2011年12月12日

日独コラボ作品としての米帝

1941年の12月11日、ドイツはアメリカに宣戦布告しました。

日本のパールハーバー奇襲により、日独伊はアメリカと戦争に突入したと勘違いしている人もいるかもしれませんが、日独伊三国同盟は防御同盟なので、ドイツに参戦義務はありませんでした。ドイツは自らの判断でアメリカに宣戦し、そしてその判断は今日、ヒトラー最大のミスのひとつに数えられています。

当時のドイツは、開戦以来の危機に立たされていました。同年6月に開始された独ソ戦で、当初楽勝ムードで進撃していたドイツ軍は、冬将軍の前にモスクワ突入を阻まれ、12月6日に初めて赤軍との戦闘に敗れました。ドイツ戦勝の可能性はそのとき潰えたと、多くの歴史家は口を揃えます。翌12月7日、ソ連のタス通信はドイツ軍潰走のニュースを世界に伝えましたが、まさにその日、日本はパールハーバーを奇襲したのでした。

なぜヒトラーは、そんな苦境の時に、自殺行為としか思えない米帝との戦争を決意したのでしょうか?

ドイツ軍の敗退により憔悴していたヒトラーは、日米開戦の報を聞いてさぞかし動揺し、苦悩したと思われるかもしれません。しかしそうではありませんでした。ヒトラーは日米開戦をグッドニュースととらえてとても喜び、「3000年間無敗の国が味方についた。もう我々は負けない」などと側近に語りつつ、対米宣戦布告を即断したのです。

ヒトラー一人の決断で次々と戦線を広げてきたドイツは、それまでは新たな敵を作るたびに、軍部は反対の声をあげ、国民は不安を露わにしてきました。しかし対米戦はそうではありませんでした。ヒトラーのみならず多くのドイツ人は、対米開戦はドイツの戦争遂行にプラスであり、マイナスにはならないと見ていたのです。

その背景には、すでに米独は事実上の戦争状態にあったということがあります。アメリカは、イギリスとソ連に膨大な武器と物資を供給していました。ドイツは両国への補給を断つ潜水艦戦を展開していましたが、非交戦国であるアメリカの艦船を攻撃できず、目の前の獲物をみすみす見逃しては歯ぎしりしていたのです。

アメリカが対日戦にリソースを振り向ければ、ドイツの負担は大幅に軽減されます。さらにここで対米開戦してアメリカの艦船に攻撃を加えれば、戦況は大きくドイツ優位に傾くと考えたわけです。

しかし今日から見れば、この方程式には重大な欠陥があります。アメリカを強大な経済力に支えられた武器庫としてのみ認識し、戦闘マシンとしてのアメリカをまるで考慮していないということです。実際のアメリカはそうではありませんでした。戦争突入とともに総力戦体制に入り、武器庫としての生産能力を飛躍的に増大させたばかりか、凶悪な戦闘マシンとして、陸海空でドイツをひき潰しました。

ドイツの対米宣戦布告の最大の理由は、この極めて単純な誤認にあります。ドイツは、民主主義という温室で育ち、軟弱で金満なアメリカ人は、悲惨な戦場に耐えられないと踏んでいたのです。もし戦場に出てきても、ファナティカルに戦うドイツ兵とは比べるまでもなく弱いと見ていたのです。

日本がアメリカに牙を剥いた理由も同じです。今からすれば、10倍以上の国力差のある超大国に戦いを挑んだのは狂気にしか見えず、戦前に対する反省はその狂気の源を探る方向に向けられています。しかし当時の人たちは十分に勝算ありと見ていました。「国貧しくて民勇敢なる日本と、国富んで兵弱き米国」が戦えば、アメリカは戦争の損害に耐えられず、やがて和平を申し出てくると目論んでいたのです。

実際アメリカの軟弱ぶりは、戦後の日本と比べても遜色ないほどのレベルでした。第一次大戦に参戦してトラウマを受けたアメリカは、以来孤立主義と平和主義にのめり込み、パールハーバーの直前でも、欧州大戦への介入に反対する声は7割近くありました。ルーズベルト政権はドイツと日本に敵意をむき出しにしていましたが、平和主義者たちの大統領批判は止むことはありませんでした。例えば日本に対する対応について、不介入主義者たちは次のような意見を残しています。

「チャイナは地理的概念にすぎず、チャイナの統一を支援するいわれはない」「日本の大陸支配は、アメリカのビジネス界に利益をもたらす」「戦争をしてまで獲得すべき利益は極東にはない」「ルーズベルトは日本を挑発することで裏口から大戦に参加しようとしている」「日本はその国民と経済を守るために当然の要求をしているにすぎない」「フィリピンとグアムは放棄すべきだ」「日本は米国の脅威とはいえず、友好関係を構築すべきだ」……。

ドイツ流の国家社会主義とアジア主義に昏倒していた当時の日本は、ろくなものではありませんでした。しかしアメリカには、そんなゴロツキですら擁護するオピニオンリーダーたちがいて、しかも決して少数派ではありませんでした。アメリカは、それほどまでに戦争を恐れていたのです。

そんな軟弱なアメリカは、現地時間12月7日の真珠湾攻撃と、12月11日の独伊による宣戦布告で、瞬時にして過去のものとなりました。脈々と続けられてきた平和運動は消滅し、最も強硬な平和主義者でさえ、すすんで戦争に協力するようになりました。

70年前の12月初旬、日本とドイツは、絶妙のコラボレーションで自らの墓穴を掘り、米帝という戦闘マシーンを創り上げたのでした。

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