2009年07月31日

ニュースはコメディである

マスコミの作り出す空気に惑わされて、訳の分からないうちに「歴史的な政権交代」劇を見させられそうな我が国。

5年前の選挙は劇場型と散々批判されましたが、なにはともわれ明確な争点を軸に戦われたあのときと比べると、争点らしい争点もなく、にもかかわらず無闇に「歴史的」とばかり叫ばれる今回は、気味悪ささえ感じます。

こういう事態を見て、「日本のマスコミはひどい」という声があちこちで聞かれます。しかし間違えてはならないのは、どこの国でもマスコミはひどいということです。

例えばジャーナリズム先進国と思われているアメリカ。

アメリカマスコミの情報を間接的に浴びる日本人の多くは、オバマというと頭脳明晰な切れ者というイメージを持っていると思いますが、実は麻生さん顔負けのおバカぶりを何度も発揮しています。

前大戦での日本の降伏を、「ヒロヒトが降伏文書にサインした」と言ってみたり、advice という名詞の綴りを advise と間違えてみたり、オーストリアを訪問したときの演説で「オーストリア語」と言ってみたり、メキシコ大使の前でスペイン語で5月4日と言おうとして、4月4日と何度も繰り返してみたり・・・。

先日アラスカ知事を辞職したペイリンさんに対しては、日本にまでおバカの評判が伝わってくるほどの揚げ足取りをするのに、オバマさんのミスはほとんどスルーするというむごいダブルスタンダードぶりです。

先日タイム誌は、今アメリカで最も信頼あるニュースキャスターは誰かという投票を実施したのですが、1位はなんと、コメディニュースショーの司会者、ジョン・スチュワートでした。

所詮ネット投票ですからこんな結果は何のアテにもなりません。しかし日本人的に驚いてしまうのは、この結果をシャレとして受け取らずに、大まじめに彼を「現代のクロンカイトだ」と呼ぶアメリカ人もとても多いということです。

アメリカのコメディアンというのは日本のお笑い芸人とはぜんぜん違い、たいてい時事問題にものすごく長けていて、それを鋭い風刺で切るところに匠を発揮します。コメディという皮を被って右も左もタブーなしにぶった切るスチュワートさんの番組を、日本の感覚でコメディと捉えると見誤ります。


M・ジャクソンの死亡報道を茶化すジョン・スチュワート


とはいうものの、やはりコメディはコメディ。ギャグをいえば「ワハハー」と笑い声が入る、あくまでフェーク・ニュースショーです。スチュワートさんへの支持は、従来のマスコミニュースに対する批判の裏返しといえます。投票の結果を伝えるハフィントンポストの記事のコメント欄を見ると、「マスコミのニュースに失望している」という声で埋め尽くされています。

こんな投票しなくてもわかってるよ!マスコミはゴミだ。そしてさらにひどいのがそれを気づいていないことだ。

マスコミがジャーナリズムを失わなければ、こんなことにはならなかっただろうね。でも今政治を斬れるのは彼しかいない。マスコミを斬れるのもね。

ニセのニュースマンがマスコミのおしゃべり人形キャスターより信頼があるとは、アメリカのニュース界に対する最高の告発だね。こうしてマスコミのひどさを認識できるのもスチュワートのおかげだよ。

政治を学んでる学生だけど、マスコミのバイアスには閉口してる。スチュワートのショーは毎晩見てるよ。彼は率直でいつも外さないからね。

ジャーナリズムには尊敬に値する知性も技術もプロ意識もない。今のアメリカじゃ何もジャーナリズムに限ったことじゃないけどね。もう60超えてるけど、こんな軽薄な国になるとは予想もしてなかったよ。

64歳のベトナム帰還兵でリベラルだけど、悪趣味なエンターテイメントに堕しているマスコミのニュースは見てられない。スチュワートのショーは一番信頼できるニュースメディアだよ。

69歳だけど同意見。マスコミはニュースと呼ぶのをやめて欲しいね。

とうわけで、マスコミがマスゴミなのは日本だけではなく、世界中そうなのです。日本だけが悪いとなれば、マスコミ構造改革をしたり、ジャーナリズムの倫理を説いたりすれば改善するような気もしてきますが、そうではありません。マスコミというのは、世界のどこでもマスゴミであり、ぼくたちは、そういう厄介者と付き合っていく覚悟を持たなくてはならないのです。

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2009年07月30日

ぼくはドイツ育ち

眞鍋かをりさん激怒「応援してない!」のに選挙ポスター掲載

城内さんというと、ブログで「カイカク真理教」とか書いていること以外に印象深いのが、しょっちゅう「ぼくはドイツ育ちなんですが・・・」と言うことです。最近もそうなのか知りませんが、以前はテレビに出るたびにそう言っていました。

靖国とか南京とか、そんなテーマでテレビに呼ばれたときに、唐突に何の脈絡もなく「ぼくはドイツ育ちなんですが・・・」とやる。で、ドイツの戦後処理の話でもするのかと思えばそうではなくて、ぜんぜん関係ない話を始める。そんなイメージがあります。

思うに彼は、自分をアピールしていたんだと思います。異国育ちであることが箔になると考えて。

自己アピールは政治家として必要でしょうが、あまりに見え透いたアピールは痛いです。また、異国育ちがアピールになると考えるところも、それに輪をかけて痛いです。今回の一件も、それに通じる痛さがあります。

彼が自分をそう見せたいと考えているだろう憂国の士であるならば、「能ある鷹は爪を隠す」でなくてはならず、寡黙な中にも有り余る知識と徳があふれ出てくるようでなければいけません。「カイカク真理教」にしても、そんな左翼ヤクザのようなチープなレッテル貼りをしないで、敵にも礼を失わず、そうすることで敵のチープさが浮き出てくるようにしなければいけません。それが憂国の士というものです。

今回の一件に戻ると、別に本人の断りもなくタレントをポスターに起用したことはたいした問題ではないと思うのですが(双方の誤解とかいろいろ考えられるし、別に珍しいことではないですからね)、それが眞鍋かをりというのがどうしようもなく情けないです。

いったい眞鍋かをりというエサで何を釣ろうというのか?眞鍋かをりを見て「うわすごい」と思う、B層中のB層でしょう。でもそれが、小泉劇場を嘆く憂国の士の取るべき態度でしょうか?どうせやるなら、みのもんたとか、島田紳助とか、大物テレビタレントを勝手にずらりとポスターに起用して、ポピュリスト政治を皮肉るくらいのことをすればいいのに。

ちなみに、眞鍋かをりを某製品のイメージキャラに推薦したのはぼくです。彼女を使うことでそんなに箔がつくなら、これでぼくも衆院議員かな?

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2009年07月29日

逆噴射するオバマの解決策

「黒人」の教授を「白人」の警官が妙なシチュエーションで連行したことをオバマ大統領が「愚かな行為」と指摘し、大騒ぎとなったので「ホワイトハウスで3人でビールを飲むこと」を提案して人種和解を呼びかけた事件の続報。

オバマ大統領の問題解決能力を讃える声も一部で聞かれますが、ゲーツ教授のいかがわしさが明らかになるにつれて、事件を人種差別のコンテキストで語ろうとするゲーツ教授の側に立つ大統領に対する批判は、沈静化するどころか高まる一方です。

オバマ大統領が自らの過ちを認めようとしない中、CNNは、「黒人」のゲーツ教授に手錠をかけた「白人」のクローリー巡査部長の名誉を守ろうと声をあげるケンブリッジ市警の様子を伝えました。

「この件から学ぶべき教訓は、結論を急がずに事実を検証することの大事さです。ゲーツ教授は人種差別という効果的な煙幕を張りましたが、この件はそれとは関係ありません。大統領の態度は残念です。彼を支持し、投票しましたが、もうしません。大統領が友だち(ゲーツ教授)思いであることは結構ですが、過ちを認めるべきでした」

Cambridge cops support Crowley(ビデオ)

インタビューに対する「黒人」のキング巡査の応えです。

黒人女性が中傷覚悟でテレビで「もう支持しない」と語ること、そして「オバマサポーター」のCNNがこういう論調で伝えていることから、オバマ大統領の解決策がぜんぜん成功していないこと、また彼のカリスマパワーが衰えていることが見て取れます。

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感極まってキング巡査と抱き合うクローリー巡査部長


ちなみに、ケンブリッジ市警を始めとするクローリー巡査部長擁護派の多くは、決して大統領に敵意をむき出しにしているわけではなく、「大統領を110パーセント支持している」というクローリー氏本人をはじめ、あくまで円満和解を求めています。ギブス報道官によれば、「ホワイトハウスで3人でビールを飲む」というのもクローリー氏からの提案だったということです。

こうした状況を見ていると、古い人種差別の色眼鏡をかけた大統領の失策とそれに対する反発から、本当の人種和解が自律的に起きているようにも見えてきます。そういう意味でこの事件は、人種問題の歴史における金字塔になるかもしれませんが、ここでの大統領が「ヒール役」であることは言うまでもありません。

3人によるホワイトハウスでのビール会談は30日の午後6時に行われるそうです。

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2009年07月28日

オバマの問題解決能力に対する疑問

自分の家の鍵を忘れ、鍵を開けようとしていた黒人の教授を逮捕し、手錠をかけた白人の警察官を『愚かな行動をした』stupidと発言し、白人から猛反発を受けたオバマ大統領。


はてなあたりでかなり人気を呼んでいる記事の書き出しです。

こんな書き方をしたら、そりゃオバマ大統領スゲーということになります。stupid を stupid と呼べない病んだアメリカ社会。でもぐっと自分を抑えて、stupid な白人警官を被害者の黒人教授とともにホワイトハウスに招いて、「3人でビールを飲みながら語ろうよ!」とやったオバマ大統領はカッコいいな、とそうなります。

でも、この出来事はそんな1960年代か70年代風なわかりやすい差別物語ではありません。いろいろなことが二重三重にねじれて、それこそものごとを白か黒かで判別できなくなった、いかにも現代的な出来事なのです。

この問題の本質は、上に引用した短い文の中に、3箇所も「黒人」と「白人」という言葉がでてくるところにあります。

実際に起きたことは、警官が何人だろうと、教授が何人だろうと関係ないことでした。なのにそれが人種問題になってしまったということが問題なのです。

オバマ大統領の知り合いでもあるゲーツ教授は、通報を受けて現場に現れた警官に対していきなり「オレが黒人だから疑うのか!」と激昂し、警官を路上に連れ出して「どんな親に育てられたんだこの差別野郎!オレを誰だと思ってるんだ!」などと延々と騒ぎ続けました。

こうした現場の状況に加え、手錠をかけた警官は、racial profiling (人種偏見による誤認捜査)防止の講師であり、現場にいた警官は彼のほかにヒスパニック系と黒人の3人でした。黒人大統領の治めるアメリカの、黒人知事の治めるマサチューセッツ州の、黒人市長の治めるケンブリッジ市で、黒人教授を巡って起きたこの事件は、クラシックな人種問題にはまるで当てはまらないのです。

それなのにオバマ大統領は、事情をよく把握していないうちから事件を「人種差別」の色眼鏡で見、警官の行動を「愚か」と定義して、何てことはないボヤにガソリンを注いでしまいました。

「ホワイトハウスでビール」というのは、とにかく迅速に対応したという点では悪くないのかもしれません。しかし、それが失策をプラスに変えるほどのファインプレーかというと、大いに疑問です。

この事件を語るとき、冒頭にあげたような書き出しをするような人から見れば大ファインプレー以外のなにものでもないはずです。事件の渦中にいるゲーツ教授も、「この事件はアメリカの人種問題の歴史において根源的な教訓になるかもしれない。ケンブリッジ市警には、私とともにその方向に向けて協力してくれることを心から願う」と大いに満足して招待を受けました。

しかしそうではない人から見れば(この問題については、ゲーツ氏を愚か者と見る、そうでない人が党派を超えてとても多いのですが)、厚顔無恥な問題のすり替えに過ぎません。

なにしろオバマ大統領は、「ホワイトハウスでビール」について語った会見で、警官を「愚か」と呼んだことについて言葉の選び間違いを認めたものの、発言自体を過ちと認めることもなければ、全米に向けて「愚か」とつるし上げた警官や、その延長で差別主義者と非難されている最初に通報した住民(彼女は通報時に人種に関する発言はしていませんでした)に対して謝罪もしていないのです(謝罪をすればゲーツ氏らのシンパから反発をくらうことになります)。

自分の不用意な発言でボヤを大火災に変え、問題はそこにあるにもかかわらずボヤの方に焦点を移し、ミスを犯したことを認めずになんとなく謝ったように錯覚させるその巧妙な話術はたしかに見事です。

こうしたやり方でもしオバマ大統領が失策をプラスに変えることに成功できたならば(そうはならないと思いますが)、そこから学べる教訓は、今の世の中では、愚直にミスを認めて謝ることは何の得にもならず、ルックスとイメージを磨いてまわりを見方につけ、巧みな話術で問題をすり替えた者勝ちということになるのではないでしょうか。

ぼくはオバマ大統領の会見よりも、渦中にいる警官のいかにもプロらしい冷静実直なインタビュー受け答えに感銘を受けました。英語が分かる人はぜひ見てみてください。


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2009年07月27日

スポーツとテレビ

日本陸連が、世界陸上を放送するTBSに、選手にへんなキャッチコピーをつけるなと注文したそうです。

ぼくも、F1の地上波中継はそのせいで見なくなりましたし、このところあらゆるスポーツに見られるへんなキャッチコピーの氾濫に違和感を持っていた人は多いはずなので、陸連の態度は圧倒的な支持を集めると思います。

しかし一歩踏み込んで考えれば、この注文はスポーツの根幹に関わる問題をはらんでいます。というのも、マスコミのスポーツ報道というのは、突き詰めればいかにうまいキャッチコピーを作るかということであり、それを拒否するのはマスコミとの関係を清算したいと言うに等しく、しかしながら今あるスポーツというものは、そんなマスコミに支えられているという現実があるからです。

多様な見方があるスポーツの一断片のみを切り取り、わかりやすいキャラ立てをして、わかりやすいドラマを作って煽るというマスコミのやり方は、マニアックなファンからすればスポーツを貶める行為であり、納得いかないことだと思います。マスコミは黒子に徹して欲しいと願う人は多いでしょう。

しかし、マスコミにはそういう伝え方しかできないのです。NHKはそうしているという人がいるかもしれませんが、NHK流の地味なやり方が通用するのは、他のマスコミがせっせとキャッチコピーを作って煽り役を引き受けているからに他なりません。全局が全局NHKのような伝え方をしたら、スポーツの人気は早晩落ち込み、そしてそれを伝えることで稼いでいるマスコミも大打撃を被ることになります。

だいたい歴史をひもとけば、今あるスポーツというものは、そんな軽薄なマスコミとともに生まれ、発展してきた一卵性双生児なのです。

20世紀より前、賭けの対象か暇人の遊びでしかなかったスポーツは、20世紀に入ると新聞の報道で少しずつ注目を集め始め、1920年代に一気にブレークしました。企画倒れに終わりつつあったオリンピックはこの時期突如として軌道に乗り、サッカー界ではワールドカップが構想され、ボクシングや野球やゴルフの世界では、伝説的選手が次々に生まれました。これは偶然ではありません。1920年にアメリカで放送が始まったラジオが、こうしたことを可能にしたのです。

ラジオと、その後を継いだテレビはスポーツととても相性が良く、ラジオもテレビもその拡大期に、それ以前には決して大人気だったとはいえないスポーツをネタに使い、ウィンウィンの関係でお互いにその地位を高め合ってきました。こうした黎明期の両者の成り立ちを見ると、テレビ(ラジオ)とスポーツはどちらが欠けても成り立たない、一衣帯水の関係ということがわかります。

こう考えてくると、スポーツの側からテレビの本質的な部分にノーを突きつけた陸連の態度は、かなり異常な事態であることがわかると思います。

実はこれと反対のことも起きています。究極のテレビスポーツであり、その存在自体がキャッチコピーの集積場であるようなプロ野球の視聴率低下に対して、テレビはノーを突きつきつけて地上波放送から削減しました。

要するに今、1920年代から手と手を取り合って発展してきたテレビ(ラジオ)とスポーツが、お互いに疑心暗鬼になっているわけです。

なぜこんなことが起きるのかといえば、結局マスメディアの神通力が通じなくなってきたからです。そのため、マスコミと特に関係が深い一部の競技の求心力が低下する一方、マスコミは「単純感動ワールド」をオーバードースしてその力を取り戻そうとし、それがアスリートとファンの拒否反応を生むという悪循環になっているのです。

これを元から断ち切る方法はありません。マスコミが意識して黒子に徹したところで、すでに書いたようにスポーツの規模低下は避けられません。まあ個人的には、ある程度の規模低下を覚悟して、スポーツ自体の魅力を固める方向に向かうべきだと思いますし、そういう方向に進むスポーツしか生き残らないような気がしますが。

マスメディアの時代の終わりというのは、マスメディアだけが衰退してその他の世界がそのまま継続するわけではありません。マスメディアにより維持されてきたさまざまなものが価値を失い、スポーツというものもそのひとつなのです。

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2009年07月25日

単純感動ワールド

深町秋生さんのブログで、TBSのスポーツの取り扱いについて語られています。

映画では野球の魅力がこれっぽっちも描かれなかったけれど、亀田家を取り上げたときもボクシングという競技をまともに描いてはいなかった。野球でもボクシングでも、試合というのは相手の夢を砕くことなのだが、そうした悲劇性を消し、ときにはルールさえ無視して「夢をかなえる自分たち」という不気味な物語をつむぎつづけていた。自分たちが盛り上がるためなら他人や法律などシカトしてもかまわないというカルト宗教みたいな臭いがした。ここで大事なのは「説教する」「みんなで大声をあげる」「勝利に号泣する」なのであって、つまるところ競技はなんだっていいのだ。

TBSの自己実現。(相手を殺して)明日にきらめけ。

格闘技でもスポーツ映画でも、これと決めた主役を中心にしてチープなストーリーを紡ぎ上げ、スポーツはその舞台でしかなく、賞味期限が過ぎたら競技ごとポイ捨てされ、あとに残るのは搾取され尽くされた残骸だけというわけです。

でもこれ、TBSは特別えげつないだけで、どこのテレビ局も同じようなものです。そしてスポーツだけに限らず、テレビは世の中のあらゆる事象をそんな風に料理します。

テレビの表現には2つのキーワードがあります。ひとつめは「誰にでもわかる単純さ」で、時間をかけて説明しないと面白さが伝わらないものはボツで、幾多の流行語のように、そのおもしろさを一言で表現できれば最高。できないものは、余計な要素を削って無理矢理にでもそれに近づけようとします。

ふたつめは「感動」で、特にスポーツドキュメンタリー系の仕事をしていると、上の人は「もっと感動を!」としか言いません。「あまり感動の安売りをすると、本当の感動までチープにしてしまうのでは?」などという考えは青臭いへ理屈でしかなく、チープだろうとなんだろうと感動物語にすることを求められます。

深町氏を嘆かせるTBSは、ある意味愚直なまでにこの2つのキーワードを実践しているだけです。その理由はたぶん、TBSが民放各局の中でも飛び抜けてまじめな優等生揃いだからに違いありません。

テレビとは、単純な感動が大好きで、単純な感動があればそこに引き寄せられるし、自分の意にそぐわない事象は単純な感動に変えてしまう、そんな怪獣なのです。

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2009年07月24日

来るべき日本の時代

こんなタイトルのコラムを見つけました。

Gerontocracy, Idiocracy, and the Coming Japanese Century

カミング・ジャパニーズ・センチュリー、来るべき日本の時代です。来るべき○○の時代といえば中国で決まりな昨今、こんなセリフを聞くのは15年ぶりくらいです。

さて、なんで日本の時代になるのかというと、こういうことです。このコラムは先進国の少子化(人口の高齢化)について論じているのですが、先進国での人口の高齢化を避けられないことと断じ、ゆえに、

人類がこうした時代を隔てる橋に差しかかったとき、最初にその橋を渡る国は、他の国々に対して大きく先行することになる。農耕社会から最初に工業化したイギリスは、その後長く世界を支配した。それと同様に、この人口変異を乗り切る道を最初に見つけた国は優位に立つことになる。その一番の候補は、すでにその橋に乗りかけている日本だ。そうであるならば、22世紀は日本の時代になるだろう。

以前同じようなことを、別のところでも読んだことがあります。それはヨーロッパの移民問題を論じるフォーラムで、「ヨーロッパの移民は深刻な社会問題と化しているのに、経済的な都合の前に移民は受け入れざるを得ないものとされている。しかし恐らく日本は積極的に移民を受け入れることはなく、自力で人口の高齢化を切り抜ける道を必死に探そうとするはずだ。日本が解決策を見つければ、ヨーロッパのお手本となり、世界の潮流は変わるだろう」というような意見でした。

要するに日本は世界のモルモットというわけで、あまり嬉しくありません。嬉しくはありませんが、事実です。

今はまだ多文化共生と移民の受け入れが無条件に賞賛される時代ですが、西欧において移民の問題が無視できなくなるにつれ、こうした意見はあちこちで聞かれるようになると思います。

なぜ豊かな民主主義国家は一様に少子化するのか。少子化を克服するにはどうすればいいのか。これは単に政策だけで解決する問題ではなく、社会思想、経済、科学とあらゆる分野でのブレークスルーが求められている気がします。そしてそのやっかいな作業に社会の存亡をかけて否応なしに取り組まざるをえない国があるとするなら、確かに日本しかないのです。

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2009年07月23日

似て非なる日独の過激派

WOWWOWを見ていたら、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」という映画を放送していました。去年公開された映画です。内容はタイトル通りで、40年前に社会を揺るがした極左過激派組織のお話しです。

ところで今月日本で、「バーダー・マインホフ・理想の果てに」という映画が公開されます。「実録連合赤軍」と全く同時期にドイツで活動した過激派の話で、日本では「おくりびと」とアカデミー賞外国語映画賞を争ったことで知られています。

以前ぼくは、この映画の主役であるバーダー・マインホフ・グルッペ(アンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフを軸に活動したグループなのでそう呼ばれる)に興味を持ったことがあり、この映画の原作も読んでいたので、しばらく前にこちらの方を先に見ていました。そして今回たまたま「実録連合赤軍」を見たのですが、同じ時代に、同じ夢を見て洋の東西で起きた若者の反乱が、異様なほどシンクロしていながら、かつ異様なほど正反対であることに改めて打たれました。

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手配ポスター 上列左から2人目がバーダー


「実録連合赤軍」で描かれる日本の過激派は、暇さえあれば仲間内で共産革命について議論していて、その過程で「自己の共産主義化が足りない!」とか「総括しろ!」とかいう話になって、仲間をリンチで殺しまくります。

一方ドイツの過激派、バーダー・マインホフ・グルッペことRAF(赤軍派分派)は、細かい議論などほとんどせずに、アンドレアス・バーダーというリーダーのカリスマで突っ走ります。やることはバイオレントで、日本の過激派が悶々と総括している間に、米軍施設やら保守系新聞社やら、ばんばん爆破して人を殺していきます。

グループ内での確執は当然出てきますが、日本のように「おまえはスターリン主義者だ!」などと言いがかりを付けて処刑することはなく、去りたい者は去れで離反者を止めたりしません(1人粛清したという説もあるが確認されていない)。

またドイツの過激派はグラマラスです。日本の過激派はやたらと禁欲的で、女性のメンバーがおしゃれな服を着たりパーマをかけたりすると、「共産主義化が足りない!」という話になって陰湿なイジメが始まります。しかしドイツの過激派はクスリはやりますし、平気で人前でいちゃいちゃしますし、逃走する際に好んで盗む車はBMW(バーダー・マインホフ・ヴァーゲンと呼ばれた)ですし、おかげで当時はマニアックなスポーツカーメーカーにすぎなかったBMWは脚光を浴び、一躍メジャーなメーカーに成長したという逸話もあります。やることは外道ですが、ロックスターのような魅力も備えていたということです。

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左は反抗声明書に添付していたポップなRAFのロゴ。右は当時西ドイツで流行した「私はバーダー・マインホフ・グルッペではない」というバンパーステッカー。これを貼ってBMWに乗るのが粋だった。


彼らは日本であさま山荘事件が起きたのと同じ1972年に逮捕されましたが、逮捕後の態度も日本の過激派とぜんぜん違います。感傷的なムードの中あっけなくリンチ殺人等についてゲロした日本の過激派に対し、ドイツの過激派はまるで態度を改めず、法廷闘争を続けながら脱獄のチャンスを待ちます。

そしてその後、日本でもドイツでも、彼らの跡を継ぐ新たな過激派が現れ、国内外で凶悪なテロを起こして収監中の仲間の釈放を迫り、両国共に1977年に起きたハイジャック事件を契機に、テロの時代は終息に向かいます。しかしここでも両者は決定的に対称的です。

日本の場合、ダッカ空港日航機ハイジャック事件で、当時の福田首相は、「人命は地球より重い」と語ってテロリストに譲歩し、超法規的措置で身代金を払い、収監中のテロリストを釈放しました。しかしその1ヶ月後に起きたドイツのルフトハンザ機ハイジャック事件では、ドイツ政府は一切譲歩せず、対テロ特殊部隊GSG9を投入して制圧しました。

というわけで、同じ現象でありながら、何から何まで正反対な両国の過激派群像ですが、もうひとつ、もしかしたらさらに大きな違いがあります。それは、事件を語るナラティブの違いです。

日本では、この「実録連合赤軍」以前にも「突入せよ!あさま山荘事件」「光の雨」という映画が作られました。そしていずれの作品にも共通するのは、テロリスト側か官憲側か、どちらか一方の視点から描かれているということです。「突入せよ!あさま山荘事件」は官憲側の視点からのみ語られますが、それへのアンチテーゼである「実録連合赤軍」の方は、テロリスト側からの視点のみで語られています。

ドイツでも、バーダー・マインホフの話は過去に何度か映画化されています。しかしそのどれも、どちらか一方の視点からのみ描かれたものではありません。

これは何も、語り部の態度として両者の視点を尊重しているからではありません。どこで読んだか忘れてしまいましたが、「バーダー・マインホフ」の監督は、当初テロリスト側からの視点だけで描こうとしたそうですが、ストーリー上難しいので、官憲側の視点を随所に入れることにしたといいます。

確かにその通りで、ドイツの場合、一連の出来事は、テロリストと官憲の動きが、両者がまるで物騒な文通でもしているかのようにインタラクティブに作用しつつ進展するため、どちらか一方の視点からのみ描くのは不可能なのです。

ところが日本では、どちらか一方だけから描くのは十分に可能です。というより、どちらか一方から描かないと、ただのイベントの羅列と化して、物語として成立しにくいような気さえします。

その分析をし始めると長くなりそうなのでここでやめておきます。いずれにしても、「バーダー・マインホフ」という映画は、単体で見ると日本人にはピンと来ないかもしれませんが、日本の学生運動回想映画と対比して見ると、なかなか興味深い映画だと思います。

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2009年07月21日

移民は少子化対策にはならない

少子化は大問題です。

少子化対策としてさかんに叫ばれているのが、まず子作りインセンティブを乱発してとにかく子どもを生ませることです。そのお手本として、フランスの手厚い子作り支援が賞賛されています。しかし、インセンティブ乱発による成功例とされるフランスでさえ出生率は2.1(人口置き換え水準)に届かず、フランス人の数は減り続けています。

国家による子作り支援が本当に少子化にストップをかけられるのか、収支勘定は合うのか、社会的副作用はないのか等、子作り支援の効果はあらゆる面で不透明です。

そこで注目を浴びるのが移民です。

移民を受け入れれば確実に人口は増し、内需は維持され、税収は維持され、文化的にも刺激を生んで一石二鳥という寸法です。

しかし、移民国家のカナダで、移民による人口増加効果に疑問を投げかける報告が出されました。

カナダの出生率は1.54で、人口を維持する2.1に及ばない。しかし日本のように少子化に警鐘を鳴らさないのは、移民を受け入れているからだ。

国民のほとんどが元移民であるカナダは、多元主義を実践する成功例と見られている。国民に移民の効用を理解させるためにカナダに調査に来たという日本人外交官もいた。

しかし、カナダの有力なシンクタンクであるC・D・ハウ・インスティテュートが先月発表した報告によれば、移民による少子化相殺効果は過大評価されている。

その分析によれば、人口比で0.67パーセントにすぎない現在の移民流入量は、焼け石に水である。カナダの出生率低下を移民で補うためには、国境を開いて年に50万人以上の移民を呼び込むだけでなく、さらに移民に「年齢制限」をもうけて、若者のみ移住してくるようにしなければならない。

これはあまりにラジカルであり、政治的に現実的とはいえない。治安の悪化は避けられないし、同化は期待できないし、年齢制限による家族離散は、人権的見地から許されないだろう。

従ってC・D・ハウ・インスティテュートは、人口維持のために移民以外の方法を模索する時がきたと結論している。

以上、Canada's big problem -- too few babiesより抜粋要約

C.C.Howe Institute の報告書


移民の問題点というと、保守的な国民が異文化に拒否感を持つこととか、治安が悪くなる可能性とか、これまではそういう方向からしか議論されてきませんでした。しかしここで語られている分析によると、そもそも移民は少子化対策として現実的ではないとしているわけで、これは新しい視点です。

今の日本の指導層は、国民の拒否感さえ払拭できれば、移民は少子化対策の切り札になると考えている節があります。しかしいくら移民を受け入れたところで、少子化の流れを止めることはできないのです。

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2009年07月20日

マスメディアの信頼性

前回のエントリーでは、「ミドルメディア」は信頼性に問題ありと書きました。ではマスメディアはどうかといえば、それを論じるのに恰好な事例が、今巷を騒がせています。

放送業界による自浄組織、BPOが、TBSのヤラセについて談話を発表し、「小さな問題にすぎない」と、審議の対象にしないことを明らかにしました。

 「二重行政」を特集したTBSの情報番組が事実と異なる内容を放送した問題で、NHKと民放でつくる放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は17日、「委員会で(放送倫理に違反するか)討議中と知りながら、総務省がTBSに行政指導をしたことに重大な懸念を抱く」とする川端和治委員長の談話を発表した。

 談話は、TBSが自ら調査で問題点を明らかにしたことを踏まえ「表現の自由への萎縮効果に配慮し、放送界の自主的な機能を尊重すべきだ」と指摘した。

 この問題はTBSが、大阪府の委託で府道を清掃していた業者に、通常とは異なる作業を依頼。国道との交差点手前で清掃を中断する様子を撮影し、「二重行政の例」として4月の「情報7daysニュースキャスター」で放送した。

 一方、この日の談話は放送内容自体を「そもそも二重行政の例として適切でなく、小さな問題にすぎない」として、委員会の審議の対象としないことを明らかにした。

TBSへの行政指導に懸念 BPO検証委が談話


あちこち見て回ると、「世の中のことをあれこれ批判して追い込んでおきながら、なにこのダブルスタンダード」などとお怒りの人が圧倒的なようです。

しかし元テレビ業界の人間としてあえて言わせてもらえば、BPOの声明は、責任逃れとかそういう風に受け取らずに、素直に字面通り受け取るべきです。

この出来事は「小さな問題」にすぎず、厳しすぎる処分は「豊かで多様な用言を萎縮させる効果を持ち」かねず、総務省による行政指導は「表現の自由の萎縮効果」をもたらすので看過できない。

というBPOの談話に、何一つおかしな点はありません。

現場の立場からすれば、この程度のことで大騒ぎされては、テレビは何も伝えられません。そしてこの程度のことで総務省に罰を受けるようでは、やがては政府や官僚に都合の悪いことは何一つ報道できなくなります。

要するにこの程度のヤラセのないテレビなど、あり得ないのです。

マスメディアの情報を信頼性があるととらえている人は、こんなテレビでもやはり信頼できると考えているのか、それともマスメディアに幻想を抱いているか、どちらかです。

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2009年07月18日

マスメディアが滅んだら情報ソースは枯渇するか?

小飼弾さんのところのサイトで、「2011年新聞・テレビ消滅」という新書を紹介して絶賛していました。

要するにマスメディアは消滅し、ネットを舞台とする「ミドルメディア」の時代になると断言しているのですが、こういう主張を聞くと、必ずこう反論する人が現れます。

「でもミドルメディアはマスメディアを情報ソースとして活用しているだけではないか?マスメディアがなくなったらミドルメディアも成り立たないのではないか?」

しかしこの問いは、3つの点で的外れです。

まず1点目、それは、「マスメディア=情報生産屋ではない」ということです。

テレビや新聞は、情報ソースとして情報の生産もしていますが、それは彼らの本質ではありません。マスメディアに権力とカネをもたらしているのは、新聞でいうなら紙面、テレビニュースでいうならコンダテです。要するに、どの情報を取り上げてどの情報をボツにするかを決める力、いわば「情報の格付け機関」としての役割こそが、マスメディアの本質なのです。

「マスメディアが滅ぶと情報ソースがなくなる」と主張するのは、「テレビがなくなるとドラマがなくなる」と言うのと同じことで、マスメディアというものを誤解釈しています。

マスメディアとは、あくまで情報の小売店であって、情報を生産しているとしてもそれはオマケ程度にすぎません。そして情報の生産を専門とする業者は、通信社等のかたちでこれからも残り続けるのです。

2点目は、「情報は力のあるところに集まる」ということです。

マスコミの情報生産力はバカにはできませんが、彼らが集める情報のかなりの部分は、情報の方から集まってきます。新製品を開発した企業や、世の中の不正を告発したい人が、マスコミの影響力を見込んで、みずから情報を持ち込んでくるのです。

旧来のマスメディアにおいて、こうした「寄せられる情報」の比重はとても大きく、仮にこの情報吸着力と記者クラブという特殊権益を奪われたとしたら、ほとんど何も残りません。それ以外のオリジナル情報の量は、現段階ですでにネットに負けています。

「2011年新聞・テレビ消滅」の著者も、小飼さんに自ら著作を進呈したそうですが、マスメディアが弱体化すれば、このように情報は自然とミドルメディアの方に引き寄せられていき、それとともに情報の生産力はアップしていくと考えられます。

さて最後の3点目、これは上記2点よりもわかりにくいですが、「メディアが変われば、求められる情報もまた変わる」ということです。

20世紀初頭、日本人は急速に新聞を読むようになりましたが、それ以前は、見知らぬ土地で起きた事件や事故などよりも、「近所で大蛇がでた」とかいうニュースの方がずっと価値ある情報でした。それが、日露戦争で戦地に赴いた肉親や知人の状況を知るために新聞を読み始め、やがて大多数の人に新聞が行き渡ると、身の回りで起きることよりも、新聞に書かれるような出来事の方を重大視するように変化したのです。

同じようにラジオが生まれると、今度はそれまで見向きもしなかったスポーツ情報に興味を持ち始め、テレビが根付くと、テレビという媒体で映える人物を偉人として捉え、テレビという媒体で映える事件や事故を重大事として認識するようになりました。

このように人は、新しいメディアの形に合わせて興味の方向を変えてきたわけですから、マスメディアが衰弱してミドルメディアが主流になれば、逆にミドルメディアに合った情報をありがたがるように、社会の嗜好の方が変化すると予想されます。

ミドルメディアは、今現在マスメディアが提供するのと同じ情報を提供するのには適していませんが、社会の方がそれを求めなくなるということです。

以上の3点から、マスメディアが消滅すると情報ソースが枯渇するというのは杞憂にすぎません。

ただし、マスからミドル、スモールへと分散されたメディアは、信頼性の面で劣るのではないかという危惧は、誤解や幻想ではありません。しかし、高い信頼性を武器にして大衆を煽動し、暴利をむさぼるマスメディアとどちらがいいかといえば、あとは好みの問題としか言いようがありません。

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2009年07月17日

ストライクか暴投か

先日行われた大リーグのオールスターゲームで、オバマ大統領が現職大統領として33年ぶりに始球式をして話題になりました。

【セントルイス(米ミズーリ州)14日時事】
今年で80回目を迎えた米大リーグのオールスター戦が14日、当地のブッシュ・スタジアムで行われた。始球式にはオバマ米大統領が「登板」。サウスポーから投じた球は、捕手役を務めた地元カージナルスのプホルス内野手のもとへ低めのノーバウンドで届き、観衆を沸かせた。現職大統領がオールスター戦の始球式を務めるのは、1976年のフォード氏以来で4人目。

オバマ大統領「ストライク」


日本でもアメリカでも、たいていこんな風に伝えられました。しかしこれは、見ていた人ならわかりますが、いろいろな点で事実と違います。

まずこの記事は、大統領が登場したときに浴びせられたブーイングについて完ぺきに無視しています。

あのブーイングは、「シカゴ育ちの大統領が日頃からファンと公言しているホワイトソックスのジャケットを着て出てきたことに対する気の利いたリアクション」と受け取っている人もいるかもしれませんが、それは考えにくいことです。ヤンキースのジャージを着て出てきたり、会場がシカゴのリグレーフィールド*だったらそれもありえますが、あの場でそれはピンときません。

セントルイスのあるミズーリ州は、共和党が強い「レッドステート」で、巨額の財政赤字を作り、なのに失業率は改善するどころか悪化し、ここ1ヶ月で支持率を10パーセント近く落としている、政治家としてのオバマ大統領に向けられたブーイングと見るのが妥当なのです。

しかし日米のほとんどのマスコミはこのことを無視しました。ブッシュ時代には、大統領の始球式でブーイングについて触れるのは常識だったのですが。

またほとんどのマスコミ報道は、オバマ氏の投球について事実を歪曲しています。

大統領が投げた球はホームプレートまで届かず、ホームプレートの前で構えていたプホルスはさらに前に出て、結局ショートバウンドでキャッチしました*。だから「サウスポーから投じた球は、捕手役を務めた地元カージナルスのプホルス内野手のもとへ低めのノーバウンドで届き、観衆を沸かせた」というのは作り話です。

「お祭りなんだから、細かいことを指摘するのは野暮」と考える人もいるでしょう。しかしイメージというのはこういうところから作られ、抗えない空気を作っていくのです。

例えばこの出来事は、同じ事実を材料にして、まるで違うように書くこともできます。

ここ1ヶ月で支持率が10パーセントも急降下し、いよいよメッキが剥がれてきた感のあるオバマ大統領。仕事内容でだめならイメージでと、33年ぶりとなるオールスター戦の始球式をつとめて人気回復を狙ったが、ますます馬脚を現しただけに終わってしまった。日頃からファンであると公言しているホワイトソックスのジャケットに身を包んで登場した大統領を出迎えたのは、歓声をはるかに上回るブーイング。さらにマウンドから投げるその投球フォームは、大統領の魅力のひとつであるはずのスポーティさとはほど遠い“女の子投げ”で、ふらふらとした球はホームプレートにも届かず、不名誉にもワンバウンドしてしまった。さらに試合中に流されたインタビューでは、愛用のプロンプターを持参し忘れたためか、愛しているはずのホワイトソックスの旧本拠地を「コミンスキー・フィールド」と呼ぶ、ファンならあり得ない間違いを犯す暴投ぶり。地元でのオールスターを楽しみにしていたというブラッドリー・Lさんは、「野球に興味がないなら余計なことをしなければいいのに。人気取りのために野球が利用されて悲しい」と肩を落としていた。このイベントのためにエアフォースワンでワシントンとセントルイスを往復した大統領は、はたしてどれほどのCO2をまき散らしたのだろうか?

オバマ大統領 また暴投


ゲンダイを意識して書いてみましたが、こういう報道を連日投下しているとどうなるかという見本は、太平洋のこちら側にあります。

漢字の読み違い、ホテルのバー通い、つたない英語と、やることなすことマイナスの視点から取り上げられた麻生首相は、いつの間にやら史上最低の首相のレッテルを貼られてしまいました。

このようにマスコミというのは、味方につければメシアになれるし、敵にまわせばアスホールにされる恐ろしい存在なのです。だから政治家はますますマスコミの方を向き、中身を磨くよりもマスコミと仲良くなろうとし、そうすることでマスコミに主導権を渡し、ますます立場を弱くするという悪循環に陥ります。

こんなことは100年前から行われてきたことではありますが、時代の変化で新聞もテレビも業績が悪化したことで、最近のマスコミはより節操なく権力を誇示するようになりました。

見方を変えればマスコミの断末魔なのですが、うまくソフトランディングできればともかく、ハードランディングすれば大変なことになります。そしてソフトランディングするという保証はどこにもなく、ぼくたち一般市民は、飛行中に異常に見舞われた旅客機の乗客のように、ただじっと見守るしかないのです。

*同じシカゴに本拠地を持つホワイトソックスとカブスのファンは、端から見ると異様なほど敵対しています。カブスの本拠地であるリグレーフィールドにホワイトソックスのジャージを着て登場すれば、カブスファンは間違いなくブーイングを浴びせるはずです。

*ロイターの映像ニュースはこの点について客観的で、大統領が歓声とヤジに出迎えられたこと、投球がホームに届かなかったことを伝えています。

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2009年07月16日

No TV, No Life

東国原知事が、自民からの出馬断念を表明しました。

午後5時からのニュースにあわせて、午後4時から緊急記者会見を開いて。

それをうけた自民の古賀選対委員長は、

知事が不出馬に追い込まれたのは「自民党からの出馬に批判がある」ことが一因となったとの見方を示した。そのうえで「民主党やほかの政党からだったら、おそらく高い支持だった。そこに今、自民党の置かれている苦しさがある」と悔しさをにじませた。
東国原氏出馬「民主からなら高い支持」 古賀氏ぼやく


最後までなんという勘違い。2人ともテレビの見過ぎです。

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2009年07月15日

主役のいない劇場

自民党の中川秀直さんが、麻生首相の面前で退陣を求めました。武部さんはテレビで退陣を迫りました。

バカですね。そんなことをしても自民党の人気は回復したりしないのに。

小泉さんの改革路線を継承する彼らの政治路線には、大筋で賛同します。しかし今さら麻生さんを降ろして、仮に改革派の小池さんあたりをトップにすえたところで、何の効果もないと思います。少なくてもぼくは支持しません。

なぜなら自民党は、郵政選挙で、その意味を理解して支持した人々を愚弄して、政策を180度転換させた実績があるからです。そんな詐欺師めいた政党をのさばらせておくほど、世の中甘くありません。

振り返れば、安倍首相が郵政造反議員たちの復党を認めたときに、今へと至る種はまかれました。政治理念を優先する党へと改造途上にあった自民党を、昔のような“サラダボウル”の自民党に戻してしまったのです。

あんなことさえしなければ、マスコミのバッシングとその後の経済状況により支持を落としたとしても、確固とした支持層を囲い込み、寄り合い所帯の民主党とマスコミに、一貫した主張で対抗できたはずです。

これは守旧派の人たちからしても同様で、平沼さんあたりを軸として、改革政党として先鋭化した自民党に対抗するステーティスト系の保守勢力を結集すれば、かなりの力を得られたに違いありません。

しかし政治理念による再編成を拒否した自民党は、改革により地方の利権分配屋としての支持基盤を失い、マスコミに叩かれてにわか支持層を失い、それに慌てて政策を転換して改革派の支持を失い、そのくせ思い切りを欠いて中途半端になりステーティストの支持を失い、じたばた見苦しい姿を見せて念には念を入れてその他の支持者を振り払い、そして支持者はどこにもいなくなりました。

今さら何をしても負けます。ビッグに負けます。そしてそれはたぶん歓迎すべきことです。しかし問題なのは、自民党崩壊後に政権を握る人たちです。フィナンシャルタイムズによれば、

日本の有権者には魅力的な選択肢はない。民主党は民主党でリーダーシップに問題ありで、小沢一郎はスキャンダルにより代表を辞任。後釜の鳩山由紀夫は冴えない男で、麻生同様旧態然とした世襲議員の代表であり、代わり映えしない。

また民主党は、世界的不況に対する明確な方策も持たない。自民党よりはやや左よりで、福祉と社会正義に力点をおくが、売りは結局自民党ではないということだけだ。

Japan is dared to defeat the LDP


要するに看板を掛け替えるだけで、中身は寄せ集めの自民党と同じということです。なのに民主党は、へたすると郵政選挙での自民党なみに大勝するかもしれません。

きのう久しぶりに朝日の「天声人語」を読みましたが、そこではなんと、8月30日の総選挙をフランス革命に例えていました。民主党の支持も上がるはずです。

4年前は小泉劇場でしたが、今回は主役のいない劇場になります。主役もいないのに、なぜか人々は劇場に誘い込まれ、拍手することを迫られているのです。

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2009年07月14日

英語オンチは日本の勲章

マレーシアの小中学校では理科と数学の授業が英語で行われていたんですね。知りませんでした。2003年から導入されていましたが、結局学力低下を引き起こしただけで終わり、やめることにしたそうです。

英語での授業を始めた理由は、「国際的に活躍できる人材を育成するため」といういかにもの理由の他に、もうひとつ切実な理由がありました。それは、

「科学や数学はマレーシアが起源ではない。専門用語はマレー語になく、英語から移植するしかない。それなら最初から英語で学ぶほうがよい」

マレーシア、英語での理数科授業廃止へ 理解できず学力低下


ということです。

これは日本人には理解しにくいことなのですが、ほとんどの発展途上国は同じ状況で、要するに英語(或いはフランス語など)を駆使できないと、科学を学べないのです。

今年の春にカンボジアとベトナムを訪れ、プノンペンからホーチミン・シティまでバスで移動したとき、隣に座るカンボジア人起業家とあれこれ世間話をして暇を潰しました。

3台の携帯ガジェットを持ち歩き、移動中も頻繁にチャットしていた彼は、とにかくテクノロジー好きで、「なんで日本の電機メーカーの携帯は見ないの?」などと日本人には耳の痛い質問をしてきます。

彼はケーブルテレビでBBCとかCNNを日頃から見ているそうで、小渕首相以降の日本の首相を全部言えるほどに日本の事情にも通じているのですが、「日本の首相が英語喋ってるの見たことないんだけど、日本の首相は英語できないの?」というところから英語の話になりました。

そこで彼が心底不思議そうに聞いてきたのが、「日本人は英語を使えないのにどうやって科学を学んでるの?」でした。

クメール語には科学の基礎的語彙がなく、旧宗主国のフランス語か英語を使えないと科学を学ぶことは不可能で、そういう彼からすると、英語ベタなのに先進技術に長けた日本は謎なのです。

それを可能にしたのは、言うまでもなく150年前の先人たちのおかげです。ありとあらゆる西欧産概念を漢字に置き換え、日本語で科学を語れる環境を作ったのです。

もし彼らの努力がなければ、長く西欧に支配された多くの国々同様、日本は一部のインテリと学のない大衆とに知的分断され、後の発展はあり得なかったはずです。

その弊害で、日本人は外国語オンチになりました。エリートでも外国語オンチ、外国語オンチでもエリートになれるという国は、世界を見回してもごく少数です。しかしそれで得られた利益と比べれば、すばらしいトレードオフです。

外国語オンチは、優れた独自の文化を持つことの勲章なのです。

そんな先人たちの努力により培われた英語オンチを解消しようと、2年後から小学校で英語が必修化されます。しかしそのせいで英語学習にリソースを割かれる学校システムのことを考えると、こちらの方はあまりうまいトレードオフではないと思います。

マレーシアのようにドラスティックな教育改革ではないので、あらゆる科目で目に見えて学力が落ちるということはないでしょうが、例えわずかでも英語にリソースを割いた分、その他の部分での学力低下は不可避です。

一方言語というのは、必要性と真の積極性があれば誰にでも習得できるものであり、逆に言えば、必要性と積極性を欠いては、何百時間費やそうと時間の無駄です。

ほとんどの日本人は、マレーシアやカンボジアのような元植民地の人たちと比べてもケタ外れに英語を必要としないのですから、結局英語はほとんどうまくならず、その分ますますバカになるだけのような気がします。

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2009年07月13日

金融危機の真犯人

これは以前からあちこちで言われていたことですが、公的機関による報告書では初めて聞くような気がします。

 世界の資金の流れに焦点を当てると、金融危機の「震源」は欧州の銀行だった、とするリポートを日本銀行がまとめた。サブプライム問題を生み出したのは米国だが、資金が欧州の銀行を経由し過ぎていたため危機が一気に世界に拡大した、と分析する。

 金融市場局が国際決済銀行の統計を用い、世界の金融ネットワークを分析した。英国、スイス、ユーロ圏内の欧州3地域の銀行部門は02年以降、産油国や新興国との取引を拡大。米国や日本の銀行部門を押しのけ、世界の資金が集まる最大級の「ハブ」(中継地)に成長した。

 ハブでショックが起きた場合、資金のネットワーク全体に瞬時に広がるおそれがあるという。サブプライム問題を契機に途上国が資金を引き揚げ始めると、欧州の銀行間でドル資金の取引が凍りつき、金利は急上昇した。ユーロ圏と英国の銀行が緊密に資金をやりとりしていたため、「ショックが両地域間でピンポンラリーのように増幅し、影響は世界各地に広がった」という。

金融危機「震源は欧州」だった?! 日銀が資金リポート

金融危機というと、サブプライムの発生源はアメリカですし、強欲なアメリカの金融業界が暴走して起こしたような印象がありますが、マネーゲームに精を出していたのは、むしろヨーロッパです。

90年代後半に社民勢力が大きく伸長したヨーロッパは、行きすぎた労働者保護などにより、産業の海外流出に悩まされていました。各国政府は、補助金や罰則強化などのアメとムチで食い止めようとしましたがうまく行かず、やむを得ず社会保障の削減に乗り出しましたがそれも限界。経済は停滞し、でも痛みは受けたくないし・・・と、そこで目を付けたのが、マネーゲームなのです。

ドイツなどでは、国有銀行が先頭切って放漫経営して破綻しましたし、元来反米で左派的傾向の強い欧州で「資本主義は終わった!」などという左派陣営の煽りが効果を発揮しないのは、そういう事情もあるわけです。

要するに金融バブルというのは、「居心地のよい福祉国家を維持するために、欧州左翼が暴走して起こした」ともいえるのです。

さらにいえば、アメリカのサブプライム問題ですら、社会主義的思惑がその起因にあります。

「貧しい者も一軒家に住む権利がある」ということで、クリントン政権時代に、貧困層に住宅ローンを貸し出すことを半ば強制で奨励するようになりました。日本でいえば、零細企業を救うためにと設立された、新銀行東京のようなものです。

サブプライムが奨励されるようになる以前には、貧困層の利益を代表する市民団体が、「貧困者にも金を貸せ!」と銀行経営者の自宅に押しかけてデモをしていたものでした。しかし今は同じ団体が、「強欲な金融資本家にだまされて家を取り上げられようとしている。税金で何とかしろ!」と訴えています。

まさに今回の金融危機の縮図です。

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2009年07月12日

出口のない民族摩擦

ウルムチの騒乱は、「民族差別的強権政府VS少数民族」という古くさいステレオタイプではなく、ユニバーサルな民族軋轢の現れであり、だとするなら中国は面倒なことになるということを少し前に書きました。

あれから日がたち、それを裏付けするたくさんの記事が現れ始めています。

ウイグル族の文化と宗教を抑圧する政策を立案したのは、王楽泉(新疆ウイグル自治区共産党委員会書記、共産党中央政治局委員)だ。小学校での使用言葉をウイグル語から北京語へと置き換え、ヒゲを生やすこととスカーフを頭に被ること、公務員にはラマダンでの断食や祈りを禁止した。

しかし王の政策には別の一面もあり、漢族は不満を募らせている。漢族は1人しか子どもを作れないのに、ウイグル族は2人、3人と生めること。また、犯罪を犯してもウイグル族は重い罰を受けないことに、漢族は不平を抱いている。

Security chiefs failed to spot signs calling for Uighur revolt


さまざまな中国人の声を集めたBBCの記事(Xinjiang violence: Views from China)でも、次のような部分が出てきます。

かつて漢族は新疆を力で治めたかもしれませんが、我々は成長しました。

少数民族の境遇はすでに改善し始め、ある面では優遇されています。例えば私は大学に入るため猛勉強しなければなりませんでしたが、ウイグル族は簡単に入れます。成績と関係なく、少数民族割り当てがあるからです。

・・・ウルムチは豊かでモダンな都市です。20年前には想像もできませんでした。そしてその富のすべては、ウイグル族の教育と社会保障に使われているのです。
 ー 西安の貿易商

私は、ウイグル族もフイ族も政府からサポートされていると感じています。我々は大学に入りやすいですし、より多くの機会に恵まれているのです。

・・・私はフイ族という理由で差別されているとは感じません。しかしウイグル族は漢族に蔑視されています。ウイグル族には盗みなど悪いことをする人もいるので、評判が悪いんです。
 ― ウルムチ出身北京在住のエンジニア

ウイグル族の怒りの原因は、政府の民族政策の失敗にあると思います。中国はさまざまな少数民族を優遇しています。例えばウイグル族が罪を犯しても、漢族ほどには厳しく罰せられません。

しかしそうした優遇政策は、ウイグル族の真の利益にはなっていないのです。経済の発展にともない、中国の他の地域と同じように、ウイグル族の中の貧しい者と富める者の格差は広がりました。

一部のウイグル族が疎外感を感じるのはそのせいです。今回の騒乱の根本原因はそこだと思います。
 ー 重慶の学生


こういうわけですから、「中国政府は民族弾圧をやめろ!」などと叫んだところで、彼らには通じないどころか反感を買うだけです。

はっきりいえば、中国政府は中国政府なりに、「多民族国家としての中国」をよりよい国にするために努力しているのです。多分。

しかし、多民族国家ということは、「漢人の国ではない」ということで、実は漢人にとっていいことばかりではありません。裕福な漢人はそれでいいかもしれませんが、持たざる漢人はいいわけありません。

ウイグル人やチベット人などの少数民族は、権威主義国家における少数民族として“正統な被害者意識”を抱き、漢人は漢人で、「なんであんな無法者たちを優遇するんだ?」と、これまたある意味正統な被害者意識を抱く。先進国の移民問題でよく見られるこの対立構図を解消する方法は、まだありません。

かつての中共の民族対策といえば、少数民族の方だけ向いて、少数民族の被害者意識をなだめてさえいれば何とかなったのに、圧倒的多数の漢人まで被害者意識を抱き始めたとなると手に負えません。政府はどちらの側に与しても民族軋轢を先鋭化させてしまうからです。

やがてどこかで、「漢民族による、漢民族のための国」を求める勢力が現れても不思議ではなく、もし中華人民共和国が崩壊するとするならば、それは少数民族の反乱により起きるのではなく、そういう勢力により起こされるに違いないのです。

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2009年07月11日

ペタペタについて

KJ法の生みの親である文化人類学者の川喜多二郎氏が、今月8日にお亡くなりになったそうです。

「KJ法」創始者、文化人類学者の川喜田二郎さん死去

KJ法についてのウィキ

白状すれば、ぼくはKJ法ということばをこのニュースで初めて知りました。ぼくの中ではKJ法は「ペタペタ」です。

なぜペタペタかといえば、ペタペタをしたことのある人ならわかると思いますが、ポストイットにトピックを書いてペタペタとボードに貼っていき、ああでもない、こうでもないと、みんなでペタペタ貼りかえるからです。

そしてこのペタペタという手法は、ドキュメンタリー等のテレビの番組制作の場で欠かせないものとして定着しています。欠かせないものどころか、「テレビドキュメンタリーとはなんぞや?」と問われれば、「ペタペタだ」と答えてもいいほどのレベルです。

テレビ番組の小道具に、フリップ(NHK用語ではパターン)というものがありますが、少し大きめのフリップの裏はペタペタをするのにちょうどよく、番組を作るおりに局内のあちこちから使用済みのフリップを調達してきて、それを壁に立てかけてペタペタとやるのです。

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十数年前にペタペタをしている人を初めて見たとき、「この人バカなんじゃなかろうか?」と思ったぼくは、もともとペタペタがあまり好きではありません。

ペタペタをして、ああでもない、こうでもない、とストーリーラインを揉むようでは、そもそも企画自体に問題ありで、要するにペタペタというのは、本来は一筆書きのようにスッと行くべきものが失敗したときの、失敗作救済法だと今でも思っています。

ですから、ペタペタに頼るようになったら負けだと、可能な限りペタペタをしないで済まそうとしてきました。しかし民放はそれでいいのですが、NHKで仕事をするとなるとペタペタは避けて通れません。

予算とマンパワーに余裕があるNHKでは、民放と比べてプロデューサーは暇です。だから番組作りの細かいところまでかかわりたがります。ディレクターの思考をブラックボックス化することを嫌がり、時間をかけて一緒に番組を作ろうとします。そこでペタペタの出番となります。NHKスペシャルなどになると、ペタペタスペシャルと名前を変えるべきと言いたくなるほどにペタペタの修羅場となります。

グループシンキングをする場合、ペタペタは悪くないとぼくも思います。しかし万能ではなく、欠点もあります。

ぼくは、3分の作品と10分の作品と1時間の作品では、それぞれテーマから構造までぜんぜん違うと考えていて、そういう態度で制作にのぞむのですが、ペタペタというのは、尺の長さによる違いをはじめ、ペタペタで表現できない部分を全然考慮しないシステムなのです。

だからペタペタに慣れたNHKのディレクターの中には、10分のVTRを作るのに、一編(最初の編集)で、1時間の長さにつないだりする猛者もいます。プロデューサーも、最初から10分程度のVTRを作ってくるぼくのような人間よりも、そういうタイプを歓迎したりして、ここはいらない、あれもいらないと、一緒にシコシコと不要な部分を削っていきます。

そうして出来上がったものを見ると、あちこち接ぎ木したようで、なんかガチャガチャしています。ぼくはペタペタによる傑作を見たことがありませんし、ムダに時間ばかりかかり、ディレクターは思考をまわりにゆだねる習慣がつくだけで、そういう風に見ていくと、ペタペタというのは、実際の効果よりも、みんなで考えたような気になれる手法という気もして、プラスよりもマイナス面の方が多いように思えます。

しかしNHKで仕事をするかぎり、ペタペタは避けて通れません。へたをすると、きれいに出来上がりかけていたものがバラバラに解体され、見るに堪えないフランケンシュタインにされてしまいます。だからNHKで何度か仕事をするうちに、ぼくは自然とペタペタ地獄を逃れる方法を身につけました。

これはブレインストーミングの段階からペタペタをする場合には無理で、自分の中で作品の方向性が決まっているときしかできないことなのですが、全体の中にわざと、よく考えてみるとおかしい部分を残しておいてペタペタにのぞむのです。

時間をもてあました大抵のプロデューサーというのは、心底いいものが作りたいわけではなくて、「オレのおかげでいいものに仕上がった」という感覚を抱きたいだけなので、おかしな部分を見つけさせてあげると、ヘタに文句の付けようもないものを見せられるよりも喜びます。

さらにいいことに、明らかにおかしな部分があると、他の小さな欠陥がかすんでしまって目に入らなくなるので、作業はとてもスムースに運びます。

悪賢いですね。でも、普段からペタペタに頼り過ぎている人に限って、こういうやり方にコロリと引っかかるのですから、これもペタペタの弊害のひとつといえばいえなくもありません。

川喜多氏の訃報をきっかけにして、ペタペタについてあれこれ考えてみましたが、改めて自分でも、ぼくはペタペタが嫌いなのだとよくわかりました。

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2009年07月10日

ロシア人気質

サミット前に意気揚々とモスクワに乗り込んだオバマ大統領について、ニューヨークタイムズが興味深い記事を書いています。

In Russia, Obama's Star Power Does Not Translate

"世界で愛される大統領”としての魅力でロシア人を虜にしようとしていたオバマ大統領の魂胆むなしく、ロシア人はことごとくオバマ氏の魔性のウィンクをスルーし、醒めた目で見ていたという内容です。

「なんでオバマがそんなにスターなのか、私たちにはほんとに理解できないんです」と25歳のキリル・サゴロドノフ。「彼の振る舞いとか、見せ方を信用できないとうか、ああいういかにものカリスマは、ロシアではパロディーのネタなんです。ロシア人はああいうのを受け付けないんです。民衆を操ってるみたいでだめなんです」


オバマ贔屓のNYTとしては、"The One”の魅力が伝わらないのはロシア人の特殊性にあるとしたいようで、「特殊なのはお前たちの方だ!」と言いたいところですが、オバマのスター光線は日本では効果満点だと思いますので、やめておきます。

それはさておき、NYTに指摘されるまでもなく、オバマ氏のように“へんに見た目がいい口の達者なインテリ”というのは、ロシア人に最も信用されないタイプに思えます。

現代史を見ても、ロシア人の信頼を勝ち得たのは、理屈でも情でも見映えでもありませんでした。

1930年代から今まで、ロシア人に自分の要求を飲ませることに成功した政治家は、ヒトラー、ケネディ、レーガンと、みな一様にマッチョです。

1941年に日ソ中立条約を結んだとき、普段は猜疑心の塊のような独裁者スターリン(スターリンはグルジア人だという野暮なツッコミはなし)は有頂天で、松岡洋右外相をモスクワ駅まで見送りにまで行き、世界を驚かせました。

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日本を手強い相手として認識していたからこその満面の笑顔です。当時の西側諸国は、同盟国のドイツを含めて、日本の能力を過小評価していましたが、日露戦争で刃を交えたロシア人は、武人としての日本人をリスペクトせずにいられなかったのかもしれません。

ぼくの知り合いの女性が、1人でモスクワのホテルに連泊しまして、従業員の態度がどうもよくなく、特にカウンターに常駐する女性の、客をバカにしたような対応に腹を立てていました。ロシアだから言うだけムダと堪えていたのですが、ある日ぶち切れて責任者を呼びつけ、つたない英語でも構うことなく、「ホテルマンとして恥ずかしくないのか!」と大上段から滔々と説教したといいます。すると翌日から、カウンターの女性は姿を消し、すれ違う全従業員の態度が一変したそうです。

ロシアらしいなと思います。

最近、日本が北方領土を固有の領土と明記した法案を成立させたことに対してロシアの愛国者たちが怒り、「千島列島から北海道までぜんぶロシア」などと訴えているそうですが、それに対して「まあまあ」と紳士ぶった態度をとるのは誤りです。

「千島列島も樺太もぜんぶ日本だ。それを認めないとバイカル湖から東を侵略する」と返すのが正しいのです。

お互いに銃口を向けながらにらみ合い、頃合いを見て、「なあ、北方領土問題を解決して手を組まないか。俺たちがチームを組めばアメリカも中国も目じゃないぜ」と呟く。これでロシアはイチコロ、のはずです。

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2009年07月09日

電波少年はなぜタレントを殺したのか

90年代に一世を風靡した日テレのバラエティ、「電波少年」。

この番組に相方を奪われてキャリアを台無しにされたという2人のお笑い芸人の対談がサイゾーに出ていますが("相方を連れ去られた者"同士が語る『電波少年』とは何だったのか)、たしかに電波少年はタレント殺しでした。

今からすれば考えられないような高視聴率で、起用された若手タレントは一夜にしてスターになるのですが、どうしたわけか人気は長続きせず、たいていの場合1年と持たずに消えていきました。

普通タレントというのは、人気番組に出ると一気に知名度があがって、その知名度をテコにして活躍の場を広げていくというパターンが多いですが、電波少年の場合は、番組で得た知名度が次につながらなかったのです。

企画偏重でタレントは道具に過ぎなかったからとか、番組の個性が強すぎたからとか、駆け出しの若手ばかりで力不足だったとか、いろいろ理由は考えられますが、実力もないのに企画にのって個性の強い番組に出て人気が出て、そのままなんとなくテレビの世界の住人になったようなタレントはたくさんいるのですから、そうした表層的な理由だけで説明はつきません。

起用される若手タレントが揃いも揃って一発屋で終わったのは、電波少年というテレビ番組の異質性に理由があるのです。

あれは普通のテレビ番組ではありませんでした。

テレビというのは「世の中を映す鏡」などと呼ばれたりしますが、本来は基本的に受動的なもので、作る者と見る者双方に「世の中において価値のあるものをテレビは映す」という共通の了解がありました。

しかし電波少年という番組は、そうした伝統的なあり方をひっくり返し、世の中の方を「テレビを映す鏡」にしようとしたのです。意識的にテレビの権威を利用して道ばたの石ころを高く売りつけ、それをありがたがる人々を笑いつつ、テレビの力で世の中をどこまで振り回せるか探るような、そんな番組だったのです。

これは、絶頂期を迎えていたテレビの権威を利用した傲慢な態度です。しかし見方を変えれば、権威者として君臨するテレビの風刺ともいえ、またマンネリから抜け出してテレビ文化の進化を模索する試みでもありました。

電波少年が常識破りのアポなし取材を売りにしていた頃、NHKで仕事していたぼくは、現場好きでたびたびその辺をうろうろしていたNHKの幹部の一人から、「電波少年を見ろ。あれはすごい」と大まじめにいわれて驚いた記憶があります。初期の頃の電波少年というのは、経験豊富なNHKマンの心を揺さぶるほどに、衝撃的な番組だったのです。

そういうわけですから、出演者の立場も、従来のテレビ番組とは大きく違います。従来のテレビ番組における出演者には、世の中で賞賛されるべき個性または技術が求められ、そこまで達していない者はそう見えるように脚色していました(例えば女性ニュースキャスター。ほとんどの場合彼女たちは中身のないニュース読みにすぎませんが、用意された原稿と神妙な振る舞いで、"出来る女”に仕立てます)。

しかし電波少年における出演者は、世の中において価値ある存在である必要はありません。むしろダメダメな人間であるほど、くだらない企画であるほど、世の中を振り回したときに面白さは倍加するのです。

ですから、番組の視聴率を背景にして売れたとしても、他のテレビ番組に波及していきません。電波少年色に染まったタレントは、出演者になにがしかの者であることを求める旧来の番組では、単純に場違いなのです。別の言い方をすれば、電波少年でスターになった若手タレントこそ、腕いっぱいに石ころをかかえて陶酔する、電波少年に振り回されたバカの最たるものなのです。

そんなタレント泣かせの電波少年も、90年代の終わり頃から急速に勢いが衰え、最後はまるで居場所を失ったかのようにして消えていきました。

電波少年という番組には、テレビの絶頂期に、テレビの権威を利用しつつそんなテレビを風刺するという性格がありましたが、テレビを批判するのにより適したメディアが広く普及し、自己風刺の意義を失えば、残るのは権威を笠に着て好き放題する醜い姿だけです。消えるのは当然といえます。

今テレビに求められるのは、「世の中を映す鏡」としての古くからの役割を忠実に守ることです。それは制作者にとって刺激に乏しく、地味な作業の積み重ねで、あまりお金にもならないのですが、それ以外にテレビに存在意義はありません。

しかしなぜか最近のテレビを見ていると、そこかしこに、世の中をテレビを映す鏡にしよういう意志を感じてしかたありません。電波少年は滅びましたが、電波少年的やり方は、風刺精神と先鋭さという毒を抜かれた上でテレビ界に浸透し、いまやテレビ界全体が電波少年と化しているように見えます。

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