2011年12月14日

生産衝動と新しい世界

世の中の見方にはいろいろありますが、メジャーな見方のひとつに、人を「生産者」と「消費者」に分けて考える見方があります。農作物を作る農家や、商品を生産して販売する企業戦士は生産者であり、それを購入する人たちは消費者となります。

たいていの人は生産者であると同時に消費者であるのですが、なかにはそうでない人もいます。たとえば泥棒は、何も生産せずに消費者のみであろうとする行為です。人には消費衝動があるので、ともすれば消費だけしたいと欲するようになるのです。泥棒まで行かなくても、少ない生産で大きな消費をしたいと思うのは、醜悪な態度ではありますが、人の経済活動の基本です。

では生産というのは常に苦痛や犠牲を伴うものなのでしょうか?生産と消費は非対称な行為であり、生産したいから生産するという生産衝動による生産活動はないのでしょうか?

もちろん人には生産衝動があります。衣食住楽に関するあらゆる物品を、人は報酬を得るためではなく、ただ喜びを得るために生産する習性を持ちます。通常趣味として行われている行為です。ただしそうして生産されたものは、消費者のニーズに合わせて生産されるわけではないので、なかなか商品にはなりません。従ってよほど稀なケースを除いて、趣味人は生産者にはなれず、生産の喜びを経済活動に結びつけられないのです。

ですから従来の経済思想においては、生産したいから生産するという生産衝動は、せいぜいオマケ程度の意義しか持ちません。市場経済というのは、消費したければ生産して稼げ、より生産すればより消費できるという、消費への欲望をモーターとしたシステムです。共産主義を極とした反市場経済思想は、その欲望を悪として強引に断ち切ろうとする思想です。

しかし、楽しいから生産して生産者となれる環境が整ったとしたらどうなるでしょうか?生産衝動により生産された生産物と、消費者のニーズを噛み合わせるシステムが生まれたとしたら、消費衝動のみに基づいた現在の経財観は時代遅れとなり、生産衝動を取り入れた新しい経財観が求められるようになるはずです。

一昔前なら、これは突飛な夢物語にすぎませんでした。しかし今日、現実に社会はそうなりつつあります。インターネットは、人々の生産衝動をモーターとし、そこに消費衝動がついてくるという転倒したシステムであり、そんなネットに社会は刻々と侵食されているからです。

それは、19世紀初頭の思想家シャルル・フーリエが思い描いた社会、生産の欲望と消費の欲望がきれいに噛み合わさり、競争原理による発展を維持しつつ、弱肉強食ではない理想社会に似ています。もし社会が自律的にその方向に進んでいるなら、それは歓迎すべき変化です。ただしいくらゴールが美しいとしても、その過程には困難が伴うはずです。

生産衝動と消費衝動という両輪でまわるネット的な経済システムの台頭は、消費衝動のみでまわる現在の市場経済の崩壊を意味するからです。だとすれば現在起きている市場の機能不全は、市場経済の自律的な調整局面などではありません。このまま穏便に新システムへと発展解消すると考えるのは、あまりに楽観的すぎると言わざるを得ません。

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