2011年07月30日

韓流というレイシズム

俳優の高岡蒼甫が、ツイッターでフジテレビの韓流プッシュを批判して、事務所を解雇されてしまいました。

ネットでは、高岡さんを支持する声が圧倒的です。彼のツイートを読んでみましたが、イメージとは違い(失礼)しっかりとしたことを書いているし、ご年配の方を除けば、テレビの韓流押しにウンザリしている人は極めて多いと思うので、彼の発言に溜飲を下げ、また彼の解雇に怒りを感じる人の気持ちは理解できます。

しかし、怒りの矛先を向ける方向を間違えてはいけません。おかしいのは韓国ではありません。あくまでテレビ局です。むしろ韓国は、その単純な国民性を手玉にとられて、日本のテレビ局にいいように搾取される被害者といえます。

想像してみてください。日本の「クールジャパン事務局」が、アメリカのテレビ各局に大金を出して、朝昼晩と「日本のアニメってすげー」「日本の芸能人てかっこいいー」なんてやり始めたら、それが日本人にプラスかどうか。短期的には利益を生むかもしれませんが、その気持ち悪さは確実にアンチ層を生み出し、中長期的に大きな打撃となるのは確実です。国家間、異民族間の文化交流というのは、そんな単純に上からのマーケティングで操作できるような代物ではないのです。

エキゾチシズムとかエスニシティは、マーケティングにおいて本来劇薬のようなもので、できれば使わずにこしたことはない、使う場合は細心の注意をもって扱うべき要素です。ところが今のテレビ業界は、そんなセオリーに従う余裕はなく、目先の金のためならなんでもします(NHKを含めて)。エンタメ産業に国家レベルで金をつぎこみ、とにかく「韓国サイコー」と叫んでいれば満足してくれる、女に色目を使われたらホイホイ金を出してしまう男のような韓国は、そんなテレビ局にとって格好のカモなのです。

もし本気で韓国がエンタメ産業で末永く稼ぎたいなら、また韓流プッシュのテレビ局が本心から韓国エンタメのすばらしさを伝播したいと考えているなら、まずすべきことは、「韓」とか「K」とかいうくくりを外すことです。10年ほど前にボアが日本でブレークしたとき、多くのファンは彼女が韓国人であることを特別意識しませんでした。彼女は韓国生まれのJポップアーティストだと見ていました。日本に限らず、外国人タレントが異国で広く長く活躍するためにとるべき態度は、それしかないのです。

その反対に、国とか民族とかを看板にして売りだすやり方は、短期的にはブームを作りやすいですが、一発芸で売りだした芸人と一緒で、すぐにキワモノに転じてしまう運命にあります。そしてそれを不自然に引っ張れば、あとは弊害しか生みません。今の韓流はこの段階にあります。しかしテレビ局はそんなこと知らぬ存ぜぬです。テレビに感化されやすい「情弱層」と、「ホルホル体質」の韓国を手玉にとり、稼げるだけ稼げりゃいいのです。

テレビの中の人たちは、韓流を煽ることで、両国の親善が進むと考えているのかもしれませんが、そんなのは欺瞞です。一見友好的な態度の裏に潜むのはレイシズムで(韓流スターは、どうあがいても国籍を超えられないのだ!)、それは視聴者の心を確実に蝕みます。韓流という言葉が死語になったとき、そしてそのときはあらゆる流行と同じように必ずやってくるのですが、多くの日本人の中に残るのは、韓国人に対する抜きがたい偏見のみになるはずです。

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2011年07月26日

ブレイビックは何なのか?

ノルウェーで70人以上を殺したテロ犯のアンネシュ・ブレイビック。彼が「アンドリュー・バーウィック」名義で犯行と同時に公開したマニフェスト「2083ーヨーロッパ独立宣言」が、ウィキペディアの英語版でダウンロードできるようになっていたので、流し読みしてみました。

報道では、彼を「キリスト教原理主義者」とか「極右」とラベリングしていますが、これはぜんぜん違います。日本で「キリスト教原理主義者」というと、アメリカの田舎などで、怪しげな牧師の説教に夢中になり、理性に背を向けて生きる人々というイメージがありますが、彼はそうではありません。例えば彼は、キリスト教についてこう書いています。

キリスト教徒であるということは、ヨーロッパのキリスト教文化の遺産を重んじ、守りたいと思うことだ。ヨーロッパ文化の遺産とは、我々の社会のあり方、倫理観のことであり、プロテスタント、カトリック、ギリシア正教、そして理性を至上とする啓蒙主義に基づく伝統と政治システムに他ならない。我々の現代社会と世俗主義は、多くの点でヨーロッパのキリスト教文化と啓蒙主義に端を発するのだ。「キリスト教原理主義」(我々はそのすべてを否定する)と、キリスト教文化を基盤とする世俗的なヨーロッパ社会(我々はそれを望む)はまるで違うことなのだ。


こういう主張をする人を、普通は原理主義者とは呼びません。これを原理主義者と呼ぶなら、日本人のほとんどは、超原理主義者に分類されてしまいます。また彼はナチスは嫌いで(彼はナチスを左派に分類する)、同性愛者に偏見はありませんし、ヨーロッパ文化を抱擁する限りにおいては、異民族に対しても寛容です。彼は「極右の排外主義者」などという単純な存在ではないのです。

では彼は何なのか?

簡単にいえば、彼の思想は、現代ヨーロッパにおける典型的な保守思想にほかなりません。ここ数年無視できない勢力となりつつある欧州モダン保守の特徴は、大きな政府による規制と福祉政策を疑問視する自由主義的経済観を持ち、移民を奨励する多文化主義と、多文化主義をはじめとする自己破壊的なイデオロギーを押し付ける左派思想を嫌悪する姿勢にあります。

1500ページを超える彼のマニフェストは、イスラム移民に対する憎悪で塗りつぶされているわけではありません。フランクフルト学派に始まる「文化マルクス主義(マルクス主義的視点から、経済のみならず文化を読み解き、変革していこうという運動)」を批判するところから書き始められています。多文化主義は、文化マルクス主義の一形態であり、病根はそこにあると考えているわけです。だから彼は、テロのターゲットにイスラム教徒ではなく、ノルウェー人の政治家(オスロ官庁街の爆破)と、政治家候補生たち(労働党青年部のキャンプにおける銃乱射)を選んだのです。

ブレイビックは、異民族を受け入れない日本と韓国を理想視していたと報道されていますが、これも容疑者の独想ではありません。ヨーロッパの左派は、多文化主義を受け入れない国は先進国として失格であり、活力ある経済も、豊かな文化も生み出せないと喧伝してきました。日本と韓国は、それに対する何よりの反証であるわけですから(日本にも異民族問題はあるにはありますが、欧州のそれとは比較にもなりません)、欧州保守の希望の星になるのは、ある意味当然といえます(逆にいえば、だからこそ欧州の左派は、たびたび日本の「後進性」を叩くのです)。

では、何が彼を凶行に走らせたのでしょうか?

マニフェストによれば、彼は経済的には裕福で、複数の会社を経営してコンサル的な仕事をこなすなど、金を稼ぐ才覚を持ちあわせています。また友人は多く、異性関係も普通で、20代の頃はクラブ通いに精を出していたようです。彼はいわゆる「負け組」ではなく、個人的な鬱憤を社会にぶつけたようには思えません。

ではやはり、ヨーロッパの左派メディアや学者たちが主張する通り、狂気の種は、欧州モダン保守思想にあるのかといえば、これは違うと断言できます。あくまで私見ですが、欧州の保守ほどおとなしい政治勢力は他にはなかなか見当たりません。ナチズムの過去を持つヨーロッパでは、保守勢力は、少しでも過激な主張や行動をするとネオナチ認定されてしまうので、反過激、反全体主義の方向に成長してきた経緯を持つからです。

繰り返しますが、彼のマニフェストには、狂人に特有な論理の飛躍や陰謀論、神秘主義はほとんど見受けられません。しかしただ一点、非常に気になる点があります。それは以下のような部分です。

Q:一般市民に間接的にもたらされる甚大な被害は正当化されるのか?

A:イエスでありノー。それは、前に進むための唯一の方法だという点において正当化されうる。政府のビルを爆破したとしよう。それは掃除婦や管理人を殺すために行われるのではない。ターゲットは、入念な検討を重ねたのちに、望む結果を得られるとの判断から選ばれるのだ。無実の人は、数千人規模で死ぬだろう。しかし、そうしないことで起きうる最悪のケース、数百万人のヨーロッパ人犠牲者に比べれば、ましなことなのだ。

「目的のために手段は正当化されるか?」というのは、古くて新しい難しい問題です。「される」と即答できる人は、テロリスト候補生ですが、「いかなる場合でもされない」といえば、それは嘘になります。だからぼくは、自らの「正義」を実現するために、手段を正当化する彼の考えを、ただそれだけをもって糾弾できるとは思いません。

しかし非常な違和感を感じるのは、彼はこの極めて重い問題を、1500ページを超える長大なマニフェストの中で、ほんの数カ所でさらりとかわして済ませているということです。要するに彼は、「目的のために手段は正当化されるか?」という問題を、さほど重視していないのです。

これは彼特有の資質というよりも、ヨーロッパの知的風土の問題という気がします。ブレイビックは、ヨーロッパは文化マルクス主義に汚染されていると主張しますが、彼自身芯まで汚染されていたと、そんな気がするのです。

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2011年07月20日

なでしこジャパンとスポーツの未来

スポーツの国際大会の価値というのは、どれもこれも同じではありません。世界中のより多くの人が、より夢中に大会をフォローすればするほど、大会の価値はあがり、従ってそこで優勝する意義は大きくなります。その点において、今回の「なでしこジャパン」の快挙は、世界選手権における日本代表の優勝としては、過去に比肩する例を探すのに苦労するほどに、最高レベルのものだったと思います。

ウェブ上には、「女子サッカーなんて、世界はぜんぜん注目してなかった。大騒ぎしてるのは日本だけ」なんて辛辣な意見も散見されますが、これは嘘。少なくても開催国のドイツ、そしてアメリカでは、大変な注目をあびていました。これに日本も加わりますから、日独米。これを世界と言わずして、何を世界というのかわかりません。女子サッカーのワールドカップは、世界の人々を夢中にし、各国代表は母国の人々の期待を背に死にものぐるいで優勝を目指し、なでしこジャパンは、そんな中で栄冠を手にしたのです。

さてしかし、そんなすごい快挙を成し遂げた彼女たちですが、収入の低さについて、何とかすべきと言われています。なにしろ、月給は10万もらえればいい方というのですからひどい話です。

しかしこれは日本だけの話ではありません。開催国ドイツでも、女子リーグの平均集客数はわずか800人程度にすぎず、選手の月収は800ユーロにとどまるといいます。サッカーが女子スポーツとして定着し、圧倒的な競技人口を誇るアメリカでさえ、女子リーグでプレーする選手の年俸は、2万ドルからせいぜい6万ドルです。

こういう有様ですから、「これだけ注目をあびる大会を開けるのに、何かがおかしい」という主張は、日本のみならず、大会に夢中になった各国で共通して叫ばれています。

が、ぼくはそれは逆ではないかと思うのです。おかしいのは、スポーツをするだけで何十億も稼ぐ方で、これからの時代、スポーツはどんどん金にならないものになり、金のためではなく、好きだからプレーするという、女子サッカー選手たちの姿こそが、スポーツの主流になっていくような気がするのです。

今あるスポーツは太古の昔から人類の歴史とともに歩んできたのではなく、19世紀末から20世紀にかけて生まれ、その後急速に発展したものです。それ以前のスポーツは、せいぜい見世物でしかありませんでした。何がアスリートを裕福な社会の名士にしたのかは単純で、新聞とラジオとテレビの普及です。

エコノミスト誌のこの記事にあるように、最近ようやくあちこちで、「マスメディアは永続的にあり続けるものではなく、時代とともに生まれ、消え去るものではないのか」という見方を聞くようになりました。もしそうであるならば、マスメディアとともに歩んできたスポーツも、19世紀以前の姿に戻る運命ということになります。

それを思わせる兆候は、今回の女子ワールドカップ・フィーバーの生成過程にも垣間見えます。

開催国のドイツでは、大会を成功させるために、官民あげた大キャンペーンが敢行されました。ドイツの公共放送は全試合を中継し、協賛企業を動員することでチケットはほぼ完売しました。ドイツ中が多幸感に包まれた2006年ワールドカップの再現を目論んだわけです。ここまでは、きわめて20世紀的な展開です。しかし、すでにマスメディア時代が終わりを迎えつつある現代は、これだけでイベントは成功しません。

シュピーゲル誌のこのエッセイのように、「2006年のように自然と沸き上がってきた熱狂と今回は違う。これは作られた熱狂だ」とする鋭い指摘が人々の間に共鳴し、幻想を破壊してしまうのです。目の肥えたドイツのサッカーファンからすれば、なるほど女子サッカーなど全然見ごたえがありません。「女子サッカーなんて、男子の新体操と同じでピンとこない」という読者コメントは、偽らざる本音だと思います。ドイツ代表が日本に負けたとき、「気味の悪い馬鹿騒ぎが終わってホッとした」と感じたドイツ人は決して少数ではありませんでした。

アメリカでも状況は似ていました。アメリカでは、巨大スポーツ専門局のESPNが全試合を中継し、煽りに煽りました。当初多くの人々はそれをウザイと感じ、ESPN以外での露出も限られていました。もし大会がそのまま何ということもなく進めば、2011年の女子ワールドカップは、見てくれだけ立派なメディアハイプとして、嘲りの対象になっていたかもしれません。しかし、あるとき状況は一変しました。

日本では、ドイツを倒したときに一気に注目が集まりましたが、アメリカも同じで、準々決勝の対ブラジル戦における劇的な逆転勝利が、人々を虜にしたのです。

アメリカ人を虜にした理由は、何よりもまず異様なまでにドラマチックな試合展開でしたが、それだけではないと言われています。今アメリカのスポーツ界では、NFLとNBAが労使交渉に揺れており、そういう金の話にうんざりしているところに、アメリカ娘たちの純粋な戦いがより一層美しく映ったということもあるようです。

いずれにしても、そこから先は「USA!USA!」で、やがてそのただならぬ興奮ぶりは世界に伝染し、大会の最後に接戦の末頂点に立ったのが、震災の後遺症に苦しむ日本であったこともいい後味を残しました。当初はゴリ押しされている感をにじませていたドイツの人たちも、アメリカ人の心を震わせ、世界を酔わせ、すばらしいチャンピオンを生んだ大会は真の祭りであったと再認識しているに違いありません。

そういうわけで、今回のワールドカップをビッグな大会にしたのは、とにもかくにもピッチ上の選手たちでした。

主役は選手たちだなんて、なんてあたり前なと思われるかもしれません。しかし、実はこれは決してあたり前なことではありません。スポーツの理想ではあるかもしれませんが、あたり前ではないのです。マスメディアとスポーツが二人三脚で創り上げた20世紀のスポーツ産業、すなわちそれはぼくたちが知るスポーツそのもののことなのですが、その核心は、選手たちの精神と肉体のぶつかり合いにより、極めて稀に生じる神々しい瞬間を、恣意的にリプロデュースするところにあったからです。

スポーツは、マスメディアという共同幻想生産装置により、ボタンを押せば感動できる感動箱になり、それがスポーツの力を高め、富を産んできたわけです。

スポーツにおけるマスメディアの存在を毛嫌いする「スポーツ原理主義者」の人からすれば、マスメディア衰退後のスポーツは、本物の感動だけが支配する、至福の時代の到来と映るかもしれません。しかし、大勢の人間を深い感動に誘う神々しい瞬間が稀にしか訪れないのであれば、残念ながらスポーツは興業として成り立ちません。

今回の女子ワールドカップは、マスメディアにより創られた幻想ではなく、真に神々しい瞬間により人々を酔わせた、極めてレアなケースであったと思います。ただの世界選手権ではなく、そういう希少な大会を日本が制したことは、日本のファンにとって僥倖でした。こんなことは今後もう二度とないかもしれません。

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2011年07月15日

国家予算の2割?

もうブログは書かないと、そんな気がしていましたが、ちょっと気になったことがあったので忘備録として書きとめておこうと思います。
それは、きのうブロゴスで読んだこの記事についてです。

東京23区で唯一放射能汚染プールを子どもに清掃させた江戸川区-子どもの被曝回避は世界の常識なのに

記事ランキングのトップにあった記事なので、なんとはなしに読んでみたのです。するとこの記事の中には、非常に衝撃的な記述があり、多くの読者がこの部分をリツイートしていました。

冒頭で紹介したNHKスペシャルの後半で、チェルノブイリ事故から25年も経過した今でも放射能汚染という重い荷を背負い続けているベラルーシの取り組みが紹介されていました。ベラルーシでは、今でも国家予算の2割を放射能汚染対策に使っているとのこと。とりわけ、放射能汚染から子どもを守るための対策がはかられていて、すべての学校で、食べ物の放射線量をはかることが可能になっていたり、すべての病院、診療所で、無料で被曝検査が実施され、もし病気になった場合でも生涯無料で治療が受けられるとのこと。


事故から25年経過した今でも、国家予算の2割を割いているとは、大変なことです。聞き流しておけません。そこでググッてみました。ぼくはベラルーシ語はわかりませんが、これほどのことならば、英語の資料もたくさんあるはずです。

ベラルーシ(Belarus)、原子力(Nuclear)、チェルノブイリ(Chernobyl)、予算(Budget)。これだけのキーワードを打ち込むと、案の定かなりの記事がでてきました。いろいろ問題のあるネットですが、やはりネットはすごい。今さら口にだすのも恥ずかしいセリフですが。

さて、その結果わかったのは、「今でも国家予算の2割を放射能汚染対策に使っている」という言葉の信憑性は薄いということです。

チェルノブイリはウクライナにありますが、もっとも甚大な被害を被ったのは、チェルノブイリのすぐ北に位置するベラルーシでした。そしてソ連崩壊の1991年、分離独立したベラルーシ共和国の原発事故対策費が国家予算の2割を超えた(22.3パーセント)のは、事故の規模を語るうえであちこちで引用されている、有名なエピソードのようです。しかし複数のソースによれば、毎年予算は削減され、90年代中頃には予算の10パーセント、2002年には6パーセント、そして2008年には4パーセント程度にまで削られているようです。だいたい、決して裕福とはいえないベラルーシで事故対策にとりくむ政府機関と、関心の低下とともに資金難にあえぐボランティア団体の苦悩については、すでに10年以上前からたびたび報告されており、Nスペで描かれたという、国をあげての徹底した対策と大いに矛盾します。

チョチョッとググってここまで確認したとき、ぼくは、「事故から25年後の今でも国家予算の2割」という衝撃的なデータは、ブロゴスの当該記事を書いた筆者による勘違いに違いないと思いました。そこで今度は、「NHKスペシャル」「シリーズ原発危機」「広がる放射能汚染」でググってみると…

なんと番組を見た極めて多くの人々が、「事故から25年後の今でも国家予算の2割」という部分に衝撃を受けているではありませんか!

かつてテレビ番組制作に人生を捧げた身からして、これは単なる製作者のケアレスミスでないと断言できます。「事故から25年後の今でも国家予算の2割」というのは、誰の頭にもスッと入って行きやすいシンプルさと衝撃性を併せ持つ、製作者からすればヨダレが出るほどにおいしいデータです。どんなに鈍感なテレビマンでも、こういうデータに無頓着でいられるわけはありません。ある団体か識者が、物事を単純化して「ベラルーシは事故対策に国家予算の2割をかけている」と述べたのを、その怪しさを承知の上で、番組の趣旨に合わせて、まるで今でもそうしているかのように描写したに違いないのです。

何のためにこんな誤解を生む描写をしたのでしょうか?反原発の意図からかもしれませんし、その反対かもしれませんし、そのどちらでもないかもしれません。製作者の政治的な意図をいくら詮索したところで、推測の域を出ません。しかし確実なのは、視聴者に衝撃を与えて、番組に食いつかせるためであったということです。「事故から25年の今でも、ベラルーシの事故対策は終っていない」という地味な情報は、「事故から25年の今でも、国家予算の2割をかけている」という、具体的かつ非日常的なサブ情報により、ただごとではない事件に姿を変えるのです。これをセンセーショナリズムと言います。

まだまだNHKの報道に大きな信頼をおいている人が多い中、原発問題のような微妙な問題にセンセーショナリズムを持ち込むのは、とても罪深いことです。牧羊犬に追い立てられて右往左往する無垢な子羊たちが不憫でなりません。

ところで、ブロゴスの当該記事の筆者は、ベラルーシの取り組みを描いたNHKの番組を見た感想として、「人類は原発とは共存できない」と述べて記事を締めています。物事すべてが歪められて単純化され、リニアに展開する、"World according to NHK" に従うと、そういう感想しか持てないのかもしれません。しかし現実の世界はもっと複雑です。

日本の原発事故のニュースが世界を駆け巡る中、この春ベラルーシは、新たな原発建設に向けて、ロシアの協力を得ることで合意しました。ロシアからの天然ガスにエネルギーを全面依存しているベラルーシは、数年前から原発建設計画を進めていたのですが、ついに具体的に動き出したのです。

秘密主義の独裁政権で、なおかつチェルノブイリ事故以前から領内に一基の原発もなく、原発の建設と保守管理のノウハウを持たないベラルーシの原発計画に、周辺国は大いに憂慮してきました。しかしよりによって今、というか今だからこそ、この史上最大の原発事故で最大の被害を被った国は、“原発との共存”に大きな一歩を踏み出したのです。

今後ベラルーシに続々建設される原発の立地は西部国境沿いで、発電量はベラルーシ国内で必要とする量を超えています。安全面だけでなく、採算面からも疑問視されてきたベラルーシの原発計画は、「脱原発」を決めたドイツとその仲間たちという、電力売買の顧客候補の登場で、極めて魅力的な投資物件へと変貌したのです。

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