2011年01月10日

経験と肩書き

もうかなり前になりますが、某公共放送局の休憩室で、ベテランの記者と20歳そこそこの女性ADが、報道のあり方について議論しているのを傍から聞いていたことがあります。

普通はそんな凸凹コンビで議論になどならないのですが、議論好きで若者に媚びたところのある記者と、ステレオタイプそのままの「空気の読めない自己主張の強い帰国子女」だからこそのディベートでした。

それはある突発的大事件を特別枠で放送するさなかのことで、たしか彼女は番組の基本的な報道姿勢に異議を唱えていたと思います。そしてディベートは完全に彼女の勝ちでした。

若いぺーぺーにこてんぱんにやられるベテランの姿に、ぼくを含むその場に居合わせたスタッフは苦笑をかみ殺していたのですが、容赦のない彼女は追撃をやめません。番組の報道姿勢に問題があると認めるのなら、ベテラン記者の立場でそれを変更しろというわけです。記者の方は顔を赤くしながら言い訳していましたが、最後にぶちきれてこう捨て台詞を残して場を去りました。

「オマエは戦場取材をしたことがあるのか?オレはある。何にもわかってないくせに偉そうな口をきくんじゃない!」

言うまでもなく、彼は手段と目的を取り違えています。なるほど現場取材の経験は重要ですが、なぜ重要かといえば、現場を知らない人にはなかなか持てない知恵を得られるからです。そしてその知恵を何らかの形で表現できてはじめて、「さすがは戦場取材経験者ですね」となるわけです。肝心なのは知恵であり、すべての経験はそれを得るための手段にすぎません。

ところが、こういうごく当たり前のことを、報道記者というインテリで、しかも経験豊富な年輩者でさえ勘違いしてしまうのです。いや、彼も頭ではわかっていたに違いありませんが、体で理解できていないのです。だから頭に血が登ったときにポロリと本音が出てしまったわけです。

取材にしても何にしても、経験することはとても大事です。しかし、経験することの大切さを説くがあまり、彼のように、経験を手段ではなく目的と取り違え、経験を肩書きとしてとらえてしまうケースは多く見られます。

経験を肩書きとしてとらえるのは、必ずしも悪いことばかりではありません。履歴書を書くときには役立ちますし、「オレはこれだけ経験したんだから大丈夫」と、自己暗示をかけて自信を持てるようになるという点においても大いに有用です。しかし同時に、たぶんそれよりも貴重なものを失う可能性を覚悟しておくべきです。

経験という肩書きで自分を計る習慣をつけると、他人をも肩書きで見るようになり、その悪癖は、もしかしたら死ぬまで抜けなくなるということです。

ぼくは多くの人と同様、意識してそうしないように気をつけていますが、少しでも気を抜くと、ついつい人を肩書きで判断してしまい、あとでそれに気づいて暗澹たる気分になります。意識することなしに、肩書きというフィルターに惑わされずに人を見れる人は、小さな子供をのぞけばとても稀少です。ぼくはこれまでの人生で、そういう人を2人しか知りません。しかもそのうち1人は身近な人ではありません。

「他人を肩書きで見てはいけない」というのは倫理の問題ではありません。ひどく損をするからよくないのです。感性が鈍り、大事な情報を見落とし、まわりに流されて騙されやすくなります。また、肩書きを持たない人を見下す一方で、肩書きを持つ人を同じ人間として評価できなくなります。見下すにしろ見上げるにしろ、リスペクトを欠くようになるわけです。そして人をリスペクトできない人は、リスペクトされません。

なにかと経験至上主義の世の中ですが、経験はあくまで手段にすぎません。そして手段と目的を取り違えたとき、経験は人生をつまらないものにする麻薬に変わるということを意識しておくべきだと思います。すごい経験をした人は案外たくさんいますが、経験という肩書きに惑わされない人は本当に稀なのです。

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