2009年12月22日

坂の上の雲を追わない「坂の上の雲」

海外に出ていた間に放送が始まっていたNHKのドラマ「坂の上の雲」の1話から3話までを先週まとめて見て、日曜日に第4話を見ました。

この手の、周辺国の現代史に係わるドラマを見るときは、どうしても制作側の変な配慮を警戒して身構えて見てしまうぼくですが、第3話までは、いくつか鼻につく場面はあるにせよ、さすがに膨大な制作費をかけているだけあり、明治の世界に引き込まれました。例えば主役である秋山真之の上京前の腕白ぶりは、彼の型破りなキャラクターを表現するためとはいえ、人間描写としてはあまりに安易な、朝のテレビ小説風の健全なステレオタイプの集積でした。しかし、テレビドラマに安易なステレオタイプ以上のものを求めるのは酷なことですし、逆に言えば、そんな当たり前のことを欠点と感じさせてしまうほどに、このドラマは秀逸なのだと言えると思います。

実際ぼくはこのドラマを見ながら、NHKを見直し始めてさえいました。第4話を見るまでは。

第4話は日清戦争を描いていました。そしてこの回を見ていてどうしようもなく印象的なのが、まず中国大陸に進駐した日本軍の横暴ぶりです。許してくれと懇願する老人を蹴り飛ばして物資を徴発するなどして民衆に恨まれ、それに異議を挟む従軍記者の正岡子規に対して「記者は軍の言うことだけを書いていればいいのだ!」と恫喝するステレオタイプなバカ軍人・・・。やはり来たかという感じです。

原作を忠実に映像化しようとすれば、戦争賛美になりかねない作品ですから、何らかの形で戦争の悲惨さを挟み込んで、無垢な視聴者の極右化を防止する配慮をしなければならないのはわかります。しかしだからこそ、この作品の最大の腕の見せ所はそこの所の料理法にあるはずです。それをこのように安直かつ軽薄かつ凡庸な形で処理されてしまうと、豪華な配役やセットばかりにカネをかけて、肝心な所に知恵を絞れないNHKは、やはりクリエイターである前に役人集団だと言わざるを得ません。

似たような場面は他にもありました。従軍記者に選ばれて喜ぶ正岡子規に対して、子規の母が床の間の漢詩を指し、これまで多くを学んできた中国と戦争していることを指摘して心を痛めるのです。原作にはない、いかにも現代的なこういう感傷は、日本が中国より格上か、せめて対等の、ある程度余裕のある時に初めてしっくりくるもので、落ちぶれたとはいえまだまだ大国に数えられていた当時の清との紛争に際し、日本敗戦の可能性も十二分にある状況下では、端的に不自然です。「戦争は良くない。日中友好万歳」ということなのでしょうが、蛇足感はぬぐえませんでした。

さて、問題が以上の2点だけであり、そういう余計な要素を持ちつつも、余計な要素を余計な要素としてドラマの軸がぶれておらず、夢中で坂を駆け上がってゆく明治日本の雰囲気が出ていればいいのですが、残念ながらそうではありませんでした。主役の秋山真之は、初陣で部下を死なせたことに衝撃を受けて、悩むのです。まるでガンダムのアムロのように。「おれは軍人に向いていないかもしれない」と、番組の大半を費やしてくよくよと悩み、同僚の広瀬大尉から東郷さんにまで、胸の内を吐露して相談しまくるのです。

ここに至り、ドラマの主題自体が揺らぎます。ドラマはもはや明治の群像ではなく、そこに見えるのはただ明治という舞台を借り物にしただけの現代日本であり、現代日本人です。大陸で悪行に精を出す日本軍も、日中衝突に心を痛める正岡親子も、とってつけた余計な場面ではなく、「明治を舞台とした現代日本」という主題に合流するのです。

おかげで、日清戦争後の雰囲気はまるでお通やです。そこにあるのは、前だけを見て歩いていられた若者の国ではなく、一歩踏み出すたびに誰かを踏みつけ、置いてけぼりにし、そしてそのことを意識してスティグマを刻まれてゆく老人の国です。

「坂の上の雲」という原作を、明治日本のプロパガンダとせずに映像化するのは、極めて難しいことです。その難しさを最も安易な方法で回避しようとし、そうすることで原作のエッセンスを台無しにしたこの作品は、クリエーターの作品ではなく、役人に統率された技術屋の技の品評会と見るべきものです。

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