2010年12月18日

見える鎖と見えない鎖

東京都で青少年健全育成条例、いわゆるアニメ漫画規制が可決されました。

事の是非はともかく、この件に関しては、石原知事と猪瀬副知事の「暴走」ぶりが際立っています。石原氏は会見で、猪瀬氏はツイッターで、反対派を刺激するような無神経な言葉を吐きまくっています。普通の政治家や官僚ならば、こういうときはなるべく穏便にし、口を開くときは慎重に言葉を選んで周囲の理解を得られるようにするものですが、この二人ときたら、まるで反対派をわざと刺激しているようにも見えます。

さんざん言われているように、石原氏はもともと、過激な風俗を描写し、タブーを破ることで名を馳せた作家です。猪瀬氏もそうです。彼の出世作である「ミカドの肖像」は、天皇という日本最大のタブーに切り込んだノンフィクションでした。果たして二人は歳をとって地位を得たために華麗に変節したのでしょうか?

いや、彼らは今も変わらずタブー破りの肉食動物です。だからこそ彼らは、そういう態度を取るのです。どういうことか?

こうした検閲めいた規制が議題に上がるたびに叫ばれるのは、「萎縮効果」です。検閲されることを恐れて、製作者の方が自分で事前検閲してしまうという現象です。実際これさえなければ、大抵の検閲など怖くありません。ところが日本ほど萎縮効果がすごい国はなかなか見当たりません。

どこの国にもセンサーシップはあります。例えばアメリカにはさまざまな反差別団体があり、やることも執拗で過激です。また人権まわりの法律もよく整備されています。しかしながら、日本に見られる「言葉狩り」のようなことはほとんどありません。あちらで一番センサーシップがきついのはテレビですが、四文字ワードをのぞけば、使うこと自体NGという言葉はありません。

一方日本のテレビでは、「NHK用語辞典」に載っていない用語は基本的にNGで、それらの用語を不用意に使おうものなら、へたすればディレクターは失職、お願いしても使用をやめない出演者は、ブラックリストに載せられて出入り禁止です。法律で禁止されているわけでもないのに、激しく自主規制しているわけです。

ここで肝心なのは、放送禁止用語に大騒ぎする人のおそらく9割は、なぜそれらの用語を使用してはいけないのか、なぜそこまで問題なのか、わかっていないということです。ディレクターもプロデューサーも出演者も、そして視聴者も、わかっていないのにビクビクしているのです。

なぜいけないのかわからない。わからないけど破るとひどい目にあう。気持ち悪さを感じながら、いつのまにやら自らすすんで「見えない鎖」を強化する方に加担してしまう・・・これをタブーといいます。タブーは、あらゆる表現者の最大の敵です。

タブーを壊す唯一の方法は、見えない鎖を可視化することです。

石原氏と猪瀬氏は、若い頃は文筆家としてそれを実行しました。そして今彼らは、法律化という形で、まったく逆の方向からタブーを可視化しているのです。

こう考えると、彼らが挑発的な態度を取る理由も見えてきます。「いいか、これは法律だぞ!法律だぞ!法律だぞ!」と、世間に鎖を鎖として認識させているのです。彼らはそこまではっきり意識して発言していないと思いますが、おそらく彼らの中のタブー嫌いの血が、そういう挑発的な態度を取らせるのです。

実際日本のマンガとアニメにとって一番怖いのは、検閲ではなく、自主規制です。現実問題として最近のマンガとアニメはエロ化が激しいですから、エロを許せない人々の声の高まりにより、何らかの抑制は避けられない状況でした。もしそこで、表現の自由の名のもとに、出版社の自主規制というやり方で手打ちが図られたなら、それは恐ろしいタブーの成立であり、マンガとアニメの死を意味します。

もちろん、見える鎖も見えない鎖も何もない中で自由に何でも表現できればそれに越したことはありません。しかしそれが無理とするなら、無頼漢の二人による、はっきりと見える鎖の提示は、セカンドベストです。実際二人の挑発により、「食えなくなってもエロを描き続けてやる!」と決意したエロ作家は多いのではないでしょうか。

鎖が見えると、大勢でそういう決意を共有することもできますが、鎖が見えないと、できないのです。

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