2009年07月27日

スポーツとテレビ

日本陸連が、世界陸上を放送するTBSに、選手にへんなキャッチコピーをつけるなと注文したそうです。

ぼくも、F1の地上波中継はそのせいで見なくなりましたし、このところあらゆるスポーツに見られるへんなキャッチコピーの氾濫に違和感を持っていた人は多いはずなので、陸連の態度は圧倒的な支持を集めると思います。

しかし一歩踏み込んで考えれば、この注文はスポーツの根幹に関わる問題をはらんでいます。というのも、マスコミのスポーツ報道というのは、突き詰めればいかにうまいキャッチコピーを作るかということであり、それを拒否するのはマスコミとの関係を清算したいと言うに等しく、しかしながら今あるスポーツというものは、そんなマスコミに支えられているという現実があるからです。

多様な見方があるスポーツの一断片のみを切り取り、わかりやすいキャラ立てをして、わかりやすいドラマを作って煽るというマスコミのやり方は、マニアックなファンからすればスポーツを貶める行為であり、納得いかないことだと思います。マスコミは黒子に徹して欲しいと願う人は多いでしょう。

しかし、マスコミにはそういう伝え方しかできないのです。NHKはそうしているという人がいるかもしれませんが、NHK流の地味なやり方が通用するのは、他のマスコミがせっせとキャッチコピーを作って煽り役を引き受けているからに他なりません。全局が全局NHKのような伝え方をしたら、スポーツの人気は早晩落ち込み、そしてそれを伝えることで稼いでいるマスコミも大打撃を被ることになります。

だいたい歴史をひもとけば、今あるスポーツというものは、そんな軽薄なマスコミとともに生まれ、発展してきた一卵性双生児なのです。

20世紀より前、賭けの対象か暇人の遊びでしかなかったスポーツは、20世紀に入ると新聞の報道で少しずつ注目を集め始め、1920年代に一気にブレークしました。企画倒れに終わりつつあったオリンピックはこの時期突如として軌道に乗り、サッカー界ではワールドカップが構想され、ボクシングや野球やゴルフの世界では、伝説的選手が次々に生まれました。これは偶然ではありません。1920年にアメリカで放送が始まったラジオが、こうしたことを可能にしたのです。

ラジオと、その後を継いだテレビはスポーツととても相性が良く、ラジオもテレビもその拡大期に、それ以前には決して大人気だったとはいえないスポーツをネタに使い、ウィンウィンの関係でお互いにその地位を高め合ってきました。こうした黎明期の両者の成り立ちを見ると、テレビ(ラジオ)とスポーツはどちらが欠けても成り立たない、一衣帯水の関係ということがわかります。

こう考えてくると、スポーツの側からテレビの本質的な部分にノーを突きつけた陸連の態度は、かなり異常な事態であることがわかると思います。

実はこれと反対のことも起きています。究極のテレビスポーツであり、その存在自体がキャッチコピーの集積場であるようなプロ野球の視聴率低下に対して、テレビはノーを突きつきつけて地上波放送から削減しました。

要するに今、1920年代から手と手を取り合って発展してきたテレビ(ラジオ)とスポーツが、お互いに疑心暗鬼になっているわけです。

なぜこんなことが起きるのかといえば、結局マスメディアの神通力が通じなくなってきたからです。そのため、マスコミと特に関係が深い一部の競技の求心力が低下する一方、マスコミは「単純感動ワールド」をオーバードースしてその力を取り戻そうとし、それがアスリートとファンの拒否反応を生むという悪循環になっているのです。

これを元から断ち切る方法はありません。マスコミが意識して黒子に徹したところで、すでに書いたようにスポーツの規模低下は避けられません。まあ個人的には、ある程度の規模低下を覚悟して、スポーツ自体の魅力を固める方向に向かうべきだと思いますし、そういう方向に進むスポーツしか生き残らないような気がしますが。

マスメディアの時代の終わりというのは、マスメディアだけが衰退してその他の世界がそのまま継続するわけではありません。マスメディアにより維持されてきたさまざまなものが価値を失い、スポーツというものもそのひとつなのです。

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