2011年12月30日

あの日の思い出

311地震が起きた日、なぜか一番印象に残っているのは、自転車に乗るおっさんの姿です。

あのとんでもない揺れを自宅のマンションで体験したぼくは、いつまで続くのかと思われた長い揺れがようやくおさまると、「これはとんでもないことになった!」とベランダに出て外を見回しました。

と、眼下の通りを一台の自転車が通りかかり、おっさんがのんびりと自転車を漕いでいたのです。なんというか、それは春先の晴れた日によく合う光景で、平穏な郊外の日常生活そのものでした。

しかしその光景は、今おきた恐ろしいほどの揺れと、いろいろなものが散乱した室内と、そして日本のどこかでおきているであろう大災害からあまりにずれたイメージで、ぼくはひどく混乱してしまいました。

いや、うちのあたりが揺れなかったわけではありません。揺れたのです。すぐ近所で死者も出ましたし、洗面所のシンクは割れましたし、ガスは止まりましたし、エレベーターはまる1日ストップすることになりました。それなのにおっさんはのんびりと自転車を漕いでいたのです。

テレビをつけると、興奮したキャスターが、上ずった調子で火に注意しろとか外に飛び出すなと繰り返していました。キャスターの背後では、報道局員たちが駆けまわっています。やはりとんでもないことは起きていたのです。

食い入るようにテレビを見ながら、しかしぼくは自転車を漕ぐおっさんについて考えていました。なぜおっさんはのんびりと漕いでいたのか?

やがてぼくは、それが間違った設問であることに気がつきました。「なぜおっさんはのんびり自転車を漕いでいたのか?」といくら自答しても答えなどでてきません。正しい設問は、「なぜのんびりと自転車を漕いでいたおっさんをぼくはおかしいと思うのか?」「ぼくはおっさんに、どういう振る舞いを期待していたのか?」なのでした。

そう、ぼくはおっさんに、大災害にふさわしい行動を期待していたのです。自転車を飛び降りてしゃがみ、ひたすらキョロキョロと周囲を見回すとか、慌てて自転車に飛び乗り、立ち漕ぎで家に帰ろうとしたものの、動揺して転倒してしまうとか、そんなアクションを期待していたのです。

でも、実際にそんな行動をとる人はごく一部にすぎません。もしぼくがあのおっさんだったとしても、きっとのんびりと自転車を漕いだに違いありません。その後に見た「津波ビデオ」でも、避難する人々は、自分の町が崩壊し、自分の命も危ぶまれる中で、不謹慎といえるほどにのんびりしているように見えました。非日常的な脅威を前にしたとき、人は必然的にパニックに陥りパニックを演じるというのは、あまりに皮相な見方です

ところがぼくは、そういうごくあたり前の人間の行動を目にして、おかしいと感じたのです。そしてその一方で、慌てふためくテレビの中の世界に、そうあるべき世界を感じていました。

被災地に乗り込んだテレビリポーターは、津波警報に右往左往する自らの姿を映像に撮り、あまり感情を表に出さない東北の人たちから「慟哭」を無理やり引き出して、未曾有の災害時にそうあるべき人間の姿を紹介していました。あのリポーターこそ、ぼくの姿です。

一体ぼくはいつ、自分の目と耳と肌で感じるべき現実を、テレビが描き出す皮相な風景とすり替えてしまったのだろう?そんな内面を持つ自分は、なんと軽薄な存在なのだと思いながらテレビを見ていると、なにやら無性に腹がたって仕方ありませんでした。

だから時の首相が震災後の最初の会見でこう第一声をあげたとき、ぼくは力が抜けました。

「国民のみなさま、テレビとラジオでご存知のように…」

それは、テレビの世界を内面化し、そのことに疑問すら抱かない人の声でした。

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2011年12月27日

「若者」はどこにいる?

最近いやに「若者」という言葉をよく聞きます。「若者たちの感覚をベースにした議論で、若者の支持を集めている」などという肩書きは最近のオピニオンメーカーに必ずついてくる常套句です。これほどまでに若者という言葉が売り文句として多用されるのは、ちょっと記憶にありません。

ところで、先日ウェブを廻っていて、幕末の志士たちはみんな若者だったという議論を見かけました。そう、伊藤博文にしても陸奥宗光にしても坂本龍馬にしても、みんな20〜30代前半の若者で、若い彼らが幕府を倒して維新政府を樹立したのでした。

確かに彼らは若年でした。しかし、幕末の若者と現代の若者を比べて、「今の若者は幕末の若者を見習え」などと言えば、なにかが大きくずれているような気がします。というのも、19世紀に生きた彼らは、自らを「若者」と認識していなかったに違いないからです。

19世紀と20世紀の節目は第一次世界大戦(1914〜1918)と言われていますが、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクは、過ぎ去った19世紀の世界を記した遺作「昨日の世界」で、19世紀と20世紀の大きな違いのひとつに、「若さ」に対する見方をあげています。

今日若さといえば、未熟者という悪いニュアンスもあるものの、それよりも、バイタリティや新鮮さという、ポジティブな価値が勝ります。だからこそ政治家は若さを売りにし、壮年の人は若作りに努力し、死ぬまで若くあろうとします。

しかしツヴァイクによれば、それは20世紀特有の価値観で、19世紀における若さはネガティブな意味しか持たず、若者たちはひたすら自らの若さを隠そうと努力したそうです。薄いヒゲを懸命に伸ばして豊かなヒゲを蓄え、シワを作り、意識して中年太りのようにお腹をでっぷりとさせ、必要もないステッキや老眼鏡を身につけて、なるべく年寄りに見えるように苦心したのです。

老いることに価値をおく儒教の影響を受けた日本も同じでした。幕末、明治期の古い写真に映る昔の若者たちが老けて見えるのは、彼らの内面の成熟度にのみ帰すべきではありません。昔の若者は若さを弱点と考えて隠し、努めて老けた身のこなしと装いをしていたのです。それは彼らが、20世紀的な意味でのプラスの価値を帯びた若さを知らなかったことの証です。19世紀以前の社会には、若さゆえの未熟者はいたかもしれませんが、「若者」は存在しなかったのです。

ところが、ここでとてもおかしなことに気がつきます。若さというものがプラスの価値を持つのならば、天然の若さを持つ若者の社会的地位は上昇するのが道理です。しかし現実の社会はそうなっていません。それどころか、幕末の志士たちのように、むしろ若さをないがしろにしていた昔の方が、若者たちは大きな仕事をしていたように見えます。

その理由は、たぶんこうだと思います。20世紀に入り、若さがプラスの価値を持つようになったのは、別に若さそれ自体の価値が上昇したのではありません。あらゆるものを商品化せずにおかない20世紀文化という文脈の中で、人間の商品化を示すひとつの事象にすぎないのです。

美しくてセクシーな女性を崇めるのが女性の商品化に過ぎず、女性の地位向上を推進するどころか、むしろ女性から活躍の機会を奪うのと同じように、若さの崇拝は若さの商品化に過ぎず、若年層から活躍の機会を奪うのです。

従って最近の「若者」バブルは、とても胡散臭いと言わざるをえません。確かに現代は歴史的な大変革の時代であり、古い殻を破るのは若い力であるはず、というイメージはあります。しかし、そういうプラスの価値を持つ「若者」という存在は、まさに今社会の変化を阻む20世紀的価値観の最たるものです。だから、「若者たちの〜」などという言説から生まれる変化は、せいぜい古い価値観の範疇におけるまやかしの変化、たとえば尾崎豊的な反抗により生じる教科書通りの変化に過ぎず、抜本的な変革にはなりえないのです。

幕末のような大変革を担うのは、新しい価値観を備えた若い世代であるに違いありません。しかしその変革の波は「若者」の中からは生まれないのです。「若者」などというのは、所詮20世紀デパートの陳列棚に並んだ商品に過ぎないのですから。

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2011年12月23日

トルコ人のプライドと歴史

フランス下院が、アルメニア人虐殺を公の場で否定することを禁じる法案を可決し、これに対してトルコが激怒しています。トルコのエルドアン首相は、駐フランス大使を召喚し、政治、経済、軍事面におけるフランスとの協力を停止すると宣言しました。

アルメニア人虐殺は、第一次大戦中の1915〜1917年に、オスマン帝国のアナトリア東部で起きたとされる事件で、汎トルコ主義を奉じていたオスマン政府により、通説では150万人のアルメニア人が計画的に民族浄化(ジェノサイド)されたとされています。

しかしトルコ側は、これをジェノサイドと認めていません。トルコ側の見解は、当時の敵国であるロシアとフランスに扇動されたアルメニア人が「大アルメニア」を建国するために武装蜂起し、オスマン政府はこれを鎮圧したのであり、戦闘の過程で30万〜50万人のアルメニア人が死亡したのは戦争の悲劇ではあるが、トルコ人に道義的責任はないというものです。

今回フランス下院で可決された法律は、150万人虐殺説を否定した場合、たとえ歴史学者であろうと、1年以下の懲役と45,000ユーロの罰金を課せられるという内容で、今後上院に送られそこで可決されると成立します。

アルメニア人虐殺をトルコ人はどう見ているのか、在ドイツトルコ人のニュースフォーラムなどから、Q&A形式にしてまとめてみました。

Q ホロコーストを認めているドイツ人に見習い、トルコ人もアルメニア人虐殺を認めるべきではないか?

A アルメニア人虐殺とホロコーストを同列に語ることはできない。第一に、ユダヤ人は武装蜂起したわけではないが、アルメニア人は武装蜂起し、オスマン政府はこれを鎮圧したのである。またホロコーストは証拠も証人も豊富だが、アルメニア人虐殺については何一つ確固とした証拠がない。伝聞だけで罪を認めるわけにはいかない。

Q 国際社会では犠牲者数150万人で決着が着いているが?

A 当時東部アナトリアに居住していたアルメニア人は125万人だ。現在でも多くのアルメニア人が暮らしている。一体どうしたら150万人殺せるのか教えて欲しい。

Q アナトリアには、大量の犠牲者を埋めた塚が残るが、あれは証拠ではないのか?

A あれはトルコ人犠牲者の塚だ。アルメニア人の武装勢力は100万人のトルコ人住民を虐殺した。トルコ共和国建国後に完全に鎮圧されたアルメニア人は、以来自分たちが犯した虐殺の跡をトルコ人の仕業と主張し続けているのだ。

Q トルコ人は、トルコ政府の情報操作により洗脳されているのではないか?

A トルコ政府は、アルメニア人虐殺についてすべての情報を開示している。トルコの歴史学者は御用学者ではなく、ジェノサイド説をとる歴史学者もたくさんいる。一方アルメニアとフランスは、当時の公文書を現在でも非公開としている。情報操作しているのはどちらだろうか?

デジャヴ感溢れる状況です。歴史をめぐる問題には、ユニバーサルなパターンがあるようです。ただトルコ人は日本人以上にプライドが高いようで、アルメニア人ロビーにより外国の議会がトルコ非難決議をするたびに、強く抗議してきました。

日本もトルコのようにすべきと言いたいところですが、トルコさんは強く抗議し続けて100年もたちます。譲歩しようと強気に出ようと、歴史問題は解消しないのです。

フランスがたびたびアルメニア人虐殺に関してトルコを責めるのは、フランスには大勢のアルメニア系住民がいるからです。今回法案を可決したことにより、サルコジ政権は、来る選挙で50万票を獲得したと言われています。

トルコ人は、「歴史は歴史家に」と訴えていますが、歴史問題が政治的カードとして機能し、金のなる木であるかぎりは、何百年前のことであろうと歴史ではなく今日の問題なのです。

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2011年12月14日

生産衝動と新しい世界

世の中の見方にはいろいろありますが、メジャーな見方のひとつに、人を「生産者」と「消費者」に分けて考える見方があります。農作物を作る農家や、商品を生産して販売する企業戦士は生産者であり、それを購入する人たちは消費者となります。

たいていの人は生産者であると同時に消費者であるのですが、なかにはそうでない人もいます。たとえば泥棒は、何も生産せずに消費者のみであろうとする行為です。人には消費衝動があるので、ともすれば消費だけしたいと欲するようになるのです。泥棒まで行かなくても、少ない生産で大きな消費をしたいと思うのは、醜悪な態度ではありますが、人の経済活動の基本です。

では生産というのは常に苦痛や犠牲を伴うものなのでしょうか?生産と消費は非対称な行為であり、生産したいから生産するという生産衝動による生産活動はないのでしょうか?

もちろん人には生産衝動があります。衣食住楽に関するあらゆる物品を、人は報酬を得るためではなく、ただ喜びを得るために生産する習性を持ちます。通常趣味として行われている行為です。ただしそうして生産されたものは、消費者のニーズに合わせて生産されるわけではないので、なかなか商品にはなりません。従ってよほど稀なケースを除いて、趣味人は生産者にはなれず、生産の喜びを経済活動に結びつけられないのです。

ですから従来の経済思想においては、生産したいから生産するという生産衝動は、せいぜいオマケ程度の意義しか持ちません。市場経済というのは、消費したければ生産して稼げ、より生産すればより消費できるという、消費への欲望をモーターとしたシステムです。共産主義を極とした反市場経済思想は、その欲望を悪として強引に断ち切ろうとする思想です。

しかし、楽しいから生産して生産者となれる環境が整ったとしたらどうなるでしょうか?生産衝動により生産された生産物と、消費者のニーズを噛み合わせるシステムが生まれたとしたら、消費衝動のみに基づいた現在の経財観は時代遅れとなり、生産衝動を取り入れた新しい経財観が求められるようになるはずです。

一昔前なら、これは突飛な夢物語にすぎませんでした。しかし今日、現実に社会はそうなりつつあります。インターネットは、人々の生産衝動をモーターとし、そこに消費衝動がついてくるという転倒したシステムであり、そんなネットに社会は刻々と侵食されているからです。

それは、19世紀初頭の思想家シャルル・フーリエが思い描いた社会、生産の欲望と消費の欲望がきれいに噛み合わさり、競争原理による発展を維持しつつ、弱肉強食ではない理想社会に似ています。もし社会が自律的にその方向に進んでいるなら、それは歓迎すべき変化です。ただしいくらゴールが美しいとしても、その過程には困難が伴うはずです。

生産衝動と消費衝動という両輪でまわるネット的な経済システムの台頭は、消費衝動のみでまわる現在の市場経済の崩壊を意味するからです。だとすれば現在起きている市場の機能不全は、市場経済の自律的な調整局面などではありません。このまま穏便に新システムへと発展解消すると考えるのは、あまりに楽観的すぎると言わざるを得ません。

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2011年12月12日

日独コラボ作品としての米帝

1941年の12月11日、ドイツはアメリカに宣戦布告しました。

日本のパールハーバー奇襲により、日独伊はアメリカと戦争に突入したと勘違いしている人もいるかもしれませんが、日独伊三国同盟は防御同盟なので、ドイツに参戦義務はありませんでした。ドイツは自らの判断でアメリカに宣戦し、そしてその判断は今日、ヒトラー最大のミスのひとつに数えられています。

当時のドイツは、開戦以来の危機に立たされていました。同年6月に開始された独ソ戦で、当初楽勝ムードで進撃していたドイツ軍は、冬将軍の前にモスクワ突入を阻まれ、12月6日に初めて赤軍との戦闘に敗れました。ドイツ戦勝の可能性はそのとき潰えたと、多くの歴史家は口を揃えます。翌12月7日、ソ連のタス通信はドイツ軍潰走のニュースを世界に伝えましたが、まさにその日、日本はパールハーバーを奇襲したのでした。

なぜヒトラーは、そんな苦境の時に、自殺行為としか思えない米帝との戦争を決意したのでしょうか?

ドイツ軍の敗退により憔悴していたヒトラーは、日米開戦の報を聞いてさぞかし動揺し、苦悩したと思われるかもしれません。しかしそうではありませんでした。ヒトラーは日米開戦をグッドニュースととらえてとても喜び、「3000年間無敗の国が味方についた。もう我々は負けない」などと側近に語りつつ、対米宣戦布告を即断したのです。

ヒトラー一人の決断で次々と戦線を広げてきたドイツは、それまでは新たな敵を作るたびに、軍部は反対の声をあげ、国民は不安を露わにしてきました。しかし対米戦はそうではありませんでした。ヒトラーのみならず多くのドイツ人は、対米開戦はドイツの戦争遂行にプラスであり、マイナスにはならないと見ていたのです。

その背景には、すでに米独は事実上の戦争状態にあったということがあります。アメリカは、イギリスとソ連に膨大な武器と物資を供給していました。ドイツは両国への補給を断つ潜水艦戦を展開していましたが、非交戦国であるアメリカの艦船を攻撃できず、目の前の獲物をみすみす見逃しては歯ぎしりしていたのです。

アメリカが対日戦にリソースを振り向ければ、ドイツの負担は大幅に軽減されます。さらにここで対米開戦してアメリカの艦船に攻撃を加えれば、戦況は大きくドイツ優位に傾くと考えたわけです。

しかし今日から見れば、この方程式には重大な欠陥があります。アメリカを強大な経済力に支えられた武器庫としてのみ認識し、戦闘マシンとしてのアメリカをまるで考慮していないということです。実際のアメリカはそうではありませんでした。戦争突入とともに総力戦体制に入り、武器庫としての生産能力を飛躍的に増大させたばかりか、凶悪な戦闘マシンとして、陸海空でドイツをひき潰しました。

ドイツの対米宣戦布告の最大の理由は、この極めて単純な誤認にあります。ドイツは、民主主義という温室で育ち、軟弱で金満なアメリカ人は、悲惨な戦場に耐えられないと踏んでいたのです。もし戦場に出てきても、ファナティカルに戦うドイツ兵とは比べるまでもなく弱いと見ていたのです。

日本がアメリカに牙を剥いた理由も同じです。今からすれば、10倍以上の国力差のある超大国に戦いを挑んだのは狂気にしか見えず、戦前に対する反省はその狂気の源を探る方向に向けられています。しかし当時の人たちは十分に勝算ありと見ていました。「国貧しくて民勇敢なる日本と、国富んで兵弱き米国」が戦えば、アメリカは戦争の損害に耐えられず、やがて和平を申し出てくると目論んでいたのです。

実際アメリカの軟弱ぶりは、戦後の日本と比べても遜色ないほどのレベルでした。第一次大戦に参戦してトラウマを受けたアメリカは、以来孤立主義と平和主義にのめり込み、パールハーバーの直前でも、欧州大戦への介入に反対する声は7割近くありました。ルーズベルト政権はドイツと日本に敵意をむき出しにしていましたが、平和主義者たちの大統領批判は止むことはありませんでした。例えば日本に対する対応について、不介入主義者たちは次のような意見を残しています。

「チャイナは地理的概念にすぎず、チャイナの統一を支援するいわれはない」「日本の大陸支配は、アメリカのビジネス界に利益をもたらす」「戦争をしてまで獲得すべき利益は極東にはない」「ルーズベルトは日本を挑発することで裏口から大戦に参加しようとしている」「日本はその国民と経済を守るために当然の要求をしているにすぎない」「フィリピンとグアムは放棄すべきだ」「日本は米国の脅威とはいえず、友好関係を構築すべきだ」……。

ドイツ流の国家社会主義とアジア主義に昏倒していた当時の日本は、ろくなものではありませんでした。しかしアメリカには、そんなゴロツキですら擁護するオピニオンリーダーたちがいて、しかも決して少数派ではありませんでした。アメリカは、それほどまでに戦争を恐れていたのです。

そんな軟弱なアメリカは、現地時間12月7日の真珠湾攻撃と、12月11日の独伊による宣戦布告で、瞬時にして過去のものとなりました。脈々と続けられてきた平和運動は消滅し、最も強硬な平和主義者でさえ、すすんで戦争に協力するようになりました。

70年前の12月初旬、日本とドイツは、絶妙のコラボレーションで自らの墓穴を掘り、米帝という戦闘マシーンを創り上げたのでした。

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2011年12月08日

バブル世代という神話

最近、バブル期に関する書き込みをよく見かけます。今と比べ、いかにバブル期がパラダイスだったか、バブル気分が抜けないバブル世代は始末に終えないなどなど。

しかし、バブル崩壊からかれこれ20年くらいたつためか、記憶が風化し、変な形で神話化されている印象があります。後世に違う形で伝えられるといやなので、これは違うなーと思う点を、バブル世代の一人として、あくまで一個人の見地からではありますが、記しておきたいと思います。

まず違うと思うのは、バブル期に社会に出た世代が、とてもいい思いをしていたように伝えられていることです。そんなことはありません。当時の若者、とくに男性は、バブル最大の被害者とさえ言えると思います。

確かに就職は楽でした。文句なしに売り手市場でした。自分から何のアクションをおこさなくても、家には山のように就職資料が送りつけられ、人気のない企業は、新入社員に車をプレゼントしたりして、必死に学生を惹きつけようとしていました。

しかしいいことはそれくらいで、何しろ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代ですから、上の世代は思い上がりがひどく、今のように若者にイノベーティブな発想を期待するような社会の空気はほとんどありませんでした。就職資料は妙に個性的であることを奨励していましたが、所詮は学生を惹きつけるためのコピーで、ビジネスに夢を託し難い時代でした。

では私生活の方は夢に溢れていたかというと、とんでもありません。インターネットなんてSF映画にも出てこない時代ですから、テレビや雑誌を通じてマーケッターの思いのままに踊らされ、望みもしないことにカネをつぎ込むのを余儀なくされました。

いくら景気がよくても、20歳そこそこの若者に普通カネなどありません。それなのに、モノは高ければ高いほどセンスがいいという風潮で、肩身の狭い思いをしないために無理をしてバーゲンでブランド品を買い、女の子をデートに誘えば、安い居酒屋などジョークにもならず、ホテルのレストランからお洒落なカフェバーというコースはなかば義務化されていました。

いつの時代も若者は貧しいものです。貧しさのレベルで言えば、バブル期の若者は、それ以前の時代の若者とは比較にならないほど恵まれていました。しかしあの時代は、貧しい若者が貧しい若者らしく貧しい若者ライフを満喫する余地はありませんでした。カルト信者かオタクと見られたくなければ、嫌でも背伸びをしてテレビや雑誌の煽る成金趣味なトレンディライフについていかなくてはならない、残酷な時代でした。

バブル期に最も恩恵を受けた世代は、バブル期に社会に出た世代ではなく、それより少し上、25歳から35歳くらいでバブルを迎えた人たちだと思います。まだ若く、それでいて一人前の社会人としてバブルを迎えた彼らは、会社から支給されるタクシー券と、使い放題の経費を駆使して、バブルライフを満喫していました。

ぼくはテレビ業界しか知りませんが、彼らのバブル期に対する郷愁はハンパではなく、仕事の進め方から後輩へのアドバイスまで、すべてバブリーでした。限られたリソースの中で最善の結果を求めるという発想を彼らはできず、「あらゆる可能性を探って最高の結果を出せ」などと常にイケイケな姿勢で、「オレはそのやり方でウン千万稼いだ。稼ぎたければオレの言う通りにしろ」などと迫られさんざん困らされたものです。

バブル期に社会に出た世代はそうではありません。空前の好景気で人手不足のときに、ペーペーとして社会に出た彼らは、とにかく早朝から深夜まで奴隷のように働かされました。ぼくは、活き活きとした新社会人生活を送る同級生たちの姿を思い出せません。なれないスーツに身を包んだ彼らは、みな一様に疲れ果て、やつれていました。そしてようやく後輩もでき、バブルライフをエンジョイしようとした矢先にバブルははじけ、へたに好条件で大量に雇い入れられていた彼らは、リストラ候補の筆頭とされたのです。

最近のヤングの中には、スイスイ就職できたバブル世代をずるい世代と認識している人も多いようですが、一概にそうは言えないのです。というか、本来若者というのは、若さという財産を除けば社会的に最も弱い存在であるという古今東西変わらない人間社会の道理からすれば、バブル世代をずるいと認識する考え方もまた、アンチバブルのようでいて、極めてバブル的で浮かれた考え方と言えます。

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2011年12月06日

資本主義の生みの親

前回のエントリーでぼくは、19世紀から20世紀のトレンドを、「製品化のトレンド」とか「製品化の波」という言葉で表現しましたが、通常この現象は「資本主義」と呼ばれます。しかし、インターネットにより破壊されるシステムとして資本主義という言葉を使うと、微妙ではあるけれども決定的にニュアンスが違う気がして、あえてその言葉を使うのを避けました。

この違和感はどこから来るのだろうと思い、資本主義という言葉の由来を調べてみました。すると謎はすぐに解けました。

資本主義という言葉を世の中に広めたのは、マルクスです。capitalist とか capitalism という言葉はそれ以前から時おり使われていましたが、その定義は曖昧でした。現代の使用法と同じ意味で使用し、それを固定したのは、1867年に出版された「資本論」であり、資本主義という言葉は、「資本論」の翻訳を通じて各国に伝搬したのです。

国会図書館の電子ライブラリーで調べると、資本主義という言葉を使用した日本で最も古い書籍は明治39年(1906年)出版で、それすら、「資本(本位)主義」という表現であり、資本主義という語彙のなじみのなさを伺わせます。以降、資本主義という言葉はたくさんの本で使われていくことになりますが、戦前から戦後にかけて、そのほぼすべては、階級闘争の観点から共産主義と対で語られたものです。

18世紀の思想家アダム・スミスのことを、よく「資本主義の父」などと呼んだりしますが、スミスは資本主義など知りませんでした。資本主義を発見したのはマルクスであり、共産主義により克服されることを運命づけられた概念なのです。

だから資本主義を壊すなどと言うと、浮かんでくるのはその対義語としての共産主義です。今ある経済システムを資本主義と定義したら最後、共産主義の世界観にとらわれてしまうのです。20世紀初頭にはすでに時代遅れな思想と見られていたにもかかわらず、今日までも影響力を持ち続ける共産主義の力の源は、共産主義思想自体の魅力というよりも、資本主義を発見したことにあるのかもしれません。

言葉というのは、このように非常に強力な力を持つのです。

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2011年12月05日

脱製品化時代の英雄

スティーブ・ジョブズは、超特大級の偉人として世界中の人々から惜しまれて逝きましたが、彼は時代の先端をゆく飛び抜けたクリエーターであったわけではなく、大ヒット製品を次々と生み出したスーパービジネスマンでした。そんな彼の信奉者は、とくに若い世代に多いと言われます。金満企業家を憎むオキュパイ・ウォールストリートに参加している若者たちも、なぜかジョブズだけはリスペクトしているようです。

しかし、彼のようなビジネスマンを、若い世代がまるでロックスターのように崇拝するというのは、過去にあまり例のないことです。ジョブズが憧れていたソニー創業者の盛田昭夫もスーパービジネスマンでしたが、99年に彼が亡くなったときに大騒ぎしたのは「プレジデント」を購読するような層をはじめとした円熟した社会人であり、よほど慧眼な者を除けば、若者はさほど関心を持ちませんでした。

ジョブズが若者にウケる理由は、ジョブズが盛田の一歩先をゆく製品化センスの持ち主であったからかもしれません。ジョブズの生み出した最高の製品は、マッキントッシュでもiphoneでもなく、「スティーブ・ジョブズ」であったという点は見逃せないと思います。しかし、それだけではない気がします。ジョブズ信仰は、ジョブズが世の中を手玉に取ったからという側面の他に、世の中の方が変化し、ジョブズのようなスーパービジネスマンをロックスターにする土壌ができてきたという側面もあると思うのです。

産業革命以降の世の中には、あらゆるものが製品化されていくという大きなトレンドがありました。自分を含むすべてが数字、カネに置き換えられていくということです。このトレンドは、大衆を内側から突き動かすマスメディアが完成するといっそう強くなりました。戦争で言えば、英雄が活躍した騎士道、武士道の時代から、顔のない兵士が巨大な軍隊の部品となりミート・グラインドし合う時代に変化したということで、人々は人間性を否定されて、数字、歯車として生きることを強いられたのです。

そういう時代には、トレンドの手先として人々に製品化を促すビジネスマンは英雄にはなれません。腕のいいいビジネスマンは悪意に満ちた詐話師でなくてはならず、英雄になれるのは、ないがしろにされる人間性を象徴する、ギャングや狂人やヒッピーといったアウトサイダーたちであり、またもてはやされる思想は共産主義や環境主義や神秘主義でした。

とはいうものの、いくらアウトサイダーをもちあげたところで製品化の猛威は食い止められません。トレンドに対する反抗は、世間に受け入れられたとたんにその行為自体製品となり、それに気づいたビジネスマンの方も、アウトサイダーであることをセールスポイントにして商売をし始めます。すべてを製品化する激流はそれほどまでに逃れようのないもので、世の中がその諦念に至ったのは、1970年代の終わり頃のことだと思います。パンクロックの仕掛け人マルコム・マクラレンは、ゴミをゴミと公言して大衆に売りつけて大成功しましたが、ゴミですら製品化せずにはおかないトレンドの絶対的パワーを露わにし、反抗することのバカバカしさを印象付けた出来事でした。

以来人々は表立った反抗をあきらめ、ただそういう世界をシニカルに見つめながら製品として社会生活を過ごし、個人生活という小さな殻の中でせめてもの人間性を保とうとしてきました。ところが、それを変えたのがインターネットの普及です。

インターネットというのは、それまで顔のない数字にすぎなかった人々に人格を付与してしまうシステムです。近代以降のビジネスは、人々を塊としてとらえ、その行動を数値化することで利益をあげてきましたが、ネットではそうはいきません。おそらくネットで利益をあげるカギは、それぞれ人格を持つユーザーに、いかにして人間らしく活動できる場を提供できるかにあり、人を数値化してコントロールしようとする従来のやり方は最も避けるべき愚策です。要するにインターネットは、過去200年あまり続いてきた製品化のトレンドをぶち壊してしまうシステムなのです。

そんな脱製品化の新トレンドは、2000年代に入るといよいよオフラインの世界を侵食し始めました。長らく人々を息詰まらせてきた製品化の波は、もはやそれから逃れようのない怪物ではありません。攻守は交代して、いまや脱製品化の波にのまれてゆく弱い存在へと堕しつつあります。

そうなると、ビジネスマンの立場も変わります。かつて人間性の蹂躙を嘆いた人々は、いざ実際に人間性復活の可能性を前にしてみると、今度は製品としての自分が失われることに不安を覚え始めました。ここにビジネスマンが英雄となれる余地が生まれます。20世紀の英雄は、不条理のマントをはおった人間性の守護者でしたが、21世紀の英雄は、合理的でプレゼン上手な製品化の守護者なのです。

スティーブ・ジョブズは、そんな変化する時代に現れた最初の英雄的ビジネスマンなのかもしれません。彼は真の意味での先駆者ではなく、脱製品化という新しい怪物を前にして、製品化にひとつの生き残りの道を示したという点においてイノベーターなのです。あるいは。

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