しかし、彼のようなビジネスマンを、若い世代がまるでロックスターのように崇拝するというのは、過去にあまり例のないことです。ジョブズが憧れていたソニー創業者の盛田昭夫もスーパービジネスマンでしたが、99年に彼が亡くなったときに大騒ぎしたのは「プレジデント」を購読するような層をはじめとした円熟した社会人であり、よほど慧眼な者を除けば、若者はさほど関心を持ちませんでした。
ジョブズが若者にウケる理由は、ジョブズが盛田の一歩先をゆく製品化センスの持ち主であったからかもしれません。ジョブズの生み出した最高の製品は、マッキントッシュでもiphoneでもなく、「スティーブ・ジョブズ」であったという点は見逃せないと思います。しかし、それだけではない気がします。ジョブズ信仰は、ジョブズが世の中を手玉に取ったからという側面の他に、世の中の方が変化し、ジョブズのようなスーパービジネスマンをロックスターにする土壌ができてきたという側面もあると思うのです。
産業革命以降の世の中には、あらゆるものが製品化されていくという大きなトレンドがありました。自分を含むすべてが数字、カネに置き換えられていくということです。このトレンドは、大衆を内側から突き動かすマスメディアが完成するといっそう強くなりました。戦争で言えば、英雄が活躍した騎士道、武士道の時代から、顔のない兵士が巨大な軍隊の部品となりミート・グラインドし合う時代に変化したということで、人々は人間性を否定されて、数字、歯車として生きることを強いられたのです。
そういう時代には、トレンドの手先として人々に製品化を促すビジネスマンは英雄にはなれません。腕のいいいビジネスマンは悪意に満ちた詐話師でなくてはならず、英雄になれるのは、ないがしろにされる人間性を象徴する、ギャングや狂人やヒッピーといったアウトサイダーたちであり、またもてはやされる思想は共産主義や環境主義や神秘主義でした。
とはいうものの、いくらアウトサイダーをもちあげたところで製品化の猛威は食い止められません。トレンドに対する反抗は、世間に受け入れられたとたんにその行為自体製品となり、それに気づいたビジネスマンの方も、アウトサイダーであることをセールスポイントにして商売をし始めます。すべてを製品化する激流はそれほどまでに逃れようのないもので、世の中がその諦念に至ったのは、1970年代の終わり頃のことだと思います。パンクロックの仕掛け人マルコム・マクラレンは、ゴミをゴミと公言して大衆に売りつけて大成功しましたが、ゴミですら製品化せずにはおかないトレンドの絶対的パワーを露わにし、反抗することのバカバカしさを印象付けた出来事でした。
以来人々は表立った反抗をあきらめ、ただそういう世界をシニカルに見つめながら製品として社会生活を過ごし、個人生活という小さな殻の中でせめてもの人間性を保とうとしてきました。ところが、それを変えたのがインターネットの普及です。
インターネットというのは、それまで顔のない数字にすぎなかった人々に人格を付与してしまうシステムです。近代以降のビジネスは、人々を塊としてとらえ、その行動を数値化することで利益をあげてきましたが、ネットではそうはいきません。おそらくネットで利益をあげるカギは、それぞれ人格を持つユーザーに、いかにして人間らしく活動できる場を提供できるかにあり、人を数値化してコントロールしようとする従来のやり方は最も避けるべき愚策です。要するにインターネットは、過去200年あまり続いてきた製品化のトレンドをぶち壊してしまうシステムなのです。
そんな脱製品化の新トレンドは、2000年代に入るといよいよオフラインの世界を侵食し始めました。長らく人々を息詰まらせてきた製品化の波は、もはやそれから逃れようのない怪物ではありません。攻守は交代して、いまや脱製品化の波にのまれてゆく弱い存在へと堕しつつあります。
そうなると、ビジネスマンの立場も変わります。かつて人間性の蹂躙を嘆いた人々は、いざ実際に人間性復活の可能性を前にしてみると、今度は製品としての自分が失われることに不安を覚え始めました。ここにビジネスマンが英雄となれる余地が生まれます。20世紀の英雄は、不条理のマントをはおった人間性の守護者でしたが、21世紀の英雄は、合理的でプレゼン上手な製品化の守護者なのです。
スティーブ・ジョブズは、そんな変化する時代に現れた最初の英雄的ビジネスマンなのかもしれません。彼は真の意味での先駆者ではなく、脱製品化という新しい怪物を前にして、製品化にひとつの生き残りの道を示したという点においてイノベーターなのです。あるいは。