2012年01月01日

持たざる者だよりの経済

去年のクリスマス前、エアジョーダンの復刻版が発売され、アメリカでたいへんな騒ぎになりました。酷寒の中開店の何時間も前からモールに行列をつくり、入り口のドアを壊して店内に乱入したり、暴れて逮捕者を出すほどの狂乱ぶり。180ドルのボッタクリシューズにここまで夢中になるなんて、不景気だ不景気だと言いながら、アメリカは景気いいんじゃないの?と思わずにいられませんでした。

ところが、行列の映像を見てびっくり。並んでいたのは全員アフリカ系でした。黒人には低所得者が多いわけで、彼らの多くは、高いシューズになけなしのカネをはたいていたのです。これは、浮かれた資本主義社会とかそういう話ではぜんぜんありません。

持たざるものが物質的欲望を刺激されて、不必要なものにお布施する図です。そしてこれは、今日の経済のあり方そのものだと思います。

人は現在の経済の停滞を、例えば自動車が売れないのは、みなカネがないからだといいます。でも、カネがあったら買うだろうか?とぼくは疑問に思います。いや、現代の人は、たとえバブル期なみに景気がよくなったとしても、ホイホイ車を買うとは思えません。懐に余裕があったとしても、いらないものを買うのはバカだと、車に欲望を掻き立てられないのではないかと思うのです。

昔の人は、とくに若い世代はやたらと車を欲しがりました。ちょっと稼ぐと、生活を切り詰めてでも月賦で車を買いました。都会人に車は必需品ではありませんが、高い駐車場を借りて、高い車検代を払い、高い税金を納めて、わざわざ週末に渋滞にハマるために車を持とうとしたのです。エアジョーダンに目を血走らせる黒人たちのようにです。その合理的でない自傷的な欲望はどこから来たのか?外から来たに決まっています。

テレビ、雑誌、新聞、流行歌、ラジオ、そうしたマスメディアがフル回転して、人々の頭の中に欲望の種を植えつけたのです。20世紀の経済は、このマスメディアにより作られた欲望をエンジンとして回り、成長してきました。

ところが21世紀の人は、欲望の植え付けに対抗する術を手にしました。インターネットを通じてマスメディアを外部化し、批判的な目で見ることを覚えたのです。が、これはすべての層で一斉に起きる変化ではありません。知的レベルが比較的高い人、そしてそれは経済的にまずまず恵まれている層と重なるのですが、そういう中間層以上の人からマスメディア・パッシングは始まり、「欲望から必要へ」の回帰が始まるのです。

だから車をはじめとした、中間層以上をターゲットとした高価な商品はあまり売れません。広告屋がどうマスメディアを動員しようと、かつて肥沃な欲望の畑であった中間層は食いついて来ません。そうなると広告屋は、利ざやは小さくとも食いつきのいい層へとターゲットをシフトせざるをえなくなります。老年層と低所得者層を軸とした、いわゆる情弱層へのシフトです。

そしてこのシフトにより、マーケティングの手法にも大きな変化が起きます。かつてのマーケティングで一番大事なことは、企画書の存在を隠すことでした。プロパガンダの肝は、プロパガンダであると気づかせないことにあるからです。たとえば歌手を売り出すときは、非凡な才能だとか芸術性を前面に出し、また人々の予測のウラをかいて、それが商品であることを懸命に隠したものです。

しかし、クリティカルな思考力を欠く情弱を相手にするなら、その限りではありません。売り込みたい情報をただ闇雲に大量投下する方が、ずっと簡単で効果的です。

だから最近売れていると言われているAKBにしろKポップにしろ、またテレビの各番組にしても、どれもこれも企画書が透けて見えるような粗野な売り方で、商品であることを隠そうとしません。情強の人はバカにするなと文句を言います。でも何も変わりません。ターゲットは彼らではないからです。

とうわけで、今日の経済は、新興国の消費者を目当てとした国際的なレベルは言うに及ばず、国内的にも、持たざる者の欲望をエンジンにして回っているといえます。スニーカーにお布施、携帯ゲームにお布施、企画書を首から下げたアイドルにお布施と、情弱層向けに特化したマスメディアは、彼らの欲望を節操なく煽りに煽り、バッタの大群のように彼らの財布をカラにしていくのです。



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