2012年07月28日

マスメディア問題としてのオスプレイ騒動

沖縄、岩国へのオスプレイ配備をめぐり、オスプレイの危険性を訴える報道が過熱しているようです。「ようです」と書くのは、自分はテレビを見ないし、新聞も読まないからです。しかし、ウェブ上で見られる新聞報道や、テレビ視聴者の書き込みなどを見ると、オスプレイ・バッシングは相当なレベルのようです。

テレビと新聞を捨てた身からすると、なぜオスプレイが問題なのかまるでわかりません。なるほど試作段階で大きな事故が連続しました。しかしそれはあらゆる新型機についていえます。正規運用開始後にも何度か事故を起こしています。しかしそれもあらゆる軍用機について同じことがいえます。たとえば、1975年以降だけで次のような死亡事故を起こしている軍用機があります。

1977年5月   イスラエルで墜落、54人死亡。
1977年10月  フィリピンで墜落、31人死亡。
1983年4月   バージニア沖で墜落、1人死亡。
1984年3月   韓国で夜間訓練中に山に激突。29人死亡。
1984年6月   カリフォルニアで訓練中に事故、4人死亡。
1984年11月  ノースカロライナで 訓練中に爆発炎上、6人死亡。
1985年5月   日本海で墜落、17人死亡。
1985年7月   沖縄で訓練中に事故、4人死亡。
1985年8月   カリフォルニアで墜落、1人死亡。
1986年5月   カリフォルニアで墜落、4人死亡。
1987年1月   カリフォルニアで夜間訓練中に墜落、5人死亡。
1989年3月   韓国で訓練中に墜落炎上、22人死亡。
1990年5月   カリフォルニアで墜落、1人死亡。
1994年3月   カリフォルニアで着陸に失敗、1人死亡。
1995年6月   海自機が神奈川沖で墜落、8人死亡。
1996年5月   コネチカットで完成後の試運転で墜落、4人死亡。
1997年2月   イスラエルで2機の同型機が接触墜落、73人死亡。
2000年8月   テキサス沖で墜落、4人死亡。
2002年1月   アフガンで墜落、2人死亡。
2003年7月   シチリアで墜落、4人死亡。
2005年1月   イラクで墜落、31人死亡。
2006年2月   アデン沖で2機の同型機が接触墜落、10人死亡。
2008年1月   テキサス沖で墜落、3人死亡。
2011年3月   ハワイで墜落、1人死亡。
2012年1月   アフガンで墜落、6人死亡。

35年の間に300人以上の死者を出し、死亡事故以外にも重大な事故を数々起こしている機体は、CH53という大型ヘリコプターです。日本では2004年に沖縄国際大学に墜落して大きなニュースになりました。しかし当時CH53の危険性を指摘する報道は見られず、CH53は今も普通に日本の空を飛んでいます。

CH53の事故率(飛行時間10万時間あたりの重大事故回数)は、沖国大に墜落したD型が4.51で、改良型のE型が2.35だそうですが、その他の軍用ヘリコプターと大差ないのはもちろん、そもそも日本の民間ヘリコプターの事故率が3程度と見積もられていることからしても、特別高い値とはいえないのです。

ではオスプレイの事故はどの程度起きているのかといえば、1989年の試作機初飛行から今日までの死亡事故は7件で、計36人が死亡しています。2005年の配備開始以降の事故率は、海兵隊と空軍特殊部隊のデータを合わせて3.65で、オスプレイが置き換えるCH46ヘリコプターの事故率(1964年の運用開始から今日までの通算で5.74、1975年以降に限ると2.75)と大きく変わることはありません。日本に配備される海兵隊の機体に限れば、事故率は1.93とかなりの優等生です。

このように、とくに危険とはいえないオスプレイに対して、沖縄の活動家たちとその機関紙が騒ぐのはわかります。彼らには米軍にケチををつける権利があり、またそれが彼らの仕事なのですから。しかし、全国紙やNHKをはじめとするキー局が騒ぐのはなんとも奇妙に見えます。

よく言われるように、オスプレイの日本配備で一番困るのは中国ですから、中国のシンパ、または反米アジア主義者が報道機関に多く潜んでいるのは間違いありません。今回の一件は改めてその事実を明らかにしました。マスコミと軍に蔓延るアジア主義により破滅に導かれた戦前の失敗を繰り返さないためにも、彼らの情報操作には警戒しなければなりません。

しかし、マスコミがオスプレイの恐怖を煽る理由は、そうした工作員の策動だけではありません。オスプレイ問題は、イデオロギーとは別のレベルで、マスメディアというシステムの欠点をさらけ出しているのです。

それは、単純かつセンセーショナルなイメージで、世の中を語ろうとする性質です。

マスメディアとは、マスメディアというシステムによって生み出される「衆愚」を踊らせるための技の大系であり、新奇な機体であるオスプレイというネタをそこに放り込むと、ほとんど自動的に「オスプレイはアブナイ」という料理がでてきてしまうのです。

オスプレイの料理法は教科書通りで、「衆愚操作法」のお手本に使えるほどです。その手順は以下のとおりです。

1) 強烈なイメージを視聴者/読者の脳髄に叩きこむ。
   →オスプレイの場合、事故映像を見せたり、「未亡人製造機」というレッテルを貼り付けます。



上の映像は開発開始から間もない1991年の試作機の事故で、事故原因は整備ミス(配線のつなぎ間違え)と判明しています。従って今日のオスプレイとは何の関係もないのですが、イメージの刷り込みをするには十分です。

2) イメージを「自分の問題」として認識させる。
→今年起きた2件の事故を紹介します。

「未亡人製造機」と呼ばれた試作機時代のオスプレイと、今日のオスプレイは似て非なるものですが、そんなことは関係ありません。並列して紹介することで、視聴者/読者の頭には、コントロール不能に陥った1991年のオスプレイが、今まさに自分の頭上を飛ぼうとしているように認識されます。

3) イメージを数字で補強する。
   →オスプレイの事故率の高さを印象づけるデータを紹介します。例えばー

沖縄への配備が予定される米軍の新型輸送機オスプレイに関連する事故が、量産決定後の2006〜11年の5年間に58件起きていたことが米軍の資料で分かった。


事故率というのは、飛行時間10万時間あたりの重大事故(クラスA事故)の発生頻度ですが、それだとオスプレイの凶悪さを裏付ける上で説得力を欠くので、クラスB、クラスCという軽度の事故を含めた数字を合わせて事故数を水増ししています。

しかし、軽度の事故はどの機体でもそれなりに起きます。朝日新聞があげた数字は、海兵隊と空軍両者の数字を足したもので、合わせて通算飛行時間は14万時間ほどです。航空事故の統計はたいていクラスAのみをもととしているので、クラスBやクラスCのデータはあまり出てこないのですが、たとえばアメリカの沿岸警備隊の主力ヘリコプターHH65は、2010年の1年間で5万5千時間飛行して、A〜C合わせて18件の事故を起こしています。14万時間飛んだとすると、事故件数は約46回。この数字とオスプレイを比べて、騒ぐほど多いと言えるのかは微妙なところです。

なお、空軍の報告書によると、オスプレイのクラスC事故のほとんどは、この映像のようなランディングギアの不具合であるようです(このケースでは車輪カバーがぐらぐらしているのがわかります)。政府と近隣自治体は、部品の落下を起こさないよう米軍に申し入れしておくべきかもしれません。

数字ほど恣意的にいくらでも操作できるものはありません。統計から一部を取り出せば、どんな論でも組みたてることができます。しかし視聴者/読者の頭には、数字=客観的とのイメージがあるので、出した者勝ちで都合のよい数字を提供すれば、漠然とした恐怖は具体的な裏付けを持つ恐怖として認識されるようになるのです。

4) イメージを権威で補強する。
   →アメリカ人の専門家にオスプレイの危険性を訴えさせる。

マスコミは往々にして反権力を気取りますが、実はマスコミ報道ほど権威主義的なものはありません。マスコミ報道の肝は、論旨ではなく肩書きで語ることにあります。実際には専門家といっても意見はそれぞれで、論旨不明瞭な人もいれば、イッちゃってる人もいます。さらには長いインタビューから一言二言欲しいコメントを抜き出すわけなので、ディレクター/記者の意図にあわせていくらでも細工できます。ですから現実にはマスコミに登場する専門家ほどあてにならないものはありません。しかしこれこそマスコミ報道の決定打で、大学教授や専門家という肩書きさえあれば、衆愚へのイメージ植え付けはいよいよ確実なものとなるのです。

というわけで、新奇な機体であるオスプレイは、マスメディアのツボにピタリと嵌る、煽りの要素をすべて兼ね備えたイジリがいのあるネタ、ネギを背負ったカモのような存在なのです。ですから、何人かの工作員が「オスプレイは危ない!」と声をあげれば、マスメディアはビビッと反応して、嬉々として煽り始めるのです。

今でこそインターネットがあるので、マスコミの煽りは簡単に見破ることができます。しかしこれが15年前なら、マスコミが提供するデータを頼りにするしかないパンピーは、為す術もなく朝日やNHKの手の平の上で踊らされていたでしょうし、かくいう自分も、何の疑いも持たずにオスプレイの危険性を指摘するニュースを制作していたに違いありません。

そんな時代が、ついこの前まで100年余り続いていたのです。国民総出で対米開戦の報に快哉を叫んだのも、無理はないと思います。

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2012年07月21日

ゴリ押しの構造

ネットの普及により非常に顕著になった現象に「ゴリ押し」があります。韓流、AKB、スカイツリー・・・、テレビや新聞でアゲられるものには、ネットでことごとくゴリ押しの烙印が押されます。

そうした反応を単なるイチャモンとしてやり過ごす論調もあります。しかしはっきりしているのは、ゴリ押しとされたものは、マスコミでの圧倒的な露出にもかかわらず、それに見合うリターンを得ていないということです。セカンドライフや韓流の無残な失敗は言うに及ばず、AKBはCDこそ売り上げるもののテレビに出ると視聴率はイマイチ、ゴリ押しされたタレントはことごとく伸び悩んでいます。

ゴリ押しへの苦情は、もはやイチャモンで済ますべきレベルではなく、広告屋として無視できない、無視してはいけない現象なのです。

ではゴリ押しとは何なのか?それはマスメディアとネットの特性の違いから引き起こされる、根源的な現象だとか考えられます。

そもそもゴリ押しという感覚を人々に持たせる大きな原因は、メディアミックスという広告手法にあります。これは、日本では1980年代末に本格化した手法で、売り込みたい商品を、テレビ、新聞、雑誌、音楽と、複数のメディアにさまざまな形で同時多発的に露出させ、消費者の脳髄に商品を刷り込むというものです。

この手法は、マスメディアという情報システムに非常に適しています。マスメディアというのは、最も強烈なイメージが他のイメージを巻き込んで一人勝ちするシステムです。メディアミックスで巨大な渦を発生させさえすれば、たとえそのイメージに共感できない者がいたとしても、渦に抗うことができずに巻き込まれるか、無視できる泡沫になるだけです。

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ところがネットは違います。よく、ネットでは自分が興味を持つ情報しかアクセスしないので、偏った情報になりがちだと批判されますが、まさにこの特性により、趣向を近くする者同士がかたまり、マスコミを動員して作られる強烈なイメージに巻き込まれないだけの勢力を維持し、異なる宇宙を形成して生存することができるのです。

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こういう状況で大規模なメディアミックスを仕掛けたらどうなるでしょうか?人工的に発生させた渦は、マスメディア時代のように社会全体を巻き込むことができず、無理に巻き込もうとすればするほど、「他の宇宙に住む住人たち」の感情を逆なですることになります。これがゴリ押しと感じられるものの正体です。

ネット時代に「国民的ブーム」を作ろうとすることのマイナスは、投資の割に効果が小さいというだけではありません。構造的にもはや一人勝ちはできないというのに全宇宙を制覇しようとするため、ブームにのらない他の宇宙の住人たちの反感を買い、結果として社会の大多数を敵に回す危険性が高いのです。

セカンドライフにしても、韓流にしても、あるいはエイベックスが国民的アーティストに仕立てようとした歌手たちにしても、それぞれ製品としては優れた点もありました。しかし、ゴリ押しにより生じた反感により食わず嫌いを量産してしまい、実力以下の評価しかされないケースも多々見られます。ゴリ押しは逆宣伝となり、商品を殺すのです。

これからの広告、プロパガンダは、社会全体を巻き込む国民的ブームを起こそうという無茶な野望を捨て去るのはもちろん、他の宇宙に住む住人たちの感情をいかに害さずに、少しでも大きな重力圏の構築ができるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

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2012年07月18日

衆愚の正体

読売新聞のドン、ナベツネさんが本を出したそうです。タイトルは「反ポピュリズム論」。



彼はもともと頑強な反ポピュリズム(反衆愚政治)論者として知られていますが、大衆を衆愚と認識する姿勢は、ナベツネ氏に限らず新聞人によく見られます。

ナベツネ氏は朝日新聞的な左翼のお花畑論説を衆愚制の典型ととらえているようですが、インターネットの黎明期に「ネットは狂人に凶器を持たせるようなもの」的なトンデモ衆愚論をまき散らしたのは、ナベツネ陣営よりもむしろ朝日陣営でした。おかげで日本のネットのオピニオンリーダーといわれる人たちは自虐的で、ネットに人智を超えたモラルを求める始末・・・ともあれ新聞人は、別にナベツネ氏でなくても大衆を衆愚視する傾向を持つのです。

こうした新聞人、マスコミ人の姿勢は、マスコミの外にいる人たちの眼には傲慢と映ります。しかしこれは傲慢だとか謙虚だとかいう話ではありません。マスコミ人からすれば、どう贔屓目に見ても大衆は愚かなのです。

大衆の愚かさは、しばらくマスコミで働いてみれば誰にでもわかるはずです。どれだけ大衆の理性を信じて記事を書き、複雑な事象を複雑な事象として紹介したところで、大衆はそれを理解してくれません。大衆は常に単純でセンセーショナルな方向に流れ、裏切られることになります。

テレビでの仕事を通じて、自分も大衆の愚かさを幾度となく思い知らされました。感動の押し売りに辟易して、ありのままに伝えようとしても大衆は見向きもしてくれず、作られた軽薄な感動をありがたがります。エーケービーとケーポップを聴きながら、「ホテルのバー通い許せない!」と詐欺団に権力を委ね、スカイツリーとパンダのまわりで踊るのが大衆なのです。大衆を説得できないのは自分の表現力のなさとかそういうレベルではなく、畜生のようにバカなのです。

実体験から大衆の衆愚性を思い知らされたマスコミ人には、大衆は衆愚であると公言して憚らないナベツネ氏のようなタイプか、心底では大衆を見下しつつそんな自己を偽り大衆を担ぐ朝日新聞的タイプの2パターンしかありません。

ところが、そんな衆愚のプレイグラウンドであるはずのインターネットは、マスコミ人的感覚から予見した姿とかなりかけ離れています。牧童の管理を離れた愚かな羊たちは、意外に理性的なのです。

インターネットは決して賢者の集いではありません。しかし愚者の饗宴でもありません。先の総選挙で狂的な民主党アゲに明確な拒否を示したのも、ケーポップやパンダ祭りに違和感を唱えるのもネットです。

311地震とそれに続く原発事故では、ネットによるデマ拡散が憂慮されましたが、総じて極めて冷静な反応でした。牧童たるマスコミが衆愚をコントロールしたからではありません。悪質なデマが生じると、ネット内でそれを否定する意見がわき起こり、ネットはネットに内在する力によりパニック化するのを抑えたのです。

というわけで、マスコミの中から見た大衆と、実際の大衆の行動には大きなズレがあります。なぜなのでしょうか?最もシンプルな答えは「マスコミの中から見た大衆と、実際の大衆は別」というものです。

マスコミの中から見た大衆は、簡単にいえば読者、視聴者としての大衆のことであり、あくまでマスメディアというシステム内における大衆にすぎません。マスメディアシステムとは、情報の送り手と受け手が分離され、送り手が大量の情報を一方的に送りつけるようなシステムのことであり、ここでの「大衆」とは、そんなシステムが定着した社会で生じる現象のことを指すのです。

例えばそれは、脳から四肢への命令伝達力のみが異様に発達した人間のようなものです。そのとき人は、極めて俊敏に動けるようになるでしょうが、四肢の末梢神経から脳へのフィードバックが遅いため、目視して気をつけていないと、四肢をうまくコントロールできずにケガをすることになります。脳からすれば、四肢というのは注意を怠ると暴走して自壊する危険なバカと見えるわけです。

しかし問題なのは四肢ではなく、脳から四肢への下り情報のみの流れを良くしたカタワの神経システム=マスメディアというシステムにあるのは言うまでもありません。衆愚ははじめからそこにあるのではなく、マスメディアとともに生まれたマスメディアの一要素、さらに言えばマスメディアそのもののことなのです。

20世紀初頭の思想家オルテガ・イ・ガセットは、「大衆の反逆」において、大衆とは世紀の変わり目に現れた現象であるとし、その原因を工業化や民主化に求めました。しかしそれは文学的すぎる解釈で、理由は単に「マスメディアが確立したから」なのです。



衆愚を構成する「マス・マン」であることから脱するには、悲劇的な信念は必要ありません。ただ新聞を捨て、テレビを捨てればいいのです。衆愚制はイカンというナベツネ氏の主張に、自分は全面的に同意します。

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2012年07月17日

朝日新聞は情弱

朝日新聞が7月16日の一面トップにオスプレイの事故に関する記事を載せたそうです。たぶんこれ「オスプレイ事故調に米軍圧力 機体不調の報告、変更迫る」だと思います。

ウェブで無料で読める以下の記事の書き出しを読むと、どうやら朝日はこれをスクープ扱いしているようです。

米空軍の新型輸送機オスプレイがアフガニスタンで不時着して4人が死亡した一昨年の事故で、事故調査委員長を務めた空軍幹部がエンジンの不調が事故につながったという報告書をまとめたところ、内容を変更するよう上官から圧力をかけられたことが分かった。

事故の調査に携わったドナルド・ハーベル退役准将が朝日新聞にそう証言したというのですが、このニュースはぜんぜんスクープではないどころかニュースですらありません。

アメリカの空軍関係者向け週刊新聞「エアフォース・タイムズ」は、この話を去年の1月22日に伝えているのです。

Generals clash on cause of April Osprey crash

記事は、ハーベル准将が「砂漠地帯で長時間運用したためエンジントラブルが起きた」との報告書をまとめようとしたところ、上官のシコウスキ中将が異議を唱えたという内容で、当時すでに退役していたハーベル氏が「圧力をかけられた」と上官を告発しています。

しかしアメリカでは、このニュースはほとんど話題になりませんでした。なぜなら、問題の事故機は機密保持のために事故直後にブラックボックスごと破壊されており、そのため決定的な証拠はなく、オリジナル記事のタイトルが示すように、問題はあくまで調査に携わった軍関係者間の意見の相違にすぎないからです。

ちなみにアメリカでは、オスプレイの危険性を声高に叫ぶのは今や(なぜか)「ワイアード誌」くらいです。開発段階では事故が相次いで未亡人製造機と呼ばれたオスプレイですが、今や安全性が向上し、自衛隊も採用している大型ヘリのCH53などに比べて事故率はずっと低いのです。

朝日は「内容を変更するよう上官から圧力をかけられたことが分かった」と、さも大発見をしたかのように書いていますが、これは「朝日新聞の取材により判明した」ということではなく、「朝日新聞が1年半前のニュースに今気づいた」という意味です。

1年半前のニュースに今頃気がつき、さらにはそれをあたかもスクープのように見せかけて記事のインパクトを増そうとするとは、なんという情弱、そして姑息な大衆扇動。

ちなみにハーベル氏は、つい先日産経新聞のインタビューを受けており、朝日の煽り記事とはまるで印象の違うコメントをしています。

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2012年07月10日

「非暴力デモ」の幻想

先日、なかなか大きな反原発デモがあり、それに対してさまざまな意見が飛び交いました。

反原発な人が拍手を送ったのは当然です。しかし必ずしも反原発ではない人の中にも、あのデモを肯定的にとらえる意見が散見されました。

反原発かどうかは別として、ある政治的課題に対して、デモという形で大衆が街頭に繰り出したことを評価するという見方です。

こうした考え方は、フジテレビに対して行われた反韓流デモの底流にも感じられました。

前提としてあるのは、「世の中に文句があるならデモをしてはじめて一人前」という価値観であり、デモに参加した人たちは、ネットから街頭に自然と飛び出したというよりは、「オレたちにもできるということを見せてやろう」と、少々無理をしてデモを決行したという印象を受けました。

今日の社会には、非暴力デモという行為を、民主主義社会において推奨されるべき作法、模範的かつ効果的な民衆抗議の形として神聖視する傾向があるようです。

しかしこの価値観は、時代を超えた絶対的な価値観なのでしょうか?その答えは、この価値観が生まれた経緯を見ればわかるはずです。

ーーー


プラカードを手にシュプレヒコールをあげながら練り歩くようなデモ、今日民主主義社会に欠くべからざる要素のように認識されている非暴力デモは、古くから存在したわけではありません。

歴史に残る最も古いデモの事例は、紀元前195年に共和制ローマで起きた、「オピア法」に対する抗議運動だとされています。オピア法というのは女性の贅沢を禁じる法律ですが、これに我慢できない女性たちが街頭に繰り出し、法律を廃止に追い込んだのでした。

しかしこれは平和的なデモではありませんでした。彼女たちのデモというのは、ただ街頭でアピールするだけではなく、敵対する政治家を幽閉するなど暴力的なもので、また味方の政治家に資金援助をして議会を動かしたとも伝えられています。

そしてこれは、その後2000年以上にわたり民衆抗議の変わらぬ形であり続けました。日本における民衆抗議といえば一揆ですが、洋の東西を問わず、民衆抗議は常に実力行使を伴うもの、デモ=暴力と考えられてきたのです。

しかし、ある時代に状況は一変します。

ーーー


歴史上初めて、民衆抗議と暴力を意図的に分離したのは、インド独立の父ことガンジーです。1906年、当時南アフリカにいたガンジーは、イギリスの人種差別的な法律に対し「非暴力、不服従」で抵抗するよう当地のインド人たちに呼びかけました。

この時期に非暴力デモを発見したのはガンジーだけではありません。世界各地で実力行使を前提としないデモが頻発し始めました。例えば、当時イギリスとアメリカで行われていた婦人参政権運動は、ガンジーの呼びかけと時を同じくして平和的なデモで大躍進しました。

1907年のロンドンで、雨でぬかるんだ道を女性たちが行進した通称「マッド・マーチ(泥まみれの行進)」は、人々に強烈な印象を残し、それまで共和制ローマの大先輩たち同様に実力行使を柱としていた参政権運動は、以降非暴力デモを通じて勢力を増していくことになります。

非暴力デモが1900年代に同時多発的に発生した理由を、パイオニアたちの独創性のみに帰すことはできません。この時期に、それ以前には存在しなかった条件、力の行使を前提としなくてもデモが効果を発揮する条件が生まれたのです。

その条件とは、マスメディアの成立です。

ーーー


教育改革による識字率の上昇と、印刷機の進歩により、一般大衆が新聞を購読するようになったのは、欧米においては19世紀末、日本では日露戦争期のことです。

マスメディアが確立する以前の社会では、デモの存在意義は実力行使をちらつかせて権力を威嚇することであり、拳を振り上げない民衆抗議など何の意味もありませんでした。しかしマスメディアの成立により、重点は力ではなく「絵になること」へと変化したのです。

絵になりさえすれば、それ以前には想像もできなかった多数の人々にそのイメージは伝播し、社会にハイプを作り出し、権力者にプレッシャーを与えることができます。そして最も絵になりやすいのが「弱者であること」であり、そのためには力の行使はむしろ逆効果なのです。

”非暴力デモの父“ガンジーは、インド独立を目前にした1946年にこんな言葉を残しています。

「もしわたしが1日独裁者になれたなら、すべての新聞を発行停止にする」

ガンジーがいかにマスメディアを重視していたかを表す言葉です。インド独立運動に専念する以前は、弁護士業の傍ら辣腕のジャーナリストとして名をはせ、20世紀最初のマスメディア・マスターと呼ばれた彼だからこそ、非暴力デモを確信的に推進できたのです。

ーーー


非暴力デモが誕生したのはマスメディアあればこそであり、マスメディアのない非暴力デモなど茶番でしかありません。しかし今、そのマスメディアは退潮の一途で、やがて完全にインターネットに飲み込まれてしまうに違いありません。

それでも非暴力デモは、民衆抗議の王道であり続けるのでしょうか?

マスメディアは大衆をひとつの方向に押し流す性質を持ちます。そこでは、たいていの場合より単純でセンセーショナルなイメージが一人勝ちします。しかしインターネットはそうではなく、さまざまなイメージ、さまざま意見がそれぞれに塊を作り、社会はなかなか一方向に流れません。

人々がインターネットにより情報を共有する社会では、非暴力デモはかつてのように、権力者を震え上がらせるような集団ヒステリー発生力を持たなくなるのです。従ってこれからは、時とともに非暴力デモに対する幻想は薄れ、仲間内で盛り上がるオフ会的な認識へと変化していくに違いありません。

しかしその一方でインターネット社会は、意見を同じくする者たちが塊を作り、ある程度の勢力を維持していくには適しています。またツイッター等を通じて高い動員力を持ちえます。

「絵になること」の意義が薄れても、数が力であることは変わらず、数を集めること自体は容易になるのです。これからの民衆抗議は、こうした特性を土台として行われ、時代を先取りした運動が成功をおさめるのです。

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