2012年01月15日

経済学者が自信満々なワケ

とても日本的な意見だなと思います。

なぜ経済学者は自信満々なのか

この記事の筆者は、専門外のさまざまなことに上から目線で口を出す経済学者の傲慢を批判し、「経済学教授はよっぽどヒマなのか、論文書けよ、さもなきゃ講義しろよと言いたくなる」と書きます。

このような意見の根元にあるのは、学者というものは、難解な専門分野の研究に全力を投入するべきであり、俗世間のことについてネットであれこれ発言するのは邪道だという考えです。

なるほど、とくに理工系の学問では、その見方は正しいのかもしれません。専門外のことにあれこれ意見するヒマがあったら、自分の専門分野に没頭して、新しい発見をすることに全力を注ぐべきなのだろうと思います。

しかし、ある種の学問についていえば、その見方はあたりません。経済学はその代表です。

経済学の目的は、経済の発展に貢献することです。そのためには、研究の成果が政策に取り入れられる必要があります。民主主義国家においては、それは民衆に支持されることと同義です。そのために、経済学者は民衆と対話しなければならないのです。

象牙の塔にこもり、画期的な経済原則を発見したところで、「講義や論文で忙しく、とてもネットに書いてる暇なんてない」状態で、その原則が民衆に伝わらないのであれば、ほとんど意味はありません。

それよりも、たとえ画期的な発見はできなくても、経済の基本について民衆を啓蒙し、ポピュリストの甘言にだまされないようにする方が、よほど経済の発展に寄与するというものです。

だから民主主義意識の強いアメリカでは、高名な経済学者でも積極的にブログを開設し、頻繁に更新しています。そしてたいていの場合、誰にでもわかる平易な表現で書かれています。

それぞれの経済原則を支えるには、もちろん難解な数式や専門用語を駆使しての思考が必要です。しかし経済学というのは、難解な部分だけで完結する学問ではなく、それをわかりやすい言葉でプレゼンできてはじめて完成する学問なのです。

日本では、経済学というと経済学用語を覚えることのような雰囲気があり、難解な専門性ばかりがフレームアップされがちですが、わからないものをありがたがる=言葉を権威付けに使う日本文化と、言葉を理解のための道具と見るアメリカ文化の違いかもしれません。

いずれにしても、そういう理由で経済学者は雄弁に語り、意見を異にする者と論戦を戦わせがちなのです。多くを語ろうとしない経済学者は、謙虚なのではありません。経済学者としての資質に欠けるか、民衆の理解など必要ない=経済は一部のエリートによる操作により決すると考えている経済学者です。

さて、そんな「よき経済学者」はいろいろなことに口を出します。たとえば原発問題などについて、「なぜか突然、放射性物質の知識が豊富になり、マスコミに代わって警鐘を鳴ら」したりします。しかしそれは、必ずしも傲慢だからではありません。

経済学というのは、「トレードオフ学」と言い換えてもいい側面があり、直情的な反応をしがちな世間に対して、それにより生じるトレードオフを示すのは、経済学者の仕事のひとつだからです。

ぼくは経済学の素人ですし、経済学者の応援団でもありません。しかし、経済学者の議論の柱にあるトレードオフの考え方などは、国民全員が常識として身につけるべきリテラシーだと思います。また、経済学者の意見を否定するのではなく、乗り越える形でなければ、何事においても有効性はないと考えています。

特に、先進国としては恥ずべき、空前絶後のポピュリスト政権を誕生させてしまった日本においては、今は経済学者を揶揄すときではありません。より多くの経済学者が、より平易な言葉で民衆に語りかけ、民衆の中で議論することを求めるべきときなのです。



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