番組降板を通告され、私生活でもうまくいかないニュースキャスターのハワード・ビレットは正気を失い、本番中に「来週の本番中に自殺する!」と発言してしまいます。するとこれが話題を呼び、視聴率は大幅アップ。テレビ局の経営陣は、精神のバランスを崩して預言者のように世の中を告発するハワードを前面に立てた番組構成に変えて、視聴率はうなぎ登り・・・
とあらすじを書くと、視聴率に振り回されるテレビに対するありふれた風刺映画と思われるかもしれません。しかしそうではありません。
この映画の傑作シーンのひとつ、ハワード・ビレットが「さあみんな椅子から立ち上がり、窓を開けて叫ぶんだ!『わたしはカンカンに怒ってる!もうたくさんだ!』」と煽動すると、街中に叫び声がこだまするシーンや、次のようなビレットのテレビ批判は、その部分だけ独立したミニ作品としても成立するほどに、的を射ています。
テレビは幻想なんだ。真実なんてどこにもない!でも君たちは一日中テレビを見てる。歳も人種も宗教も関係なく、頭の中はテレビで一杯だ。だから我々の作る幻を信じてしまう。テレビこそ現実で日常を非現実と感じるようになる。君たちはテレビの言いなりだ!テレビの言う通りの服を着て、テレビの言う通りに食事し、テレビの言う通りに子育てして、テレビの言う通りに考える。これは集団の狂気だ。君たちは狂人だ!いいかい、君たちこそ現実なんだ。我々は幻なんだ!
「私は怒っている!もうたくさんだ!」
しかし、この映画の良さは、そういう風刺の鋭さにとどまりません。この映画の時代を超越した魅力は、テレビそれ自体を根底から否定しているところにあります。
テレビ批判というのは、それこそテレビの放送開始とともになされてきました。しかしそうした批判のほとんどは、低俗な番組内容とか、視聴率重視の姿勢とか、やらせとか偏向とか、そういうことに向けられてきました。悪いところを改善していけば、良いテレビになるという前提での批判です。
しかしこの映画は、そうしたテレビ批判の本道から外れて、テレビそのものを否定します。それは、この映画の主役である、報道局長のマックス・シューマッカーの態度に現れています。
シューマッカーは、かのウォルター・クロンカイトらとともにテレビの黎明期から活躍してきた一流のテレビジャーナリストという設定です。彼は、視聴率重視でセンセーショナリズムに走る経営陣にその座を追われてしまうのですが、「テレビ報道の本来あるべき姿」を説いたり、追求したりしません。経営陣の方針を仕方のないこととして受け入れ、テレビ自体に背を向けるのです。
不倫相手であり、テレビの象徴である編成局長のダイアナ・クリステンセンとの別れの際、シューマッカーはこう言います。
君の中にはもう共に暮らせる要素は何もない。君はハワードの言うヒューマノイドだ。これ以上君といれば、わたしは壊されてしまう。ハワード・ビールのように。君とテレビの触れたものすべてのように。君はテレビそのものだ。痛みに無関心で、喜びに無感覚だ。人生のすべてはありふれた凡庸に堕してしまう。君には戦争も殺人も死も、ビール瓶と同じだ。日々の生活は堕落したコメディだ。時間と空間の感覚さえ、瞬間とリプレーの積み重ねと化してしまう。君は狂気だよ。危険な狂気だ。君の触れるものすべて、君と共に死ぬんだ。
なぜこんなに刺激的な映画を今日まで見ずに来たのかと、自問せずにいられません。いや、たぶんぼくはこの映画をすでに以前どこかで見ていて、見過ごしていたのです。10年前のぼくなら、この映画を、荒唐無稽な話として受け流していたに違いありません。
映画の中にはたびたび、「6千万人の視聴者」という言葉が出てくるのですが、数百から数千万人レベルの人が同じ番組を見るというテレビ文化の崩壊が現実味を帯び、テレビのない世界を想像できる今だからこそ、テレビという毒を根底から否定するこの映画にシンパシーを感じ、改めて発見したのだと思います。
それにしても、テレビに代わるオータナティブもなく、いよいよこれからテレビの絶頂期を迎えようとしていた時代に、テレビの未来を見通し(ハワード・ビールのニュースショーはまさに現代のニュースのカリカチュアですが、70年代のテレビ報道はまだまだお堅い世界でした)、よくぞここまでテレビを客観視できたものだと、脚本のパディ・チャエフスキーと監督のシドニー・ルメットには感服します。
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