鳩山首相は就任以来あらゆる点において抜け目なく、指導者としての器のなさを露わにして来ました。にもかかわらず、支持率はまだ50パーセントもあります。彼の前任者は、「漢字を読み間違えるから」という理由で、在任2ヶ月で50パーセントから25パーセントへと墜落したのですから雲泥の差です。
ではマスコミは相変わらずの民主党宣伝部状態かというと、そういうわけではありません。当初は民主党政権の成立に感涙していた朝日や毎日を始めとするリベラル各紙は、すでに政権発足直後から、ときには産経を凌ぐほどにどぎつい与党批判を繰り返しています。小沢幹事長は、「マスコミは自民に甘い」とこぼしましたが、確かに批判の量だけなら、前政権に負けないかもしれません。
しかし支持率は下がりません。いくらマニフェストを反故にしても、いくら何をしたいのかわからなくても、いくら発言を二転三転させても、いくら日本だけ景気回復から取り残されても、いくら脱税しても、なぜか支持率は落ちないのです。
その大きな理由は、よく指摘されるようにテレビにあると見て間違いありません。テレビというのは、理性ではなく感性に訴える装置ですから、前政権批判に見られたように、いきなりレッテル貼りして生理的な嫌悪感を煽りでもしない限り、ほとんど効果はありません。そして現在のところ、テレビ報道はそのレベルにぜんぜん達していないのです。
「いくら新聞が批判しても、テレビが騒がなければ大衆は動かない」というわけです。
そりゃそうだと思われるかもしれません。しかしかつてはそうではありませんでした。ほんの数年前までは、新聞の政権批判はストレートに支持率低下に結びつき、テレビ報道など二の次で、政権は窮地に追い込まれていたのです。なぜならかつての人々は、日々テレビに翻弄されながらも、頭の隅に「政治や経済のことは新聞を読まなければわからない」「ワイドショーの政治談義に振り回されるのはバカだ」という認識を共有していたからです。
その共通認識はどこから来たのかと言えば、新聞でした。新聞は、ことあるごとに「テレビばかり見ているとバカになる」と訴え、印象第一のワイドショー文化に警鐘を鳴らしていたのです。1990年代中頃の新聞、雑誌によるテレビ叩きは相当なものでした。日本のテレビは、1980年代の後半からワイドショーレベルで政治を語るようになりましたが、視聴者は今のウェブ言論に接するような態度で身構えて見ていたのです。
しかしウェブの台頭を境に事情は変わりました。新聞はテレビと組んでレガシーメディア陣営を形成し、ウェブに対して「チラ裏」批判を繰り広げる側にまわりました。文字表現を柱とするウェブの興隆には、新聞が常々訴えてきた活字文化の復興という側面があるにもかかわらずです。新聞はテレビ批判を控え、それどころか、「良き市民のための健全なメディア」として賞賛すらするようになりました。これを機に人々はそれまでテレビに向けていた警戒をウェブに向け、テレビに対しては、新聞と並ぶクオリティメディアとして、ワイドショーの政治談義を安心して受け入れるようになったのです。
8月の総選挙はその結果です。レガシーメディア陣営は凶悪な存在感を示しました。しかし気がつくと新聞は、テレビにぶら下がって生きる情けない存在へと堕していたわけです。当たり前の話です。結局は印象がすべてのテレビという怪物にお墨付きを与えておいて、今さら理性的に議論しようとしても、もう誰の耳にも届きません。ウェブに対する過度な警戒から、新聞は言論を無力化する怪物と手を組み、自らの存在意義を自ら破壊してしまったのです。
今や新聞の力は、「テレビ報道に影響を与えやすい」というところくらいにしかありません。新聞は、目先の利益にとらわれて、組む相手を間違えたのです。