」というものですが、ぼくでもあなたでもない顔のない「大衆」は、マスメディアの隆盛とともに19世紀末に生まれた、実はマスメディアそのものです。であるなら、マスメディアの消滅とともに、大衆も消滅してしまうのではないでしょうか?(インターネットは“顔のない衆愚の集まり”というようによく指摘されますが、ネットの顔なしが三面記事的なら、マスメディアにより引き起こされた20世紀の顔なしには、より根源的な深刻さがあります)

マスメディアが去った後、再び人々は19世紀以前の人類がそうであったような健全な神経でつながり合い、例えば20世紀前半の思想家オルテガが、大衆社会のもとで失われると指摘したものを取り戻すことができるかもしれません。

大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。

大衆の反逆 1930年



そんなバラ色なと思われるかもしれません。でも、マスメディアに染め上げられる前の世界には、そうしたものが存在していたのです。

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