要するにマスメディアは消滅し、ネットを舞台とする「ミドルメディア」の時代になると断言しているのですが、こういう主張を聞くと、必ずこう反論する人が現れます。
「でもミドルメディアはマスメディアを情報ソースとして活用しているだけではないか?マスメディアがなくなったらミドルメディアも成り立たないのではないか?」
しかしこの問いは、3つの点で的外れです。
まず1点目、それは、「マスメディア=情報生産屋ではない」ということです。
テレビや新聞は、情報ソースとして情報の生産もしていますが、それは彼らの本質ではありません。マスメディアに権力とカネをもたらしているのは、新聞でいうなら紙面、テレビニュースでいうならコンダテです。要するに、どの情報を取り上げてどの情報をボツにするかを決める力、いわば「情報の格付け機関」としての役割こそが、マスメディアの本質なのです。
「マスメディアが滅ぶと情報ソースがなくなる」と主張するのは、「テレビがなくなるとドラマがなくなる」と言うのと同じことで、マスメディアというものを誤解釈しています。
マスメディアとは、あくまで情報の小売店であって、情報を生産しているとしてもそれはオマケ程度にすぎません。そして情報の生産を専門とする業者は、通信社等のかたちでこれからも残り続けるのです。
2点目は、「情報は力のあるところに集まる」ということです。
マスコミの情報生産力はバカにはできませんが、彼らが集める情報のかなりの部分は、情報の方から集まってきます。新製品を開発した企業や、世の中の不正を告発したい人が、マスコミの影響力を見込んで、みずから情報を持ち込んでくるのです。
旧来のマスメディアにおいて、こうした「寄せられる情報」の比重はとても大きく、仮にこの情報吸着力と記者クラブという特殊権益を奪われたとしたら、ほとんど何も残りません。それ以外のオリジナル情報の量は、現段階ですでにネットに負けています。
「2011年新聞・テレビ消滅」の著者も、小飼さんに自ら著作を進呈したそうですが、マスメディアが弱体化すれば、このように情報は自然とミドルメディアの方に引き寄せられていき、それとともに情報の生産力はアップしていくと考えられます。
さて最後の3点目、これは上記2点よりもわかりにくいですが、「メディアが変われば、求められる情報もまた変わる」ということです。
20世紀初頭、日本人は急速に新聞を読むようになりましたが、それ以前は、見知らぬ土地で起きた事件や事故などよりも、「近所で大蛇がでた」とかいうニュースの方がずっと価値ある情報でした。それが、日露戦争で戦地に赴いた肉親や知人の状況を知るために新聞を読み始め、やがて大多数の人に新聞が行き渡ると、身の回りで起きることよりも、新聞に書かれるような出来事の方を重大視するように変化したのです。
同じようにラジオが生まれると、今度はそれまで見向きもしなかったスポーツ情報に興味を持ち始め、テレビが根付くと、テレビという媒体で映える人物を偉人として捉え、テレビという媒体で映える事件や事故を重大事として認識するようになりました。
このように人は、新しいメディアの形に合わせて興味の方向を変えてきたわけですから、マスメディアが衰弱してミドルメディアが主流になれば、逆にミドルメディアに合った情報をありがたがるように、社会の嗜好の方が変化すると予想されます。
ミドルメディアは、今現在マスメディアが提供するのと同じ情報を提供するのには適していませんが、社会の方がそれを求めなくなるということです。
以上の3点から、マスメディアが消滅すると情報ソースが枯渇するというのは杞憂にすぎません。
ただし、マスからミドル、スモールへと分散されたメディアは、信頼性の面で劣るのではないかという危惧は、誤解や幻想ではありません。しかし、高い信頼性を武器にして大衆を煽動し、暴利をむさぼるマスメディアとどちらがいいかといえば、あとは好みの問題としか言いようがありません。