2010年12月30日

Cool Japan

インターネットとともに海外にもたらされた、反体制で新しくてクールな日本。その究極のかたちは、ボーカロイド、初音ミクにあります。

なんで今頃と思うかもしれませんが、初音ミクの本格的な外国への紹介は、2010年3月9日に行われたライブ映像の発売以降のことです。ユーチューブにアップされたライブ映像に膨大に寄せられたコメントを見れば、外国の人たちがどれだけミクと、ミクを生んだ日本に魅了されているかわかります。

「ああ日本よ、おまえはどうしようもなくすごすぎる」「こんなにすごいものを日本で独り占めなんてひどい」「日本に行きたい!」「決めた!日本に移住して日本人になる」「日本と同じアジア人であることを誇りに思う」「オレアジア人だけど日本に生まれたかった」「何歌ってるかわからんけど、とにかく惚れた。クールすぎ」「すごい技術だ。日本人ならやると思ってたがな」「日本人マジキチだな。だから好きなんだ!」「日本すごすぎて怖くなる」「日本なしには生きていけない」「日本=パラダイス」「退屈な時代と思ってたけど、元気出てきた」「これは未来だよ」「未来は日本にある」「未来をありがとう日本」「曲もルックスも好みじゃないが、鳥肌立った」「日本語ってきれいだなー」「知れば知るほど好きになる国、日本」「もう思い残すことはない。死んだら日本に埋めてくれ」


こういうコメントを、ただの日本マニアの言葉とするのは早計です。こと初音ミクに関していえば、それ以外の人々も惹きつけているのです。たとえば、かのリバタリアン、ロン・ポール氏とも近いミーゼス協会会長、ルー・ロックウェル氏のサイトには、初音ミクについての記事があり、そのなかでこんな風に述べられています。

初音ミクの文化的インパクトは計り知れない。これは音楽における真の革命である。人の手による音楽の演奏がミュージック1.0、DJによるサンプリング音楽をミュージック2.0とするなら、初音ミクの音楽はミュージック3.0といえる。

初音ミクや、それに続く「アーティスト」たちは、今ある世界を変えることになるだろう。

Introducing the World's Next Rock Superstar


反体制を旗印とするロックウェル氏のサイトで、ミクは革命家に認定されているのです。実際、ネットを通じて不特定多数の人々により曲、画像、映像を与えられ、そうすることで生命を得て、挙句にライブまでしてしまうのは、近年の音楽シーンで最も衝撃的な事件といえます。



2011年の3月に再び行われるライブには、これまでにも増して海外からの注目も集まっていますし、英語をしゃべるミクも開発中だそうですので、近いうちに大ブレークするかもしれません。

さて、そんな初音ミクを、官製マーケッター集団「クールジャパン」は利用しようとするはずです。初音ミクをAKBと並べて、日本の国旗を持たせて、あちこち行進させるのです。革命家にはふさわしくない行いです。そんなことをすれば、初音ミクの持つ破壊的な魅力は消え失せ、単なるキワモノに堕してしまいます。

ですから「クールジャパン」には、絶対に初音ミクを陵辱させてはいけません。彼女は日本生まれである前にひとりのボーカロイドなのだから、ことさら日本国旗を持たせてエキゾチシズムのたがをはめるべきではありませんし、また彼女の歌声の裏にビジネス臭を漂わせるのには、特別慎重になるべきです。

もしミクさんという「革命の輸出」に成功すれば、マーケッターの短期的なソロバン勘定など恥ずかしくなるくらいに、日本は多くのものを得ることができるのです。



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2010年12月27日

テレビとジャーナリズム

前回のエントリーの続きのようなものです。

長井さんのような殉職者や、山路氏のような「ゴロツキ」を生む原因は、テレビ局がフリージャーナリストを大事にしないことにあります。テレビ局が彼らを大事にしない理由は、ネットの普及による収益悪化にあります。であるならば・・・

なんらかの形で国が保護をして、ジャーナリズムを守らねばならない!

などと極論する人もいますが、こんな考え方の誤謬は明白です。仮にジャーナリズムがそこまで大切なものだとしても、ジャーナリズム=テレビではないからです。

そもそもテレビにジャーナリズムがあったのでしょうか?

ジャーナリズムの定義は実は難しい問題で、例えば米機密外交文書を暴露しているウィキリークスはジャーナリズムか否かという問題は、ジャーナリズムを専攻する学者の間でも意見が割れています。しかしながらきわめて素朴なレベルで、客観性があり、十分な知識を有し、かつ扇動的でないことが、ジャーナリズムの条件であるという点においては、コンセンサスが取れていると思います。

ところが80年代後半以降のテレビ報道というのは、まったくもってこれに当たりません。具体的に言えば、1985年に始まった「久米宏のニュースステーション」以降のテレビニュースショーの特徴は、12歳のオツムに合わせて、出演者の主観を前面に押し出し、感情に訴える演出で見せることを追求してきたからです。

そのせいもあり、80年代終盤以降の日本の政治はとても浮ついています。宇野首相の超絶バッシングに始まり、新党ブームと細川政権の誕生、そして今日のふざけた政権の樹立まで、日本の進路は国会ではなく、テレビスタジオで決まるようになりました。

ではニュースステーション以前のテレビにジャーナリズムはあったのでしょうか?

1972年、佐藤栄作首相は有名な退陣会見で、「偏向する新聞記者は嫌いだ」と述べて、ガランとした会見場でテレビカメラのみに向けて語りかけました。当時のテレビは、新聞に比べて事実をありのままに伝える媒体という認識が持たれていたからです。ではその頃のテレビにジャーナリズムはあったのかといえば、そういうわけではありません。

当時の日本のテレビは、報道は視聴者を惹きつけられないジャンルであり、テレビという媒体に合わないと認識していました。また技術的にも、撮影した素材を短時間で編集し、音楽とナレーションをつけて、テロップをベタベタ貼り付けるのは非常に困難でした。いわば当時のテレビは、テレビならではのニュースというネタに適した料理の仕方を見つけておらず、料理する器具も持っていなかったのです。テレビ報道への信頼はその結果にすぎず、テレビが意図して獲得したものでありません。

そういうわけですから、テレビ報道は80年代末以降に堕落したのではありません。テレビはそのとき始めて、テレビがテレビとしてテレビらしくニュースを伝える方法を発見したのです。したがって80年代末以降のテレビ報道こそが真のテレビ報道の姿と言えるのであり、テレビ報道とは本源的にアンチ・ジャーナリズムなのです。

景気がよかろうと悪かろうと、テレビはジャーナリストなど大事にしません。大事にするのはアンチ・ジャーナリストだけです。

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2010年12月26日

マスメディア・パッシングと浮気暴露事件

2010年という年は、のちに歴史の分水嶺として語られるようになるかもしれません。

Sengoku38氏による尖閣ビデオユーチューブアップ事件、ウィキリークスの「ケーブルゲート事件」、そして女性タレントによるツイッターでの浮気暴露事件。

かつてのネットといえば、マスコミの一次情報をネタにマスコミを叩く、「マスメディア・バッシング」の専門でした。ネットの時代?ふざけんな。マスコミのネタがなきゃ何もできないくせに、なんて言われてきました。ところがこれらの事件では、一次情報はネット発で、マスメディアはそれを後追いしています。「マスメディア・パッシング」が起きているのです。

ネットを騒がす話題を眺めてみると、こういう事件が表出するのは時間の問題だったことがわかります。ほんの3年前と今のネットを比べると、ツイッターやブログやネット放送など、ネット発でネットで騒ぐ、ネット内で自己完結する話題が明らかに増えています。

ネット発の情報が少しづつ充実する一方で、新聞やテレビを捨ててしまう人も増え、そういう数的な変化が、いよいよ質の変化へと転じてきているのです。そして今、頑強そうに見えたマスコミというダムに、ピシッとひびが入ったのです。

さて、そんなマスメディアの決壊を告げる3つの事件ですが、ツイッターでの浮気暴露事件は、そのワイドショー的な外面とは裏腹に、尖閣ビデオやウィキリークス以上に、マスコミ崩壊の象徴性に満ち溢れています。

当初は単なる2人の女性タレントの痴情劇かと思いきや、次第に浮かび上がってきたのは「ジャーナリストの山路徹氏」の存在。事務所の運転資金のために女性タレントのヒモになるなど、山路氏の甲斐性の無さからおきたイザコザであることが明らかになってきました。それとともに、山路氏を告発するジャーナリスト仲間が現れ始めています。

ベテランジャーナリストの浅井久仁臣氏は、自身のサイトで「山路徹氏を永久追放に」と訴えています。山路氏はそのキャリアのスタートにおいて、ジャーナリストとして許されざる行為をしていたという告発です。

山路徹氏を永久追放に

浅井氏の述べるとおり、山路氏は、90年代初頭に筑紫哲也のひいきで世に出た人です。TBSでの活躍をテコにして、NHKへと活躍の場を広げました。筑紫氏といえば、「日本のウォルター・クロンカイト」と呼ばれたテレビ報道の象徴であり、またネットを「便所の落書き」と呼んだ人です。そんな彼の覚えめでたい山路という人は、いわばテレビ報道の進むべき道を正しく体現した人であるといえるのです。

ところが山路氏がイケイケでいられたのは、せいぜい2004年頃まででした。テレビ局の収入の落ち込みは、彼のような、局員以外の外部の人間に対する報酬にまっ先に転嫁されていくからです。2007年にミャンマーで殉職したジャーナリスト、長井健司さんは山路氏の下で働いていました。浅井氏に、山路氏の下で働くべきではないと忠告されたときの長井さんの反応は、そのあたりの事情を伺わせます。

腐れ縁であることを認めた上で、長井さんは他に選択肢がないことを言って話題を他に変えた。


同じような話は、ぼくも何度も聞いています。パイがどんどん小さくなっているテレビ業界では、いかに経験と実績があろうと、とくに50歳になる長井さんのような人が、事務所を変えたり、独立したりすることは事実上不可能なのです。なにがあろうと、今しがみついている綱にしがみつき続けるしかありません。そして長井さんは亡くなりました。さてそうなると山路氏も、これを商品として利用しない手はありません。事務所を運営していくためには、他に選択肢がないからです。

こういう状況を、マスコミの下部における問題だと矮小化してはいけません。マスコミの本格的な凋落はまだこれからであり、新聞社やテレビ局の社員が、山路氏と同じ立場におかれるのは時間の問題だからです。いやすでにマスコミの本体は、女をたらしこんで貢がせたり、人の死を利用するのに等しい行為を、恥も外聞もなく実行し始めています。ツイッター浮気暴露事件は、テレビ報道の没落をネットが伝え、それをマスコミが後追いするという二重の意味で、マスコミの決壊を告げる事件なのです。

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2010年12月25日

白船と日本のクリスマス

12月25日は言わずと知れたクリスマスです。

日本はキリスト教の国でもないのに、なんでクリスマスを祝うのかな?という疑問に対して、戦後アメリカの影響を受けたから、なんてよく言われますが、それは正確ではありません。

なるほど戦後の日本は、さまざまな分野でアメリカの影響を強く受けましたが、日本には、戦後に劣らず、というよりたぶんそれ以上の情熱でアメリカ文化を受け入れた時期がありました。

それは、1905年(明治38年)から1924年(大正13年)に至る20年間です。

アメリカ流のクリスマスはこの時期に日本に入り、上流階級から庶民へと、急速に広まりました。野球もこの時期に爆発的に普及しました。野球などというアメリカのエキゾチックスポーツを抱擁した国は日本だけですが、それだけでも、当時の日本に吹き荒れた「アメ流」の凄さが偲ばれるというものです。

ではなんでこの時期の日本はアメリカに惚れたのでしょうか?普通に考えれば、アメリカの方が文化が進んでいて、なおかつ日米関係が良好だったから、となります。しかしそうではありません。この時期の日米関係はむしろ険悪であり、のちの正面衝突の種は、すべてこの時期にまかれたのです。

両国はまず、日露戦争後の満州の権益をめぐって政治的に対立し、以降アメリカのアジア外交は、ひたすら日本を封じ込めることに注がれました。またその対立は、日本人移民への差別を引き起こしました。1906年のカリフォルニア州における日本人学童隔離に始まり、1924年のいわゆる「排日移民法」制定に到るまで、アメリカは日本人の神経を逆なでする行為をとり続けたのです。

このように、アメリカの日本を見る眼は、刻々と厳しさを増していました。それにもかかわらず、日本はアメ流ブームに沸いていたのです。そんなこの時期の日米関係を象徴する出来事は、1908年の「白船来航」です。

1907年の暮、アメリカは、国力を誇示するために、船体を白く塗装した大艦隊「グレート・ホワイト・フリート」を編成し、世界一周の親善航海に派遣しました。メインターゲットは日本です。明白な威嚇行為、砲艦外交でした。欧米では日米戦争の勃発を危惧する声まであがりました。横浜に上陸した白船艦隊の乗員たちは、沿道に繰り出した日本人たちの様子に、警戒の眼を向けていたといいます。表面上の歓迎ムードの裏に、「ズルガシコイ日本人」の本心を読み取ろうとしていたのです。両国の緊張関係を鑑みれば、アメリカ人たちの身構えは当然といえます。

しかし彼らは、日米の小旗を振る日本人たちの無邪気な笑顔に、強制や演技はもとより、一切の裏心めいたものを見つけることはできませんでした。世紀のイベントを見学しようと沿道に繰り出した日本人たちは、アメリカの軍人たちを、憧れの大スターであるかのように、心の底から歓迎していたのです。

その理由は単純です。日本の指導者層は、アメリカと対決することを恐れ、何としてでも友好関係を維持したいと望んでいたのです。だから、国民を刺激して両国関係をこれ以上こじらせるわけにはいかないと、日露戦争を契機に庶民にまで普及した新聞を通じて、アメリカ愛を吹き込んだのです。白船来航に際しては、各新聞は空前のアメリカ礼賛キャンペーンを張りました。上陸当日には、紙面に英語で「Welcome!」の見出しが踊りました。そして大衆は、半世紀前の黒船来航に比された歴史的な大イベントに酔い、クリスマスから野球まで、アメリカを抱きしめたのです。

その後の歴史は言わずもがなです。大国クラブのメンバーとして国際社会を生き抜くには、ただ友好を唱えていればなんとかなるものではありません。1924年の排日移民法の制定に際して、日本の識者たちは「裏切られた!」と叫びました。まるで、愛すれば愛してもらえると信じる夢見る乙女です。これを機にアメ流は退潮し始め、しばらくすると日本人は、今度は闇雲にアメリカを憎むようになるのでした。

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日本のクリスマスの背景には、こうした苦い歴史も隠されているのです。

最後に、その治世を通じてアメリカ文化を取り入れ続けた大正天皇は、大正15年12月25日に崩御しました。翌年からその日は祭日となり、年々反米の声が高まる中、つかの間ではありますが、日本にクリスマスを広める後押しをしたのは、不思議なめぐり合わせです。また、日本において24日のイブの方をクリスマスの本番ととる傾向は、25日が大正天皇の命日であることの名残りとも言われています。

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2010年12月24日

Uncool Japan

アニメやマンガを海外に売り込もうという経産省の「クールジャパン」は、はたして日本に富をもたらすのか、それとも損害をもたらすのか?

短期的にはともかく、長期的には大損害をもたらすと思います。

クールジャパンなどという周回遅れの企画は、ぜんぜんクールではないNHKの番組を見て、ぜんぜんクールではない国会議員が乗り気になり、ぜんぜんクールではない官僚たちが、ぜんぜんクールではない秋元康氏などのお言葉を拝聴して推進する、亡国の企画です。

この企画で一番トクをするのは、真にクールなものを産み出す可能性を秘めた日本のコンテンツ産業でもクリエーターたちでもなく、秋元氏とそれに類する人たちです。センスを欠く官僚たちは、エリート向けのAKB商法にコロッと引っかかってしまったのです。クールジャパン室の立ち上げなど、握手券欲しさにAKBのCDを買い漁るのと何ら変わりません。

秋元氏はとても頭がいいので、まさかAKB商法で全世界を席巻できるとは考えていないはずです。アジアの一部では、「日本でウケているから」という理由で短期的には利益をあげるかもしれませんが、せいぜいその程度。それよりも彼の狙いは、日本の「影の文化大臣」になることにより、日本のエンターテイメント界を牛耳り、莫大な富と権力を得るところにあるはずです。

商売人としてはすごいと思います。しかしその過程で彼が食い物にするのは、日本の対外的な印象と、日本のポップカルチャーです。これは日本人のひとりとして黙って看過できません。

たしかに日本のアニメやマンガは、外国にアピールするものを持っています。しかしアピールする理由は、秋元氏的なものとは正反対なところにあります。

日本では、「韓流」とか「AKB」とか、そういうマーケッティング主導の、供給側の都合で作られるブームに抵抗感をもつ人が多いですが、それは外国でも同じです。若い世代、感性の鋭い人たちは、もうそういうところからは何もでてこないとうんざりしています。そんな彼らにとって、インターネットの普及とともにあらわれた日本のマンガとアニメは、何よりもまず反体制的であり、だからこそ新しくてクールなのです。

それをマネタイズしようとするのはおかしなことではありません。しかし、基本的におニャン子クラブ以来進歩していない、究極のマスコミ人である秋元氏の意見を参考にしながらそれを進めるのは、間違うにもほどがあります。

彼は海外でほとんど評価されていないAKBを、日本ブランドや日本アニメブランドと抱き合わせることで海外に売り込み、それを宣伝材料にしてさらに日本国内に売り込み、21世紀のアイドルマスターとしての地位を固めようとするに違いません。そしてその過程で、秋元氏的な時代遅れな商品と結び付けられた日本や日本のアニメはオーラを失い、アンクールなものとして打ち捨てられることになるのです。

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2010年12月22日

ブランド主義社会とネットの匿名性

少し前に、日本の官房長官が自衛隊を暴力装置呼ばわりして巷を騒がせたことがありました。

そのとき、ああ日本らしいなと思ったのは、「あれは社会学者のマックス・ヴェーバーの言葉だから何の問題もないのだ」と指摘する人たちがでてきて、かなりの人たちがそれに納得していたということです。

どこの国でも、責任ある立場の人による問題発言騒動はあります。しかし、「マックス・ヴェーバー使用の学術用語だからオッケー」などという擁護は、例えばアメリカではまずありえません。もしそんな擁護をしようものなら、「ヴェーバー?そんなやつ知らないよ」「その人が使った言葉?だからどうしたの?」「学術用語?そんなもん論文書くときに使えよ」などとますます反感を煽るだけです。

ところが日本ではなぜか説得力を持ちます。発言そのものの内容よりも、誰がその発言をしたかの方に重きがおかれる社会、ブランドがモノを言う権威的な社会だからです。

ネットにおいて、欧米は実名主義で、日本は匿名主義だと言われます。たしかにその傾向はあります。日本人は個が弱いからだ、卑怯だからだなどと言う人もいます。しかしそれはどうなのかと思います。

これまでブランドで会話をしてきた日本人にとって、言葉、画像、映像の内容だけで交流しあえる匿名ネットの世界は、肩書きも年齢も性別も関係なくコミュニケーションできる初めての場です。

日本においては、実名を出す出さないは単なる勇気とかの問題ではありません。実名を出したとたんにコミュニケーションのあり方が本質的に変化してしまうのです。

日本より権威性の薄いアメリカでは、実名を出して語ることと、匿名で語ることの間にさほど大きな差はありません。いずれにしても内容重視だからです。例えばあちらでは、いかに高名な学者であろうと、誰にでもわかるように話せなければ、話を聞いてもらえません。だから彼らの著書は(学術論文は別にして)、驚くほど専門用語は少なく、平易な文章で書かれています。

ところが日本でありがたがられる知識人というのは、平易な言葉で難しいことを語れる人ではありません。専門用語や最新カタカナ語を駆使して、平易なことを難しく語れる人のことを指します。ブランド会話の名人ということです。実名を出すということは、そういう世界に戻ることを意味しているのです。

匿名ネットは害悪だから、規制してやめさせてしまえとまで言う人もいますが、それは、ネットの世界を「古い世界」の流儀に強引に合わせろということに他なりません。匿名主義を氾濫させている主犯は、あいかわらずブランド主義のはびこるその他の世界の方であり、変えなくてはならないのはそちらの方なのです。

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2010年12月18日

見える鎖と見えない鎖

東京都で青少年健全育成条例、いわゆるアニメ漫画規制が可決されました。

事の是非はともかく、この件に関しては、石原知事と猪瀬副知事の「暴走」ぶりが際立っています。石原氏は会見で、猪瀬氏はツイッターで、反対派を刺激するような無神経な言葉を吐きまくっています。普通の政治家や官僚ならば、こういうときはなるべく穏便にし、口を開くときは慎重に言葉を選んで周囲の理解を得られるようにするものですが、この二人ときたら、まるで反対派をわざと刺激しているようにも見えます。

さんざん言われているように、石原氏はもともと、過激な風俗を描写し、タブーを破ることで名を馳せた作家です。猪瀬氏もそうです。彼の出世作である「ミカドの肖像」は、天皇という日本最大のタブーに切り込んだノンフィクションでした。果たして二人は歳をとって地位を得たために華麗に変節したのでしょうか?

いや、彼らは今も変わらずタブー破りの肉食動物です。だからこそ彼らは、そういう態度を取るのです。どういうことか?

こうした検閲めいた規制が議題に上がるたびに叫ばれるのは、「萎縮効果」です。検閲されることを恐れて、製作者の方が自分で事前検閲してしまうという現象です。実際これさえなければ、大抵の検閲など怖くありません。ところが日本ほど萎縮効果がすごい国はなかなか見当たりません。

どこの国にもセンサーシップはあります。例えばアメリカにはさまざまな反差別団体があり、やることも執拗で過激です。また人権まわりの法律もよく整備されています。しかしながら、日本に見られる「言葉狩り」のようなことはほとんどありません。あちらで一番センサーシップがきついのはテレビですが、四文字ワードをのぞけば、使うこと自体NGという言葉はありません。

一方日本のテレビでは、「NHK用語辞典」に載っていない用語は基本的にNGで、それらの用語を不用意に使おうものなら、へたすればディレクターは失職、お願いしても使用をやめない出演者は、ブラックリストに載せられて出入り禁止です。法律で禁止されているわけでもないのに、激しく自主規制しているわけです。

ここで肝心なのは、放送禁止用語に大騒ぎする人のおそらく9割は、なぜそれらの用語を使用してはいけないのか、なぜそこまで問題なのか、わかっていないということです。ディレクターもプロデューサーも出演者も、そして視聴者も、わかっていないのにビクビクしているのです。

なぜいけないのかわからない。わからないけど破るとひどい目にあう。気持ち悪さを感じながら、いつのまにやら自らすすんで「見えない鎖」を強化する方に加担してしまう・・・これをタブーといいます。タブーは、あらゆる表現者の最大の敵です。

タブーを壊す唯一の方法は、見えない鎖を可視化することです。

石原氏と猪瀬氏は、若い頃は文筆家としてそれを実行しました。そして今彼らは、法律化という形で、まったく逆の方向からタブーを可視化しているのです。

こう考えると、彼らが挑発的な態度を取る理由も見えてきます。「いいか、これは法律だぞ!法律だぞ!法律だぞ!」と、世間に鎖を鎖として認識させているのです。彼らはそこまではっきり意識して発言していないと思いますが、おそらく彼らの中のタブー嫌いの血が、そういう挑発的な態度を取らせるのです。

実際日本のマンガとアニメにとって一番怖いのは、検閲ではなく、自主規制です。現実問題として最近のマンガとアニメはエロ化が激しいですから、エロを許せない人々の声の高まりにより、何らかの抑制は避けられない状況でした。もしそこで、表現の自由の名のもとに、出版社の自主規制というやり方で手打ちが図られたなら、それは恐ろしいタブーの成立であり、マンガとアニメの死を意味します。

もちろん、見える鎖も見えない鎖も何もない中で自由に何でも表現できればそれに越したことはありません。しかしそれが無理とするなら、無頼漢の二人による、はっきりと見える鎖の提示は、セカンドベストです。実際二人の挑発により、「食えなくなってもエロを描き続けてやる!」と決意したエロ作家は多いのではないでしょうか。

鎖が見えると、大勢でそういう決意を共有することもできますが、鎖が見えないと、できないのです。

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