反原発な人が拍手を送ったのは当然です。しかし必ずしも反原発ではない人の中にも、あのデモを肯定的にとらえる意見が散見されました。
反原発かどうかは別として、ある政治的課題に対して、デモという形で大衆が街頭に繰り出したことを評価するという見方です。
こうした考え方は、フジテレビに対して行われた反韓流デモの底流にも感じられました。
前提としてあるのは、「世の中に文句があるならデモをしてはじめて一人前」という価値観であり、デモに参加した人たちは、ネットから街頭に自然と飛び出したというよりは、「オレたちにもできるということを見せてやろう」と、少々無理をしてデモを決行したという印象を受けました。
今日の社会には、非暴力デモという行為を、民主主義社会において推奨されるべき作法、模範的かつ効果的な民衆抗議の形として神聖視する傾向があるようです。
しかしこの価値観は、時代を超えた絶対的な価値観なのでしょうか?その答えは、この価値観が生まれた経緯を見ればわかるはずです。
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プラカードを手にシュプレヒコールをあげながら練り歩くようなデモ、今日民主主義社会に欠くべからざる要素のように認識されている非暴力デモは、古くから存在したわけではありません。
歴史に残る最も古いデモの事例は、紀元前195年に共和制ローマで起きた、「オピア法」に対する抗議運動だとされています。オピア法というのは女性の贅沢を禁じる法律ですが、これに我慢できない女性たちが街頭に繰り出し、法律を廃止に追い込んだのでした。
しかしこれは平和的なデモではありませんでした。彼女たちのデモというのは、ただ街頭でアピールするだけではなく、敵対する政治家を幽閉するなど暴力的なもので、また味方の政治家に資金援助をして議会を動かしたとも伝えられています。
そしてこれは、その後2000年以上にわたり民衆抗議の変わらぬ形であり続けました。日本における民衆抗議といえば一揆ですが、洋の東西を問わず、民衆抗議は常に実力行使を伴うもの、デモ=暴力と考えられてきたのです。
しかし、ある時代に状況は一変します。
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歴史上初めて、民衆抗議と暴力を意図的に分離したのは、インド独立の父ことガンジーです。1906年、当時南アフリカにいたガンジーは、イギリスの人種差別的な法律に対し「非暴力、不服従」で抵抗するよう当地のインド人たちに呼びかけました。
この時期に非暴力デモを発見したのはガンジーだけではありません。世界各地で実力行使を前提としないデモが頻発し始めました。例えば、当時イギリスとアメリカで行われていた婦人参政権運動は、ガンジーの呼びかけと時を同じくして平和的なデモで大躍進しました。
1907年のロンドンで、雨でぬかるんだ道を女性たちが行進した通称「マッド・マーチ(泥まみれの行進)」は、人々に強烈な印象を残し、それまで共和制ローマの大先輩たち同様に実力行使を柱としていた参政権運動は、以降非暴力デモを通じて勢力を増していくことになります。
非暴力デモが1900年代に同時多発的に発生した理由を、パイオニアたちの独創性のみに帰すことはできません。この時期に、それ以前には存在しなかった条件、力の行使を前提としなくてもデモが効果を発揮する条件が生まれたのです。
その条件とは、マスメディアの成立です。
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教育改革による識字率の上昇と、印刷機の進歩により、一般大衆が新聞を購読するようになったのは、欧米においては19世紀末、日本では日露戦争期のことです。
マスメディアが確立する以前の社会では、デモの存在意義は実力行使をちらつかせて権力を威嚇することであり、拳を振り上げない民衆抗議など何の意味もありませんでした。しかしマスメディアの成立により、重点は力ではなく「絵になること」へと変化したのです。
絵になりさえすれば、それ以前には想像もできなかった多数の人々にそのイメージは伝播し、社会にハイプを作り出し、権力者にプレッシャーを与えることができます。そして最も絵になりやすいのが「弱者であること」であり、そのためには力の行使はむしろ逆効果なのです。
”非暴力デモの父“ガンジーは、インド独立を目前にした1946年にこんな言葉を残しています。
「もしわたしが1日独裁者になれたなら、すべての新聞を発行停止にする」
ガンジーがいかにマスメディアを重視していたかを表す言葉です。インド独立運動に専念する以前は、弁護士業の傍ら辣腕のジャーナリストとして名をはせ、20世紀最初のマスメディア・マスターと呼ばれた彼だからこそ、非暴力デモを確信的に推進できたのです。
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非暴力デモが誕生したのはマスメディアあればこそであり、マスメディアのない非暴力デモなど茶番でしかありません。しかし今、そのマスメディアは退潮の一途で、やがて完全にインターネットに飲み込まれてしまうに違いありません。
それでも非暴力デモは、民衆抗議の王道であり続けるのでしょうか?
マスメディアは大衆をひとつの方向に押し流す性質を持ちます。そこでは、たいていの場合より単純でセンセーショナルなイメージが一人勝ちします。しかしインターネットはそうではなく、さまざまなイメージ、さまざま意見がそれぞれに塊を作り、社会はなかなか一方向に流れません。
人々がインターネットにより情報を共有する社会では、非暴力デモはかつてのように、権力者を震え上がらせるような集団ヒステリー発生力を持たなくなるのです。従ってこれからは、時とともに非暴力デモに対する幻想は薄れ、仲間内で盛り上がるオフ会的な認識へと変化していくに違いありません。
しかしその一方でインターネット社会は、意見を同じくする者たちが塊を作り、ある程度の勢力を維持していくには適しています。またツイッター等を通じて高い動員力を持ちえます。
「絵になること」の意義が薄れても、数が力であることは変わらず、数を集めること自体は容易になるのです。これからの民衆抗議は、こうした特性を土台として行われ、時代を先取りした運動が成功をおさめるのです。