2010年12月27日

テレビとジャーナリズム

前回のエントリーの続きのようなものです。

長井さんのような殉職者や、山路氏のような「ゴロツキ」を生む原因は、テレビ局がフリージャーナリストを大事にしないことにあります。テレビ局が彼らを大事にしない理由は、ネットの普及による収益悪化にあります。であるならば・・・

なんらかの形で国が保護をして、ジャーナリズムを守らねばならない!

などと極論する人もいますが、こんな考え方の誤謬は明白です。仮にジャーナリズムがそこまで大切なものだとしても、ジャーナリズム=テレビではないからです。

そもそもテレビにジャーナリズムがあったのでしょうか?

ジャーナリズムの定義は実は難しい問題で、例えば米機密外交文書を暴露しているウィキリークスはジャーナリズムか否かという問題は、ジャーナリズムを専攻する学者の間でも意見が割れています。しかしながらきわめて素朴なレベルで、客観性があり、十分な知識を有し、かつ扇動的でないことが、ジャーナリズムの条件であるという点においては、コンセンサスが取れていると思います。

ところが80年代後半以降のテレビ報道というのは、まったくもってこれに当たりません。具体的に言えば、1985年に始まった「久米宏のニュースステーション」以降のテレビニュースショーの特徴は、12歳のオツムに合わせて、出演者の主観を前面に押し出し、感情に訴える演出で見せることを追求してきたからです。

そのせいもあり、80年代終盤以降の日本の政治はとても浮ついています。宇野首相の超絶バッシングに始まり、新党ブームと細川政権の誕生、そして今日のふざけた政権の樹立まで、日本の進路は国会ではなく、テレビスタジオで決まるようになりました。

ではニュースステーション以前のテレビにジャーナリズムはあったのでしょうか?

1972年、佐藤栄作首相は有名な退陣会見で、「偏向する新聞記者は嫌いだ」と述べて、ガランとした会見場でテレビカメラのみに向けて語りかけました。当時のテレビは、新聞に比べて事実をありのままに伝える媒体という認識が持たれていたからです。ではその頃のテレビにジャーナリズムはあったのかといえば、そういうわけではありません。

当時の日本のテレビは、報道は視聴者を惹きつけられないジャンルであり、テレビという媒体に合わないと認識していました。また技術的にも、撮影した素材を短時間で編集し、音楽とナレーションをつけて、テロップをベタベタ貼り付けるのは非常に困難でした。いわば当時のテレビは、テレビならではのニュースというネタに適した料理の仕方を見つけておらず、料理する器具も持っていなかったのです。テレビ報道への信頼はその結果にすぎず、テレビが意図して獲得したものでありません。

そういうわけですから、テレビ報道は80年代末以降に堕落したのではありません。テレビはそのとき始めて、テレビがテレビとしてテレビらしくニュースを伝える方法を発見したのです。したがって80年代末以降のテレビ報道こそが真のテレビ報道の姿と言えるのであり、テレビ報道とは本源的にアンチ・ジャーナリズムなのです。

景気がよかろうと悪かろうと、テレビはジャーナリストなど大事にしません。大事にするのはアンチ・ジャーナリストだけです。

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