2009年06月27日

総ジャーナリスト化は自然の摂理

マイケル・ジャクソンが亡くなった朝、ニュースを伝えるワイドショーでは、ひたすら搬送された病院の前に群がる人々を空撮で映し出していました。

「ニュースを知ったファンの人たちが、マイケルの無事を祈っているんでしょうかね?」と、現場にいるレポーターに司会者が尋ねると、レポーターはこんな風に答えていました。

「みなさんiPhoneとか持っているので、写真を撮ったりメールしたりしています」

かつては、ニュースを作るのはプロのジャーナリストの専売特許でした。しかしネットと高機能携帯ツールの普及で、人類総アマチュアジャーナリスト化しつつあります。

イランの反体制デモと政府の弾圧は、従来のマスメディアではなく、名もないアマチュアジャーナリストたちの手により、ネットを通じて世界中に広がりました。日本でも、去年の秋葉原無差別殺人のような事件が起きると、一般ピープルが携帯カメラ片手に取材にいそしみ、不道徳だと非難されたりします。

こうした現象は新しいツールなくして起きえなかったことですから、人類史における新しい現象のように見えます。

しかしよく考えてみれば、はるか昔から20世紀を迎えるまで、人類はずっとそうしてきたのです。

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19世紀までの人々は、見知らぬ土地のことを、探検家や旅行者というアマチュアジャーナリストからの報告で知り、大きな事件を手紙と口で伝え合いました。そこには、伝える人と受ける人という区別はありませんでした。

ですから今起きていることは決して新しい現象とはいえません。昔のあり方に回帰しているだけで、むしろプロのジャーナリストなどという存在こそ、歴史上特異な存在といえます。

マスコミは、今もこれからも、ネット時代の弊害と歪みを告発し続けるでしょう。しかし歪んでいるのは、マスメディアと、マスメディアにより作られた20世紀文化の方なのです。

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2009年06月26日

誘拐犯は・・・

今月22日、雲南省で、子どもを誘拐して売り飛ばしていたとして指名手配されていた宴朝相容疑者が自首しました。下は、容疑者の写真とともに事件を伝える人民網のキャプチャー画像です。
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テレビ政権は誕生するか?

東国原宮崎県知事が、衆院選出馬の条件に総裁候補とすることをあげました。最初は、泥船の自民をコケにした断りのポーズかと思っていましたが、どうやら本気のようです。

ところで、東国原という人は何かといえば、もうこれ徹頭徹尾テレビの人です。テレビを通じて知名度をあげ、テレビを通じて知事になり、テレビを通じて宮崎にカネを集めと、彼からテレビをとったら何も残らないような人です。時折マスコミ批判をしていますが、それは本質的なものではありません。

もう過去何十年も、政治はマスコミ、特にテレビの力を無視して成り立たず、これまでも多くのタレント政治家が生まれてきました。しかし“テレビの中の人”がこれほどまでに政治の頂点に近づいたことはないと思います。

テレビの力は明らかに落ちているのに、どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

多分それは、政治がテレビ化しているからです。

テレビが政治をおもしろおかしく伝え、政治というものを矮小化しているという文脈で、よく「政治のワイドショー化」といわれますが、そういうことではありません。永田町がテレビセット化し、政治家はテレビタレントになり、政治はワイドショーそのものになったのです。

政治がテレビと一体化したのですから、本物のタレントが首相になるのは不思議でもなんでもありません。

世間一般では、テレビの影響力は急激に下降していますが、センスの古い政界は今まさにテレビに夢中です。今年の春先、民主党の次期総務相候補、原口議員がテレビで「(民主党が政権とったら)電波料を思いっきり下げます」と発言したことは記憶に新しいですが、彼の頭の中では、それで庶民に受けると信じているのです。

テレビの引力を離れた人たちに語りかける政治家、政党はいつ出てくるのか?今の状況を見る限り、テレビ政権の誕生と瓦解まで待たなくてはならないようです。

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2009年06月25日

地球温暖化の生みの親

あらゆる科学が専門化し、複雑化している今、科学者の知見が正しいかどうかを一般人が見極める手段は限られています。研究の結果が応用され、はっきりした形として現れるならば疑いようもありません。しかしそうでない場合、ぼくたちは、彼の実績と肩書き、要するに権威によって類推するしかありません。

権威によって事の正誤を判断するというのは極めて非科学的な態度です。呪術師のご神託をありがたがる未開人と変わりません。だからこそ、本物の科学者であればあるほど、権威を利用した学説の売り込みや、政治的活動には慎重になるものだと思います。

先日アメリカで、一人の科学者が環境団体の抗議活動に加わり、交通妨害等で逮捕されました。

Daryl Hannah, scientist arrested at W.Va. protest

ジェームズ・ハンセンといってもわからない人が多いでしょうが、彼の肩書きは、人の判断力をストップさせるほどの権威的な響きを持ちます。

NASAゴダード宇宙研究所所長。

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逮捕されるハンセン博士


実は彼こそが、地球温暖化の生みの親です。以下、その経緯についてまとめた文章を引用します。

いまや世界中の人々の”常識”にさえなっている地球温暖化への危機感の引き金――それは1981年、NASAゴダード宇宙飛行センターの大気学者、ジェームズ・ハンセンらが科学専門誌「サイエンス」に発表した1篇の論文であった。

彼らはその中で、「人間活動が大気中に放出する二酸化炭素により地球が温暖化する」という予言を発していた。予言には、この温暖化によって南極の氷が解け、その結果、世界の海面が上昇して多くの都市が水没し、内陸部は砂漠化するなど、人々を不安に陥れる結末が含まれていた。

ハンセンらの地球温暖化の予言はマスコミの強い反応を引き起こし、世界中の人々を地球の温暖化あるいは温室効果の議論の中に有無を言わせず取り込み、各国の政府や研究機関を動かして、ついに10年後の 1992年には、リオデジャネイロで地球環境に関する今世紀最大の国際全議「地球サミット」を開かせるまでに至った。このころまでに、地球温暖化、二酸化炭素、温室効果などの言葉は、大衆社全のありふれた日常語と化したのである。

ハンセンらはこのときの論文で、次のように述べていた。

「次の世紀に予想される地球温暖化はほとんど前例のない規模のもので、たとえエネルギー消費の伸びを低くし、化石燃料と非化石燃料の併用を進めても、最大2・5度Cの温度上昇が起こると予想される。これは、恐竜が生きた中生代の暖かさに近づくほどのものである」

地球の温暖化に限らず、未来について何らかの不安な予測がなされると、その信憑性はさておいて、多くの人々はギョッとし、耳をそば立てるというのは、自然の反応である。とりわけ発言者が権威性をそなえた科学者となれば、その言葉の衝撃性から逃れることは、誰にとっても容易ではない。

「地球温暖化」を予言するモデルの危うさ


今年、NHKは温暖化防止の大キャンペーンを展開していますが、そのキックオフとして年頭に放送された番組でも、一番の目玉は彼のインタビューでした。

プレゼンターは毛利衛さん。宇宙から青い地球を見つめた毛利さんは、温暖化研究の権威でNASAゴダード宇宙科学研究所所長のジェームズ・ハンセン博士とニューヨークで対談し、北極海の氷が最小になるなど温暖化のスピードが加速しているという科学者からの警告を伝える。

NHK地球エコ2009 未来への提言スペシャル


この紹介文からだけでも、「NASAの科学者」という権威を前面に押し出した番組であることがわかると思います。

さて、逮捕されたハンセン博士は、次のようなコメントを出しています。

私は政治家ではない。私は科学者であり、市民だ。政治家は中途半端な方策をとらなくてはならないこともあるだろう。しかし政治家たちに、政治的な動機ではなく、正義のために立ち上がる市民の力を示すのは、我々の責任だ。


自ら正義であることを疑わない活動家が、「NASAの科学者」という権威を使って布教活動しているように見えるのはぼくだけでしょうか?地球温暖化の真贋はともかく、その議論はこういう人から始まり、今もその権威を利用して、広がり続けているのです。

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2009年06月24日

黄昏のテレビマン

とても今さら感がある記事ですが、

過酷な労働…辞めるAD 番組制作に支障も(産経新聞)

なぜADが辞めるのか、記事ではあれこれと分析していますが、その理由を何よりも雄弁に語るのは、次の一節です。

ADが定着しない背景について現代っ子気質を挙げる声は多い。制作会社「ネクサス」の池谷誠一社長は「自分が生まれてきた意味を探すライフワークとして仕事を見なくなった。働いていても自分の時間は欲しいし、好きなこともやりたい。自己実現の意味が違ってきている」と言う。


これは昭和60年くらいになされた発言でしょうか?会社のトップの認識がこれでは、ADが逃げるのもわかります。

1990年頃までのテレビ業界は、年々パイが大きくなっていく状況で、ADとして数年苦しみに耐え抜けば20代後半にはディレクターとして一本立ちでき、30代後半くらいでプロデューサーの肩書きがもらえ、あとは所属する制作会社の管理職になるなり、独立して会社をおこすなりというキャリアモデルがありました。

しかしそれはとうの昔、バブル景気が崩壊した1993年くらいに崩れたのです。

パイの拡大はストップし、管理職もプロデューサーの枠もパンパン。昇進の道を絶たれたディレクターの数ばかりが膨れあがり、ADは、できれば永久にADのままいて欲しいような存在になりました。

それでもしばらくはカラ景気の中もちこたえてきたのですが、ネットが映像の分野にまで及び始めた2004年頃になると、ついにパイの縮小が始まったのです。

すり切れたシャツを着て、「この仕事ツブシきかないからさ」とごちりながら屈辱的な仕事をさせられる50代の先輩ディレクターを眼前にしながら、「自分が生まれてきた意味を探すライフワークとして」仕事を見ることなどできるわけありません。

それでも若いADの中には、「未来がどんなに暗くても、才能とやる気で生き残ってやる!」という熱い人もいるでしょう。しかしそれは間違いです。パイが縮小する斜陽産業では、適者生存の競争原理は働きません。いや、働かないことはないのですが、斜陽産業における適者とは、才能とかそういうことではなく、純粋に政治力なのです。

ぼくはテレビ業界に思い残したことはありませんが、ひとつやってみたいことがあるとするなら、黄昏のテレビマンたちのドキュメンタリーです。それは、ワーキングプアの物語であり、ひとつの産業の終わりの物語であり、栄華を極めた帝国の崩壊の物語であり、20世紀の終わりを描く物語になるはずです。

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2009年06月23日

返品自由と日本の商習慣

アメリカでは、返品ということが当たり前に行われています。商品に問題がなくても、気にくわなければ返しに行き、店の方も当たり前にそれを受け付けて、さっさと現金を返してくれます。

「USBケーブルが欲しいんだけど、これでいいのかわからないんです」「とにかく買ってみたらどうですか?合わなかったら返品してください」「袋破いちゃってもいいんですか?」「ええ」「びりびりに破いちゃっても?」「ええ」・・・「やっぱり合いませんでした」「そうですか。2ドル50セントでしたね。はいどうぞ」みたいな感じです。

数年前から日本にもいくつかのアメリカンスーパーが進出していますが、例えばうちの近くにあるCOSTCOでは、開封済みの食料品をはじめ、何から何まで返品を受け付けてくれます。

日本育ちのぼくとしては、初めてそういう習慣を体験したときは、「これで利益出るんだろうか?」「返品し放題なんて悪いやつほど得するのでは?」と思ったりしたものですが、冷静に考えてみれば、なかなかクレバーなやり方です。

何でも返品を受け付けてくれるとなれば、客の方は「気に入らなかったらあとで返せばいいや」と、ついつい財布のひもがゆるんでしまいがちです。ところが実際に買ってしまうと、例えいらないものであっても、全員が全員わざわざ返品に行くわけはありません。その反対に、確信犯的に返品しまくる人もいるでしょうが、返品自由で増えた売り上げと比べれば、恐らく差し引きプラスになるのです。

さて2、3年前、うちの近くにIKEA(スウェーデンのカフェつき巨大インテリアショップ)ができたとき、看板に大きく「IKEAは返品自由」とか書いてあるので、「おお、外資系はやはりそうなのか」などと感心しつつ、組み立て家具をひとつ買いました。

ところが家に帰って箱を開けてみると、なんと違う家具。IKEAのシステムは、欲しい家具の箱を自分で倉庫から出してレジに運ぶセルフサービス方式なのですが、どうやら箱を間違えてしまったようです。しかしIKEAは返品自由。安心して取り替えに行くと・・・なんと店員はダメだと言います。

その理由はだいたいこんなところです。「IKEAではお客様自身に棚から家具を運んでもらうことでコスト削減し、より安い値段で商品を提供しているので、箱の取り違えはお客様の自己責任。一度開封したら商品にならないので、返品は受けられません」

そのあたりのスーパーと同じ態度です。ならば大々的に返品自由を謳うのはおかしいのですが、それを指摘すると、「その点ついては申し訳ありません」と真摯に頭を下げます。しかし返品を受けられないという点についてはいくら交渉しても頑として譲らず、店側も本心から不手際を反省しているようなので、そんなものかとあきらめて手を引きました。

ところが最近、別の理由で店員と話しているとき、ふとしたきっかけでそのことを話すと、驚いた様子でこう言われました。「それは間違いです。当店では開封済みの商品でも返品をお受けしています。今からでも遅くないのでその商品をお持ちください。店員の教育不足からご迷惑おかけして大変申し訳ありませんでした」

IKEAでは、看板文句の通り当初から返品自由で、「開封済み商品は返品を受け付けられない」というのは、一部の店員の誤解だったというのです・・・。

一体なぜ当初対応した店員たちは、「開封したら返品はダメ」という思い込みを、たいした根拠もないのに頑強に主張し続けたのか?

どうやらIKEAはそのあたりのポリシーについて当初スタッフに徹底させておらず、おかげで日本の商習慣が一人歩きしてしまったということのようなのですが、最初に対応した店員たちの態度で印象的だったのは、客に自己責任を求める一方で、誇大広告という自分たちの落ち度については、やり過ぎというほどに時間をかけて真摯に謝っていたことです。

日本の店員というのは、諸外国に比べて見るからに一生懸命仕事をします。いかにつまらない仕事でも、労働のモラルというものを重視し、客に対して奴隷のように振る舞います。しかしその一方で、客にもモラルを要求しているように感じます。

日本では往々にして、組織に利益をもたらす仕事ぶりよりも、“正しい仕事ぶり”が尊重されますが、それと同じように、例えば客が店側に何らかの苦情を持ち込んだ場合、店側は、その苦情をどう処理すれば店の利益になるかと考えるのではなく、その苦情が正しいか正しくないかの判断を優先する傾向があるように思うのです。

返品自由という制度をハナからあり得ないと排除してしまう態度も、そうしたモラル重視の姿勢に基づいているような気がします。「なんでもかんでも返品自由なら、恥知らずの確信犯的な客ばかりが得をしてしまう。そんな不正義が許されていいはずがない」ということです。

「モンスター・カスタマー」などという言葉で、不良な客をモラルの面から区別しようとするのも同じことです。客がモンスターだろうと何だろうと、最終的に店の利益になればいいのであって、その方が末端の店員たちも、へんに客にこびへつらうことなく伸び伸びと仕事できるのではないでしょうか?

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2009年06月21日

こんなことになるとは思わなかった

民主党は、麻生首相の進退がかかるといわれる都議選で、新銀行東京の問題を争点にしているようです。

「民主はNO、自民はYES」。民主党は都議選マニフェストの冒頭で、新銀行の自主清算を求めた。経営再建を目指す石原都政を批判して都議会で第1党になり、次の総選挙での政権交代につなげるというシナリオを描く。

どうする新銀行東京 民主攻勢、自民は防戦 都議選(朝日新聞より)

新銀行東京というのは、政治の力で弱者を援助するという精神で作られたわけですから、本来それにノーというからには、政治による富の分配にノーということでなくてはならないはずです。

しかし民主党というのは、社民主義めいた政策をちらつかせる弱者の味方、友愛の党であるはずで、要するにそれは、新銀行東京のようなことを全国規模で実行するということに他なりません。

だからこそ民主党は、新銀行東京の設立に際し、「夢とロマン」などと大賛成していました。

なのになぜここまで気合いを入れてノーを叫べるのか?

次のコメントを見る限り、どうやら彼らは、今回は失敗したが、次はうまくいくと考えているようです。

だが、民主党にも負い目はある。04年の都議会。新銀行に都が1千億円を出す議案に賛成し、設立への道を開いた。別の都議からは「こんなことになるとは思わなかった」「監視が足りなかった」との声もあがる。


「こんなことになるとは思わなかった」「監視が足りなかった」・・・失敗に学ばないヘボ投資家の常套句です。こういうセリフを吐く人は、カネを手にすればまた同じことをし、同じ失敗を繰り返します。

これ以上税金をつぎ込むのをやめるべきだというのはその通りだと思いますが、懲りずにまた同じことをするというのであれば、声高にノーを叫ぶのは、コントにしか見えません。

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2009年06月20日

ロウソクデモの顛末に思う

韓国で、去年4月に放送された狂牛病関連の番組が、デマを意図的に広めたということで裁判になっています。

あのときは、得意のロウソクデモは繰り広げられるわ、ある有名人などは、「米国産牛肉を食べるなら、青酸カリを飲んだ方がまし」とまで発言したりするわで、まるで革命前夜のような騒ぎになりました。

当時は、集団ヒステリーの原因はネットにあるというような報道もなされましたが、ネットの意見を一方向に向けさせる触媒は、やはりマスコミしかなく、ネットはあくまで、マスコミの大衆煽動を増幅するツールにすぎないのです。

あそこまでの騒ぎになるのは、韓国人の激情的な気質と、当時の政治的な背景があればこそだと思いますが、じゃあ日本人はどうかといえば、とても他人事ではなく、ネット上で群れをなして感情論を振り回す人たちに限って、実はマスコミにいいように操られていたりします。

例えば、今や“格差”の広がりを当然のことのように語るようになりましたが、それが妥当な議論なのか、理路整然と語れる人はそれほど多くなく、なぜそう思うのかと問い詰められれば、こう答える人が多いと思います。「だってそうじゃないの?」

そう聞き返してしまう人は、マスコミにコントロールされている可能性が大です。格差論の拡散についていえば、ぼくは、2006年頃にNHKが立て続けに放送した、「フリーター」とか「ワーキングプア」の大特集に負うところが大きいと睨んでいます。そうだとすれば、日本人は、もう3年くらいロウソクデモを続けていることになります。

NHKの当該の番組には、韓国のケースのように捏造はないかもしれません。しかし、捏造がなければ真実かといえばそういうことはなく、テレビ番組などというものは、作り手のさじ加減ひとつで、世の中を何色にも描くことができるのです。

要するに、Aという要素を際立たせたければ、Aという要素を念入りに描き、それ以外の要素をぼかして目立たなくすればオーケーというだけの話で、「格差」とか「BSE」とか「感染症」とか、感情を揺さぶりやすいネタなら効果は絶大です。

ネットでも同じことはできますが、無批判に受け入れる人以上に、「ネットの意見など鵜呑みにできない」と思う人は多いですし、気になれば別の意見を探してみることもできるので、集団ヒステリーを起こすまではなかなかいきません。

しかしテレビだと、「NHKの言うことだから・・・」と受容されてしまい、そして大抵の問題は、問題を提示した時点で、答えはおのずと決まってくるものです。「BSEは危険だ!」と言われたら、確かに安全とは言えません。それを巨大な20世紀の拡声器で訴えれば、「超危険なBSE」+「反米の土壌」+「米に譲歩した政府」=「ロウソクデモ」です。

テレビを見るときは、作っている人間を想像してみなければいけません。テレビ番組を作っているのは、あなたの身の回りにいる人と変わらない生身の人間です。ぼくの知る限り、超人的な叡智の持ち主はいません。

作品を作るときは、好きな異性を思い浮かべて、その人を口説くつもりで作れといいますが、作品を見るときも、あなたの腕をつかんで無理矢理ものを売ろうとするセールスマンを思い浮かべて、その人の作だと想像して見るといいかもしれません。

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2009年06月19日

欧州の今どきの“極右”

先日行われたヨーロッパ議会選挙では、各国で“極右政党”が躍進したといわれました。

極右といえば、たいていの人はネオナチのような勢力を連想すると思います。確かに今回の選挙で躍進した“極右”の中には、それらしい連中もいます。しかし、“極右”とラベルを貼られたほとんどの勢力はそうではありません。

ではどんな人たちなのか?今回大躍進したオランダの政党PVV(自由のための党)のヘールト・ウィルダース党首を例として見てみます。

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ヘールト・ウィルダース氏


ウィルダースさんの極右といわれる所以は、彼の移民政策にあります。

「移民は原則認めない。特にイスラム移民は断固として認めず、今いる移民にはカネを出して帰国してもらう。ただし、ヨーロッパの文化と法を尊重するのであれば歓迎する」と、ウィルダースさんは訴えます。

ではなぜイスラム移民に反対するのか?

ウィルダースさんのような現代の“極右”の最大の特徴は、その理由にあります。ナチスのような全体主義的極右であれば、「移民は劣等民族であり、欧州人は優等民族だから」と来るところですが、ウィルダースさんは、その真逆の理由から移民排斥を訴えます。

結論からいえば彼は、徹底した反全体主義者なのです。

自らをリバタリアンだというウィルダースさんは、小さな政府による自由主義を訴え、規制を乱発する社会主義的なEUの政治統合には反対しています。

そしてそれと同じコンテキストで、イスラム移民を叩くのです。「社会のあり方まで規定するイスラムというのは、寛容を是とする欧州文化と相容れない、根源的に不寛容な、全体主義のイデオロギーなのだ」と。

イスラムが全体主義のイデオロギーなのかどうかはともかくとして、今の欧州では、現実としてイスラム教徒を怒らせるような発言をするのはタブーです。もしそんなことをすれば、イスラム原理主義者の暗殺者に狙われるだけでなく、“人権擁護法”違反で摘発されます。ウィルダースさんも、執拗に命を狙われるために毎日寝る場所を変え、イギリスからは入国禁止を言い渡されました。

タブーを作り、それを法的に補強していくような社会は、古い因習や宗教的価値観を法的に保護していてた昔の社会とどう違うのか?ウィルダースさんのような“極右”の台頭は、そう問うているような気がします。

PVVのように反移民を訴えることはありませんが、やはり“極右”に数えられる、イギリスで与党の労働党を上回る支持を集めたUKIP(イギリス独立党)もまた、社会主義的なEUからの脱退を訴え、国家統制の隠れ蓑である地球温暖化を疑い、一律課税を主張する自由主義政党です。

欧州における「極右の台頭」と呼ばれる現象は、過去100年間、右に左に蛇行しながら着実に社会主義を追い続けてきた欧州であがる、社会主義に対するノーの声なのです。

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2009年06月17日

#IranElection

イランの大統領選をめぐる騒乱が結構大変なことになっています。

このニュース、欧米のマスコミでは連日トップニュースなのですが、日本のマスコミであまり大きく取り上げられないためか、欧米のマスコミはどうかしてる(米の陰謀、白人の価値観のおしつけ等)ととらえている人もいるかもしれません。しかしどうかしているのは日本のマスコミの方です。

まあ、大日本帝国の昔から、パキスタンから西は大東亜共栄圏の圏外と規定していた伝統は今でも生きていますから、つい無視してしまうのは仕方ないのかもしれませんが、イランという地政学的に極めて重要な場所で、1979年のイスラム革命以来という大規模な反政府デモ発生というのは、極東の片隅で友愛とか正義とか叫ぶ兄弟の話よりもずっと重い出来事です。

ちなみにこの騒乱は、保守派vs改革派というわけでもありません。現職のアフマディネジャド大統領は保守派で、選挙結果に文句を言っているムサビ氏も保守派で、政治姿勢はそんなに変わりません。ただ、保守派の中でも過激派のアフマディネジャドさんをよろしく思わない人は多く、そういう人たちが、事実上唯一の対立候補であるムサビ氏に肩入れしていた所に、不正選挙としか思えない結果が出て、体制に不満を持つ人々の怒りが爆発したのです。

さて、この出来事は、そうした政治的な側面はもちろんですが、もしかしたらそれ以上に大きなターニングポイントになるかもしれない可能性を秘めています。

それは、ニュースの作られ方に関することで、このドラマを世界に広めているのは、既存のマスコミではなく、Twitter、Flickr、Youtube、そしてBlogという、ウェブが中心となっているということです。

“ひとことブログ”という感じのTwitterは、日本だけでなくアメリカなどでも、騒がれているわりには面白くないと言われてきたのですが、災害や騒乱などでは大変な威力を発揮するようで、ものすごいスピードで膨大な情報が飛び交っています。

Iran Unrest (英語)

そして人々は携帯などで現地の様子を撮影し、動画はYoutubeへ、静止画はFlickrに、続々とアップしています。イラン政府から取材を制限されている既存メディアは、ほとんど新しい情報を提供することができません。マスコミの発信する一次情報に群がるネットユーザーというのがこれまでのパターンでしたが、完全に逆転した形で、マスコミが懸命にネット情報をフォローしている有様です。そしてそうした情報をまとめるスピードにおいても、既存マスコミはブログの後塵を拝しています。

Revolutionary Road...(イラン人ブロガーによる現場からの英語によるまとめサイト)

1991年の湾岸戦争において、弱小ニュースチャンネルに過ぎなかったCNNが空爆の様子を生中継し、一気にケーブルニュースチャンネルの地位を高めたように、もしかすると今イランで起きている出来事は、ネットとマスメディアの力関係を、劇的に変えることになるかもしれません。

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2009年06月16日

誰もが夢中になる巨人戦

巨人戦の視聴率が結構いいようで、日テレでは来期から巨人戦の放送を増やすことを検討しているそうです。

来季は激増の可能性が出てきた地上波 巨人戦中継

かつてはテレビ局のドル箱だった巨人戦中継の視聴率は、2000年代に入って年々下降し、日テレをはじめとするテレビ局は、視聴率のとれない巨人戦をお荷物視し、やがてはコンテンツとして失格の烙印を押して放送を減らしてきました。しかし、BSやNHKに放送させてみると結構いい数字をとるので、やっぱりいけるんじゃね?と、そういう話です。

記事の中では、巨人戦視聴率復活の理由を、「100年に一度といわれる不景気」により、寄り道せずに帰宅する人が増えているせいだと、大手広告代理店のシンクタンクに断言させています。しかし、仮にその通りだとしても、地上波で放送すれば視聴率が上がるとは限りません。

NHKニュースの視聴率がいいからと、民放でゴールデンタイムにニュースを放送しても視聴率はとれませんよね?かわいいだけの女子アナウンサーが司会をし、著名人がしたり顔でコメントをし、視聴者の感性に訴える煽り満点のショーアップされたニュースなど、誰ものぞんでいないからです。むしろ視聴者はそういうコテコテの演出に違和感を感じているからこそ、NHKニュースに逃げているのです。

しかし、テレビ局に煽りはやめられません。なぜならテレビのパワーの源は、大衆を煽る力にこそあるのであって、煽れないテレビ、煽りのないテレビはテレビではないからです。

そもそも、“誰もが夢中になる巨人戦”という、冷静に見れば気味の悪い現象は、そうしたテレビの煽りパワーにより作り出された煽りの結晶、テレビの最高傑作でした。

巨人戦の視聴率下降のそもそもの理由は、テレビの煽りパワーの低下にこそ求められるべきであり、そうしてみると、それを巨人軍のせいにしてお荷物扱いしたり、今また調子よく地上波に戻そうとしている日テレの行動が、いかに的外れかわかると思います。

ほとんど煽りのないNHKやBSで放送すると結構視聴率がとれるからといって、「これを地上波のゴールデンにすえてショーアップすれば、最低20パーは固いぞ!」というのは物事の本質が見えていない旧思考の最たるもので、テレビ放送が、逆に巨人のお荷物になりかねません。

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2009年06月15日

中国は環境派

先週発表された政府のCO2削減の中期目標は、真ん中取りの数字あわせで、あらゆる方面から批判をあびました。

温暖化懐疑派からすれば悪いジョークですし、グリーンな人たちからすればバカにした話ですし、現場の人たちからすれば実現不可能。やれやれです。

そんな折、中国は中期目標の設定を拒否しました。理由はこうです。

中国外務省のスポークスマン、キン・ガンは、中国はまだ途上国なので、経済を発展させ、貧困を減らし、生活水準をあげることの方が大事であり、「従って中国の排出量が増えるのは当然のことであり、拘束性のある目標設定を受け入れることは不可能だ」と述べた。

Climate pact in jeopardy as China refuses to cut carbon emissions


中国の排出量は今やアメリカを抜いて世界1位ですが、確かに国民の大部分はまだまだ貧乏で、中国の立場に立てば当然の主張です。しかし気をつけなくてはならないのは、中国は決して温暖化懐疑派ではないということです。むしろ温暖化と排出規制に大いに乗り気な、環境派なのです。

ですから、日本の中期目標に対してははっきりと首を横に振りました。

日本、中国、韓国3カ国の環境相会合に出席するため北京を訪れた斉藤環境相は14日午後、中国政府で地球温暖化対策を担当する解振華・国家発展改革委員会副主任と会談した。麻生首相が10日表明した、20年までに温室効果ガス排出量を「05年比で15%減」とする日本の中期目標を説明した斉藤氏に対し、解氏は「より高い目標を求めたい」と述べ、日本の取り組みが不十分との認識を示した。

温室ガス削減、日本の中期目標「不十分」 中国政府幹部

なにこのダブルスタンダード?と思われるかもしれませんが、実は中国の態度は一貫しています。中国の主張は、「中国は地球温暖化を大いに憂えている。過去200年間地球を汚してきた先進諸国はその責任をとるべきで、発展の途上にある貧しい国々の負担を減らすためにも、より厳しい排出削減にとりくむべきだ」というものだからです。

だから中国を含む途上国は、2020年までに、1990年比で19%の排出削減を日本に求めています。先日発表された日本政府の中期目標は1990年比で8%の削減で、それでも国民の負担は大変なものになるという試算でした。19%削減するということは、要するに現実的には、経済活動を縮小しろということです。縮小して、そのぶん中国を含む途上国の発展に尽くせということなのです。

自己中の詭弁に聞こえますが、「1800年を基準年にしてみれば、中国の排出量はたかだか1000%しか増えていないが、先進国の排出量は5000%もアップしてる。何とかしろよお前ら!」というようなことであり、十分“あり”な論理であり主張です。

その一方にあるのは、常々言われている「中国、インドなどを巻き込まない先進国のみの排出削減では意味はない」という主張で、これまた正論です。

というわけで、CO2をいわば基軸通貨化して温暖化ビジネスで世界を制したい欧州は、「中国を動かすためにも大幅削減しろ!」と日本に迫り、気がつくと日本は、世界に糾弾される「地球の敵」となるわけです。なんとか逃げ道を探さないと、日本という物語は、自分の手で自分の富を壊すという喜劇的な最終章を迎えることになりかねません。

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2009年06月14日

生身のバーチャルアイドル

個人的にこの週末に一番気になったニュースは、どうしたわけか、Perfumeのメンバーの“お泊まり愛”のことでした。

別にPerfumeのファンというわけではないのですが、すごく違和感を感じたのです。

これが“個性”を売りにするようなアイドルであれば、もちろんファンはがっかりでしょうが、存在自体に矛盾は生じません。しかしPerfumeの場合、その存在自体を否定してしまうように思うのです。

要するに、Perfumeというのは、凡庸な人間臭さを隠したり、卓抜した“個性”を前面に押し出すことで、生身の人間を神々しいバーチャルな存在にまで高めるという従来のアイドル製造法をコペルニクス的転換し、バーチャルアイドルを生身にしたような存在でした。

その意味でPerfumeというのは、完全にバーチャルなGenki Rocketsとか、極端な例では初音ミクなどと同列な存在です。ただし完全にバーチャルな存在だと感情移入しにくいですし、反対に生身の方が強く出過ぎると、バーチャル性が否定されてしまいます。Perfumeというのは、そこのところを絶妙にクリアし、バーチャルアイドルでありながら生身であることを達成していたのです。

Perfumeに生身の体を与えた彼女たちは、徹底的に没個性です。いや、確かに個性はあるものの、それは子どもの個性のように無垢なレベルで、ひねくれたものである大人の個性ではありません。没個性ですらない没個性で、それは意図して作れるものではなく、そこにこそPerfumeの匠はありました。

しかし、“お泊まり愛激撮”というあまりに下世話なエピソードは、そのバランスを崩すに十分です。この影響はおそらく、ひたすら恋愛沙汰を隠していた昔のアイドルのスキャンダルよりも深刻です。昔のアイドルには、アーティスト性という個性をより前面に押し出すことで神々しさを取り戻すという手もありましたが、彼女たちの場合、個性を前に出すことはできません。そんなことをすれば、その存在の根幹であるバーチャル性が崩れ、凡庸なガールズユニットに堕してしまうからです。

Perfumeの生身の部分に何が起ころうと、中田ヤスタカのセンスのいい音楽は変わりません。しかし、生身のバーチャルアイドルという微妙なバランスを崩したPerfumeは、希少性を失った、誰にでもコピーできる存在でしかなく、コアなファンとともに、そのおもしろさのかなりの部分を失うに違いありません。

Perfumeは、これからの時代のアイドルのおもしろさを見せてくれるとともに、その持続性の難しさ、はかなさを示した例だと思います。


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2009年06月11日

ラベル貼り

ワシントンのホロコースト博物館で銃撃事件がありました。

【ワシントン=嶋田昭浩】米首都ワシントン中心部のホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺)博物館で十日午後(日本時間十一日未明)、ライフル銃を持った男が発砲し、警備員らと銃撃戦になった。撃たれた警備員一人が近くの病院に運ばれたが、死亡。男も重体という。

 現場はホワイトハウスの南約一キロで、ワシントン記念塔のすぐ近く。地元警察署長によると、男は入り口から入館してすぐに発砲したという。同博物館は年間約百七十万人が訪れる名所で、事件当時も観光客らでにぎわっており、一帯は騒然となった。

 米メディアが当局者の話として伝えたところによると、男はメリーランド州に住むジェームズ・フォンブラン容疑者(88)で、白人至上主義者という。連邦捜査局(FBI)は犯行の詳しい動機などを調べている。

 同容疑者が運営するウェブサイトなどによると、第二次大戦で海軍に従軍。反ユダヤ主義の主張を繰り返し、一九八一年に連邦準備制度理事会メンバーの拉致を企てたとして、有罪判決を受けた。現在は著述活動をしているという。

 米CNNテレビは、事件の背景として、同容疑者が「アンネの日記」を偽物と主張し、事件の二日後の十二日が作者のアンネ・フランクの八十回目の誕生日に当たることなどを指摘している。

米ワシントン ホロコースト博物館で銃撃 容疑者、白人主義者


この記事を見て、どういう政治的カテゴリーの人の犯行と思いますか?

極右を連想する人が多いと思います。白人主義者、差別主義者とくれば、極右ですからね。

海外でもそうで、ヨーロッパには、ずばり極右の犯行と伝えている新聞もありますし、アメリカでも、リベラル派の人たちの多くは、極右の犯行だと騒いでいます。

アメリカでは、この4月に、極右の台頭に警鐘を鳴らす報告書を国家安全保障省が出し、それが保守派から大ブーイングを浴びたという経緯がありますから、リベラル派の人たちからすれば、「報告書の言うとおりじゃないか!」というわけです。

しかし面白いのは、アメリカの保守というのは、イスラエル贔屓だったブッシュ前大統領を見てもわかるように、基本的に、イスラム原理主義者に警鐘を鳴らす、親イスラエルということです。

この事件の犯人も、ブッシュ政権を批判し、「ネオコン」を憎悪し、911テロは陰謀だとし、「ユダヤ資本によるグローバリゼーション」に反対していました。

ということは、むしろリベラル派を過激にした極左ということになるわけで、保守の人たちは、「犯人の素性が知れるとともにマスコミの報道が小さくなってきた」と囁いています。

果たして犯人は極右なのでしょうか?極左なのでしょうか?

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2009年06月09日

欧州人民侮りがたし

先日行われたヨーロッパ議会選挙の結果については、新聞各紙がこんな見出しで伝えていました。

「欧州議会選、経済危機背景に中道右派勝利 極右政党も台頭」産経
「EU議会選、極右・極左政党が伸長…厳しい景気・雇用反映」読売
「欧州議会選、中道左派が退潮 政局流動化、統合に影」日経

極右政党の台頭は、実際のところあまり騒ぎ立てるほどのレベルではないと思うのですが、はっきりしているのは、左派勢力の衰退です。

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2009年06月08日

リベラル派の模範スピーチ

6月4日のDーDay、ノルマンディ上陸作戦の65周年記念日になされたオバマ大統領のスピーチは、ありふれた内容といえばそれまでですが、典型的なリベラル派色にいろどられたものでした。

まずオバマ大統領は、利害対立による戦争を否定したうえで、第二次大戦の意義をこう説きます。

No man who shed blood or lost a brother would say that war is good. But all know that this war was essential. For what we faced in Nazi totalitarianism was not just a battle of competing interests. It was a competing vision of humanity. Nazi ideology sought to subjugate, humiliate, and exterminate. It perpetrated murder on a massive scale, fueled by a hatred of those who were deemed different and therefore inferior. It was evil.

(要約)戦争はよくないが、あの戦争は必要だった。なぜならナチズムは悪だったから。


これは、戦後のポリティカル・コレクトネスの基本であり、ノルマンディ上陸戦の記念日にこう訴えるのは当然のようにも思えます。しかし過去の例を見るとそうではありません。

例えば、名演説のひとつに数えられる、1984年、DーDay40周年にレーガン大統領が行ったスピーチでは、ナチスとの戦いは善悪の戦いとして強調されていません。ソ連に対して強硬な態度でのぞんだ大統領としては、いかにも悪を強調しそうなものですが、そうではありませんでした。

It was the deep knowledge -- and pray God we have not lost it -- that there is a profound, moral difference between the use of force for liberation and the use of force for conquest. You were here to liberate, not to conquer, and so you and those others did not doubt your cause. And you were right not to doubt. You all knew that some things are worth dying for. One's country is worth dying for, and democracy is worth dying for, because it's the most deeply honorable form of government ever devised by man.

(要約)解放のための戦いと、征服のための戦いは違う。民主主義は命を賭けるに値する崇高な政体なのだ。


こちらの方は、あくまで自由と民主主義の価値、そしてそれを守るために戦う側の姿勢を強調し、讃えています。

自由と民主主義を旗印にして戦われたイラク戦争に対する批判から生まれたオバマ大統領としては、当然こんな言い方はしません。とはいうものの第二次大戦の意義を認めないわけにはいかないので、“ナチスは悪だった”という表現になるわけです。

では“悪”とは何か?冒頭に紹介した部分にあるように、それは「人を奴隷化し、尊厳を踏みにじり、虐殺したから」で、さらにキリスト教的な価値観を持ち出すことを嫌うリベラル派の大統領らしく、こう念を押します。

We live in a world of competing beliefs and claims about what is true. It is a world of varied religions and cultures and forms of government. In such a world, it is rare for a struggle to emerge that speaks to something universal about humanity.
・・・
whatever God we prayed to, whatever our differences, we knew that the evil we faced had to be stopped. Citizens of all faiths and no faith came to believe that we could not remain as bystanders to the savage perpetration of death and destruction.

(要約)多様な価値観がある現代社会において、何教徒にとっても、宗教を持たない人にとっても、ナチスは、宗教的価値観を超えた普遍的な人道に反する悪だったのだ。


ナチスドイツは、“ナチス教徒”には天国だったと思うのですが、そういう疑問はおいておきます。しかしこれだと、北朝鮮はいうに及ばず、中国なども含めようとすれば含められますし・・・、まあこうなると実際には何が“悪”とも決められないので、何とも戦わないということだと思います。

ただし、だからこそ第二次大戦は“特別”でなくてはならないので、ナチス同様当時の日本についても、絶対悪にしておく必要がでてきます。慰安婦やら南京やらあれやこれやで、下手するといつの間にか北朝鮮より悪者にされかねません。そんなことをして何になるのかわかりませんが。

さて、オバマ大統領のスピーチにはもうひとつ、いかにもリベラル派らしい考え方がテーマとして貫かれています。

you remind us that in the end, human destiny is not determined by forces beyond our control. You remind us that our future is not shaped by mere chance or circumstance. Our history has always been the sum total of the choices made and the actions taken by each individual man or woman. It has always been up to us.

(要約)人類の運命は人知の及ばない力に決められるものではない。

オバマ大統領は、ノルマンディ作戦がいかに困難で、失敗して当然のミッションだったのかを強調し、そのうえで、ひとりひとりの努力で歴史を変えたのだと述べます。

確かに、ノルマンディ上陸戦はとても困難で、多大な犠牲を出した作戦ではありました。しかし、成功がおぼつかないほどというのは言い過ぎで、ノルマンディはインパールとは違います。オバマ大統領は、あえてノルマンディ戦の困難さを強調することで、それを覆した人間の力の万能性を説いているのです。

この姿勢は、前述したレーガン大統領のスピーチと比べるとより際だちます。レーガン大統領の場合は、何度も“神”について言及していました(ちなみにオバマ大統領の場合は、先にあげた宗教観の違いを否定する部分のみ)。

Something else helped the men of D-day: their rockhard belief that Providence would have a great hand in the events that would unfold here; that God was an ally in this great cause. And so, the night before the invasion, when Colonel Wolverton asked his parachute troops to kneel with him in prayer he told them: Do not bow your heads, but look up so you can see God and ask His blessing in what we're about to do. Also that night, General Matthew Ridgway on his cot, listening in the darkness for the promise God made to Joshua: ``I will not fail thee nor forsake thee.''

(要約)兵士たちの心の支えは、忠誠や使命感だけではなく、神とともにいるという信念だった。リッジウェイ将軍は作戦を前にした夜、「わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもない」という神の言葉を探した。

これは特別宗教的なわけではありません。神という言葉を運命に置き換えてもいいのですが、この世には人間にはどうにもならない巨大な力があり、その前でもがく人間という世界観の現れです。オバマ大統領が、人間は神になれると言わんばかりなのと比べて大きな違いです。

実はこれこそ、リベラル派の核心ともいえる最大の特徴で、だからこそリベラル派は、エリートによる経済のコントロールを指向しますし、地球環境も人間のコントロール下におけると信じていますし、寛容を訴えながらも、一度相手を“悪”と認識すると極めて不寛容なのです。

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2009年06月07日

モザイク

精神病院の様子を、患者にモザイクをかけることなしに描いたドキュメンタリー映画を撮影した、想田和弘さんが、モザイクについてこう語っています。

「モザイクをかけると患者とそうでない者の関係が固定化され、見てはいけない、触れてはいけないというタブーを拡大再生産するからです。さらに、モザイクをかけることは撮影される側ではなく、撮影する側を守るものだという認識を強く持っていました。出ている人の顔を隠せば、おどろおどろしいBGMを流して異星人のように描いても、責任を追及されない。モザイクは、制作者の被写体に対する責任の放棄であり、映像の自殺といってもいい」

精神科診療所の内部にカメラを入れた映画監督・想田和弘
http://www.cyzo.com/2009/06/post_2099.html


映像を作る仕事をしている人は、このコメントを暗記するまで復唱すべきです。

モザイクというのは、匿名の告発者などの顔を、映像をぼかしてわからなくする映像加工のことですが、昨今のテレビのモザイク病は本当にひどい。時には、街角からレポートするレポーターのまわりすべてにモザイクをかけたりして、平気でいるのです。

映し出せないものであるならば、そこからレポートするのはバカげていないか?映してもいい、別の画を探すべきではないのか?代替する映像が一切ないのであれば、映像作品として成立しないのでボツにすべきではないか?

こういう思考を経ずに安易にモザイクをかけるのは、モザイクをかけることを前提にして、撮影しているからです。モザイクそれ自体を、「見てはいけない、触れてはいけないというタブー」であることを視聴者にアピールして興味を引く小道具として利用しているのです。

ジャーナリズムというものに価値があるとするならば、それはタブーを壊していくことで、タブーを強化するような態度は、ジャーナリズムの自殺どころではありません。そんなのは、ただの人民束縛装置です。

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2009年06月05日

ネットにおけるマスコミ批判

新聞やテレビを叩くのは、洋の東西を問わずネットで見られる現象のひとつです。

去年の今頃は、毎日新聞が血祭りにあげられましたし、アサヒるという言葉は、今や立派な日本語の語彙のひとつになりました。

一方で、新聞やテレビも、今では懐かしい響きすら持つ、「ネットは便所の落書き」という発言に代表されるように、ネットの台頭に警鐘を鳴らし続けています。

こういう状況を見て、かつてのぼくは、「旧メディアと新メディアが反目しあうのは当然」くらいに軽く考えていました。しかし最近では、違う見方をするようになりました。

簡単にいえば、「ネットによるマスメディア叩きは、実はネット自体が持つ特性というより、ネットという場を借りたマスメディアの愛憎劇なのでは?」と思うようにになってきたのです。

これは、ネット掲示板で新聞のコラムなどを叩くときに必ず出てくる「ブログと同じレベル」などというコメントを見るときに強く感じます。こういうコメントは、ブログというものを“他愛もないもの”として見る一方で、旧来のマスメディアを、“きちんとしたもの”として認識していなければでてきません。突き詰めれば、「ネットは便所の落書き」という発言をした人と同じ世界観です。

こういう感覚を捨てきれない人は、とても多いと思います。そういうぼくも、頭のどこかにしみついています。マスメディアの側から、「ネットなんて・・・」といわれるとムッとくるのに、実は自分でもそう思っているのです。

こういう傾向を特に強く持つ人が、新聞やテレビを執拗に叩く理由は、本来そうあるべきである異議申し立てや、権力批判ではありません。「便所の落書きとは違い、すばらしい情報を提供してくれなくてはならないマスメディアに裏切られた」という思いから、叩くのです。

これは、愛の裏返しです。好きでたまらない人に嫌な顔をされたから逆恨みするようなものです。こういう理由からマスメディアを叩く人は、叩くときはやたら激情的ですが、マスメディアへの愛が深いだけに、マスメディアが自分の意趣に沿う主張をしてくれたりすると、喜々として音頭に合わせて踊ることになります。

ドッと批判したりドッと煽られたり。こういう群衆行動は、一見いかにも混沌とした衆愚支配のネットらしく見えて、実はネットの構造にはそぐいません。もしこれがネットらしい行動パターンならば、広告屋は笑いが止まらないでしょう。でも違います。こういう行動パターンは、新聞やテレビに起因するものだからです。

マスメディアというシステムは、情報の送り手だけでなく、受け手がいて初めて成立します。その意味で彼らは、一見するとマスメディア叩きの急先鋒のようでいながら、実は新聞社やテレビ局とともにマスメディア世界を構成する一員、マスメディアを支える熱狂的なサポーターなのです。

いわゆる「ネットいなご」などという現象も、過去100年にわたるマスメディア支配により染みついた行動原理によるものでしょう。「ネットいなご」は、ネットの発展を妨げるノイズのようなもので、ネットの限界のようにもいわれていますが、ノイズの発生源はネットにはないはずです。マスメディア世界の住人たちが、ネットで暴れているのです。マスメディアという集権的な情報システムが、ネットというツールを得て、いよいよ社会の隅々まで、その全体主義的な本性を現しているのです。

というわけで、ネット側からのマスメディア叩きは、実はマスメディアの受け手が送り手を叩いているに過ぎず、マスメディア側からのネット叩きは、実はマスメディアが自分自身の姿を鏡で見て醜いと指摘しているようなものだと、近頃のぼくは思うのです。

ネットとマスメディアは対立していません。影響力を奪われるマスメディア側には、ネットを恨む理由はいくらでもありますが、ネット側には別にないのです。ネットはただ粛々と“マスメディア症”を癒し、そうすればやがては“いなご”も絶滅種になるに違いありません。

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2009年06月04日

We are Icarus anyways.

エールフランス機の墜落というニュースを聞き、結局人というのは物事を100%制御することはできないのだな、などと感慨を持ちながらウェブを巡っていたら、しばらくするとやはりという感じで、24年前の日航機墜落事故関連のページを見ている自分がいました。

ウェブ上のあちこちで聴けるJAL123便のボイスレコーダーは、何度聞いても怖く、そして泣けます。

しかしこの事故で最も恐ろしいのは、個人的に、墜落してしまった後のことだと思っています。墜落直後に米軍が墜落地点を特定し、横田基地からヘリを派遣して海兵隊をスタンバイしていたのに、日本政府は米軍の申し出を拒否し、おかげで現場入りしたのは、墜落から12時間以上経過した後でした。4人の生存者の1人、落合由美さんの証言によれば、墜落後しばらくはまだたくさんの人たちが生きていたということですので、本当に残酷な話です。

日本のマスコミも、しばらく前までは時折スキャンダラスにそのことを取り上げていましたが、やがて興味を失い、今では事故調査委員会の不誠実な態度を責めるくらいで、あとはとにかく「事故の記憶を風化させてはいけない」の大合唱と、涙、涙。

本当に人の命を尊ぶ国柄ならば、救えたかもしれない人々を見殺しにしてしまったこのエピソードは、その裏にどんなやむを得ない事情があったにせよ、痛恨のきわみとして語り継がれておかしくないはずです。海外では、米軍の申し出を拒否した政府の態度は、この事故をめぐる“人為的ミス”のひとつとして必ず取り上げられるのですが、米軍の災害対策の迅速さを讃えることになりかねないこのエピソードは、政府、官僚からマスコミまで共通の、“触れられたくない傷”なのかもしれません。

そう考えると、記念日に必ず組まれるテレビの特集などで絞り出される涙が、なんだかとても白々しく、この国の欺瞞体質の象徴にも思えてきて、暗澹とした気持になります。


ところでテレビ業界においてこの事件は、それまで報道に絶対的な自信を持っていたNHKと、「民放のNHK」ことTBSが、フジテレビに出し抜かれた(生存者の救出場面の生中継に唯一成功した)という意味で、“過信は禁物”の教訓として語り継がれています。その衝撃は災害報道レースを加熱させ、1991年の雲仙普賢岳噴火における、なりふり構わぬ過剰取材へとつながり、マスコミ不信の先駆けとなったのは、皮肉な話です。

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2009年06月02日

1Q84

村上春樹の新刊、1Q84がすごい売れ行きだそうです。

タイトルと発売日以外露出させないというプロモーションをしたそうで、そう聞くと、どうしても対称的なもうひとつの現象を思い浮かべてしまいます。

それは、首相にまで「公共の電波でやりすぎでは」と言わせるほどの、TBSの自社コンテンツの節操のない宣伝攻勢です。これはなにもTBSに限らず、最近ではどこのテレビ局もしていることなのですが、スポーツでいえばドーピング漬けのアスリートのようなもので、テレビの末期症状を示しています。

思い起こせば、村上春樹が大ブレークしたのは、今回の作品のタイトルにもつながる、1980年代でした。それがどんな時代だったかというと、テレビと新聞を中心としたマスメディア絶頂期で、昔ながらのコミュニティ的情報空間が脆弱化する一方、インターネットの普及はまだ遠い未来で、大衆は、マスメディアが設定する価値観からいよいよ逃れられなくなっていました。

そんな中、村上春樹という作家は、マスメディアを利用するでもなく、飲み込まれるでもなく、反抗するでもなく、ただとにかく距離を置き、またその作品も、マスメディアの文体で語られることを受け入れているようでいて、いざ語ろうとすると語れないような妙な距離感をとりつつ、異様なまでに大ヒットしたのです。

例えばそれは、同時期にブレークして今は政治家のようになっている某ノンフィクション作家の態度と対称的です。「ノンフィクション作家」というマスコミ的なカテゴライズを嫌がり、「オレは作家だ」と息巻く彼は、テレビに出まくることで顔を売る一方、そこで得た知名度に畏怖する人々を軽蔑し、またその作品も、テレビ的な軽薄さを否定するようでいて、実のところテレビ的な重さとインパクトを追求するようなものばかりでした。

これは何も彼に限りません。マスメディア時代の絶頂期に登場した作家たちは、程度の差こそあれみなそうでした。そんな時代にあって、今も昨日のことのように思い出す、本屋に積み重ねられた赤と緑の装丁を施された「ノルウェイの森」の放つ妖しい魅力は、逃げ場のないマスメディア世界にポカンとあいた、脱出口としての魅力だったのだと、今は思います。

1Q84の“隠す”プロモーションは、一部から批判されているように、ややあざとすぎるようにも見えます。しかし、村上春樹のあり方と整合性がとれていますし、テレビというものが、ドーピングに頼らなければならないほどに追い詰められている今だからこそ、彼には物語ることがあるはずで、新作への期待が高まるのは、ものの道理という気がします。

ぼく自身、90年代初頭に出た「ねじまき鳥クロニクル」以降、村上春樹への興味が急速に薄れてしまっていたのですが、彼の最近の作品タイトルをもじるなら、「カフカが到来を告げ、オーウェルが告発し、村上春樹が距離を置いた」時代の終わりに、彼がどんな物語を語るのか、非常に興味があります。天の邪鬼なのでしばらく買うつもりはありませんが。


1Q84

1Q84(1)

  • 作者: 村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: 単行本




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