ぼくの父は東京五輪の前に高卒で地方から東京に出てきたクチで、工場で技術を身につけて建築関係の仕事で独立しました。ぼくが生まれた頃は4畳半一間の長屋暮らしで、主食はご飯と塩鮭と卵焼き。肉なんて高いので滅多に食べられませんでした。しかし両親は常々「お前たちは恵まれている。昔は・・・」と毎日三食食える暮らしに感謝していたものです。
親が医者とか大きな企業の会社員をしている友だちは見るからに洗練された服装をしていて、家に遊びにいくと自分の机を持っていて、おもちゃもたくさん持っていて、飛行機に乗った話なんかをしてきます。それを羨ましがると母に「上を見ても切りがない。うちよりもっと可哀想な人たちがたくさんいるんだから」と諫められました。
そう言われて見まわすと、確かにまわりには貧乏が溢れていました。友だちの多くはうちより貧しい感じで、町の労働者地区に行くと、自分がいいところのお坊ちゃんに思えてしまうくらいに粗野な子供たちが溢れていました。家にいれば定期的に傘を直しに来るおっちゃんもいましたし、残飯をもらいにくる乞食もいました。乞食がたむろす通称「こじき山」という森は、道を踏み外すことの恐怖を体現していました。
そう当時は、道を踏み外した者への風当たりは今の比ではありませんでした。事業拡大を急いで不況に足をさらわれて破産した叔父は、今思えば現代的なベンチャー気質にとんだ青年でしたが、「ああいう人はバカにしていいのだ」という空気の中子どもにまでバカにされ、まだ30歳そこそこで敗者の烙印を押され、その後は抜け殻として隠れるように(今もたぶんどこかで)生きています。同じく事業に躓いた友だちの父親は、やはりまわりから後ろ指を指されながら、放浪の旅に出てしまいました。冒険者は身の程をわきまえないギャンブラーと同義で、失敗者には再挑戦どころか居場所さえ与えられない、残酷な社会でした。
そんな世の中での「勝ち組」は、役人や大手のホワイトカラーでした。特に田舎出身の肉体労働者であるうちの両親からするとそうで、小学校低学年の頃、「銀行の仕事は3時に終わるから楽でいいね」と言ったら、母に「バカ!銀行の人はお店を閉めたあとも夜遅くまで働くんだよ。普通の人にはできない大変な仕事なんだよ」と諭されたことを覚えています。勝ち組と言うよりも、身分の違う人という感覚です。
しかし子供の目から見ると、ホワイトカラーのお父さんはぜんぜん魅力的ではありませんでした。子供の遊びに顔を出して頼もしいところを見せることもなければ、学校や子供会のイベントでも影が薄く、ただ地味なスーツを着て悶々と満員電車で通勤をする人というイメージしかなく、要するに社会のエリートとしてのオーラは限りなくゼロでした。階層の上位には位置していたかもしれませんが、彼らは彼らで、自分を押し殺して懸命にレールにしがみついていたのだと思います。
以上は30数年前の東京の郊外の、たぶんごくありふれた風景です。今から見ればひどい時代で、一億総中流でみんなハッピーなんてことはぜんぜんありませんでした。社会は固く階層化しており、上は上で余裕などほとんどなく、下は下で高望みせず、ただあまりに貧しすぎた過去の生活と現状を比べて、より貧しい者と自分を比べて、「これ以上の贅沢を望んだらバチが当たる」とばかりに中流を自称していたのです。
もし当時がいい時代に思えるのだとしたら、それは社会の仕組みが良かったからではなく、とにかく社会全体が成長していたからに過ぎません。確かに1970年代の後半からは社会に余裕が出てきて、うちの両親が持つような身分制的感覚も急速に薄れ、本当の意味での総中流に近づいたような気もしますが(この意識変革こそが、現在はびこる不公平感の元凶かもしれません)、そこからバブル崩壊まではほんの10年あまり。それこそ成長時代の最後のあだ花で、あれを取り戻すべきモデルとするのはバカげています。