2011年12月27日

「若者」はどこにいる?

最近いやに「若者」という言葉をよく聞きます。「若者たちの感覚をベースにした議論で、若者の支持を集めている」などという肩書きは最近のオピニオンメーカーに必ずついてくる常套句です。これほどまでに若者という言葉が売り文句として多用されるのは、ちょっと記憶にありません。

ところで、先日ウェブを廻っていて、幕末の志士たちはみんな若者だったという議論を見かけました。そう、伊藤博文にしても陸奥宗光にしても坂本龍馬にしても、みんな20〜30代前半の若者で、若い彼らが幕府を倒して維新政府を樹立したのでした。

確かに彼らは若年でした。しかし、幕末の若者と現代の若者を比べて、「今の若者は幕末の若者を見習え」などと言えば、なにかが大きくずれているような気がします。というのも、19世紀に生きた彼らは、自らを「若者」と認識していなかったに違いないからです。

19世紀と20世紀の節目は第一次世界大戦(1914〜1918)と言われていますが、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクは、過ぎ去った19世紀の世界を記した遺作「昨日の世界」で、19世紀と20世紀の大きな違いのひとつに、「若さ」に対する見方をあげています。

今日若さといえば、未熟者という悪いニュアンスもあるものの、それよりも、バイタリティや新鮮さという、ポジティブな価値が勝ります。だからこそ政治家は若さを売りにし、壮年の人は若作りに努力し、死ぬまで若くあろうとします。

しかしツヴァイクによれば、それは20世紀特有の価値観で、19世紀における若さはネガティブな意味しか持たず、若者たちはひたすら自らの若さを隠そうと努力したそうです。薄いヒゲを懸命に伸ばして豊かなヒゲを蓄え、シワを作り、意識して中年太りのようにお腹をでっぷりとさせ、必要もないステッキや老眼鏡を身につけて、なるべく年寄りに見えるように苦心したのです。

老いることに価値をおく儒教の影響を受けた日本も同じでした。幕末、明治期の古い写真に映る昔の若者たちが老けて見えるのは、彼らの内面の成熟度にのみ帰すべきではありません。昔の若者は若さを弱点と考えて隠し、努めて老けた身のこなしと装いをしていたのです。それは彼らが、20世紀的な意味でのプラスの価値を帯びた若さを知らなかったことの証です。19世紀以前の社会には、若さゆえの未熟者はいたかもしれませんが、「若者」は存在しなかったのです。

ところが、ここでとてもおかしなことに気がつきます。若さというものがプラスの価値を持つのならば、天然の若さを持つ若者の社会的地位は上昇するのが道理です。しかし現実の社会はそうなっていません。それどころか、幕末の志士たちのように、むしろ若さをないがしろにしていた昔の方が、若者たちは大きな仕事をしていたように見えます。

その理由は、たぶんこうだと思います。20世紀に入り、若さがプラスの価値を持つようになったのは、別に若さそれ自体の価値が上昇したのではありません。あらゆるものを商品化せずにおかない20世紀文化という文脈の中で、人間の商品化を示すひとつの事象にすぎないのです。

美しくてセクシーな女性を崇めるのが女性の商品化に過ぎず、女性の地位向上を推進するどころか、むしろ女性から活躍の機会を奪うのと同じように、若さの崇拝は若さの商品化に過ぎず、若年層から活躍の機会を奪うのです。

従って最近の「若者」バブルは、とても胡散臭いと言わざるをえません。確かに現代は歴史的な大変革の時代であり、古い殻を破るのは若い力であるはず、というイメージはあります。しかし、そういうプラスの価値を持つ「若者」という存在は、まさに今社会の変化を阻む20世紀的価値観の最たるものです。だから、「若者たちの〜」などという言説から生まれる変化は、せいぜい古い価値観の範疇におけるまやかしの変化、たとえば尾崎豊的な反抗により生じる教科書通りの変化に過ぎず、抜本的な変革にはなりえないのです。

幕末のような大変革を担うのは、新しい価値観を備えた若い世代であるに違いありません。しかしその変革の波は「若者」の中からは生まれないのです。「若者」などというのは、所詮20世紀デパートの陳列棚に並んだ商品に過ぎないのですから。

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