2009年06月05日

ネットにおけるマスコミ批判

新聞やテレビを叩くのは、洋の東西を問わずネットで見られる現象のひとつです。

去年の今頃は、毎日新聞が血祭りにあげられましたし、アサヒるという言葉は、今や立派な日本語の語彙のひとつになりました。

一方で、新聞やテレビも、今では懐かしい響きすら持つ、「ネットは便所の落書き」という発言に代表されるように、ネットの台頭に警鐘を鳴らし続けています。

こういう状況を見て、かつてのぼくは、「旧メディアと新メディアが反目しあうのは当然」くらいに軽く考えていました。しかし最近では、違う見方をするようになりました。

簡単にいえば、「ネットによるマスメディア叩きは、実はネット自体が持つ特性というより、ネットという場を借りたマスメディアの愛憎劇なのでは?」と思うようにになってきたのです。

これは、ネット掲示板で新聞のコラムなどを叩くときに必ず出てくる「ブログと同じレベル」などというコメントを見るときに強く感じます。こういうコメントは、ブログというものを“他愛もないもの”として見る一方で、旧来のマスメディアを、“きちんとしたもの”として認識していなければでてきません。突き詰めれば、「ネットは便所の落書き」という発言をした人と同じ世界観です。

こういう感覚を捨てきれない人は、とても多いと思います。そういうぼくも、頭のどこかにしみついています。マスメディアの側から、「ネットなんて・・・」といわれるとムッとくるのに、実は自分でもそう思っているのです。

こういう傾向を特に強く持つ人が、新聞やテレビを執拗に叩く理由は、本来そうあるべきである異議申し立てや、権力批判ではありません。「便所の落書きとは違い、すばらしい情報を提供してくれなくてはならないマスメディアに裏切られた」という思いから、叩くのです。

これは、愛の裏返しです。好きでたまらない人に嫌な顔をされたから逆恨みするようなものです。こういう理由からマスメディアを叩く人は、叩くときはやたら激情的ですが、マスメディアへの愛が深いだけに、マスメディアが自分の意趣に沿う主張をしてくれたりすると、喜々として音頭に合わせて踊ることになります。

ドッと批判したりドッと煽られたり。こういう群衆行動は、一見いかにも混沌とした衆愚支配のネットらしく見えて、実はネットの構造にはそぐいません。もしこれがネットらしい行動パターンならば、広告屋は笑いが止まらないでしょう。でも違います。こういう行動パターンは、新聞やテレビに起因するものだからです。

マスメディアというシステムは、情報の送り手だけでなく、受け手がいて初めて成立します。その意味で彼らは、一見するとマスメディア叩きの急先鋒のようでいながら、実は新聞社やテレビ局とともにマスメディア世界を構成する一員、マスメディアを支える熱狂的なサポーターなのです。

いわゆる「ネットいなご」などという現象も、過去100年にわたるマスメディア支配により染みついた行動原理によるものでしょう。「ネットいなご」は、ネットの発展を妨げるノイズのようなもので、ネットの限界のようにもいわれていますが、ノイズの発生源はネットにはないはずです。マスメディア世界の住人たちが、ネットで暴れているのです。マスメディアという集権的な情報システムが、ネットというツールを得て、いよいよ社会の隅々まで、その全体主義的な本性を現しているのです。

というわけで、ネット側からのマスメディア叩きは、実はマスメディアの受け手が送り手を叩いているに過ぎず、マスメディア側からのネット叩きは、実はマスメディアが自分自身の姿を鏡で見て醜いと指摘しているようなものだと、近頃のぼくは思うのです。

ネットとマスメディアは対立していません。影響力を奪われるマスメディア側には、ネットを恨む理由はいくらでもありますが、ネット側には別にないのです。ネットはただ粛々と“マスメディア症”を癒し、そうすればやがては“いなご”も絶滅種になるに違いありません。

banner_03.gif
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。