去年はネットで自殺中継がありましたが、今年は年明けに、元日の海で高波にさらわれて行方不明になる高校生の様子を映した映像がユーチューブにアップされました。また、さまざまな事情で亡くなり、放置されたブログを始めとする個人ウェブページは、死そのものよりも死というものを意識させます。
ネットで触れる死は、どれもこれも衝撃的です。なぜ衝撃的なのかというと、これまでそういうものだと思い込まされてきた死と違うからです。ネットにおける死は、マスメディア時代の死とは異質な死なのです。
マスメデイア時代の死には、「そうあるべき死」の定形がありました。死とは、事件報道や訃報、お涙頂戴のドラマという特定の場で、涙や(事件の場合は)憤怒とともに語られるもので、それは非日常の存在でなくてはなりませんでした。
しかしネットでは、死はある特定の場所に囲われたものではなく、ユビキタスな存在で、往々にして笑顔や嘲りとともに語られます。まさに死は日常とともにあり、今ここにいる自分と連続して繋がっているのです。
高波にさらわれた高校生の映像は、のどかにフワッと生死の一線を超えていく高校生と、ビデオの背後で交わされる若い女性のあまりに日常的でのんきな会話が衝撃的ですが、死というのは元来あのようなもので、ああいう生々しい現実を伝える文体をマスメディアは持たず、ゆえに隠されてきたのでした。マスメディアのない世界の人にネットにおける死を見せたら、何が衝撃的なのかわからないに違いありません。
自殺中継 ネットに衝撃 「孤族の国」男たち (朝日新聞1月5日)
朝日新聞の記事は、あたかもネットが人間を歪めて孤独にし、歪んだ死へと駆り立てるかのように描いています。しかしそれは違います。ネットは歪みを生産しているのではなく、これまで隠されてきた生と死のあり方をあらわにしているだけです。
ネットにおける「衝撃的な死」も、ネットにたむろす「孤独で歪んだ人たち」も、以前からずっと社会に存在していましたが、マスメディア社会にその居場所はありませんでした。それがネットという表現手段を得て、一気に外に出てきただけなのです。
ではその「孤独」や「歪み」は何により生み出されたのか?おそらくそれは、ありのままの死を「衝撃的な死」に変えたのと同じように、人それぞれのありのままの生を「そうあるべき生」と「歪んだ孤独の生」に分類してしまったシステムにあるはずです。
この年明けに自殺したあるマンガ家志望の青年のブログを読みました。文章から素直な人柄が漂う彼は、先の衆院選を前に麻生元首相をコケにし、「民主革命」に熱狂していました。流行りのスイーツを親にプレゼントし、街で芸能人を見て幸せを感じるとともに我が身との差を嘆き、「のりピー事件」を気にしていました。そしてこの年末、部屋に残されていた民主党のポスターを始末し、のりピー本を夢中で読み、自ら命を絶ちました。
素直で純粋な彼は、テレビや新聞により植えつけられた「そうあるべき生」に合わせようと努力し、できない自分を責め、ついにそれを不可能と悟り、この世に別れを告げたように見えます。
一昔前なら彼の死は、余計な部分を隠蔽された「そうあるべき死」として新聞の片隅に場所を与えられてお終いでしたが、ネットのある今、彼の死はありのままの姿をぼくたちの前に晒しています。同情、共感を誘う部分だけでなく、罵り、笑い、批判、すべてを含んだ、それゆえに「衝撃的な死」です。彼は死ぬことで「そうあるべき〜」から解放されたのでした。
朝日新聞の記事は、自殺中継を見ていた若者に、「ネット漬けの生活を卒業する決意」をさせたりしていますが、それは彼を苦しめる「そうあるべき生」に追い返しているだけです。それでは何の解決にもなりません。根本的な解決のためには、「そうあるべき生」を破壊しなくてはなりません。そしてその最初のステップは、それがどこからやってきて、どうやってぼくたちの脳髄に埋め込またのか、それを意識するところから始まるはずです。