過酷な労働…辞めるAD 番組制作に支障も(産経新聞)
なぜADが辞めるのか、記事ではあれこれと分析していますが、その理由を何よりも雄弁に語るのは、次の一節です。
ADが定着しない背景について現代っ子気質を挙げる声は多い。制作会社「ネクサス」の池谷誠一社長は「自分が生まれてきた意味を探すライフワークとして仕事を見なくなった。働いていても自分の時間は欲しいし、好きなこともやりたい。自己実現の意味が違ってきている」と言う。
これは昭和60年くらいになされた発言でしょうか?会社のトップの認識がこれでは、ADが逃げるのもわかります。
1990年頃までのテレビ業界は、年々パイが大きくなっていく状況で、ADとして数年苦しみに耐え抜けば20代後半にはディレクターとして一本立ちでき、30代後半くらいでプロデューサーの肩書きがもらえ、あとは所属する制作会社の管理職になるなり、独立して会社をおこすなりというキャリアモデルがありました。
しかしそれはとうの昔、バブル景気が崩壊した1993年くらいに崩れたのです。
パイの拡大はストップし、管理職もプロデューサーの枠もパンパン。昇進の道を絶たれたディレクターの数ばかりが膨れあがり、ADは、できれば永久にADのままいて欲しいような存在になりました。
それでもしばらくはカラ景気の中もちこたえてきたのですが、ネットが映像の分野にまで及び始めた2004年頃になると、ついにパイの縮小が始まったのです。
すり切れたシャツを着て、「この仕事ツブシきかないからさ」とごちりながら屈辱的な仕事をさせられる50代の先輩ディレクターを眼前にしながら、「自分が生まれてきた意味を探すライフワークとして」仕事を見ることなどできるわけありません。
それでも若いADの中には、「未来がどんなに暗くても、才能とやる気で生き残ってやる!」という熱い人もいるでしょう。しかしそれは間違いです。パイが縮小する斜陽産業では、適者生存の競争原理は働きません。いや、働かないことはないのですが、斜陽産業における適者とは、才能とかそういうことではなく、純粋に政治力なのです。
ぼくはテレビ業界に思い残したことはありませんが、ひとつやってみたいことがあるとするなら、黄昏のテレビマンたちのドキュメンタリーです。それは、ワーキングプアの物語であり、ひとつの産業の終わりの物語であり、栄華を極めた帝国の崩壊の物語であり、20世紀の終わりを描く物語になるはずです。