2011年11月22日

異世界としての昔の日本

昔の映画を見る楽しみには、時間という判定を乗り越えた名作を愛でるだけでなく、時間により色あせた作品を見て、その色あせた作品を普通に受容して楽しんでいた昔の社会に思いを馳せるというひねくれた楽しみ方もあります。

先日、「大空に乾杯」という1966年封切りの映画を見ました。吉永小百合主演で、当時の花形職業だったスチュワーデスの恋愛模様をコメディタッチで描いた、若者向けのトレンディ映画です。しかしこの作品には今から見ると実に不可解な筋の歪みがあり、そこに当時の日本社会のあり方が透けて見えるような気がしたので書き留めておこうと思います。

当時の超絶アイドルスターである吉永小百合演じる主役のユリコは、おっちょこちょいの新人スチュワーデス。お父さんは大きな病院の内科部長で、裕福な家庭のお嬢さんです。そんな彼女が、花を育てるのに情熱を燃やす貧乏学生に恋をします。ところがユリコはタチバナ財閥の御曹司にも求愛されて、どちらを取るか悩みます。古今東西ありふれたモチーフで、二股がけを選択肢から除外している点を除けば、現代人でも抵抗もなくついていけるストーリーです。しかし、悩むユリコに対する父親のアドバイスが、すごく変なのです。2人で川岸を散歩しながら、お父さんはこう告白します。

昔、貧しい医学生がいてね、その男には同じく貧しい看護婦の恋人がいたんだ。
だが、その男は出世のために恋人を捨てて、病院の一人娘と結婚した。その男がお父さんだよ。
私たち夫婦の悲劇はその時に始まったんだ。いくら愛しあおうとしても無駄だったよ。

若きお父さんは愛を捨てて出世を選び、その傷は今も癒えないといいます。なら娘はどうするべきか?普通なら「おまえは自分の気持ちに正直に生きなさい」と続きそうなものです。あるいはひとひねり入れて、「だが、あのとき愛を選んでいたら医学の道に専念できずに後悔しただろう」と、一時の恋愛感情に翻弄される愚を諌めるのもありかもしれません。しかし、お父さんのアドバイスはそのどちらでもなく、斜め上を行きます。

身分違いということは、いつも私達の間に立ちふさがっていた。
ゆり子とマコト君の場合も同じだと思うよ。
ゆり子と結婚する相手は、ゆり子と同じ身分の中から選んで欲しいんだよ。マコト君は貧しすぎるし、タチバナさんは逆に豊かすぎる。
だからゆり子は同じ身分の相手を選んで欲しいんだ。お父さんの二の舞は困るからね。

貧乏学生も大金持ちもダメだというのです。しかし映画の中には、身分の釣り合う「第三の男」など出てきません。だからこのアドバイスは、それまでのストーリーをちゃぶ台返しするようにしか聞こえません。

じゃあなんでそんな余計なセリフを挟み込んだのかというと、観客が必要としたからではないかと推測されます。当時の人々には、愛かカネかの選択などはピンとこないテーマで、恋愛や結婚と言われてまず頭に浮かぶのは身分の問題であり、お父さんはそんな社会の空気を代弁したのではないかと思うのです。

愛をとるかカネをとるかという選択は、正解のない個人の選択ですが、当時の日本社会にはまだ、そんな「選択する個人」は存在していなかったのです。そう考えると、この映画のさらに妙なシーン、お父さんのアドバイスを聞いたユリコの驚くべき行動にも合点が行きます。お父さんのアドバイスを聞いたユリコは、なんと両親のために離婚届を書き、泣きながら両親にサインしろと迫るのです。

親の権威が失墜し、親子が同格にモノを言い合える現代人の目から見ても、これは異様な行動です。軽いコメディタッチの映画の枠をはみ出しています。親の権威がまだまだ強かったはずの当時、観客はさぞ衝撃を受けたのではと想像してしまいます。しかし当時の観客が「選択する個人」という概念を持ち合わせていないとするなら、彼らの目には、ユリコの行動はさほど驚くにあたらない、むしろ当然の帰結と映ったのかもしれません。

貧乏学生を選んだユリコは、個人として正解のない選択をしたのではなく、社会の一員として「正しい選択」をしたつもりなのですから、周囲の人たちを正しき道へ誘うのは当然のことです。貧乏学生と結ばれたユリコは、両親を手始めに、周囲の人々に恋愛至上主義を強制する、現代人から見るととてもウザい、お節介女として生きることになるのです。

懐かしいような、息苦しいような、とにかく今はもうない日本の話しです。

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