2011年07月26日

ブレイビックは何なのか?

ノルウェーで70人以上を殺したテロ犯のアンネシュ・ブレイビック。彼が「アンドリュー・バーウィック」名義で犯行と同時に公開したマニフェスト「2083ーヨーロッパ独立宣言」が、ウィキペディアの英語版でダウンロードできるようになっていたので、流し読みしてみました。

報道では、彼を「キリスト教原理主義者」とか「極右」とラベリングしていますが、これはぜんぜん違います。日本で「キリスト教原理主義者」というと、アメリカの田舎などで、怪しげな牧師の説教に夢中になり、理性に背を向けて生きる人々というイメージがありますが、彼はそうではありません。例えば彼は、キリスト教についてこう書いています。

キリスト教徒であるということは、ヨーロッパのキリスト教文化の遺産を重んじ、守りたいと思うことだ。ヨーロッパ文化の遺産とは、我々の社会のあり方、倫理観のことであり、プロテスタント、カトリック、ギリシア正教、そして理性を至上とする啓蒙主義に基づく伝統と政治システムに他ならない。我々の現代社会と世俗主義は、多くの点でヨーロッパのキリスト教文化と啓蒙主義に端を発するのだ。「キリスト教原理主義」(我々はそのすべてを否定する)と、キリスト教文化を基盤とする世俗的なヨーロッパ社会(我々はそれを望む)はまるで違うことなのだ。


こういう主張をする人を、普通は原理主義者とは呼びません。これを原理主義者と呼ぶなら、日本人のほとんどは、超原理主義者に分類されてしまいます。また彼はナチスは嫌いで(彼はナチスを左派に分類する)、同性愛者に偏見はありませんし、ヨーロッパ文化を抱擁する限りにおいては、異民族に対しても寛容です。彼は「極右の排外主義者」などという単純な存在ではないのです。

では彼は何なのか?

簡単にいえば、彼の思想は、現代ヨーロッパにおける典型的な保守思想にほかなりません。ここ数年無視できない勢力となりつつある欧州モダン保守の特徴は、大きな政府による規制と福祉政策を疑問視する自由主義的経済観を持ち、移民を奨励する多文化主義と、多文化主義をはじめとする自己破壊的なイデオロギーを押し付ける左派思想を嫌悪する姿勢にあります。

1500ページを超える彼のマニフェストは、イスラム移民に対する憎悪で塗りつぶされているわけではありません。フランクフルト学派に始まる「文化マルクス主義(マルクス主義的視点から、経済のみならず文化を読み解き、変革していこうという運動)」を批判するところから書き始められています。多文化主義は、文化マルクス主義の一形態であり、病根はそこにあると考えているわけです。だから彼は、テロのターゲットにイスラム教徒ではなく、ノルウェー人の政治家(オスロ官庁街の爆破)と、政治家候補生たち(労働党青年部のキャンプにおける銃乱射)を選んだのです。

ブレイビックは、異民族を受け入れない日本と韓国を理想視していたと報道されていますが、これも容疑者の独想ではありません。ヨーロッパの左派は、多文化主義を受け入れない国は先進国として失格であり、活力ある経済も、豊かな文化も生み出せないと喧伝してきました。日本と韓国は、それに対する何よりの反証であるわけですから(日本にも異民族問題はあるにはありますが、欧州のそれとは比較にもなりません)、欧州保守の希望の星になるのは、ある意味当然といえます(逆にいえば、だからこそ欧州の左派は、たびたび日本の「後進性」を叩くのです)。

では、何が彼を凶行に走らせたのでしょうか?

マニフェストによれば、彼は経済的には裕福で、複数の会社を経営してコンサル的な仕事をこなすなど、金を稼ぐ才覚を持ちあわせています。また友人は多く、異性関係も普通で、20代の頃はクラブ通いに精を出していたようです。彼はいわゆる「負け組」ではなく、個人的な鬱憤を社会にぶつけたようには思えません。

ではやはり、ヨーロッパの左派メディアや学者たちが主張する通り、狂気の種は、欧州モダン保守思想にあるのかといえば、これは違うと断言できます。あくまで私見ですが、欧州の保守ほどおとなしい政治勢力は他にはなかなか見当たりません。ナチズムの過去を持つヨーロッパでは、保守勢力は、少しでも過激な主張や行動をするとネオナチ認定されてしまうので、反過激、反全体主義の方向に成長してきた経緯を持つからです。

繰り返しますが、彼のマニフェストには、狂人に特有な論理の飛躍や陰謀論、神秘主義はほとんど見受けられません。しかしただ一点、非常に気になる点があります。それは以下のような部分です。

Q:一般市民に間接的にもたらされる甚大な被害は正当化されるのか?

A:イエスでありノー。それは、前に進むための唯一の方法だという点において正当化されうる。政府のビルを爆破したとしよう。それは掃除婦や管理人を殺すために行われるのではない。ターゲットは、入念な検討を重ねたのちに、望む結果を得られるとの判断から選ばれるのだ。無実の人は、数千人規模で死ぬだろう。しかし、そうしないことで起きうる最悪のケース、数百万人のヨーロッパ人犠牲者に比べれば、ましなことなのだ。

「目的のために手段は正当化されるか?」というのは、古くて新しい難しい問題です。「される」と即答できる人は、テロリスト候補生ですが、「いかなる場合でもされない」といえば、それは嘘になります。だからぼくは、自らの「正義」を実現するために、手段を正当化する彼の考えを、ただそれだけをもって糾弾できるとは思いません。

しかし非常な違和感を感じるのは、彼はこの極めて重い問題を、1500ページを超える長大なマニフェストの中で、ほんの数カ所でさらりとかわして済ませているということです。要するに彼は、「目的のために手段は正当化されるか?」という問題を、さほど重視していないのです。

これは彼特有の資質というよりも、ヨーロッパの知的風土の問題という気がします。ブレイビックは、ヨーロッパは文化マルクス主義に汚染されていると主張しますが、彼自身芯まで汚染されていたと、そんな気がするのです。

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