2011年07月20日

なでしこジャパンとスポーツの未来

スポーツの国際大会の価値というのは、どれもこれも同じではありません。世界中のより多くの人が、より夢中に大会をフォローすればするほど、大会の価値はあがり、従ってそこで優勝する意義は大きくなります。その点において、今回の「なでしこジャパン」の快挙は、世界選手権における日本代表の優勝としては、過去に比肩する例を探すのに苦労するほどに、最高レベルのものだったと思います。

ウェブ上には、「女子サッカーなんて、世界はぜんぜん注目してなかった。大騒ぎしてるのは日本だけ」なんて辛辣な意見も散見されますが、これは嘘。少なくても開催国のドイツ、そしてアメリカでは、大変な注目をあびていました。これに日本も加わりますから、日独米。これを世界と言わずして、何を世界というのかわかりません。女子サッカーのワールドカップは、世界の人々を夢中にし、各国代表は母国の人々の期待を背に死にものぐるいで優勝を目指し、なでしこジャパンは、そんな中で栄冠を手にしたのです。

さてしかし、そんなすごい快挙を成し遂げた彼女たちですが、収入の低さについて、何とかすべきと言われています。なにしろ、月給は10万もらえればいい方というのですからひどい話です。

しかしこれは日本だけの話ではありません。開催国ドイツでも、女子リーグの平均集客数はわずか800人程度にすぎず、選手の月収は800ユーロにとどまるといいます。サッカーが女子スポーツとして定着し、圧倒的な競技人口を誇るアメリカでさえ、女子リーグでプレーする選手の年俸は、2万ドルからせいぜい6万ドルです。

こういう有様ですから、「これだけ注目をあびる大会を開けるのに、何かがおかしい」という主張は、日本のみならず、大会に夢中になった各国で共通して叫ばれています。

が、ぼくはそれは逆ではないかと思うのです。おかしいのは、スポーツをするだけで何十億も稼ぐ方で、これからの時代、スポーツはどんどん金にならないものになり、金のためではなく、好きだからプレーするという、女子サッカー選手たちの姿こそが、スポーツの主流になっていくような気がするのです。

今あるスポーツは太古の昔から人類の歴史とともに歩んできたのではなく、19世紀末から20世紀にかけて生まれ、その後急速に発展したものです。それ以前のスポーツは、せいぜい見世物でしかありませんでした。何がアスリートを裕福な社会の名士にしたのかは単純で、新聞とラジオとテレビの普及です。

エコノミスト誌のこの記事にあるように、最近ようやくあちこちで、「マスメディアは永続的にあり続けるものではなく、時代とともに生まれ、消え去るものではないのか」という見方を聞くようになりました。もしそうであるならば、マスメディアとともに歩んできたスポーツも、19世紀以前の姿に戻る運命ということになります。

それを思わせる兆候は、今回の女子ワールドカップ・フィーバーの生成過程にも垣間見えます。

開催国のドイツでは、大会を成功させるために、官民あげた大キャンペーンが敢行されました。ドイツの公共放送は全試合を中継し、協賛企業を動員することでチケットはほぼ完売しました。ドイツ中が多幸感に包まれた2006年ワールドカップの再現を目論んだわけです。ここまでは、きわめて20世紀的な展開です。しかし、すでにマスメディア時代が終わりを迎えつつある現代は、これだけでイベントは成功しません。

シュピーゲル誌のこのエッセイのように、「2006年のように自然と沸き上がってきた熱狂と今回は違う。これは作られた熱狂だ」とする鋭い指摘が人々の間に共鳴し、幻想を破壊してしまうのです。目の肥えたドイツのサッカーファンからすれば、なるほど女子サッカーなど全然見ごたえがありません。「女子サッカーなんて、男子の新体操と同じでピンとこない」という読者コメントは、偽らざる本音だと思います。ドイツ代表が日本に負けたとき、「気味の悪い馬鹿騒ぎが終わってホッとした」と感じたドイツ人は決して少数ではありませんでした。

アメリカでも状況は似ていました。アメリカでは、巨大スポーツ専門局のESPNが全試合を中継し、煽りに煽りました。当初多くの人々はそれをウザイと感じ、ESPN以外での露出も限られていました。もし大会がそのまま何ということもなく進めば、2011年の女子ワールドカップは、見てくれだけ立派なメディアハイプとして、嘲りの対象になっていたかもしれません。しかし、あるとき状況は一変しました。

日本では、ドイツを倒したときに一気に注目が集まりましたが、アメリカも同じで、準々決勝の対ブラジル戦における劇的な逆転勝利が、人々を虜にしたのです。

アメリカ人を虜にした理由は、何よりもまず異様なまでにドラマチックな試合展開でしたが、それだけではないと言われています。今アメリカのスポーツ界では、NFLとNBAが労使交渉に揺れており、そういう金の話にうんざりしているところに、アメリカ娘たちの純粋な戦いがより一層美しく映ったということもあるようです。

いずれにしても、そこから先は「USA!USA!」で、やがてそのただならぬ興奮ぶりは世界に伝染し、大会の最後に接戦の末頂点に立ったのが、震災の後遺症に苦しむ日本であったこともいい後味を残しました。当初はゴリ押しされている感をにじませていたドイツの人たちも、アメリカ人の心を震わせ、世界を酔わせ、すばらしいチャンピオンを生んだ大会は真の祭りであったと再認識しているに違いありません。

そういうわけで、今回のワールドカップをビッグな大会にしたのは、とにもかくにもピッチ上の選手たちでした。

主役は選手たちだなんて、なんてあたり前なと思われるかもしれません。しかし、実はこれは決してあたり前なことではありません。スポーツの理想ではあるかもしれませんが、あたり前ではないのです。マスメディアとスポーツが二人三脚で創り上げた20世紀のスポーツ産業、すなわちそれはぼくたちが知るスポーツそのもののことなのですが、その核心は、選手たちの精神と肉体のぶつかり合いにより、極めて稀に生じる神々しい瞬間を、恣意的にリプロデュースするところにあったからです。

スポーツは、マスメディアという共同幻想生産装置により、ボタンを押せば感動できる感動箱になり、それがスポーツの力を高め、富を産んできたわけです。

スポーツにおけるマスメディアの存在を毛嫌いする「スポーツ原理主義者」の人からすれば、マスメディア衰退後のスポーツは、本物の感動だけが支配する、至福の時代の到来と映るかもしれません。しかし、大勢の人間を深い感動に誘う神々しい瞬間が稀にしか訪れないのであれば、残念ながらスポーツは興業として成り立ちません。

今回の女子ワールドカップは、マスメディアにより創られた幻想ではなく、真に神々しい瞬間により人々を酔わせた、極めてレアなケースであったと思います。ただの世界選手権ではなく、そういう希少な大会を日本が制したことは、日本のファンにとって僥倖でした。こんなことは今後もう二度とないかもしれません。

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