「ファンドなのだから、安ければ買うし、高ければ売るのは当たり前と被告は言うが、このような徹底した利益至上主義には慄然とせざるを得ない」
というのは村上ファンドの村上前代表に対する判決文ですが、こういう拝金主義を市場原理主義などと呼び、格差社会の元凶とするのがここ数年のトレンドです。
ところが「徹底した利益至上主義」が足蹴にするのは、何も弱者だけとは限りません。
「誰が壊したんだ。泣きたい気持ち。国辱もの。アメリカ流の開発優先主義で文化・文明を壊していいのか。世論に問いたい」
去年の春、東京駅前の中央郵便局の再開発に待ったをかけた時の鳩山弟氏のコメントです。しかしこのとき、世論は醒めていました。「なるほど価値のある建物なのかもしれない。しかしそれを守るために数百億かかるとなると・・・」というわけで、持たざる者であればあるほど、いかにもボンボンらしい大臣の発想に首をかしげたものです。
このように、成金的な利益至上主義は、しばしば弱者の発想と合致します。だいたい先にあげた判決文も、日銭を稼ぐためにあくせくする底辺の庶民からすれば、いかにもカネに不自由しない恵まれた人の発想です。弱者からすればカネに目の色を変えるのは当たり前のことで、世の春を謳歌する成金は嫉妬の対象ではありますが、価値観を同じくする同じ穴の狢なのです。
成金的な利益至上主義と真っ向から対立し、その存在を最も脅かされるのは実は社会的な弱者ではありません。利益至上主義と真の敵対関係にあるのは、上の判決分を書くような裁判官や鳩山弟氏ーーー社会のエスタブリッシュメント層を形成する勢力なのです。
金持ちの二世、三世に、拝金主義を憎悪して平等な社会を求める「リベラル派」が多いことはよく指摘されていて、その理由として「苦もなく良い暮らしをしていることへの罪悪感」があげられたりします。確かにそれはあるに違いありません。しかし金持ちのボンボンが利益至上主義に反対する立場をとるのには、さらに大きな理由があります。それは、自らの地位が脅かされて、下に蹴落とされることへの恐怖です。
戦国の世を平定した徳川家康は階級制を固定することで下克上に終止符を打ちましたし、19世紀に世界の頂点についた大英帝国はモラルを前面に打ち出して力による覇権争いをけん制しました。そして資本主義サマサマで富を蓄えた経済大国は後進国の追い上げを眼にして反資本主義的な態度をとろうとしています。ある分野で頂点に立った勢力にとっては、自分が成功した手段を他に封じることこそが、自らの地位を守る一番の近道なわけです。
もちろん社会のエスタブリッシュメント層に属す方々は、意識してそうしているわけではありません。貧乏人のせがれが「いつか金持ちになってやる!」と思うのと同じように、ごくごく自然にそう考えるのです。で、自分は良心に満ちあふれた正義の人だと思い込んでいる・・・これを自己欺瞞といいます。
下克上の世に疲れて、別に立身出世などできなくていいから安定した生活が欲しいと思うのは当然のことです。しかしながら、弱者を成金にけしかけて、それを高みから見物している人たちがいることを忘れないでおきたいものです。