2012年01月30日

「ハシズム」の本質

精神科医の香山リカさんが、1月27日に放送された「朝生」について書いています。

テレビの前で議論しても残る 橋下市政への違和感

文章だけ読むと、なるほどねーという感じですが、あの番組を見た人なら、呆れてしまうはずです。それほどまでにあの番組の、精神科医の香山リカさんを含む反橋下派の人たちは、ひどいものでした。ぼくはもともと、橋下氏にも維新の会にもあまり関心がなかったのですが、あの番組を見てよくわかりました。彼が推進する大阪都構想は、非常に説得力のある構想です。

「朝生」は、決して橋下氏をもちあげるような構成ではありませんでした。しかし結果として、ぼくのような「橋下しろうと」にも、彼の考えと行動を納得させてくれるほどに、橋下氏のワンマンショーでした。普通は政治家の話など、いかに説得力があろうと眠たくなるものです。でも、あの番組はとてもおもしろく、わかりやすく、彼の主張と魅力を伝えていました。

おもしろくてわかりやすい、などというと、反橋下派の人たちは、「だから彼は危険なのだ」と叫ぶに違いありません。でも、そうではないのです。生活からニュースワイドショーを極力排除しているぼくは、ネットで得られる記事を通じて、これまで橋下氏を、信念の政治家として好意的な印象を抱く一方で、キャッチーで甘い言葉を振りまくポピュリストのようにイメージしていました。しかし、あの番組を見てわかったのは、彼は特別おもしろくも、キャッチーでもないということでした。

確かに彼はプレゼン上手です。しかし彼のプレゼンは、たとえばかつての田中真紀子氏のように、ひたすら聴衆の感情に訴えて集団ヒステリーを煽る類のものではありませんし、スティーブ・ジョブスのような、カリスマで酔わせるタイプでもありません。ただひたすら理路整然としている、それに尽きるのです。

しかし彼のプレゼンは、スカっとします。その理由は、彼自身にあるのではありません。彼の敵、精神科医の香山リカさんのような人たちにあるのです。

いわば橋下劇場というのはプロレスのようなものです。反橋下派が「ヒャーッ!」とか「シャーッ!」とか雄叫びをあげながら、妙に仰々しい技で襲いかかるのを橋下氏に軽くいなされ、自爆して果てながらも、「フハハハハ!今日のところは見逃してやる。だが、第二、第三の反橋下派がお前の前に立ちふさがるだろう!」と捨て台詞をはくのが無性におもしろく、橋下氏のヒーローぶりを際だたせるのです。

だから、彼らが口にする「ハシズム」という現象の本質は、橋下氏のやり方でも、橋下氏を支持する世の中にあるのでもありません。「ハシズム」の本質は、理路整然として明晰なだけの橋下氏に震え上がり、そのくせドヤ顔で駄々をこねるしかできない反橋下軍団の歪みぶり、知的破産ぶりにあるのです。

冒頭にあげたエッセイで、精神科医の香山リカさんは、橋下氏が改革の末にどんな理想を描いているのか、それが示されないことに異議をとなえています。しかし彼女は、「朝生」でそのことを強く追及しませんでしたし、これまでもそれは、彼女の橋下批判の核心的な理由ではなかったはずです。ようするに彼女は、橋下氏への違和感、嫌悪感が先にあって、後付けでその理由をこねくりまわしているのです。

「朝生」を見ながら、ぼくは反橋下派の核心的動機を探ろうとしましたが、揚げ足取りばかりで結局最後までよくわかりませんでした。彼らは、橋下氏を嫌悪する理由を明確に述べることができず、むしろそれを避けているようにさえ見えました。なぜ彼らは橋下氏を嫌悪するのか?そしてその嫌悪の理由をうまく言語化できないのか?あるいは意図的にそれを避けているのか?心理学的にとても興味深いテーマだと思います。

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2012年01月29日

著作権保護かネットの自由か

違法コピー撲滅法(SOPA/PIPA)への反対運動は、アメリカのみならず世界において、新しい争点を浮き上がらせることになりました。「著作権保護」と「ネットの自由」の、どちらをとるかという争点です。

著作権を守り、違法コピーを取り締まるのは、正しいことのように思われます。しかし、実際にそれを取り締まろうとすると、ネットの自由を制限せざるをえないのです。どちらも大事という選択肢はありません。どちらかひとつなのです。

1月24日に発表されたラスムッセンの世論調査は、この件に関して興味深い結果を示しています。調査によれば、アメリカ人の67パーセントの有権者は、「映画をネットでタダでダウンロードするのは泥棒行為である」と考えています(「泥棒ではない」が18%、「わからない」が15%)。しかし、「違法ダウンロードと政府によるネット検閲のどちらを脅威と考えるか」の質問に対しては、71パーセントの有権者が、ネット検閲をより大きな脅威と考えると答えています。

違法コピー撲滅法反対運動により、新たな争点の存在を認識した人々は、今度はACTA(模倣品・海賊版拡散防止条約)への警鐘を鳴らし始めました。なぜACTAは危険なのか?なぜ今ACTAなのか?彼らの主張をQ&A形式でまとめてみました。

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Q:ACTAってなに?

A:日本が発案した、知的財産権保護のための国際通商条約です。中国などで横行する偽ブランド品の撲滅を大きな目的としているため、「偽ブランド品規制条約」とも呼ばれます。日米欧の主要国はすでに署名済みで、各国の議会で承認されると発効します。

Q:ACTAが発効されるとどうなるの?

A:ACTAは、ネットにおける「違法コピー」を模造品と同様にとらえているため、「違法コピー」を実行、幇助した個人は、偽ブランド品製作会社と同じ扱いを受けます。そしてACTAには、通商条約としては異例の、罰則規定が盛り込まれており、違反者は、巨額の罰金や禁固刑に処されます。

「違法コピー」するのはもちろん、著作権のあるデジタルデータにいかなる改変を加えることも違法となり(ファイルネームを変えるだけで違法となりえます)、そうした違法行為を行うサイトにリンクを貼るだけで、たとえ違法サイトと知らずにリンクしたのだとしても、共犯となります。BBSやSNS、サービスプロバイダは、共犯者とならないために、データ検閲の強化を強いられるようになります。

表現の自由とイノベーションを著しく侵害しかねないACTAに対し、「国境なき記者団」は、「著作権保護の名のもとに、ネットにおける表現の自由と情報へのアクセス権を犠牲にしてはならない」と反対を明らかにしています

Q:なぜそれほど重大な条約があまり話題にならないの?

A:ACTAが通商条約だからです。ACTAの内実は、基本的人権にかかわる重要な問題を含んでおり、本来であれば各国の議会で議論されるべきですが、通商条約であるばかりに、議会をスルーし、密室で協議されてきました。いわばACTAは、裏口から密かに導入されようとしているネット検閲法といえます。たとえACTAの内容に賛成だとしても、非民主的なやり方を認めるべきではありません。

→ACTAに反対する署名サイト
 Stop the biggest threat to Internet freedom

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2012年01月27日

自由の抑圧を先導する国日本

アメリカのネット検閲法案に端を発する著作権をめぐる新旧世界の摩擦は、あいからわず朦々と煙をあげています。

ポーランドでは、26日にACTA(偽造品の取引の防止に関する協定)に署名した政府に抗議するため、首都ワルシャワやルブリン、クラクフなどの各都市で、氷点下の中連日数万人が街頭に繰り出しています。



ポーランドの議会では、左派政党の議員が、全体主義への反対の象徴である、Vフォー・ヴェンデッタのマスクを被って抗議しました。

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しかし、ネット検閲に反対しているのは、左翼だけではありません。アメリカでは、超保守派と呼ばれるティー・パーティーをはじめ、保守派も頑強にネット検閲法に反対していますが、著作権保護とネット検閲への異議反対は、20世紀的な左右の対立を超えた、リバティを守る行為として認識されています。

FBIによるファイル共有サイト、メガアップロードの閉鎖をめぐっては、各国の海賊党が協力して訴訟の準備をしています。メガアップロードの閉鎖により、アクセス不能となった個人のデータを補償しろという訴訟です。メガアップロードにデータをアップロードしていた人は、以下のサイトから参加することができます。

Joint complaint of those affected by the closure of Megaupload service

ちなみに、ポーランド政府がACTAに署名した場所は、東京です。この協定についてはほとんど報道されないので、多くの日本人はまるで他人ごとのように感じているかもしれませんが、日本はすでに去年の秋に署名しています。というか、実は日本はACTAを主導している張本人で、今年中の協定発効を目指しています。人権を侵害し、ネットを殺す最終兵器ともいわれるACTAを、「偽ブランド防止協定」という聞こえのよいオブラートで包んで密かに進める日本政府と、それを黙認するマスコミは、つくづく誰のために働いているのかと唖然とさせられます。

今後ますます高まると見られる世界的な反ACTA運動の中、日本は悪の化石国家としての印象を強めていくに違いありません。

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2012年01月25日

三丁目の夕日と懐かしさ

「懐かしい」という言葉があります。これにあたる単語は、英語にはありません。

こちらの英語のエッセイによくまとめられているように、「懐かしい」にあたる英単語として「Nostalgic」をあげる人は多いですが、日本人が「懐かしいなー」と口にする調子で、「How nostalgic!」と感嘆したりすることはまずありません。「Nostalgic」という言葉は、現在を捨てて過去を取り戻したいという、マイナスかつ重い響きを持ち、「懐かしい」の持つ暖かみ、今日を生きつつ過去に思いを馳せる、前向きな軽やかさに欠けるのです。

英語人が「懐かしい」という感覚を持たないわけではありません。しかしそれに合う言葉がないので、「学生の頃を思い出すねー」とか「子供の頃よくここで遊んだっけなー」と、ケースバイケースでいちいち文章を組み立てなくてはならないのです。

だから日本語を勉強して、「懐かしい」という表現を覚えた英語人は、「Very Natsukasii」などと、日本語をそのまま使い始めたりします。「Natsukashii」はいい言葉なので、英語に根付かせようとしている人も結構見かけます。

さて、なんで「懐かしい」という言葉をとりあげたかというと、先日公開された映画「ALWAYS 三丁目の夕日」について考えていたからです。最新作はまだ見ていませんが、1作目と2作目は、たまらなく懐かしい気持ちにさせてくれる、いい映画でした。

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ところがぼくは、映画の舞台である昭和30年代にはまだ生まれておらず、あの時代を知りません。知りもしないのに、懐かしく思うなんてへんです。そう思ってウェブで調べてみたら、平成生まれの人までが、あの映画を見て「懐かしい」を連発しています。不思議なことです。

ひょっとして昭和30年代というのは、どの世代の人にとっても懐かしい、普遍的な懐かしさを秘めた時代なのでしょうか?いや、そうとは思えません。というのは、まさにあの時代を生きた、当の夕日町の住人にあたる人たちが、それほどあの時代を懐かしい時代としてとらえている気配がないからです。

たとえばぼくの両親は、あの時代にともに田舎から集団就職で上京し、下町で暮らしていました。父は町工場に就職して東京タワーの建設にもたずさわり、母はまさに「六ちゃん」のように、中卒で上京して住み込みで働きました。ところが2人とも、あの時代を懐かしく語ったことはありません。

うちの両親が特別なのではありません。両親の同世代の友人たちも、飲んだ席などであの時代を懐かしく語るのを、ほとんど聞いたことがありません。彼らが遠い目をして懐かしがるのは、きまって少年少女時代のことで、すいとんを食べたりすれば目を細め、「あの頃は貧乏だけどよかったなー。おまえも大人になればわかるだろうが、やっぱり子供のときが一番だ」などとさんざん言われたものです。

思うに、今でこそ昭和30年代の東京はほのぼのとした世界に見えますが、当時の社会を底辺で支えた大人たちからすれば、非人間的で、耐えるばかりの冷たい世界だったのかもしれません。田舎からよそ者が急激に押し寄せて激変する大都会は、人間関係もギスギスしていたでしょうし、とくにうちの両親のような田舎出身の若者からすれば、劣悪な住環境と、ろくな娯楽もない中ひたすら働く毎日で、腹ペコながらものびのびとした子供時代への想いをつのらせるばかりだったと想像されます。

ではなぜ平成生まれの人までがあの時代を懐かしく思うのでしょうか?おそらくは、あの時代を当然のこととして懐かしく思う世代、「三丁目の夕日」でいえば「淳之介」や「一平」に近い、当時子供だった世代の人々こそが、今の「日本」だからなのではないかと思います。

今の日本人の多くが漠然とイメージする日本は、時代を超えて存在するなにかではなく、昭和30年代の子供たちともに生まれ、成熟し、そして今衰えようとしている「日本」なのです。そういう感覚を多くの人が共有しているからこそ、あの時代はみなにとって懐かしく感じられるのではないでしょうか。

あの時代と関係ない人は、懐かしく感じるべきではないと言いたいのではありません。ぼくも「三丁目の夕日」は大好きです。建設中の東京タワーを見るだけで、そこで働く若い父を思い浮かべてウルウルきます。いかにそれが幻想であろうと、過去のある時代に懐かしさを感じて、あたたかい気持ちになれるのは、幸せな財産です。しかし、あの時代を神聖視し、「それと比べて今は…」と嘆いたり、過去への回帰を欲したりすれば、それはぜんぜん違います。

そういうのは、「懐かしい」という前向きな感情とは無縁な、後ろ向きな姿勢です。「あれは懐かしい時代だったなー。さーて今日もがんばるか!」という奇妙なまでの軽やかさこそが、昭和30年代はもちろん、何百年も前からずっとそうしてきた、懐かしいというすばらしい言葉を持つ日本人にふさわしい態度なのです。

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2012年01月23日

著作権は何を守るためにあるのか?

アメリカでは、ネット検閲法案SOPA/PIPAが、激しい抵抗を受けてお蔵入りしました。しかし、日米欧で交渉が進んでいるACTA(模造品・海賊版拡散防止条約)など、ネット検閲を目論む動きに止む気配はありません。むしろ、あせる既得権者たちは、さまざまなレトリックを使い、いよいよこれからネット検閲に本腰をいれてくるに違いありません。

そもそも、はたして著作権は必要なのでしょうか?よく、「違法コピー」は万引きと同じだといわれたりします。しかし、それは詭弁です。スーパーでリンゴを盗めば、スーパーからリンゴがなくなりますが、いくら音楽をコピーしても、音楽は誰からも奪われません。

あるいはこんな主張もされます。「違法コピーが蔓延すると、クリエーターが稼げなくなり、創作活動する動機が失われ、文化産業の発展が妨げられる」。そういわれると、そんなものかなと思えます。しかし、実情はそうではありません。

たとえばAV業界。AVといえば、ネットに落ちているものの代表です。ほとんどあらゆるアダルトビデオが、乱立するエロビデオ共有サイトや、ファイル共有サイト、トレントなどでダウンロードできます。AVにももちろん著作権はありますが、もともと後ろめたい業界であるせいか、音楽、映画、テレビ業界のように堂々と著作権保護を訴えられず、また訴えたところで焼け石に水なので、ノーガード状態でやられまくりです。

しかし、そのせいでAV業界が衰退したようには見えません。それどころか、Internet Pornography Statistics によれば、AV業界は活況を呈しまくっています。たとえば、アメリカにおけるポルノビデオの発売本数は、ネットの普及とともに爆発的に伸びています。

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また、ポルノ産業の各国収入を比べると、中国と韓国が他を圧倒していますが、中国と韓国といえば、言わずと知れた違法コピーのワイルドウエストです。違法ダウンロードでいくらでもタダで楽しめるというのに、そういう傾向が強ければ強いほど、なぜか男たちは懐をゆるめ、産業は潤うのです。

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では、質はどうでしょうか?違法ダウンロードにより、AV業界は粗悪品の量産を強いられ、年々質が低下したりしているでしょうか?そうとは思えません。AVの質はひとえに女優の質で測られますが、聞くところによれば、最近のAV女優の質はとてつもなくレベルアップしています。

というように、著作権がないがしろにされて違法ダウンロードが蔓延しても、しっかりとカネはまわり、産業は発展するのです。これはなにも現代のポルノ産業だけについていえることではありません。歴史的に見ても、そういう実例はいくらでもあります。

たとえば19世紀のアメリカでは、外国人に著作権はありませんでした。19世紀中庸に活躍したディケンズのようなイギリス人作家の本は、著者に著作権料を支払うことなく、いくらでもコピーして販売できたのです。しかし、おかげでイギリス人作家は大損したのかといえば、そんなことはありませんでした。

アメリカの出版社は、ライバルに先駆けて出版するために、イギリス人作家に多額のフィーを支払ったのです。そのためイギリス人作家は、著作権で守られたイギリスでの出版よりも、アメリカでの出版でより儲けることになったといいます。アメリカの方が人口が多いからではありません。当時の人口は、両国とも同じくらいでした。

著作権がないために、安価なコピー本が出まわり、それが読者層を開拓し、著者の知名度をあげ、著者の収入アップにつながったのです。安価なコピー版が出まわっても、著者にフィーを支払った「正規版」はしっかり売れ、読者も出版社も著者も、みんなハッピーでした。

というわけで、著作権が侵害されると、文化産業が育たないというのは「神話」でしかありません。泥棒でもなく、文化産業を衰退させもしない違法コピーは、ならばなんのために駆逐されねばならないのでしょうか?著作権を柱に構築された利権構造を守るため、ただそれに尽きます。


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2012年01月22日

赤くて赤くない青春映画

「映画芸術」誌が2011年の日本映画ベストテン&ワーストテンを発表していました。

2011年日本映画ベストテン&ワーストテン

「映画芸術」といえば観念左翼的な雑誌として知られ、毎年恒例のランキングは、妙にひねくれていることでネタ視されています。で、今年のランキングですが、「マイ・バック・ページ」がワースト映画にランクインしていて、さもありなんと思いました。

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「マイ・バック・ページ」は、赤い若者たちが熱く燃えた1970年前後の青春群像で、実際におきた極左による自衛官刺殺事件「赤衛軍事件」(映画の中では赤邦軍)を描いています。似たタイプの映画としては、2008年の「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」がありますが、同じ赤い青春映画でも、こちらは高評価していたので、落差が際立ちます。

赤衛軍事件は、60年代末から70年代初頭にかけて頻発した過激派事件の中で、異彩を放つ事件です。あまりの異質さ、醜悪さに、通常この事件は、一連の「若者の反乱」から除外して考えられています。

朝霞自衛官殺害事件

しかしぼくは、赤衛軍事件こそ、あの時代の急所を突く出来事と見ています。あの時代を振り返る論評は、総じてマスメディアを空気視し、時代を転がすビッグブラザーとしてのマスメディアの役割を無視しています。しかしこの事件では、マスメディアこそ主役で、怪物を作り、怪物に餌をやり、最後には怪物に噛まれてしまいます。

連合赤軍事件が、ビッグブラザーの手の平の上で踊る純粋まっすぐ君が行き着いた極北とするなら、赤衛軍事件は、サイコパス的な男が、トリックスターとしてビッグブラザーを発見し、ビッグブラザーを踊らせた事件なのです。

「マイ・バック・ページ」は、同名の原作を下敷きにしています。事件に関与して逮捕された元朝日新聞社員により書かれた原作は、あの時代を感傷的に振り返るのが流行した1980年代に書かれたせいか、とても感傷的です。著者にはあの時代がトラウマとして残っていて、感傷に流されてはいけないと必死に抵抗しているのですが、結局感傷的にならざるをえないような、そんな作品です。

4582834841マイ・バック・ページ - ある60年代の物語
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だからぼくは、映画を見るまでとても心配していました。時代の鍵を解く重大な事件が、感傷で処理されてしまうのではないかと。

しかしそれは杞憂でした。この映画は、松山ケンイチ演じるサイコパスのトリックスターを、同情する余地のない偽物として描きます。そのため、そんな小物に振り回されるまわりは、真剣に悩み、真剣に行動すればするほど、救いようのない戯画に堕していきます。そして、あの時代をゴミとして葬る直前に寸止めし、感傷のベールで包んで、肩を抱いてあげるのです。そんな映画が、あの時代を捨て切れない人に嫌な気分を抱かせるのは当然かもしれません。

この映画は、必ずしもマスメディアを攻撃する映画ではありません。妻夫木聡演じる雑誌記者の、サイコパス革命家君に対する「君は誰だ?」という問いかけに、「あなただ」と答えたりはしません。しかし、そういう見方を排除しないところに、映画作りの手練らしいうまさを感じさせます。

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2012年01月20日

SOPA/PIPA反対運動と新旧世界の衝突

先日、1月18日に、英語版のウィキペディアがサービスを24時間停止しました。ウィキペディアの他にも、ブログプラットフォームのワードプレスや、匿名掲示板のレディットなどがサービスを停止し、グーグルもロゴに黒をかぶせました。アメリカの議会で審議されているSOPA(Stop Online Piracy Act)とPIPA(Protect IP Act)を阻止するための抗議行動です。

この法案の主旨は、アメリカ国外の「著作権違反サイト」を無力化することにあります。成立すれば、著作権者からの抗議ひとつで、グーグルなどのサーチエンジンは検索結果からそのサイトを除外しなければならなくなり、またサービスプロバイダは、そのサイトへのアクセスをブロックする義務を負うようになります。「違反サイト」にリンクを貼ることはもちろん、監視の穴をくぐり抜ける方法を公開するのも違法とされ、当局の命令を無視すれば、違法な書き込みに場を提供したソーシャルサービスなどは、サービス停止を迫られることになります。

こんなことになれば、今あるネットの世界は崩壊します。そこで、グーグル、ツイッター、フェースブックなどの企業は法案反対を呼びかけ、アメリカのネット民は左右の対立を超えて共闘し、法案に賛同する企業に集団ボイコットを呼びかけるなどして抵抗し、あたかも新世界対旧世界の衝突の様相を呈しています。先日の抗議行動により、法案に賛成していた数名の議員は意見を翻しました。しかしまだ法案は生きており、予断を許しません。

そんな中、1月18日付で、法案のメインターゲットともいえるビットトレントサイト、ザ・パイレート・ベイが興味深い声明を発表していましたので、訳出しておきます。

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100年前、トーマス・エジソンは、「眼に対する蓄音機」にあたる装置の特許を取得した。彼はそれをキネトスコープと名付けた。彼は映像の撮影に成功したパイオニアの一人であるとともに、映像の特許を取得した最初の一人だった。

エジソンが映画の特許を取得したがために、アメリカの東海岸で映画を作ることは、高くつきすぎてほとんど不可能だった。そこで映画会社はカリフォルニアに移転し、今日のハリウッドを築くにいたった。カリフォルニアにはエジソンの特許がなかったからだ。著作権もあってないようなものだったために、映画会社は既存のストーリーをコピーして映画を撮影した。ディズニー最大のヒット作「ファンタジア」はその筆頭だ。

というわけで、今日知的財産の保護を叫ぶ業界の基礎は、知的財産権を回避したことにより築かれた。彼らは他人が創造した作品を、カネを払うことなくコピー(彼らはそれを「盗む」と呼ぶ)したのだ。がっぽり儲けるために。今日、彼らはみな成功し、ほとんどの映画制作会社はフォーチュン500に名を連ねる大企業だ。おめでとう!すべては他人の作品を使いまわしたからだね。そして今、彼らは他人の作品に対する権利を有している。なにかリリースしたければ、彼らのルールに従わなくてはならない。他人のルールを回避した後、彼らにより作られたルールにだ。

彼らが「海賊」に文句を言う理由は単純だ。ぼくらが彼らと同じことをしたから。ぼくらが彼らのルールを回避して、自分たちのルールを作ったからだ。ぼくらは人々により効果的なものを提供することで、彼らのモノポリーを壊した。ぼくらは、ときに107パーセントにも及ぶ中間搾取(そう、カネを払って働いているんだ)を取り除き、人々が直接にコミュニケーションをとれるようにした。すべては競争原理だ。もはや彼らは、今ある形では必要ない。ぼくらの方が優れているのだ。

おもしろいことに、ぼくらのルールはアメリカ建国の理念にとても近い。ぼくらは言論の自由のために戦う。ぼくらは、すべての人は平等だと考える。ぼくらは、エリートではなく大衆が国を治めるべきだと信じている。ぼくらは、法律は大企業のためではなく、民衆のために作られるべきと信じている。

ザ・パイレート・ベイは国際的なコミュニティだ。チームは世界中に散らばっているが、アメリカでは活動できない。ぼくらのルーツはスウェーデンにあるが、あるスウェーデン人がこんなことを言っていた。SOPAはスウェーデン語で「ゴミ」を意味し、PIPAは「パイプ」を意味すると。もちろんこれは偶然だが、まさに彼らはインターネットを一方通行のパイプにしようとしている。上にいるのは彼らで、パイプの下にいる従順な消費者に、無理やりゴミを食らわせるのだ。この件に関して人々の意見は明らかだ。誰に聞いても、ゴミを食わされて満足する者などいないだろう。アメリカ政府がなぜ国民にゴミを食わせようとするのかはぼくらの理解を超えている。しかしぼくらは、みんながゴミに溺れてしまう前に、政府の改心を願っている。

SOPAはザ・パイレート・ベイを止めることはできない。最悪の場合でも、ぼくらはトップレベルのドメインを現在の.orgから、すでに使用している数百の別のネームのうちのどれかに変更すればすむことだ。ザ・パイレート・ベイをブロックしている国、中国とサウジアラビアがまず浮かぶけれど、そういう国はぼくらの数百のドメインネームをブロックしている。それで効果が出ているかい?とんでもない。

「違法コピーの問題」を解決するには、問題の本質まで問わなくてはならない。エンターテイメント業界は「文化」を創っていると言うが、実際に彼らがしているのは、ボッタクリ価格をつけた人形を売り、11歳の少女を拒食症にしたりとか、そんなことばかりだ。ある少女は人形工場でタダ同然でこき使われて、別の少女は映画とテレビを見て、太りすぎだと思い込んで。

偉大なるシド・マイヤーズのゲーム「シヴィライゼーション」では、文化遺産を建築することができる。そのうち最も威力があるもののひとつがハリウッドだ。ハリウッドがあれば、世界の文化とメディアを支配することができる。マイスペースを買収したルパート・マードックは、事業に失敗するまでは、マイスペースで横行する海賊行為を気にもとめていなかった。今や彼は、グーグルこそが海賊行為の大元締めだと文句を言っている。嫉妬からだ。彼は人々をマインドコントロールし続けようとしているが、フォックスニュースよりも、ウィキペディアとグーグルに頼った方が、より確かな見識を持つことができる。

このプレスリリース内のいくつかのデータ(年度、日付)には、たぶん間違いがあるだろう。ウィキペディアが停止していたため、情報を確認できなかったからだ。競争に負けた者たちからのプレッシャーのためだ。その点は陳謝します。

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<追記1>
本日、米政府の圧力でメガアップロードが閉鎖されました。

Feds Shut Down Megaupload.com File-Sharing Website

18日の抗議行動に対する見せしめと思われます。もしこのまま権利者団体と政府の圧力が強まり、以前から睨まれている2ちゃんねるのアメリカ版と呼ばれる4チャンが閉鎖されでもしたら、ネット戦争が始まるかもしれません。

<追記2>
ハッカー集団の「アノニマス」が、メガアップロードの閉鎖に抗議して、.govドメインと音楽レーベルにハッキング攻撃を開始したようです。

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2012年01月19日

はじめから腐っていたマスメディア

日本のメディア業界に「先がない」ことには同意します。

内田 樹「腐ったマスメディアの方程式」

しかし、「その最大の原因は、ネットの台頭よりもむしろ、従来型マスメディア自身の力が落ちたこと、ジャーナリストたちが知的に劣化したこと」という見立ては違うと思います。

内田さんは、彼が学生だった1970年頃若者に人気だった「朝日ジャーナル」をクオリティの高い活字メディアとしてあげています。しかし、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で名を馳せた左翼雑誌「朝日ジャーナル」を読んだ若者たちが何をしたのかといえば、むやみに学校をバリケードで封鎖し、公共施設を破壊し、内ゲバで仲間を傷つけあい、あげくに陰惨なテロに身を投じる者も出るなど、多くの人に今なお消えない傷を残したのでした。

あれこそむしろ、内田さんの述べる、「本能的に変化を好」み、「『浮き足立て』『興奮しろ』『取り乱せ』ということを要求し、平静にやっていると、『緊張感がない』と怒り出す。冷静に物事の真相を見ようという姿勢とは程遠い」腐った報道の典型ではなかろうかと思います。

マスメディアはいつの時代もそうなのです。よきマスメディアなどというのは、どこにも存在したことのない幻想であり、今日のマスメディアの凋落は、ネットの普及により、そんなマスメディア幻想が崩れてゆく現れなのです。

マスメディアというのは、マスメディアであるがゆえに、情報機関として機能しないという致命的な欠陥を持ちます。

どういうことかというと、たとえば1万人にリーチするブログで語られた真実/有益な情報は、同じことが1000万人にリーチするテレビで語られると、嘘/有害な情報になってしまうのです。

たとえば、ある製薬会社が画期的な新薬を発明したとします。すると株価は間違いなく上がるはずです。「A社の株は上がる」という情報は、正しい情報です。しかし、この情報が1000万人の人に伝わると、誤った情報に変質します。株価はバブル状態となり、暴落するからです。

あるいは、許しがたい政府の不正が露見したとします。「政府はおかしい!」という憤りを表明するのに、何らおかしな点はありません。しかし、この憤りが1000万人の人に一度に伝わると、憤りはバブル状態となり、不正にあたいする憤りを超えた集団ヒステリーを大衆に引き起こします。そしておうおうにして、政府の不正以上のダメージを社会にもたらすことになります。

というように、マスメディアが伝える情報は、あまりに多くの人に届きすぎるという理由により、あらゆる情報がバブル化し、真実/有益な情報が、嘘/有害な情報へと転化してしまうのです。

ならばマスメディアは、ただ淡々と事実のみを伝えればよいと考える人は多いと思います。しかしそれでは、人間の情報欲を満たすことができません。人間が欲するのは無味乾燥なデータではなく、データの解釈であり、物語だからです。

たとえば放射能漏れ事故について、データだけ提示し、解釈を留保する報道をしていると、人々は「なぜ危険を危険と言えない?」「なぜ安全を安全と言えない?」とイライラしてきます。そして、そんなお茶を濁したような報道に疑心暗鬼になります。

それではと読者/視聴者の欲求に応え、「危険だ」「安全だ」とズバリ伝えれば、レベル1の危険はレベル10の危険へと膨らみ、1の安全は10の安全へと膨らみ、マスメディアは有害な扇動装置へと姿を変えてしまいます。

マスメディアというのは、19世紀の末に誕生して以来、この2つの極の間で右往左往し、そしてバランスを保ち続けることが人知を超えた神業であるがゆえに、定期的に暴発して社会を奈落の底に突き落としてきました。

いわばマスメディアというのは、都心に屹立するチェルノブイリ型の原子炉のようなものです。危険際まわりないシロモノで、しばしば大事故を起こしてきたけれども、電力の供給源としてそれに代わるものがないという理由で、だましだまし使い続けてきたのです。

ではマスメディアはどうすればいいのか?内田さんは、「『この番組は数万人見てくれればいい』と割り切った番組作り」をして「ミドルメディア化」し、「旗幟鮮明にしていかなければ、生き残ることは難しい」と述べています。

もはや現代にマスメディアは存在しえず、ミドルメディア、マイクロメディアのみしか生存しえないという点については同意します。しかし、マスメディアとしての大量の読者/視聴者を抱えたままで、論調のみミドルメディア化するのは、危険極まりない処方と言わざるを得ません。それは、毒を抜かないフグを全国のイオンで売るようなものです。

今あるマスメディアは、無味乾燥なデータのみをたんたんと伝える通信社となるか、そうでなければ、読者/視聴者がミドルメディアといえるレベルに落ちるまで、衰弱するにまかせるしかありません。そしてそれを取り巻く社会は、マスメディアの速やかな自然死をうながし、へたな救済措置でゾンビ化しないように目を光らせるべきなのです。

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2012年01月17日

バルチック海運指数が暴落している件

バルチック海運指数(BDI)という指数があります。簡単にいえば、タンカー運賃の値動きの指数です。タンカーというのは、建造に時間がかかる一方で、未使用のタンカーを寝かせておくわけにもいかないので、世界の貿易状況を敏感に表すといわれています。景気が良ければモノが盛んに取引されてこの指数はあがり、需要が落ちるとこの指数はさがります。

さて、この指数が最近暴落しています。去年10月から50パーセント低下し、12月からはフリーフォールです。

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バルチック海運指数は、実体経済の状況を表す指数といえます。しかし、近年の株価は実体経済から乖離していますので、投資の参考にしにくいとされ、それほど注目されません。というわけで今、バルチック海運指数は、密かに暴落しているのです。

なぜ暴落しているのか、明確に説明できる人はいません。ある人は、貿易が落ち込んでいるのではなく、巨大タンカーの需要が減ったのだといいます。またある人は、中国経済がクラッシュしたのだといいます。BDIは、国家絡みで粉飾している中国経済の実情を反映する指数ともいわれているからです。

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2012年01月15日

経済学者が自信満々なワケ

とても日本的な意見だなと思います。

なぜ経済学者は自信満々なのか

この記事の筆者は、専門外のさまざまなことに上から目線で口を出す経済学者の傲慢を批判し、「経済学教授はよっぽどヒマなのか、論文書けよ、さもなきゃ講義しろよと言いたくなる」と書きます。

このような意見の根元にあるのは、学者というものは、難解な専門分野の研究に全力を投入するべきであり、俗世間のことについてネットであれこれ発言するのは邪道だという考えです。

なるほど、とくに理工系の学問では、その見方は正しいのかもしれません。専門外のことにあれこれ意見するヒマがあったら、自分の専門分野に没頭して、新しい発見をすることに全力を注ぐべきなのだろうと思います。

しかし、ある種の学問についていえば、その見方はあたりません。経済学はその代表です。

経済学の目的は、経済の発展に貢献することです。そのためには、研究の成果が政策に取り入れられる必要があります。民主主義国家においては、それは民衆に支持されることと同義です。そのために、経済学者は民衆と対話しなければならないのです。

象牙の塔にこもり、画期的な経済原則を発見したところで、「講義や論文で忙しく、とてもネットに書いてる暇なんてない」状態で、その原則が民衆に伝わらないのであれば、ほとんど意味はありません。

それよりも、たとえ画期的な発見はできなくても、経済の基本について民衆を啓蒙し、ポピュリストの甘言にだまされないようにする方が、よほど経済の発展に寄与するというものです。

だから民主主義意識の強いアメリカでは、高名な経済学者でも積極的にブログを開設し、頻繁に更新しています。そしてたいていの場合、誰にでもわかる平易な表現で書かれています。

それぞれの経済原則を支えるには、もちろん難解な数式や専門用語を駆使しての思考が必要です。しかし経済学というのは、難解な部分だけで完結する学問ではなく、それをわかりやすい言葉でプレゼンできてはじめて完成する学問なのです。

日本では、経済学というと経済学用語を覚えることのような雰囲気があり、難解な専門性ばかりがフレームアップされがちですが、わからないものをありがたがる=言葉を権威付けに使う日本文化と、言葉を理解のための道具と見るアメリカ文化の違いかもしれません。

いずれにしても、そういう理由で経済学者は雄弁に語り、意見を異にする者と論戦を戦わせがちなのです。多くを語ろうとしない経済学者は、謙虚なのではありません。経済学者としての資質に欠けるか、民衆の理解など必要ない=経済は一部のエリートによる操作により決すると考えている経済学者です。

さて、そんな「よき経済学者」はいろいろなことに口を出します。たとえば原発問題などについて、「なぜか突然、放射性物質の知識が豊富になり、マスコミに代わって警鐘を鳴ら」したりします。しかしそれは、必ずしも傲慢だからではありません。

経済学というのは、「トレードオフ学」と言い換えてもいい側面があり、直情的な反応をしがちな世間に対して、それにより生じるトレードオフを示すのは、経済学者の仕事のひとつだからです。

ぼくは経済学の素人ですし、経済学者の応援団でもありません。しかし、経済学者の議論の柱にあるトレードオフの考え方などは、国民全員が常識として身につけるべきリテラシーだと思います。また、経済学者の意見を否定するのではなく、乗り越える形でなければ、何事においても有効性はないと考えています。

特に、先進国としては恥ずべき、空前絶後のポピュリスト政権を誕生させてしまった日本においては、今は経済学者を揶揄すときではありません。より多くの経済学者が、より平易な言葉で民衆に語りかけ、民衆の中で議論することを求めるべきときなのです。

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2012年01月14日

中国の求愛と日本の求愛

前回は、映画「フラワーズ・オブ・ウォー」について書きましたが、そこで見られた中国流の愛の表現について書き留めておきたいと思います。

前回も書きましたが、あの映画は、中国のアメリカに対する求愛のポーズだとぼくは解釈します。そしてそのポーズは、「ありのままの私を受け入れてください。そうすれば、あなたも幸せになります」というものでした。

これは日本人の目から見て、どこか変だと言わざるをえません。日本的な感覚に従えば、求愛というものは、まず自分の気持を表すものです。「わたしはあなたを愛しています。だからあなたもわたしを愛してください」というものです。

あの映画に見られる中国流の求愛表現は、決して特殊なものではありません。そして日本的な感覚と中国的な感覚の齟齬は、過去の日中関係にたびたび表出しています。

1920年代の日本は、中国と比較的良好な関係を結んでいました。当時の中国は内乱状態にありましたが、日本は国民党政府に肩入れし、国民党を信用していない列強各国とのパイプ役を務めていました。

その頂点は、1927年の第一次南京事件でした。南京の外国人を襲撃した国民党軍に対し、英米は武力による懲罰を訴えました。しかし日本は列強に忍耐を説いて説得しました。「わたしはあなたを愛しています。だからあなたもわたしを愛してください」です。

しかし、この中国に対する日本の求愛行為以降、なぜか中国人は日本人を襲撃するようになりました。漢口事件、済南事件と日本人居留民は甚大な被害を受け、裏切られたと感じた日本は、一転して「暴支膺懲」へと進んでいくことになります。

日本は、愛情を示すことで中国の歩み寄りを期待しましたが、中国の辞書には、そんな愛情の形はありません。中国を愛しているのなら、ありのままの中国を受け入れよというわけで、どんどんわがままの度を強くしたのです。

中国人からすれば、中国愛を口にしながら、ありのままの中国を受け入れてくれない日本は不実としか映らず、「愛してるなんて嘘じゃないか!人の心を惑わして、オレたちを奴隷にするつもりだな!」と抗日の思いを新たにしたに違いありません

なお、1920年代の対中宥和政策で日本が失ったのは、中国人の信用だけではありませんでした。中国の安定のために、共同戦線の構築を求めていた列強は、日本の中国ラブぶりに愛想を尽かし、日本は国際社会でも孤立の度合いを深めたのです。

同じような構図は、1990年代にも再現されました。天安門事件で国際的に孤立していた中国に対し、日本は天皇を訪中させ、中国の国際社会復帰を助けました。

「ありのままの私を受け入れてください」という中国のラブコールに、日本は「あなたも私を愛してください」というつもりで応えたのです。その後どうなったかは言わずもがなで、中国は歴史カードを軸に国内外で日本バッシングにいそしみ、日本の国際的地位を著しく損ねたのでした。

中国を愛するということは、愛の見返りを求めてはならず、中国のすべてを認め、すべてを抱きしめるということなのです。そして、愛を表明しておきながら中国のわがままを認めないことは、逆に恨みを買うことになるのです。

日本人から見れば、中国の愛情感覚はわがままでひとりよがりに見えます。しかし、一歩引いて見てみれば、「わたしはあなたを愛しています。だからあなたもわたしを愛して下さい」という日本的な求愛のポーズも、一歩間違えばストーカーで、ずいぶんとひとりよがりです。

国際的な見地に立てば、日本的な求愛表現は異質です。求愛の基本は、「私はあなたに愛して欲しい。だからあなた好みになります」です。愛は与えるもので、見返りを求めるものではないのです。

だから日本は、国際関係においておうおうにして、ラブコールをすることで却って疑念を招いたりします。愛していると口に出しながら、ぜんぜん「あなた好み」になろうとしないからです。

戦前の日米関係などはその好例です。大正期の日本は、ありとあらゆるアメリカ文化を受け入れ、アメリカにラブコールを送り続けていました。しかしアメリカからすれば、ただ好き好きと言うばかりで一向にアメリカ好みになろうとしない日本は、口先だけのずる賢いヤツとしか見えませんでした。

だから日本のラブコールをスルーして、日本人移民を規制したりしたのですが、これに対して日本は、「こんなに愛してるのに!ムキーッ!」と逆切れてしまいました。

中国の求愛は変ですが、日本の求愛も変で、まあ、すべてを捧げるつもりもなしに、情では動くなということです。

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2012年01月13日

フラワーズ・オブ・ウォーはお花畑

反日プロパガンダともいわれる、「南京大虐殺」を描いた映画「フラワーズ・オブ・ウォー」を見ました。

中国では、映画を見た女優が「日本人、くそったれ!」とマイクロブログに書きこんだそうですが、この映画のメインテーマは、反日を煽ることではないと思います。中国を聡明で可憐でか弱い女性として描き、そんな中国を愛し、正しい道へ進めと、アメリカ人に訴える映画です。

暴虐な日本軍はそのダシとしてのみ存在しており、従って日本軍の悪辣ぶりの描き方は、それを主題とするにはいかにも雑です。しかしそれだけに、日本軍は純粋ヒャッハーに昇華しており、ヒャッハーマニア必見の一本に仕上がっています。

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「ヒャッハー!」と雄叫びをあげながら少女をレイプする日本軍

主人公は、クリスチャン・ベール演じるアメリカ人のジョン・ミラー。彼は死人に死化粧を施す「おくりびと」で、戦乱のさなかでもカネと女のことしか考えないろくでなしです。そんな彼が、ひょんなことから教会の神父役を引き受け、教会に避難した少女と売春婦たちを守るはめになり、やがてヒューマンな愛に目覚めていきます。

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杯を交わす米中。見え見えです


一見ろくでなしの物質主義者で、でもハートは大きいというジョン・ミラーは、クリシェ中のクリシェで、アメリカを象徴しています。そして中国を象徴するのは、辛い過去を持つ聡明な売春婦モーです。ジョン・ミラーのモーへの愛の告白こそ、この映画のすべてです。

ジョン:
The way you are now, is what I like the best.
I see you.
I see everything that you've been through.
And I want all of that, Mo.
I want all of it.
I love it.
I love it all.

モー:
Are you going to fall in love with me?

ジョン:
I already have.

アメリカにこう告白して欲しいという、中国政府の想いです。しかし、アメリカ人の遊び人にコロリとなびく中国美女という図式は、人民男子に不満を抱かせかねません。そこでこの映画は、序盤に時間をかけてリー中尉の活躍を描いています。

リー中尉の部隊は、物量で攻める日本軍に決死の特攻で立ち向かい、戦車を何台も破壊する大戦果をあげ、最後に一人残ったリー中尉は、女性たちを守るために大立ち回りを演じ、3、40人の日本兵を道連れに散ります。

映画の前半で死んでしまうリー中尉の活躍は、本筋とは何の関係もありません。しかしやたらと時間をかけて描くために、作品の長尺化(2時間20分)の主因となってしまっています。本来ならカットするところでしょうが、人民男子をなだめるためには、やむを得ない処置であったと思われます。

さて、そんな中国人民とアメリカのラブ・アフェアーの盛り上げ役を務めるわが日本軍は、登場したハナから女狩りに夢中で、おかげで中国軍の残党にこてんぱんにやられてしまいます。

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「フヒヒヒヒ・・・」日本軍はこんなザコキャラばかり


さらに少女しかいない教会にいきなり銃を乱射しながら押し入ると、「女だ!女だ!」「ヒャッハー!」「いっただっきまーす!」とか叫びながら殺しとレイプを楽しみ、その隙をつかれてリー中尉に全滅させられる始末。そして、レイパーたる日本軍の通ったあとには、おきまりの凄惨な死体。

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陰部に棒をつっこまれた死体。だからこれは通州事件の日本人被害者だと何度・・・


と、渡部篤郎演じる長谷川大佐が現れ、ジョン・ミラーに一部兵士の非行をわびると、「教会の安全は保証します」と紳士な態度を見せます。あれ、前評判と違い、結構抑えた描き方してるんだーと油断していると、とんでもありません。実は祝勝会でレイプ大会を開くために、獲物である少女たちを確保していただけという落ちでした。

こんな雑な作りでは、人民はともかく、アメリカ人は釣れないよ。こんな映画をドヤ顔で作っているようでは、中国はまだまだだなと思わせてくれる作品でした。

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2012年01月10日

尾崎豊はどこにもいなかった

成人の日の社説で、朝日新聞が尾崎豊を礼賛していました。朝日新聞は、尾崎豊逝去15周年にあたる2007年にも大々的に尾崎礼賛をしており、よほど尾崎豊に心酔しているようです。

成人の日にー尾崎豊を知っているか

社説では、大学の授業で学生に尾崎の歌を聴かせ、感想を問うてきたという、精神科医の香山リカ氏のエピソードを紹介してますが、5年前もやはりこのエピソードを紹介し、ここ数年批判的な意見が増えていると嘆かせていました。

5年前の記事では、尾崎の歌に対する若者の反応として、「まわりに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」「ひとりよがりの詞で不愉快」などの意見を紹介し、今回の社説では、「自己中心的なだけじゃないのか」「何が不満かわからない」という声をあげています。

現在も5年前も、尾崎豊の歌に対する感想は同じなのですね。では10年前、20年前、そしてそれ以前の若者はどう見ていたのでしょうか?10年前の若者がどう見ていたかはぼくにはわかりません。でも、それより前の時代の若者がどう見ていたかはわかります。ぼくは尾崎豊と同世代ですから。で、どう見ていたかというと、今の若者と同じでした。

朝日新聞のように権威ある言論機関がさかんに尾崎豊を宣伝するので、最近の若い人の中には、1980年代の若者は尾崎豊ワールドに生きていたと思う人もいるかもしれません。そんなことはありません。サンプルとして、試しに妻に「おまえたしか、尾崎豊好きだったよな?」とカマをかけてみたら、「バカにするな」と怒られました。

80年代という時代は、尾崎豊をありがたがるには擦れすぎていました。ぼくの友人には、ビートたけしの信奉者が何人かいましたが、時代の空気としては、往時の彼のようなシニカルな態度の方がしっくりきます。また、年長者の顔をしかめさせる反抗的音楽としては、インモラルなパンクや、無機質なピコピコサウンドがありました。そんな中にあり、尾崎豊ワールドというのは、好きな人に歩絵夢を書いて贈ってしまうような、なんとも言えないきまりの悪さを漂わせていました。

だいたい、バイクを盗んで乗り回したり、校舎のガラスを割って歩くなどという、尾崎の詞にある自分探しの発露は、彼と同世代の者からすると、ひどく非現実的でした。「校内暴力」全盛の当時、たしかにそういう反社会的行為をマスコミは連日伝えました。しかし、それを自分探しと結びつけるのは「金八先生」の世界であり、現実世界でそういう行為をしていたのは、弱い者からカツアゲしてケロリとしている感性の鈍いヤンキー、DQNばかりでした。

要するに尾崎豊というのは、登場した時から若者の感覚とズレていたのです。

ぼくが20歳のころ、バイト先の上司だった30代後半の女性に、学生運動をしていたときの話を聞かされました。「冬の寒い夜、校舎をバリケードで塞いで、大きなかがり火をたいて気勢を上げていたら、まわりの桜の木が狂い咲きしたのよ…」と振り返る彼女の青春の風景は、尾崎豊ワールドそのものだと感じたものです。

思うに尾崎豊というのは、登場した当初から若者のイコンなどではありませんでした。彼は当時の年配者の郷愁をくすぐる、括弧つきの「若者」の象徴、年長者の玩具として生まれ、走り、死んだのです。

朝日新聞的な尾崎豊礼賛をする人は、総じて50歳以上の人たちです。彼らは、尾崎豊を理解できない現代の若者に対して、「成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と驚いたり(香山リカ)、「彼の歌は、内面に深く食い込んできて、いまの若い人にとって触れて欲しくないところに及ぶ」と推測(吉岡忍)したりしています。しかし、尾崎豊ワールドを理解した若者世代など、最初からどこにも存在しませんでした。

現代の若者たちに、自分たちと同じように考え、行動して欲しいのであれば、率直にそう主張するべきです。デモ行進して打倒日帝米帝を叫び、みなで肩を組んで青春の歌を歌い、青臭い議論に花を咲かせて欲しいならそう訴えるべきです。妙なイコンを捏造して、そちらに誘導しようとするのは姑息なことこの上ありません。

また、80年代に思春期、青春期を過ごしたぼくにすれば、尾崎豊を神格化するのは、あの頃の記憶に土足で踏み入られて、勝手に書きかえられているような気分の悪さを覚えます。自分たちの青春を大事にするのは結構ですが、そのために他の世代の青春を踏みにじるのは、まさに青春の冒涜とは言えますまいか。

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2012年01月09日

ステマと2.26事件と若者の反乱

ステマということについて考えていたら、あるいはこのステマという言葉、そしてそれが日常語になりつつある現在の状況は、日本社会に大きなパラダイム転換をもたらすのではないかと思うようになりました。

いうまでもなく、ステマという現象は、テレビや新聞が描くようなネット限定の闇ではありません。情報メディアに必ずつきまとう問題です。そして、ステマを意識するということは、ネットだろうとテレビだろうと新聞だろうと、あらゆる情報メディアに疑いの目を向けること、情報メディアを外部化して見つめることにつながります。

実はこれまでの日本の社会は、おそらく他のどの先進国にもまして、それができない社会でした。

どういうことかというと、たとえば、ある新聞が偏向報道をしたとすると、20世紀の日本人は、それを「異常なこと」と認識しました。あらゆる新聞報道が大小の偏向に満ちていて、今回はたまたまヘマしてバレたのだという風には考えられませんでした。悪いのは偏向や捏造であると考え、新聞報道とは常にそうであること、新聞というシステム自体が根源的な問題を孕んでいることには、思い至りませんでした。

いわば日本人は、テレビや新聞というマスメディアを、空気のような存在ととらえてきたのです。咳が止まらないのは、どこかの煙突から出ている煤煙のせいであり、空気そのものに原因を求めるのはバカげています。だから、社会のあり方に最も批判的な者でさえ、悪いマスメディアを批判することはあっても、マスメディアそのものを対象として批判することはありませんでした。

それは、日本の近現代史における2度の体制転覆の試みにもあらわれています。

1936年の2.26事件、陸軍の青年将校たちが、「昭和維新」を唱えて新政府樹立を謀ったこのクーデターは、あと一歩で成功したといわれています。しかし2つのミスにより失敗しました。ひとつは皇居を封鎖しなかったこと。そしてもうひとつが、ラジオ局を占拠しなかったことです。

皇居を封鎖しなかったのは、天皇を崇拝していた彼らからすれば仕方ない気がします。しかし、ラジオ局を抑えなかったのは解せません。1925年から放送が開始されたラジオは、当時破壊的な影響力を持っており、もし反乱軍がラジオ局を占拠して自分たちの主張を放送すれば、政府は万事休すでした。

ラジオと並ぶマスメディアである新聞の方は、一応反乱軍は襲撃しました。しかし、普段から反軍的な論調をしていた朝日新聞に乗り込んだ反乱軍は、自分たちの主張を記事にして配布させるわけでもなく、新聞社を徹底的に破壊するでもなく、ただ活字ケースをひっくり返しただけで、ほんの1時間で引き上げてしまいました。

こうした行動からわかるのは、あきれるほどのマスメディアの軽視です。青年将校たちは「体制」の転覆を目指していましたが、彼らの考える「体制」には、ラジオも新聞も含まれていなかったのです。

マスメディアの力を過小評価していたとは考えられません。当時のラジオアナウンサーは、軍人も最敬礼するほどの名士であり、新聞記者は政治家のアドバイザーで、すでに社会はマスメディア時代の渦中にありました。また、反乱軍に最終的に投降をうながしたのが、有名な「兵に告ぐ」のラジオ放送であったことも、彼らにとっていかにラジオの存在が大きかったかを示しています。



しかし彼らは、ラジオと新聞を放置しました。他でもないマスメディアにより、不穏な時代の空気が増幅される中、彼らこそ最も深くその空気を吸い込み、いわばステマに釣られた存在だったからです。マスメディアが設定したリングの上で戦う彼らに、ビッグブラザーの姿は見えなかったのです。

1960年代末に日本革命を夢見た極左の若者たちも同じでした。

極左の過激派は、数千、ときには数万の徒党を組み、鉄パイプや火炎瓶で武装して、さまざまな施設に襲撃を繰り返しました。当時は過激派に共感を寄せる市民も相当数いて、米軍の燃料輸送の拠点だった新宿駅では、一般人を交えて大暴動を繰り広げるなど、革命は夢物語とは言い切れない雰囲気がありました。

そんな、本気で革命を志向し、侮れない戦闘力を誇った彼らですが、なぜかテレビ局や新聞社を破壊/奪取しようとすることはありませんでした。

60年代末は、日本だけでなく、世界中で極左の若者たちが大騒ぎしたのですが、たとえばドイツでは、若者たちの最初のターゲットになったのは、メディア・コングロマリットでした。同志が襲撃されると、それを煽ったと目される新聞社前で大規模デモを行い、運動が過激化すると、まず爆弾を仕掛けたのは新聞社でした。マスメディアを華麗にスルーした日本の若者たちと好対照です。

日本の若者たちが、テレビや新聞に無関心だったわけではありません。「よど号ハイジャック事件」の犯行グループが、「われわれはあしたのジョーである」との声明を出したように、彼らはおうおうにしてマンガや映画のキャラに自分たちを重ねあわせ、流行歌を口ずさみながらテロに向かうなど、マスメディアが奏でる商品主義に浸りきっていました。また、テレビや雑誌で報道される過激派のカッコよさに憧れて運動に参加した若者たちもたくさんおり、示威行動の多くは、テレビ映りや写真写りを意識して行われました。

そんな彼らでしたが、やはりここでも、彼らの考える「体制」には、マスメディアは含まれていませんでした。高度成長の中で人間性を蔑ろにされ、大量生産される商品のように扱われていると感じ、そんな体制からの解放を叫んだ彼ら。実は彼らにそう感じさせた主犯は、システムとしていよいよ完成の域に近づき、彼らをステマ漬けにして操るマスメディアであったにもかかわらずです。

マスメディアの作り出した情報空間に完全に囚われ、その中で暴れていた彼らの革命が、テレビ史上に残る伝説的高視聴率をあげた「あさま山荘事件」で決定的に潰えたのは、これ以上ないふさわしいエンディングでした。

さて、そんな風に、命をかけるほどに思いつめても、情報メディアを外部化できなかった日本社会ですが、「ステマ」という言葉は、その呪文を口にする者に、いとも簡単に高い壁を超えさせてしまいます。ステルスマーケティングという仰々しい外来語から、ステマという子供にも扱える日本語への進化は、2.26事件よりも、60年代の若者の反乱よりも、根源的な破壊力を秘めた革命的なできごとなのかもしれません。

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2012年01月07日

マーケティング・リテラシー

食べログの「ステマ業者」発覚を、テレビ各局がいやに熱心に伝えていました。今さら感溢れる報道で、今どきあの程度の安易なステルスマーケティングにホイホイ釣られる無垢な人などいるのだろうかと思いますが、まあテレビ局からすれば、ネットの闇をステマするいい機会なのかもしれません。

それはともかく、ステマはウザいです。ユーチューブで数千万ビューを稼ぐKポップアーティストを見るたびに、哀れみを感じるとともに、なんとか掃除する方法はないかとため息が出ます。でも、根絶する方法はありません。各サイトがいくら警戒しても、ステマ業者はウラをかいて、対症療法にしかなりません。

結局ステマをなくすには、その大元である、モノを売りたい側、ステマ業者に発注する側に、マーケティング・リテラシーとでもいうものを身につけてもらうしかないのだと思います

どういうことかというと、ステマというのは、バレたときの反動が極めて大きい、愚策中の愚策だということです。今回の食べログの件でも、ステマ業者に発注した店は、もし店名が表に出たなら、廃業は必至です。それまでコツコツと築いてきた客の信頼を、瞬時にして半永久的に失うことになりかねないステマは、万が一バレたときのリスクを考えると、とても割りに合わないのです。

一昔前なら、お店の経営者にできる広告展開は、せいぜいチラシとかサービス券の配布くらいで、マーケティングに関するリテラシーはそれほど必要ありませんでした。しかし今は違います。いかに小さな店の主でも、ネットを利用するのであれば、宣伝の基礎を知り、客の信頼を裏切る破滅的宣伝をしないように気をつけ、悪徳業者にそそのかされないようにしなければならないのです。

ぼくがレストランのオーナーだとするなら、いくら食べログのランクをあげるのが至上命令だとしても、絶対にステマ業者など使いません。自力であげるチャンスはいくらでもあるからです。

たとえば、ネットを通じて新メニューのテスターを募集します。何組かカップルでディナーに招待して、店主直々に新メニューとサービスについての意見を聞き、それを店の改善に取り入れると約束するのです。そうすれば、テスターのうちの何人かは、必ずやランキングサイトに投稿してくれるはずです。しかも、ステマ業者などにはおいそれとマネできない、情熱に溢れた推薦をしてくれるに違いありません。

これはホーソン効果という心理学の手法を使い、ザッと組み立ててみた宣伝方法です。ホーソン効果とは、人は自分の意見を重視されたり、特別なサービスを受けたりして、一般ピープルとは違う扱いをされると気分が良くなり、自分をそう扱う対象に親近感を抱き、その対象を喜ばせようと積極的に動くようになる、という心理効果です。

商品開発のテスターに選ばれた人が、報酬度外視で活動するようになるというのはよく見られる現象で、クチコミ宣伝に長けた近頃の広告屋の常套手段でもあります。これも広義にはステマといえますが、クチコミを広める当人は誰から要請されたわけではありませんし、店が実際に彼らの意見を取り入れれば、もはや広告の枠を超えたサービス向上の一環にもなるわけで、店も客も得をする「良いステマ」だと思います。

ツイッターにうかつな書き込みをして炎上する人が跡を絶ちませんが、それと同様に、悪質ステマをめぐる騒動は、情報を発信する側のリテラシー不足に起因する問題です。ネットの時代には、情報を送るときも、受けるとき同様に、それなりのリテラシーが必要とされるのです。面倒くさい時代ではあります。しかしネットは怖いと考えるのは誤りです。ネット登場以前は、あらゆる情報がすべてステマだったわけですから。

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2012年01月05日

増殖する頑迷

ドイツのヴェルト紙によれば、イスラエルでユダヤ教原理主義者が台頭しているそうです。

Wie Frauen aus der Öffentlichkeit verbannt werden

イスラエルというのは、ユダヤ教を柱として建国された国ではありますが、とても世俗的な国です。テルアビブでは毎年盛大なゲイパレードが開催されますし、男女平等に徴兵されるため、ネットではキュートな女性兵士の産地として知られていたりと、まあそれくらい性差別のない開かれた国であり、イスラエルの強さはそこにあるわけです。

ところが、近年伸長している超正統派ユダヤ教徒と呼ばれる原理主義者たちはとても頑迷で、とくに女性差別は徹底しています。たとえば女性が原理主義者とバスに乗り合わせると、後ろの席に座れと言われ、無視して前の方に座ると、「売春婦め!」だの「身の程を知れ!」などと罵倒されるのだそうです。なぜなら、彼らによれば、女性の姿は男に邪心を抱かせるからです。

広告に女性が出るのもご法度で、へたに女性を使おうものなら、原理主義者から激しくバッシングされます。おかげで広告屋の自主規制により、今やエルサレムの広告は、キッチン用品だろうと育児用品だろうと男性モデルを起用し、女性モデルの姿は消えたそうです。

奇矯な原理主義者は昔からいました。しかしかつては世間から「アブナイ人たち」扱いされて、所詮それだけの存在でしかありませんでした。ところがいつの間にか勢力を増して、いよいよ社会のあり方を変え始めているのです。なぜだと思いますか?

彼らの繁殖力がハンパないからです。

原理主義者たちは、女性を家に閉じ込めて、子作りに専念させます。だから彼らの出生率は、世俗的なイスラエル人の3倍にもおよぶ10パーセントにも達し、猛烈な勢いで増殖しているのです。現在、全人口における原理主義者は1割ほどですが、小学1年生に限れば3割近くが原理主義者という状況で、年々人口比率を拡大しているのです。

イスラエルは建国の経緯から、原理主義を弾劾できない(原理主義を否定すると自らの存在意義を否定することにもつながる)という特殊な事情を持ちます。また、人口も700万人程度と小ぶりなことで、原理主義者の繁殖アタックの影響を受けやすいのだと思います。しかし考えてみれば、イスラエルで起きているようなことは、イスラエルほど急激ではないにしろ、世界中で起きています。

女性の社会進出が進むオープンな社会は一様に出生率が低く、その一方で、女は成人したらすぐに親が決めた相手に嫁にやり、子作りマシンとなることを強制するような文化の人たちは、ばんばん増殖します。少子化は先進国に共通する悩みで、ヨーロッパ各国は子育て援助に力を入れていますが、それで一番繁殖するのは、増えて欲しくない異文化の方々だったりします。

結局あまりに寛容でものわかり良すぎるのは、種を保存するうえでマイナスであり、淘汰される運命なのかもしれません。

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2012年01月03日

NHK紅白のガガの「翻訳ミス」について

大晦日の紅白に出たレディ・ガガの歌詞の翻訳字幕について、「あれは政治的意図からなされた誤訳である」と主張する人が現れました。

NHK紅白・レディー・ガガの歌詞字幕について

一方この主張を受けて、「あれはただの程度の低い訳だ」と言う人も現れました。

NHKのレディ・ガガの字幕翻訳は隠蔽の意図とか以前の問題かな?

NHKの内幕を知るぼくから言わせると、まず最初の、意図的な誤訳説ですが、考えすぎだと思います。

意図的に誤訳することはあります。過去にぼく自身何度かしているので間違いありません(国民のみなさま申し訳ありませんでした。今は深く反省しております)。ちなみに、そのほとんどの場合は、政治的な意図というよりは、全体のストーリーに合わせて都合よく内容を曲げるというものです。しかし、ガガのこの歌に関していえば、NHKが無理しててまで隠したり曲げたりする動機を見いだせません。

NHKに限らず、テレビ局にはある種の風俗を自主規制しようとする空気があるのは確かです。たとえばかつてぼくはNHKで、イギリスのサブカル系のシリーズものを翻訳、制作したことがあるのですが、タトゥーとピアスに関する回はまるまる1本落とされました。ただ落とされただけでなく、翻訳原稿を見せたプロデューサーから叱られてしまいました。「こんなの放送できないこと、テレビマンなら翻訳する前にわかるだろ!」と。

しかし、視聴者の多くが眉をひそめるだろう過激な描写や表現をまるめるのは、ときに行き過ぎはあるにせよ、公共放送として取るべき態度であることも確かです。それをおかしいというのは、テレビというものを誤解しています。視聴者にそう誤解するように仕向けたのはテレビなのですが、それはまた別の話です。

だからぼくは、2番目の主張の人に概ね同意します。しかし、質の低い翻訳が出てくる経緯について違うと感じる点があるので補足しておきます。

NHKの翻訳は、安いバイトに頼んだりはしません。民放ではそういう場合もありますが、NHKではありえません。NHKの翻訳業務は、番組ごと外部委託する場合と、一部の例外を除き、子会社のNHK情報ネットワーク所属のバイリンガル・センターという部署に独占的に委託されます。BSニュースとかで同時通訳を引き受けている部署です。

だから訳したのはアマチュアではなく、プロのはずです。ただし、彼らの通常の業務はニュース翻訳であり、歌詞や芸術作品の翻訳は不得意です。かつてNBAの黒人選手たちのインタビュー翻訳を頼んだら、普段バリバリにニュース翻訳している人に滅茶苦茶な訳をされた挙げ句、「あのー、実は何言ってるか全然わかんないんです…」と泣きつかれたこともありました。

民放の場合は、専属の翻訳事務所など持っていませんから、番組ごと、ディレクターごとにそれぞれ違う翻訳者に依頼することになり、その結果、サブカル系のネタについては逆に功を奏することもあります。しかしNHKはへたにお抱えの翻訳事務所を持つばかりに、時々ダメな翻訳をしてしまうのです。カネに余裕がないからではなくて、中途半端に余裕があるがゆえのミスなのです。

あと、2番目の主張の人は、レディ・ガガがスマップの番組に出たときの字幕を例にあげて、字数の問題ではないとしていますが、字数の問題は確実にあります。

テレビの翻訳字幕は、通常1行あたり最大で15文字、これを2行出す場合は5秒間出し続けるというのが理想とされています。もちろんこれは理想であり、歌の歌詞やくだけた会話を訳す場合はとても間に合いません。民放のエンタテイメント番組などの場合は、若い視聴者にターゲットを絞り、掟破りの長字幕、速字幕を出したりましますが、NHKは極力理想に近づけようとします。なにしろ、80歳のお年寄りでも安心して読めるようにしなくてはいけないのです。

もしぼくがガガの歌詞翻訳を依頼されていたら、最も悩むのは字数の問題でしょう。そして正しく歌詞の意味を把握していたとしても、何とか字数を理想に近づけるために、頓珍漢な訳にしてしまった可能性は排除できません。だからむしろ、問題とされている訳を見て、賞賛したいくらいです。

ほんの5年くらい前なら、あの程度に訳しておけば何の問題もなかったに違いありません。もうテレビは無理だなと、つくづく思います。

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2012年01月01日

持たざる者だよりの経済

去年のクリスマス前、エアジョーダンの復刻版が発売され、アメリカでたいへんな騒ぎになりました。酷寒の中開店の何時間も前からモールに行列をつくり、入り口のドアを壊して店内に乱入したり、暴れて逮捕者を出すほどの狂乱ぶり。180ドルのボッタクリシューズにここまで夢中になるなんて、不景気だ不景気だと言いながら、アメリカは景気いいんじゃないの?と思わずにいられませんでした。

ところが、行列の映像を見てびっくり。並んでいたのは全員アフリカ系でした。黒人には低所得者が多いわけで、彼らの多くは、高いシューズになけなしのカネをはたいていたのです。これは、浮かれた資本主義社会とかそういう話ではぜんぜんありません。

持たざるものが物質的欲望を刺激されて、不必要なものにお布施する図です。そしてこれは、今日の経済のあり方そのものだと思います。

人は現在の経済の停滞を、例えば自動車が売れないのは、みなカネがないからだといいます。でも、カネがあったら買うだろうか?とぼくは疑問に思います。いや、現代の人は、たとえバブル期なみに景気がよくなったとしても、ホイホイ車を買うとは思えません。懐に余裕があったとしても、いらないものを買うのはバカだと、車に欲望を掻き立てられないのではないかと思うのです。

昔の人は、とくに若い世代はやたらと車を欲しがりました。ちょっと稼ぐと、生活を切り詰めてでも月賦で車を買いました。都会人に車は必需品ではありませんが、高い駐車場を借りて、高い車検代を払い、高い税金を納めて、わざわざ週末に渋滞にハマるために車を持とうとしたのです。エアジョーダンに目を血走らせる黒人たちのようにです。その合理的でない自傷的な欲望はどこから来たのか?外から来たに決まっています。

テレビ、雑誌、新聞、流行歌、ラジオ、そうしたマスメディアがフル回転して、人々の頭の中に欲望の種を植えつけたのです。20世紀の経済は、このマスメディアにより作られた欲望をエンジンとして回り、成長してきました。

ところが21世紀の人は、欲望の植え付けに対抗する術を手にしました。インターネットを通じてマスメディアを外部化し、批判的な目で見ることを覚えたのです。が、これはすべての層で一斉に起きる変化ではありません。知的レベルが比較的高い人、そしてそれは経済的にまずまず恵まれている層と重なるのですが、そういう中間層以上の人からマスメディア・パッシングは始まり、「欲望から必要へ」の回帰が始まるのです。

だから車をはじめとした、中間層以上をターゲットとした高価な商品はあまり売れません。広告屋がどうマスメディアを動員しようと、かつて肥沃な欲望の畑であった中間層は食いついて来ません。そうなると広告屋は、利ざやは小さくとも食いつきのいい層へとターゲットをシフトせざるをえなくなります。老年層と低所得者層を軸とした、いわゆる情弱層へのシフトです。

そしてこのシフトにより、マーケティングの手法にも大きな変化が起きます。かつてのマーケティングで一番大事なことは、企画書の存在を隠すことでした。プロパガンダの肝は、プロパガンダであると気づかせないことにあるからです。たとえば歌手を売り出すときは、非凡な才能だとか芸術性を前面に出し、また人々の予測のウラをかいて、それが商品であることを懸命に隠したものです。

しかし、クリティカルな思考力を欠く情弱を相手にするなら、その限りではありません。売り込みたい情報をただ闇雲に大量投下する方が、ずっと簡単で効果的です。

だから最近売れていると言われているAKBにしろKポップにしろ、またテレビの各番組にしても、どれもこれも企画書が透けて見えるような粗野な売り方で、商品であることを隠そうとしません。情強の人はバカにするなと文句を言います。でも何も変わりません。ターゲットは彼らではないからです。

とうわけで、今日の経済は、新興国の消費者を目当てとした国際的なレベルは言うに及ばず、国内的にも、持たざる者の欲望をエンジンにして回っているといえます。スニーカーにお布施、携帯ゲームにお布施、企画書を首から下げたアイドルにお布施と、情弱層向けに特化したマスメディアは、彼らの欲望を節操なく煽りに煽り、バッタの大群のように彼らの財布をカラにしていくのです。

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