2010年01月07日

リアリティ番組と日本のテレビ

テレビ局が制作費の削減にあえいでいるという週刊ポストの記事の要約を、Japan Today が転載していました。

Cost-cutting hits TV stations

そのコメント欄で「予算削りたいならなんでリアリティ番組をやらないんだ?」という意見を複数見て、そう言えばと改めて気づかされました。素人を集めて適当にふらふらさせてドラマをこねくり作るリアリティ番組は、アメリカ、ヨーロッパのみならず世界中で、低予算で視聴率を稼げるバラエティの王様として定着しています。しかし今の日本でバラエティといえばお笑いタレント一色で、世界の潮流と大きく乖離しているのです。

コメントの中にはその理由として「日本の視聴者は、テレビに出る一般人に嫉妬するから」なんて意見もあり、まあ日本人の嫉妬深さはその通りだとしても、それは少し違います。というのは、日本のテレビはもともと視聴者参加番組に溢れた、リアリティ番組天国だったからです。

古くは「スター誕生」「それは秘密です」「びっくり日本新記録」等人気バラエティのほとんどは視聴者参加でしたし、80年代には「イカ天」や「ねるとん」が社会現象を起こし、90年代から00年代にかけては「進め!電波少年」「あいのり」「ガチンコ!」「しあわせ家族計画」「ASAYAN」等々、それこそ数え切れないほどのリアリティ番組がブラウン管を席巻しました。

しかしどうしたわけか、日本のリアリティ番組は21世紀を迎えると急失速し、リアリティ番組花盛りの諸外国を脇目に、その系譜はプッツリと断ち切られてしまったのです。

その背景には、前回のエントリーで書いたような、ウェブの双方向性を敵視して「テレビにしかできないこと」を追求する日本のテレビの守旧的態度があります。海外のテレビが、ウェブ台頭による社会の変化に身を任せて、その中に居場所を見つけようとしているのに比べて、日本のテレビは、社会の変化と対峙しているようにも見えます。

しかしそうした守旧的態度を、単純に日本のテレビ業界の硬直性に求めるのはおそらく間違いです。そこには、海外のテレビ業界とは比較にならないほどに、ウェブの普及により失うものがあまりに大きすぎるという、日本のテレビ業界の特殊性があるからです。

アメリカのエンターテイメント界には、ハリウッド、ブロードウェイ、そしてテレビという3極があり、日本のようにテレビの独壇場ではありません。またヨーロッパ諸国では、例えばドイツなどは80年代の半ばまで公共放送しかないという状況で、日本に比べてテレビ文化の土壌は脆弱です。日本という社会は諸外国に比べ、高度に発達した異形のテレビ社会なのです。

例えばそれは、テレビの「ヤラセ」に対する人々の反応にも見て取れます。90年代のリアリティ番組華やかなりし頃、日本の週刊誌やウェブでは、バラエティ番組のヤラセを激しく追求する傾向が見られました。一方欧米では、もちろんあちらで放送されているリアリティ番組もとんでもないヤラセのオンパレードなのですが、不思議とそれほど大騒ぎしません。おそらくそこには、テレビというものに対する信用度の違いがあります。「テレビのバラエティなんてそんなものだ」という感じでどこかテレビを軽く見ている欧米に対して、日本には、テレビに対する過度の信頼と期待があるのです。

逆に言えば、テレビに対する信用が稀薄だからこそ、欧米ではリアリティ番組のように、幻影をリアルと思わせるトリックにわくわくする余地がありますが、すでに十二分にテレビを信用している日本では、もはやそんなトリックは必要ないし、むしろ嘘くささが眼についてムカムカするだけ、という風に言えるかもしれません。

そういうわけで、90年代のリアリティ番組シリーズの親玉であるテリー伊藤が評論家として活躍している現在の日本は、いわば世の中すべてがリアリティ番組と化してしまっているようなものです。その幻想空間を壊すウェブは、まだしばらくの間はテレビの敵にしかなり得ないのです。

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