そんなわけで先日、stanza で何とはなしにドストエフスキーの「大審問官」を読みました。言わずと知れた「カラマーゾフの兄弟」の中の作中作で、この長大な作品のエッセンスはこのパートにあるなどと言われています。
「大審問官」を読むのは20年ぶりくらいで、当時はたぶん、哲学的な感想を持ったのだと思います。しかし今読むと、ぜんぜん哲学的ではなく、むしろ風刺、それも今の世のマスメディアのあり方に対する風刺にも読めて、すんなり楽しめました。
「大審問官」というのは、「カラマーゾフの兄弟」の登場人物である無政府主義者のイワンが、純朴なキリスト教徒である弟のアリョーシャに話して聞かせる自作の寓話で、舞台は、魔女裁判絶頂期のスペインです。そこに唐突にキリストが復活するのですが、異端審問所の審問官はキリストを逮捕して、キリストの過ちを滔々と責め立てます。
審問官によれば、ジーザスはあまりに人間を過大評価していて、人間にはとても背負いきれない「自由」を要求して人間を苦しめ、世の中をハチャメチャにしてしまいました。一方審問官たちは、「自由」という過大な重しに苦しむ人間たちを哀れに思い、人間を愛するからこそその負担を一身に引き受け、弱い人間たちを幸せにしているといいます。
自由の重荷を解かれた人々は歓喜にふるえ、審問官たちに感謝するとともに怖れ、「やがて彼らは我々のわずかな怒りにもビビるようになり、知性は衰え、女子供のように涙もろくなる。だが我々の教えにより、悲しみは歓喜の歌に変わる。そう、我々は民を奴隷のように働かせる!しかしその代わりに彼らは子供のように無垢で、笑いと喜びに溢れた人生を送れるのだ」
とんでもない奴です。兄の話を聞いた無垢なアリョーシャも、異端審問官を悪意に満ちた権力の亡者と呼び、そんな考えを持つのは反キリスト者だと言います。するとイワンは大笑いし、「どうしてそう決めつけられる?彼らは誰よりもキリストの教えに忠実であろうとし、神に近づこうとして必死に努力したんだぜ?」と逆に問い返します。そう、審問官は、善を追求した果てに、善の塊として悪に到達していたのでした。
ドストエフスキーがこの作品を書いたのは19世紀の終わりで、社会を導く宗教の権威がいよいよ傾きつつある時期でした。新聞やテレビのマスメディアは、20世紀の教会のようなものですから、今この作品に妙な同時代性を感じるのは当然かもしれません。
プロジェクト・グーテンベルクには、残念ながら日本語訳の「カラマーゾフの兄弟」はなく、日本語で読むには文庫版しかありません。かつての日本語訳は、悪文の代表のように言われて読むのに苦行を強いられたものですが、最近出た訳書は読みやすいそうです。いずれにしても全部を読むといやに長いので、「大審問官」の部分だけでも読んでみてはいかがでしょうか?
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫) | |
![]() | 亀山 郁夫 おすすめ平均 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ジーザスを火あぶりにするつもりの審問官。審問官の糾弾に対してきょとんとして何も答えないジーザス。2人のその後はどうなるのか?結末はここでは書きませんが、結構意味深です。