2010年01月31日

ガンジーと鳩山首相

マハトマ・ガンジーの「7つの社会的大罪」を軸として語られた鳩山首相の施政方針演説は、「労働なき富」という大きなブーメランを投げてウケを取りました。

ガンジーという人は矛盾に満ちた人で、まわりには貞節を説きながら自分は女にだらしなく、西洋医学を否定して妻に薬を与えず死なせておきながら自分は薬を服用し、またトレードマークの半裸姿も、「あの男の貧乏はお金のかかる貧乏だ」と揶揄されたように演出にすぎず、実は富豪のパトロンを従えていました。いわば彼はブーメラン投げの常習犯で、ただしターンしてきたブーメランをことごとくキャッチしていた豪傑なわけで、鳩山首相の共鳴する心情はよくわかります。

それはともかく、施政方針演説の全文を読んでいて奇妙なことに気づきました。

政権発足当初は、鳩山外交の柱といえば「東アジア共同体」でした。しかし今回の演説では、明らかにトーンダウンしているのです。

その大きな理由は、もちろんアメリカへの配慮です。しかし演説の中で首相は、もうひとつ別の国に格別な配慮をしています。去年10月の所信表明演説では完全に無視されていたその国は、ガンジーの国、インドです。

演説でも触れているように、鳩山首相は去年の暮れ、12月27日から29日というきついスケジュールでインドを訪問しました。インド側からの強いラブコールにより実現し、経済のみならず軍事分野での協力まで討議されて、彼の地では「インド外交の勝利」と大々的に謳われた訪問でした。

中国とライバル関係にあるインドからすれば、日中同盟は大脅威です。だからインドは懸命に鳩山首相にアピールし、デートに誘い出すことに成功し、そしてどうやらハートをキャッチすることに成功したようです。演説の軸にガンジーをすえたり、インド訪問を取り上げたり、東アジアではなく、アジアという言葉を多用したりするのは、明らかにインドに対するオーケーサインです。

アメリカは別格として、経済はもちろん軍事に至るまでインドと特別な関係を持ちつつ、中国と同盟するのは不可能です。どうやら鳩山外交の柱である東アジア共同体の建設は、政権発足4ヶ月にして、早々に潰えたようです。

首相の敬愛するガンジーは偉人ですが、別に神様ではありません。その偉大さは、混沌するインドをまとめた「グレート・リーダー」である点にありました。だからいかに人間として不完全であろうと、彼の偉大さは揺らがないのです。

Gandhi knew what he was doing. Does our prime minister know what he is doing?

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2010年01月30日

TVコメンテーターの鑑としてのモリタク

城繁幸さんが“モリタク”の主張を一刀両断にしていました。そしてこう訴えています。

もしここを見ているテレビ局の人がいるなら、お願いしたいことがある。
あなた方に公共心があるのなら、もうこの男は金輪際使わないで欲しい。
どんなに我々が正論を吐いても、この男はお金儲けのために電波で嘘を撒き散らして
しまう。

元テレビの中の人であるぼくからすると、残念ながらこれは難しい注文です。というのも、森永卓郎氏というのは、非常に優れたテレビコメンテーターだからです。

テレビコメンテーターに欠かせない資質は何か?

それは、人並み外れた叡智ではありません。説得力のある話術ですらありません(あるに越したことはありませんが)。それらしい肩書きと、何よりも「空気を読む力」です。

テレビ番組の制作者は、コメンテーターに含蓄のある言葉を求めているわけではありません。番組における自分の役割を鋭く察知し、番組のパーツであることを常に意識して、それを忠実に演じてくれる人を求めているのです。簡単そうでいて、それのできる人はあまりいません。

事前に作られたVTRを見て相づちを打ち、与えられた時間内でレールから外れずに話を膨らませ、できの悪い構成でもそれを指摘して番組の権威を損なわせるようなことはせず、積極的にサポートして不備をカバーしてくれる・・・森永氏は、最高の番組制作パーツなのです。

でもそれならば、テレビの制作者は、森永氏のような軽薄な人ではなく、空気の読める本物の頭脳を探してくればいいのでは?と思われるかもしれません。しかしすぐれた Thinker の本質は、「王様は裸だ!」と叫べる空気の読めなさにあるのですから、それはなかなか難しい相談です。

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2010年01月29日

若者はテレビ離れしていない?

若者は“テレビ離れ”していない、むしろ多様な視聴スタイルによって受け入れられている。こんな実態が、若者層のマーケティング調査機関であるM1・F1 総研の調べでわかった。・・・そうです。

若者は“テレビ離れ”していない--M1・F1総研の調査で明らかに

レポートによれば、M1層(男性20〜34歳)、F1層(女性20〜34歳)は今でも1日平均2時間半はテレビを見ていて、強い影響を受けているのだそうです。レポートをダウンロードして読みましたが、ふーん、と思いました。

で?

依然としてテレビが絶大な力を持っていることは、誰もが承知しています。人気番組でお得でおいしいと伝えられたレストランには問い合わせの電話が殺到し、健康にいいと伝えられたグッズは店から姿を消します。問題は、その力が昔に比べて落ちているということで、今程度の影響力では、商売にならないということなのです。

M2層(男性35〜49歳)、F2層(女性35歳〜49歳)と比べると、若い人の方がテレビを見ている時間が長いということですが、M2、F2層は一番暇がない年頃ですから、テレビの視聴時間も下がるのは当たり前。この程度の差では、若者に訴求効果があるとはとても言えません。

このレポートのしていることは、例えば先の大戦で日本の敗戦が確実となった1944年に、「日本はアジアの大半を占領しているので、戦争に負けていない」と主張するのと同じことです。

M1・F1総研というのは、電通の子会社のようですが、こんなレポートを大々的にアピールして、しかもそれを5万円超で売ろうというのですから、業界の疲弊は相当なもののようです。

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2010年01月28日

ケインズ vs ハイエク

先日、アメリカの経済学者は素人に経済の仕組みを理解させることに熱心だと書きましたが、これはその象徴です。



ケインズとハイエクが夜の街にくりだしてお互いの説をぶつけ合うラップですが、すごくわかりやすいしおもしろい。まだ公開から1週間もたっていませんが、すでに20万ビューを越えています。日本の財務相は、マストシーです。

でもビデオそれ自体よりおもしろいのは、制作の裏話です。

男性向けケーブルチャンネルのスパイクTVで働くビデオプロデューサーのジョン・パポラさんは、経済に興味を持っていて、日頃から経済について発信したいと思っていました。でもしょせんは素人なので、言えることは限られています。そこで、ビデオ制作という自分の能力を生かせば、誰にも負けない発信ができると思い立ちます。

早速彼は、以前からネットで意見を聞いて尊敬していた、経済学者のラス・ロバーツさんに連絡を取ります。するとロバーツさんは乗り気で、ロバーツさんの提案でラップにしようということになり、あとはトントン拍子。誰にでもわかり、なおかつ噛み応えのある、ハイクオリティのミュージックビデオができあがりました。

パポラさんのオフィスで、ロバートさんに完成したビデオを見せていると、ミュージシャンの Ke$ha が通りかかり、ロバーツさんとケシャが一緒にプレビュー。ケシャが「これは本物。いいラップね」と太鼓判を押すと、ロバーツさんもケシャの「Tik Tok」のビデオを見て、「このビデオは一見ケインズ的だけど、本質はハイエク的だ」とか述べて、まあとにかくそんな感じです。

kesha.jpg


エッチなチャンネルのプロデューサーと、高名な経済学者と、ケインズとハイエクと、アイドルというまったくバラバラな要素が融合して、これだけ高品質なビデオができてしまうというのは、いかにもネット時代らしい現象です。このビデオは、ケインズ対ハイエクという問いに対する答えを、その制作スタイルにより示しているようにも思います。

英語と経済の両方を学べるこのビデオの歌詞は、こちらのページで見られます。MP3もダウンロードできます。また、ケインズとハイエクの思想については、こちらのページにまとめられています。

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2010年01月26日

怖い話

いろいろな意味で怖い話です。

先日IPCCは、2007年の報告書でなされた「ヒマラヤの氷河が2035年までに消失する」という記述の誤りを認めましたが、その背景が明らかになってきました。

Glacier scientist: I knew data hadn't been verified

報告書の執筆者の一人、ムラリ・ラル博士は、誤ったデータを載せた理由をこう述べています。

We thought that if we can highlight it, it will impact policy-makers and politicians and encourage them to take some concrete action.

そこを強調すれば、政治を動かせると思ったから

怖いですね。こういう話が出てくるのは、クライメート事件に次いで2度目です。科学と政治、そして、目的は手段を正当化するという態度の合体は、劇薬です。

しかし、博士の立場になって考えてみれば、そう驚くことでもないのかもしれません。当たり前のことですが、科学者もまた、邪な欲に溢れた人間です。研究費をたくさんもらいたいとか、社会的に認められて仰ぎ見られたいとか、自分の考える方向に世の中を動かしたいとか、そういう欲と無縁でいられるわけはありません。自分に都合のいいようにデータを改ざんしたり、大げさにアピールしたくなる気持はよくわかります。それは誰でも、日々実行していることです。

ラル博士の話を続けます。

Dr Lal said: ‘We knew the WWF report with the 2035 date was “grey literature” [material not published in a peer-reviewed journal]. But it was never picked up by any of the authors in our working group, nor by any of the more than 500 external reviewers, by the governments to which it was sent, or by the final IPCC review editors.’

元データの怪しさは承知していた。でも、執筆グループの仲間も、500人を越える外部の査読者も、草案を送付した各国政府も、IPCCの最終査読者も、それを指摘しなかった。

これはかなり怖いです。一流の頭脳を持ち、クリティカルシンキングを身につけた一流の科学者であるはずの人たち、さらに各国のエリート官僚たちまでもが、誰一人として初歩的なエセ科学に気づかなかったのです。こうなると科学というより、人間の無力さを感じてしまいます。

しかしこれとて、よく考えてみれば仕方のない所があります。何しろ彼らはみな同じ穴の狢です。科学者連中はもちろん、温暖化対策の名のもとに、社会に対してより大きな影響力を行使する大義名分を得る官僚と政治家たちに、温暖化論を疑う動機はありません。

同じ利益グループに属す人たちにいくらチェックさせた所で、所詮人間には見たい物しか見えません。彼らは知性溢れる有能な人々かもしれませんが、無我で無謬な超人ではないのです。

だから欧米のジャーナリズムには、温暖化派からいかにコケにされようと、温暖化論に批判的な声が絶えることはありませんでした。権威ある学者の主張だからと鵜呑みにせず、独自にデータの再検証をし、温暖化論に懐疑的な専門化にも発言の場を与えてきました。そして今こうして、科学者たちの間違いにチェックを入れることができたのです。

それに比べてこの国のマスコミは、何を根拠にヒマラヤ氷河の消失を大々的に報じていたのでしょうか?「偉い人たちがそう言ったから」というのであれば、それはジャーナリズムではありません。この事件の展開を見ていて一番のホラーはここです。

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2010年01月24日

How と What

「金融日記」さんの記事、「政府の規制や補助金はなぜ醜悪なのか? ―レントシーキングの罠―」。とてもわかりやすい良エントリーです。この記事に限らず、経済の基本を誰にでもわかる文章で表現することにかけては、金融日記さんは日本屈指の存在ではないかと思います。

アメリカには、金融日記さんのように平易な語り口で経済を語る本やサイトがたくさんあります。高名な経済学者によるものもたくさんあり、経済学のイロハを知らなくても理解できるように書かれています。難しい概念を駆使して高度な研究をするのは大事なことですが、経済学の場合、それが現実に反映されなければ何の意味もありません。民主主義においてそれを決めるのは選挙民なのですから、誰にでも分かる言葉で語り、選挙民を啓蒙することも、学者の大事な仕事なのです。

しかし日本では、アメリカほど、学者が普通の人の目線まで降りてきて、言葉を尽くして普通の人にわかるように話すという態度に巡り会うことはありません。日本の知識人は、難しい専門用語を駆使するなどして知識人であることを示すことにより、理解させるのではなく、盲目的な信用を獲得しようとする傾向が強く、世間もそれを求めているように見えます。

例えばそれは、例外的に非日本的でとてもわかりやすい金融日記さんの文章にも現れています(というより、演出として効果的に取り入れられています)。

金融日記さんは、「レントシーキング」という言葉を強調しています。規制や補助金を連発すると、企業は消費者ではなく政治家と役人の方を向いて商売をするようになるというこの概念は、大きな政府の弊害を語るときに欠かせない概念で、アメリカの経済啓蒙書には必ず出てきます。経済については洋書からしか学んだことのないぼくも、この概念についてはもちろん承知していました。しかしその概念と、「レントシーキング」という呼称は、正直このエントリーを読むまで、頭の中で一致しませんでした。

How はわかっていたけれど、What は知らなかったのです。

というのも、アメリカの経済啓蒙書の多くは、レントシーキングという用語をあまり強調しないのです。ページを費やしてレントシーキングについて説明していても、レントシーキングという言葉を全く使わないことはザラ。使う場合も軽く触れる程度で印象に残らないのです。

恐らくその理由は、レントシーキングという言葉が、一般人には馴染みの薄い専門用語であり、またその現象を理解する上であまり助けにならない空虚な記号に過ぎないからだと思います。

Rent Seeking という言葉を理解するためには、まず Rent という経済学の概念を理解しなければなりませんが、これ自体が結構わかりにくい概念です。そしてそれを正しく理解していたとしても、Rent Seeking と言われたところで、やはりその意味は明確にはなりません。こちらの経済用語解説のページ(英語)では、レントシーキングという表現は曖昧なので、Privilege Seeking (特殊権益追求)と呼ぶべきと書いていますが、その程度の言葉なのです。

大事なのは、What ではなく How を伝えること。曖昧な専門用語の濫用は、読者を突き放して混乱させるだけ、というわけです。

しかし日本の場合は違います。How を平易に語ることを重視する金融日記さんのようなサイトでも、レントシーキングのような、衒学的な What を提示することを要求されるのが、この国の風土です。そして案の定、はてなブックマークを見ると、揃いも揃って、レントシーキングという言葉に食いついていました。そういえば、NHKで放送していた「出社が楽しい経済学」という番組も、「経済学をわかりやすく解説すること」ではなく「経済学の専門用語をわかりやすく解説すること」を軸にしていました。

How よりも What を重視する社会は、権威的な社会です。何事に対しても、What is it? ではなく、How does it work? の態度で臨むことこそ、この国の権威的な風土を壊すカギだと思います。

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2010年01月23日

ハイパーインフレは社会のリセットボタンか?

日本の財政がどれだけ借金漬けになっているかを示す「国内総生産(GDP)に対する 純債務比率」が2010年に先進国で最悪の水準になる見通しだ。 総債務残高を使った国際比較では既に1999年から先進国で最悪になっているが、 資産を差し引いた純債務ベースでも、これまで最悪だったイタリアを初めて上回る。 日本の財政が世界でも際立って深刻な状況にあることが改めて浮き彫りになった。

純債務は政府の総債務残高から、政府が保有する年金積立金などの金融資産を差し引いた 金額。経済協力開発機構(OECD)の09年12月時点のまとめでは、国と地方、 社会保障基金を合わせた一般政府ベースの純債務のGDP比率は10年に104.6%に達し、 初めて100%の大台に乗る見通しだ。

日本、借金漬け深刻 純債務のGDP比、先進国で最悪水準

日本はかなりヤバイです。「日本は外国に借金しているわけじゃないから、じゃんじゃん札刷ればOK!」と主張している人たちも、それにより起こりえる悪性インフレを否定しているわけではありません。そう遠くない未来に、日本は悪性インフレか大増税の2択を迫られることになるのは、よほどの幸運に恵まれない限り避けられそうにありません。

しかし大増税は、長期にわたるさらなる景気低迷を約束するようなものですし、国民がオーケーするはずもありません。となればインフレによる政府債務の希釈化しか道は残されておらず、しかもけた外れの借金額を考えるとアウト・オブ・コントロールになる可能性は否定できず、最近では、リフレに反対する人の中にも「ひと思いにリセットしてしまえ!」と、やけ気味に言う人も出てきています。

しかし、ハイパー級のインフレはリセットになるのでしょうか?

確かに政府の債務はリセットされます。でも国民の生活は?

インフレを望む人の中には、高齢者の貯蓄を無に帰すことで、高齢者も若者も、富者も貧者も同じスタートラインに立てるとイメージしている人も多いようです。しかし昔の人の話を聞く限り、極度のインフレはそんなおいしい話ではありません。

例えば先日、19世紀末に生まれたオーストリアの作家、シュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」という本を読み返していたら、こんな一節にあたりました。

(第一次大戦前の世界は)インフレの時代のように、持たざる者が奪われ、堅実な者が騙されるようなことはなく、辛抱強い者、非投機的な者が最も得をする時代だった。

第一次大戦後のハイパーインフレを体験したツヴァイクの、それ以前の安定した世界を懐かしむ言葉です。そう、要するに激しいインフレの世界とは、正直者が損をし、ならず者が得をする世界なのです。

今ぼくたちは、退職金をがっぽり手にして投資にまわす高齢者や、マネーゲーマーばかり潤い、こつこつ働く者の報われない世の中に幻滅しています。しかし、激しいインフレにそれを是正する力はありません。それどころか激しいインフレというのは、そんな社会の不公平を極限まで拡大し、マネーゲーマーの中でも特に悪質な者、詐欺師と盗人の跋扈する、ルールなき弱肉強食の世界であることを承知しておかなくてはなりません。そして本当に裕福な者はあまりダメージを受けないのです。

カネをジャブジャブ刷って借金を返済しても健全なインフレになるだけで済むのか、それとも制御不能に陥るのか、そんなことは予言者でなければわかりません。しかしながら日本はそろそろ、一か八かギャンブルに出るしかない状況に追い込まれてきています。

だからぼくも、念のためハイパーインフレに備えておきたいのですが、残念ながらぼくのような持たざる者は備えようにも備えられません。ハイパーインフレというのは、よほどの富豪は別にして、防衛策など立てるだけムダだからです。ハイパーインフレで勝ち組になれる投資は、武器を集めて武装集団を組織するくらいしか思いつきません。

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2010年01月20日

日本以外全部沈没

アメリカ、マサチューセッツ州の上院補選で共和党のスコット・ブラウン氏が勝利し、アメリカの保守派は革命でも成し遂げたかのように興奮し、ついでにダウも2008年10月以来の高値を更新しました。

これがどれほどのことかというと、昭和的な例えになりますが、大阪で巨人の人気が阪神を上回ったようなものです。ボストンのあるマサチューセッツというところは、それほどまでに徹頭徹尾リベラルな土地で、あろうことかそんなところで、共和党の無名候補が勝ってしまったのです。

マサチューセッツ出身で、リバタリアン雑誌「リーズン・マガジン」のライター、マイケル・モイニハン氏が、ユーチューブにアップされたインタビューで、そのあり得なさをこんな風に表現しています。

この前フリードリッヒ・ハイエクのことを書いたプラカードを掲げている人を見たよ。子供の頃、新装版が出た「隷属への道」を買おうとしたけど、本屋に置いてなくて注文しなけりゃいけなかったんだ。そんな街で、「肩をすくめるアトラス」とかハイエクのプラカードを揚げた人が練り歩くなんて、ここがマサチューセッツだなんて信じられないよ。街路で共和党候補を応援するなんてもっての他で、保守派であることを公言するのも憚られた土地なのにね。

ハイエクとかアイン・ランドを例えに出しているところがいかにもリバタリアンですね。日本にいると、アメリカには上品なリベラル派と、銃を振り回す田舎者とキリスト教原理主義者しかいないように見えますが、ハイエクやランドをプラカードに書いて通じ合えるような、そういう層も存在しているのです。

そういうわけで、これでオバマ政権は事実上死亡しました。世界中のアンチ・フリーマーケット主義者を歓喜させた政権の誕生からまだほんの1年あまり、チェンジはチェンジでも逆方向へのチェンジで、アメリカは骨の髄まで保守化するに至ったのです。

経済危機を克服するために、去年の秋に中道右派を選んだドイツ国民。決然として自由を選んだアメリカ国民。さらにまもなく労働党を政権から放逐すること確実なイギリス国民。わが国の首相や財務相や金融相によれば、「市場原理主義」は終了したそうですが、どうやら世界はとんでもない方向に進んでいるようです。

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2010年01月18日

正義ヤクザの内部抗争

「小沢疑惑」が盛り上がりを見せるとともに、検察に対する批判が高まっています。かつて検察の毒牙にかかった鈴木宗男氏は検察イコール正義ではないと訴え、ホリエモンは検察の「正義原理主義」を批判しています。

その通りだと思います。しょせん検察など、ゴールデンタイムのテレビドラマレベルのチープな正義感をもとに、世直ししているつもりの学級委員の集団に過ぎません。しかしながら、現実にそんな検察の被害に遭った方々はともかく、そういう体験のないぼくなどは、今このタイミングでその正論を訴えることに躊躇せざるをえません。

なぜならば、検察の限りなくチープな正義主義をここまではびこらせた大きな要因は、現与党にあるからです。ほんの数ヶ月前まで、彼らはただただ清廉であることだけを売り文句にし、当時の与党のカネに絡む不祥事と、それにより引き起こされたとされる社会の拝金主義的風潮をことあるごとに追及していました。彼らの正義と検察の正義は同じレベルで、「政治とカネ」という言葉をここまで社会に浸透させたのは他でもない彼らでした。

例えば2002年に、今は仲良しの鈴木宗男氏を検察に告発したのは民主党でしたし、当時の鳩山代表は以下のような態度で悪の根絶を訴えていました。

民主党の鳩山由紀夫代表は、13日の定例会見で、ますます疑惑の深まる鈴木宗男議員に対し、「怒りを込めて早期の議員辞職を求める」と語気強く批判。鈴木 議員が日本の主権を売り渡すような発言をしたり、外務省職員に対する暴行事件を起こしていた問題を指摘し、「こういう議員が国政の中にいることが恥ずかし い」と指弾した。

さらに、自民党の鈴木議員、加藤紘一議員の問題をはじめとする、政治家と金にまつわる事件の多発について、自民党の金集め体質そのものが引き起したもの であり、2人の処分で解決するものではないとし、「こうした問題の頻発する状況を見れば、ザ・自民党の終焉を強く感じる」と語った。

「疑惑の頻発はザ・自民党の終焉」鳩山代表会見

また、ライブドアや村上ファンドをめぐる捜査では、一部から検察の国策捜査を批判する声があがり、その論拠としてたびたび引用されたのが、当時の特捜部長、大鶴基成氏の次のような言葉でした。

額に汗して働いている人々や働こうにもリストラされて職を失っている人たち,法令を遵守して経済活動を行っている企業などが,出し抜かれ,不公正がまかり 通る社会にしてはならないのです。


一見美しい正義の言葉ですが、要は検察の考える正義に合わせて法の解釈を変えるぞと言っているわけです。最悪ですね。しかし当時の民主党はこれを国策捜査として批判するどころか、検察の正義を手放しで賞賛して国民を煽りまくりました。

(小沢代表は)「小泉改革の成果だとうたい上げた諸々のことが、今、色々な不祥事として現れてきている」として、ライブドア問題、村上ファンド問題に加えて、福井日本銀 行総裁の投資問題も取り上げた。そして、「個別の色々な問題以上に、日本人の心の中から、モラル、倫理観、道義観というものが全く無くなってしまっている のではないだろうか」とし、「ただ単に多数の中の不心得者というのではなくて、本当に日本の社会の中枢の仕事、責任を担っている人にまで、これが及んでい る」として、モラルが欠如した日本社会の現状への危機感をあらわにした。

小沢代表、明確な政策打ち出し、日常活動で訴える重要性を強調

どう見ても同類ですね。こういうわけですから、検察VS小沢というのは、要するに正義ヤクザの内部抗争なのです。検察に私怨があるわけでもない一般の国民は、こんな内部抗争に真剣に肩入れしてはいけません。どちらか劣勢の方の肩を持ち、逆になったらサイドを入れ替え、ひたすら戦いを激化させて両者が共倒れするまで見守るのが、正しい楽しみ方なのです。

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2010年01月16日

未来はネットか中国か

グーグルが中国に絶縁状を叩きつけました。

A new Aproach to China

グーグルが象徴するネットと、桁違いの規模で新たな労働者と消費者を産出する中国は、20世紀末から現在に至るまで、世界の有り様を激変させてきた2大因子です。現代に生きる人間は、その2つの因子に背を向けて生きることはできません。

ネットと中国という2大因子自体も、これまではお互いにお互いを利用し合ってきました。いかにネットの力が革命的であっても、中国という市場を無視しては成り立たない。逆にいかに中国が強大であっても、ネットを無視しての成長はない。というコンセンサスがあったわけです。

ところがネットというのは、あらゆる「権威」を破壊するシステムですから、権威というシステムにより数をパワーに変える中国とは、本来根本的に相容れません。まったく相容れない2つの因子が無理な妥協をしてきたというのが、これまでの流れでした。

今回のグーグルの動きは、その関係を精算するものです。

これの意味するところは、「未来はネットと中国にある」という風に、現在漠然と一緒くたにして考えられている未来観の崩壊です。「21世紀は中国の時代だ」という見方と、「21世紀はネットの時代だ」という見方が結合せずに、相反する見方として対立するということです。

この対立は、表面的な政治体制の問題だけにとどまりません。

もし、ネットと中国の勃興が同時期ではなく、仮にネットのみ勃興していたとしたら、ネットにより駆逐される旧型産業は逃げ道を失い、社会はより急激に、それこそ革命的な変化を迫られたはずです。その意味で中国は世界に新たな巨大市場を提供することにより、古い社会を延命させるバッファーの役割を果たしてきたともいえるのです。

今回のグーグルの決断は、社会のあり方を根本から変える新しい波と、中国を希望の綱とする古い価値観の本格的な衝突の到来を予告するものかもしれません。

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2010年01月13日

日本の負けパターン

日本の情報空間の中にいると見えなくなることがあります。

例えば前回は地球温暖化について書きましたが、国際会議の場などで「地球温暖化に対する危機意識が足りない」などと欧州諸国にたしなめられてばかりの日本は、「環境意識後進国」のような気がします。

しかし実際のところ欧州でどれだけの人が地球温暖化を信じているかというと、例えばイギリスでは、去年11月の調査によれば、わずか41パーセントの人しか温暖化論を鵜呑みにしていません。この数字は、欧米で大スキャンダルとして報道された「クライメート事件」発覚前のものであり、記録的な寒波もありますから、もし今調査すれば、さらに大きく下がることは確実です。

Global warming is not our fault, say most voters in Times poll
(Times Online 2009.11.14)

同じ調査を日本でしたらどんな結果になるでしょうか?恐らくずっと高いと思います。日本にいる外国人の中には、「この国の温暖化信仰はひどすぎる」と感じている人も少なくありません。なにしろクライメート事件をこれほど小ネタ扱いし、温暖化論に対して論陣を張ることをタブー視し、健全な懐疑心と批判精神を発揮する新聞社もテレビ局もない国は、日本くらいなものです。

欧米の優等生知識人の言葉を真に受けて、「バスに乗り遅れるな」とばかりに政府、マスコミあげての温暖化キャンペーンにはげんでいる日本ですが、欧米の社会というのは決して一枚岩ではありません。自信満々に温暖化防止を訴える政治家の背後には、それに対して真っ向から疑問を唱えるマスコミと市民がいて、政治家などというのは、世論の変化に合わせてコロリと態度を変えたり、クビをすげ替えられたりするのです。そのとき日本はどうなるか?はしごを外されて一人馬鹿を見て、「騙された!」と自己憐憫にふけるのです。

日本の情報空間に閉じこめられてしまうと見えなくなる外国との空気の差は、温暖化議論だけに限りません。「資本主義」とか「新自由主義」をめぐる議論もそうです。

リーマンショック直後は、フランスのサルコジさんあたりが「資本主義の終わりだ!」などと発言したり、アメリカでは平等指向のオバマ政権が成立するなど、あたかも新たな社会主義時代の幕開けのような雰囲気になり、それを見た日本の政治家とマスコミは「バスに乗り遅れるな」とばかりに右に倣えし、「資本主義の暴走を許すな」とか「市場原理主義の見直し」を訴える民主党政権が成立しました。

しかしめでたく革命を成就して、「チェンジ!イエス・ウィー・キャン・トゥー」と海外に発信してみると、新世界秩序を求めていたはずの欧米首脳は一様に渋い表情で、新聞もあきれたような伝えぶりです。それもそのはずで、当初から欧米には、「金融危機イコール資本主義の見直しのわけないだろ」と考える人たちがたくさんいて、一時のヒステリーが沈静化すると、そういう冷静な意見が多勢を占めるようになったからです。

あの社民主義天国であった欧州は、この経済危機にもかかわらず、というか経済危機だからこそみるみる社会主義的価値観から離れており、スペインの社会主義者サパテロ首相ですら、最近はオウムのように「経済成長」しか口にしません。そんな中わが国の首相は、本屋で「新資本主義」とか「超資本主義」を模索する始末。すでにはしごは外されていて、そのうち「ユダヤに騙された!」とか叫んで自己憐憫に浸るに違いありません。

首相、丸善で本買い漁る 計28冊50287円也 いつ読む?
(産経ニュース 2010.1.11)

これはいつか見た光景です。そう、70年ほど前の日本も同じことをしていました。

当初は諸外国の知識人からも賞賛されていたムッソリーニ、ヒトラーの成功を見て、「バスに乗り遅れるな」と国をあげてファシズムに傾斜。欧米における根強い反ファシズムの底流にも気づかずにドイツと手を結んで孤立し、さらにはヒトラー流のマキャベリズムを理解できずに対ソ連政策において振り回された挙げ句、ドイツの勝利を予想して対米開戦を決意し、ドイツ軍の敗走開始に合わせてパールハーバーを奇襲するという見事な情弱ぶり。そしてある者は「軍部に騙された!」と叫び、またある者は「アメリカに騙された」との思いを胸の奥に隠し、ひたすら自己憐憫にふけりました。

まあ、当時の西欧世界は遙か彼方でしたから、日本の情弱ぶりは仕方ないかもしれませんが、ネットによる情報のグローバリゼーションが進む現代に同じパターンを繰り返しているのを見ると、日本社会には、何か根源的な欠陥があるのではないかとさえ思えてきます。

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2010年01月12日

Weather is not Climate.

ヨーロッパ、北米、インド、中国、キューバ・・・、この冬北半球は、各地で数十年ぶりという歴史的な大寒波に襲われています。こうなると思わず言いたくなります。

「地球温暖化はどこへ行った!」

しかしそれは早合点というもの。そこで欧米の専門家たちは、知的レベルの低い愚民たちがそう考えないようにこう訴えています。

"Weather is not climate!"

天気と気候は違うというわけです。そりゃそうです。一度や二度の異常気象と、長いスパンで見る気候変動を結びつけて語るのは愚の骨頂。窓から空を眺めるだけでは、気候変動なんて語れるわけありません。もしそんな人がいたら、自分はバカだと告白しているようなものです。

ところが世の中にバカはいるもので、過去にそういう愚かな発言をしてきた人はたくさんいます。


「ルイジアナを襲ったカトリーナと呼ばれるハリケーンの本当の名は地球温暖化だ」
ー環境活動家ロス・ゲルブスパン(2005年、米南部を襲った巨大ハリケーンについて)

「環境保護を怠ることで、米大統領はカトリーナのような自然災害による経済的、人的被害に目を背けたのだ」
ートリッティン独環境相(2005年、米南部を襲った巨大ハリケーンについて)

「我々は、地球温暖化の最初の影響を目撃し、苦しんでいるのだ」
ー気象学者エルヴェ・ル・トルー(2006年、欧州の猛暑について)

「昨日ミャンマーを襲ったサイクロンの死者は1万5千人を越えてさらに増え続けています。・・・私たちは、科学者たちが予想してきた地球温暖化の結果を目撃しているのです」
ーアル・ゴア(2008年、ミャンマーの巨大サイクロンについて)

「やっぱり大変な事が起きている。因果関係はまだはっきりしないが、佐用町の大水害もゲリラ豪雨も東京や九州北部、山口の災害もそうだ。明らかに温暖化とつながっている異常気象があるじゃないですか」
ー古舘伊知郎(2009年、頻発する豪雨について)


以上は、ほんの一例に過ぎません。

ぼくは気象学者ではありませんから、地球温暖化について科学的な議論をすることはできません。しかし、こういう発言をして平気でいる人は、バカなのか、厚顔無恥なのか知りませんが、いずれにしても信用できません。それは科学以前の問題です。

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2010年01月11日

「一億総中流」という幻想の幻想

格差論が世に定着するにつれて、「新自由主義」台頭以前の古き良き日本、「一億総中流」と呼ばれた日本に対する憧憬が高まっています。しかし、40代のぼくからすると違和感ありまくりです。

ぼくの父は東京五輪の前に高卒で地方から東京に出てきたクチで、工場で技術を身につけて建築関係の仕事で独立しました。ぼくが生まれた頃は4畳半一間の長屋暮らしで、主食はご飯と塩鮭と卵焼き。肉なんて高いので滅多に食べられませんでした。しかし両親は常々「お前たちは恵まれている。昔は・・・」と毎日三食食える暮らしに感謝していたものです。

親が医者とか大きな企業の会社員をしている友だちは見るからに洗練された服装をしていて、家に遊びにいくと自分の机を持っていて、おもちゃもたくさん持っていて、飛行機に乗った話なんかをしてきます。それを羨ましがると母に「上を見ても切りがない。うちよりもっと可哀想な人たちがたくさんいるんだから」と諫められました。

そう言われて見まわすと、確かにまわりには貧乏が溢れていました。友だちの多くはうちより貧しい感じで、町の労働者地区に行くと、自分がいいところのお坊ちゃんに思えてしまうくらいに粗野な子供たちが溢れていました。家にいれば定期的に傘を直しに来るおっちゃんもいましたし、残飯をもらいにくる乞食もいました。乞食がたむろす通称「こじき山」という森は、道を踏み外すことの恐怖を体現していました。

そう当時は、道を踏み外した者への風当たりは今の比ではありませんでした。事業拡大を急いで不況に足をさらわれて破産した叔父は、今思えば現代的なベンチャー気質にとんだ青年でしたが、「ああいう人はバカにしていいのだ」という空気の中子どもにまでバカにされ、まだ30歳そこそこで敗者の烙印を押され、その後は抜け殻として隠れるように(今もたぶんどこかで)生きています。同じく事業に躓いた友だちの父親は、やはりまわりから後ろ指を指されながら、放浪の旅に出てしまいました。冒険者は身の程をわきまえないギャンブラーと同義で、失敗者には再挑戦どころか居場所さえ与えられない、残酷な社会でした。

そんな世の中での「勝ち組」は、役人や大手のホワイトカラーでした。特に田舎出身の肉体労働者であるうちの両親からするとそうで、小学校低学年の頃、「銀行の仕事は3時に終わるから楽でいいね」と言ったら、母に「バカ!銀行の人はお店を閉めたあとも夜遅くまで働くんだよ。普通の人にはできない大変な仕事なんだよ」と諭されたことを覚えています。勝ち組と言うよりも、身分の違う人という感覚です。

しかし子供の目から見ると、ホワイトカラーのお父さんはぜんぜん魅力的ではありませんでした。子供の遊びに顔を出して頼もしいところを見せることもなければ、学校や子供会のイベントでも影が薄く、ただ地味なスーツを着て悶々と満員電車で通勤をする人というイメージしかなく、要するに社会のエリートとしてのオーラは限りなくゼロでした。階層の上位には位置していたかもしれませんが、彼らは彼らで、自分を押し殺して懸命にレールにしがみついていたのだと思います。

以上は30数年前の東京の郊外の、たぶんごくありふれた風景です。今から見ればひどい時代で、一億総中流でみんなハッピーなんてことはぜんぜんありませんでした。社会は固く階層化しており、上は上で余裕などほとんどなく、下は下で高望みせず、ただあまりに貧しすぎた過去の生活と現状を比べて、より貧しい者と自分を比べて、「これ以上の贅沢を望んだらバチが当たる」とばかりに中流を自称していたのです。

もし当時がいい時代に思えるのだとしたら、それは社会の仕組みが良かったからではなく、とにかく社会全体が成長していたからに過ぎません。確かに1970年代の後半からは社会に余裕が出てきて、うちの両親が持つような身分制的感覚も急速に薄れ、本当の意味での総中流に近づいたような気もしますが(この意識変革こそが、現在はびこる不公平感の元凶かもしれません)、そこからバブル崩壊まではほんの10年あまり。それこそ成長時代の最後のあだ花で、あれを取り戻すべきモデルとするのはバカげています。

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2010年01月09日

格差の外にいる人たち

日本で「格差」が叫ばれるようになって久しいですが、格差というからには持てる者と持たざるものがいるはずです。持たざる者の「顔」は、最近だと派遣切りにあった人たちで、少し前まではワーキングプアが務めていました。では持てる者の顔はどういう人たちかというと、格差論の勃興期に見せしめ逮捕されたホリエモンなど、カネにモノを言わせて暴れ回るマネーゲーマーたち、古い言葉でいえば成金です。

「ファンドなのだから、安ければ買うし、高ければ売るのは当たり前と被告は言うが、このような徹底した利益至上主義には慄然とせざるを得ない」

というのは村上ファンドの村上前代表に対する判決文ですが、こういう拝金主義を市場原理主義などと呼び、格差社会の元凶とするのがここ数年のトレンドです。

ところが「徹底した利益至上主義」が足蹴にするのは、何も弱者だけとは限りません。

「誰が壊したんだ。泣きたい気持ち。国辱もの。アメリカ流の開発優先主義で文化・文明を壊していいのか。世論に問いたい」

去年の春、東京駅前の中央郵便局の再開発に待ったをかけた時の鳩山弟氏のコメントです。しかしこのとき、世論は醒めていました。「なるほど価値のある建物なのかもしれない。しかしそれを守るために数百億かかるとなると・・・」というわけで、持たざる者であればあるほど、いかにもボンボンらしい大臣の発想に首をかしげたものです。

このように、成金的な利益至上主義は、しばしば弱者の発想と合致します。だいたい先にあげた判決文も、日銭を稼ぐためにあくせくする底辺の庶民からすれば、いかにもカネに不自由しない恵まれた人の発想です。弱者からすればカネに目の色を変えるのは当たり前のことで、世の春を謳歌する成金は嫉妬の対象ではありますが、価値観を同じくする同じ穴の狢なのです。

成金的な利益至上主義と真っ向から対立し、その存在を最も脅かされるのは実は社会的な弱者ではありません。利益至上主義と真の敵対関係にあるのは、上の判決分を書くような裁判官や鳩山弟氏ーーー社会のエスタブリッシュメント層を形成する勢力なのです。

金持ちの二世、三世に、拝金主義を憎悪して平等な社会を求める「リベラル派」が多いことはよく指摘されていて、その理由として「苦もなく良い暮らしをしていることへの罪悪感」があげられたりします。確かにそれはあるに違いありません。しかし金持ちのボンボンが利益至上主義に反対する立場をとるのには、さらに大きな理由があります。それは、自らの地位が脅かされて、下に蹴落とされることへの恐怖です。

戦国の世を平定した徳川家康は階級制を固定することで下克上に終止符を打ちましたし、19世紀に世界の頂点についた大英帝国はモラルを前面に打ち出して力による覇権争いをけん制しました。そして資本主義サマサマで富を蓄えた経済大国は後進国の追い上げを眼にして反資本主義的な態度をとろうとしています。ある分野で頂点に立った勢力にとっては、自分が成功した手段を他に封じることこそが、自らの地位を守る一番の近道なわけです。

もちろん社会のエスタブリッシュメント層に属す方々は、意識してそうしているわけではありません。貧乏人のせがれが「いつか金持ちになってやる!」と思うのと同じように、ごくごく自然にそう考えるのです。で、自分は良心に満ちあふれた正義の人だと思い込んでいる・・・これを自己欺瞞といいます。

下克上の世に疲れて、別に立身出世などできなくていいから安定した生活が欲しいと思うのは当然のことです。しかしながら、弱者を成金にけしかけて、それを高みから見物している人たちがいることを忘れないでおきたいものです。

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2010年01月07日

リアリティ番組と日本のテレビ

テレビ局が制作費の削減にあえいでいるという週刊ポストの記事の要約を、Japan Today が転載していました。

Cost-cutting hits TV stations

そのコメント欄で「予算削りたいならなんでリアリティ番組をやらないんだ?」という意見を複数見て、そう言えばと改めて気づかされました。素人を集めて適当にふらふらさせてドラマをこねくり作るリアリティ番組は、アメリカ、ヨーロッパのみならず世界中で、低予算で視聴率を稼げるバラエティの王様として定着しています。しかし今の日本でバラエティといえばお笑いタレント一色で、世界の潮流と大きく乖離しているのです。

コメントの中にはその理由として「日本の視聴者は、テレビに出る一般人に嫉妬するから」なんて意見もあり、まあ日本人の嫉妬深さはその通りだとしても、それは少し違います。というのは、日本のテレビはもともと視聴者参加番組に溢れた、リアリティ番組天国だったからです。

古くは「スター誕生」「それは秘密です」「びっくり日本新記録」等人気バラエティのほとんどは視聴者参加でしたし、80年代には「イカ天」や「ねるとん」が社会現象を起こし、90年代から00年代にかけては「進め!電波少年」「あいのり」「ガチンコ!」「しあわせ家族計画」「ASAYAN」等々、それこそ数え切れないほどのリアリティ番組がブラウン管を席巻しました。

しかしどうしたわけか、日本のリアリティ番組は21世紀を迎えると急失速し、リアリティ番組花盛りの諸外国を脇目に、その系譜はプッツリと断ち切られてしまったのです。

その背景には、前回のエントリーで書いたような、ウェブの双方向性を敵視して「テレビにしかできないこと」を追求する日本のテレビの守旧的態度があります。海外のテレビが、ウェブ台頭による社会の変化に身を任せて、その中に居場所を見つけようとしているのに比べて、日本のテレビは、社会の変化と対峙しているようにも見えます。

しかしそうした守旧的態度を、単純に日本のテレビ業界の硬直性に求めるのはおそらく間違いです。そこには、海外のテレビ業界とは比較にならないほどに、ウェブの普及により失うものがあまりに大きすぎるという、日本のテレビ業界の特殊性があるからです。

アメリカのエンターテイメント界には、ハリウッド、ブロードウェイ、そしてテレビという3極があり、日本のようにテレビの独壇場ではありません。またヨーロッパ諸国では、例えばドイツなどは80年代の半ばまで公共放送しかないという状況で、日本に比べてテレビ文化の土壌は脆弱です。日本という社会は諸外国に比べ、高度に発達した異形のテレビ社会なのです。

例えばそれは、テレビの「ヤラセ」に対する人々の反応にも見て取れます。90年代のリアリティ番組華やかなりし頃、日本の週刊誌やウェブでは、バラエティ番組のヤラセを激しく追求する傾向が見られました。一方欧米では、もちろんあちらで放送されているリアリティ番組もとんでもないヤラセのオンパレードなのですが、不思議とそれほど大騒ぎしません。おそらくそこには、テレビというものに対する信用度の違いがあります。「テレビのバラエティなんてそんなものだ」という感じでどこかテレビを軽く見ている欧米に対して、日本には、テレビに対する過度の信頼と期待があるのです。

逆に言えば、テレビに対する信用が稀薄だからこそ、欧米ではリアリティ番組のように、幻影をリアルと思わせるトリックにわくわくする余地がありますが、すでに十二分にテレビを信用している日本では、もはやそんなトリックは必要ないし、むしろ嘘くささが眼についてムカムカするだけ、という風に言えるかもしれません。

そういうわけで、90年代のリアリティ番組シリーズの親玉であるテリー伊藤が評論家として活躍している現在の日本は、いわば世の中すべてがリアリティ番組と化してしまっているようなものです。その幻想空間を壊すウェブは、まだしばらくの間はテレビの敵にしかなり得ないのです。

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2010年01月03日

なぜお笑いブームは続くのか?

もう5、6年くらい前になりますか、業界人とスッチーを集めた合コンで、脱サラをして駆け出しのお笑い芸人をしているという男に会いました。当時は2000年くらいに始まったお笑いブームが頂点を迎えようとしている頃でしたが、「今駆け出ししているようじゃ遅い。ブームに乗り遅れたな」などと思ったものです。

しかしお笑いブームは去るどころか、その後もお笑い芸人への需要は増え続けています。件の彼は、合コンを盛り上げることすらできないでくのぼうで、顔も名前も忘れてしまいましたが、もしかしたら今や人気芸人の一人として、忙しい日々を過ごしているのかもしれません。

それはともかく、2004年頃に、お笑いブームがここまで続くと予想できた人は多くないと思います。流行というものに敏感な業界人ならなおさらで、当のお笑い芸人たちの中にも、今の状況に半信半疑な人は少なくないはずです。

ではどうしてお笑いブームは続いているのか?その理由としてよく聞くのが、「不況でテレビ局にカネがないので、安いギャラで雇える若手芸人の番組が増えている」というものです。でもこれは理由になっていません。なるほどテレビ局からすればそうかもしれませんが、あらゆる商売というものは、供給側だけの都合で決められません。自動車メーカーが、経営が苦しいからと車の品質を下げたらどうなるのか?客は、努力と工夫で品質をキープするメーカーに流れていきます。テレビ業界というのも、既得権に守られた生ぬるい業界であるとはいえ、一応競争というものはあって、自分の都合だけで番組を作れたりはしないのです。

では需要の方はどうかというと、「どのチャンネルを見てもお笑い芸人が騒いでいるばかりでつまらない」という意見は、それ自体流行遅れになるくらいに、もう何年も前から言われ続けています。視聴者からすれば、ブームは遠に去っているのです。制作側もそれに気づかないほど鈍感ではありません。早く「次」を見つけて他局を出し抜きたいのは山々です。でも見つからないのです。

見つからないのは、決して無能だからではありません。より正確に言えば、見つからないのではなく、「ない」のです。少し遠回りになりますが、どういうことか説明します。

かつてのテレビ界には合い言葉がありました。「視聴者を巻き込め」というやつです。企画会議で必ず聞かされた言葉です。視聴者を、ただ受動的に番組を見る存在にしておかず、積極的な関与者にしろ(そう思わせろ)ということです。視聴者参加はその古典的な手法で、「電波少年」系の企画などは、その進化した姿です。送り手と受け手の間にあるテレビ画面という枠をいかに破壊するかということで、これは要するに、双方向性への希求です。テレビマンの腕の見せ所は、本質的に一方通行なテレビというメディアにおいて、それをどこまで擬似的に実現できるかにあり、テレビの進歩のエネルギーは、そこから生まれていたのです。

しかし、ウェブの登場ですべては変わりました。「視聴者を巻き込め」と、知恵の限りを尽くしてテレビが越えようとしていた壁の向こうに、きょとんとした顔でウェブがいる!そして勝手気ままに振る舞っている!この期に及んで壁を越えようとするのは、滑稽なばかりかテレビの存在意義を低下させるばかりです。そこで00年代中期からさかんにこう叫ばれ始めました。「テレビにしかできないこと」を探せ。

テレビ以上のものになろうとするのを止めて、テレビであることそれ自体の中に価値を見つけようというわけです。しかし、テレビにしかできないことは実はそんなにありません。なるほど局にはコンテンツ制作のノウハウはありますが、そこは何もテレビというメディアに縛られる必要はありません。テレビにしかないものを突き詰めれば、結局のところ過去へのノスタルジーと、華やかな芸能界と、大衆動員力に尽きるのです。

テレビ黄金期の回顧番組、早朝から深夜までタレントの大量起用、そして番宣の大量投下による無理矢理ヒット。3、4年前から各局に共通するトレンドは、テレビにしかできないことを追求した結果です。お笑いブームの異様な長期化の理由もここにあります。若手芸人の大量起用によるバラエティは、ただのブームではなく、テレビにしかできないことを、しかも低予算で実現してくれる、テレビの行き着いた先なのです。

収入低下のテレビ局はタレントの大御所化を歓迎しませんから、消費され尽くして消えていく若手はこれからも後を絶たないはずです。ただ彼らにとって救いなのは、彼らはテレビ局を肥らせるエサとして消えていくのではないということです。彼らはテレビの最後の存在意義であり、一人の若手が消えるたびに、テレビもまた、少しずつ影響力を失っていくのです。

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2010年01月01日

新聞の黄昏

鳩山政権発足後のマスコミのあり様を見ていて改めて気がついたことがあります。それは、マスメディアとしての新聞の影響力は、想像以上に低下しているということです。

鳩山首相は就任以来あらゆる点において抜け目なく、指導者としての器のなさを露わにして来ました。にもかかわらず、支持率はまだ50パーセントもあります。彼の前任者は、「漢字を読み間違えるから」という理由で、在任2ヶ月で50パーセントから25パーセントへと墜落したのですから雲泥の差です。

ではマスコミは相変わらずの民主党宣伝部状態かというと、そういうわけではありません。当初は民主党政権の成立に感涙していた朝日や毎日を始めとするリベラル各紙は、すでに政権発足直後から、ときには産経を凌ぐほどにどぎつい与党批判を繰り返しています。小沢幹事長は、「マスコミは自民に甘い」とこぼしましたが、確かに批判の量だけなら、前政権に負けないかもしれません。

しかし支持率は下がりません。いくらマニフェストを反故にしても、いくら何をしたいのかわからなくても、いくら発言を二転三転させても、いくら日本だけ景気回復から取り残されても、いくら脱税しても、なぜか支持率は落ちないのです。

その大きな理由は、よく指摘されるようにテレビにあると見て間違いありません。テレビというのは、理性ではなく感性に訴える装置ですから、前政権批判に見られたように、いきなりレッテル貼りして生理的な嫌悪感を煽りでもしない限り、ほとんど効果はありません。そして現在のところ、テレビ報道はそのレベルにぜんぜん達していないのです。

「いくら新聞が批判しても、テレビが騒がなければ大衆は動かない」というわけです。

そりゃそうだと思われるかもしれません。しかしかつてはそうではありませんでした。ほんの数年前までは、新聞の政権批判はストレートに支持率低下に結びつき、テレビ報道など二の次で、政権は窮地に追い込まれていたのです。なぜならかつての人々は、日々テレビに翻弄されながらも、頭の隅に「政治や経済のことは新聞を読まなければわからない」「ワイドショーの政治談義に振り回されるのはバカだ」という認識を共有していたからです。

その共通認識はどこから来たのかと言えば、新聞でした。新聞は、ことあるごとに「テレビばかり見ているとバカになる」と訴え、印象第一のワイドショー文化に警鐘を鳴らしていたのです。1990年代中頃の新聞、雑誌によるテレビ叩きは相当なものでした。日本のテレビは、1980年代の後半からワイドショーレベルで政治を語るようになりましたが、視聴者は今のウェブ言論に接するような態度で身構えて見ていたのです。

しかしウェブの台頭を境に事情は変わりました。新聞はテレビと組んでレガシーメディア陣営を形成し、ウェブに対して「チラ裏」批判を繰り広げる側にまわりました。文字表現を柱とするウェブの興隆には、新聞が常々訴えてきた活字文化の復興という側面があるにもかかわらずです。新聞はテレビ批判を控え、それどころか、「良き市民のための健全なメディア」として賞賛すらするようになりました。これを機に人々はそれまでテレビに向けていた警戒をウェブに向け、テレビに対しては、新聞と並ぶクオリティメディアとして、ワイドショーの政治談義を安心して受け入れるようになったのです。

8月の総選挙はその結果です。レガシーメディア陣営は凶悪な存在感を示しました。しかし気がつくと新聞は、テレビにぶら下がって生きる情けない存在へと堕していたわけです。当たり前の話です。結局は印象がすべてのテレビという怪物にお墨付きを与えておいて、今さら理性的に議論しようとしても、もう誰の耳にも届きません。ウェブに対する過度な警戒から、新聞は言論を無力化する怪物と手を組み、自らの存在意義を自ら破壊してしまったのです。

今や新聞の力は、「テレビ報道に影響を与えやすい」というところくらいにしかありません。新聞は、目先の利益にとらわれて、組む相手を間違えたのです。

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