2012年10月27日

英雄の失墜とドーピングのないスポーツ

先日、自転車ロードレースの巨星、ランス・アームストロングがドーピングにより重い罰を受けました。

アームストロング氏の7連覇タイトルはく奪と追放処分 国際自転車競技団体

1999年から2005年にかけてツール・ド・フランスで7連覇した偉業はもちろん、重度の癌を乗り越えて頂点に立ったという感動ドラマにより、彼は世界中で尊敬を集める偉人になりました。自分もかつてテレビの仕事をしていた頃、彼を讃える原稿を書いた覚えがあります。

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そんなスーパーヒーローの公開処刑を機に、これまでのドーピング論議では異端とされてきた意見を堂々と口にする識者が増えています。これまではドーピングといえば悪で決まりでした。しかし今、現在の厳しいアンチ・ドーピングの動きを行き過ぎと批判する、ドーピング容認論が台頭しているのです。

たとえば彼らは次のように主張します。「スポーツのルールとは、競技の魅力を高めるためにあるものだ。しかし現在のドーピングルールはその本義を外れた原理主義の暴走であり、スポーツそのものを貶めているのではないだろうか?」続きを読む

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2012年10月19日

なぜ日本はPSY旋風に巻き込まれないのか?

欧米で大ヒットしているPSY(サイ)の「ガンナムスタイル」について、タイム誌のサイトが「日本でブレークしないのはどうして?」という記事を載せています。

記事では、竹島問題のこじれが影響しているのかもしれないとして、「ホントに残念 (It's a shame, really)。馬ダンスで解決できない外交問題などないのに」と軽く締めているます。しかし一部のサイトがおそらく意図的に It's a shame を「恥ずべきこと」と誤訳し、「ガンナム・スタイルを受け入れない日本は恥ずかしい」と書かれているかのように伝え、読者の神経を逆なでしているようです。

それはともかく、世界最大のケーポップ制圧国である日本で、世界中でこれだけヒットしている曲がまるで受けないのは、外から見ると奇妙に映るのは当然だと思います。しかし日本人からすると、不思議でもなんでもありません。竹島問題も多少は影響しているかもしれませんが、それよりもっと大きな理由があります。ガンナムスタイルが受けないのは、ガンナムスタイルがケーポップクラッシャーだからです。

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日本におけるケーポップスターは男も女も二枚目で、部屋に彼らのポスターを貼ったり、ケータイの壁紙にしてウットリ眺めるような、そんな対象として売りだされてきました。ところが、小太りのオッサンのおバカダンスが売りのサイは、その対象にはなりえません。彼のポスターをウットリ眺めるのは、お笑いコントにしかならないのです。

そんな彼を、もし日本の韓流プロモーターがいつもの調子で猛プッシュすれば、これまで開拓されてきたケーポップファンはどう反応してよいかわからず途方に暮れるでしょう。新たなファンを獲得できるかもしれませんが、ガンナムスタイルを面白がるようなファンの嗜好は、由緒正しいケーポップとは逆のベクトルを向いているので、その暁にはこれまでのケーポップ戦略を根底から見なおさなければならなくなります。

だから、売る方も売られる方も、どう動いてよいかわからないのです。「日本でケーポップはビッグなのにサイにハマらないのは不可解」のではなく、ケーポップがビッグだからハマらない、ハマれないのです。

ガンナムスタイルのミュージックビデオを見たアメリカ人は、一様に同じ反応をします。まずポカンと口をあけ、次にギャハハと大笑いし、そして馬ダンスのマネをし始めます。ところがケーポップの世界では、そこがケーポップの気味悪いところなのですが、「ギャハハと笑う」という行為は許されていません。そんなことをしたら、「オマエは嫌韓か?」とばかりにシンパの人にギロリと睨まれてしまいます。こんな状態でガンナムスタイルを楽しめるわけがありません。

ガンナムスタイルは日本のCMのパクリだという声もあり、個人的にもインスパイアされた可能性は高いと思いますが、この曲は独創性で受けているわけではないので、そこにこだわるのは野暮なことです。もし日本で馬鹿げた韓流押しをしていなければ、ガンナムスタイルは、アメリカほどではないにしても、そこそこ受けたに違いありません。そして、「dress classy, dance cheesy =上品にキメて下品に踊る」をモットーにする小太りのオッサンが踊りまくる姿を見て笑い、真の文化交流のきっかけになったかもしれません。

しかし、それもこれも、韓流押しがすべてを台無しにしてしまいました。こういうことはガンナムスタイルが初めてのケースではありません。韓流路線から外れる、グロい描写を得意とする韓国映画も被害にあっています。最近のものでは「悪魔を見た」などは、猟奇度においてかなりがんばった作品だと思うのですが、韓流であるばかりに逆に埋もれてしまい、損をしていると感じます。

以前も書いたことがありますが、韓流とかケーポップの日本での売り方は、その根底に人種差別の構造を宿しているため、表面的な人気の裏で差別の種をふりまいています。外面だけを繕ったハリボテを売るために、その国の文化の真に魅力的な部分を切り落とすような事態は、その現れのひとつと言えます。

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2012年10月18日

有吉は涙の準備をしておくべきか?

テレビのゲームショーで卑怯ともとれる態度をして賞金をせしめた芸人が、ツイッターで激しくバッシングされ、その芸人はツイッターを閉鎖したとのこと。この一件から、タレントの有吉弘行が「現在のテレビ視聴者像」を分析したそうです。記事によれば、彼は当該の芸人を叩いた視聴者を「頭が悪い」とし、次のように締めたということです。

しかし、有吉は「逆に言えば」と続けた。こういったバラエティ番組でも、スポーツのように真剣に視聴している人が多いことが証明できたという。例えば、バラエティ番組内で感情を露わにし、涙でも流せば真剣に「いい人だ」と思ってくれる。有吉は「今から涙の準備でもしておこう」と皮肉交じりに語った。

こういうやりとりを見ていると、まるで時間が15年ほど巻き戻ったかのような目眩を感じます。リアリティTVの走りである電波少年を見て、猿岩石がヒッチハイクする様子をすべて現実と思い込んで2人を崇め奉り、猿岩石が途中飛行機で移動していたというスッパ抜きに多くの視聴者が本気で怒り、幻滅したあの頃にです。

当時、その力の絶頂を迎えていたテレビや新聞のマスメディアは、「テレビに映ることが真実」「新聞が伝えることが真実」という、100年におよぶマスメディア時代により培われた社会幻想を権力の基盤として悠々としていました。電波少年はそれを一歩進めて、意識的に「社会の方をテレビを映す鏡」にしてしまおうとした、テレビ絶頂期を象徴する番組でした。

そんなマスメディアにとり、1990年代の末から普及し始めたインターネットは、テレビや新聞による情報の独占を侵し、「マスメディアが伝えることは真実」という幻想空間を壊しかねない存在でした。だからマスメディアはネットを敵視し、ネットもまたマスメディアを敵視したのでした。

そういう経緯から、ネットには常に「マスメディアは真実を伝えない」という通低音がありました。1990年代末から2010年頃にかけて、ネット空間においては、テレビによる感動の押し売りに対して違和感を唱えることはあっても、より大きな感動を求めて騒ぐケースは、ほとんど見られませんでした。

そしてそんなネットの拡大は、少しづつではあるけれど着実にマスメディアの力を削ぎ、集団としての日本人の感性も、20世紀のマスメディア型から21世紀のインターネット型へと変化してきたのです。

ところが2010年以降、そのトレンドに変化が見られます。冒頭にあげた一件のように、テレビに映ることを真実として受け取り、テレビによる作られた感動物語に素直に感動し、それにチャチャを入れる人を責めたりするような、そんなナイーブかつ前時代的な傾向が目立つような気がするのです。

例えば先日、女性タレントにマッターホルンを登頂させたリアリティTV系バラエティ番組が、ネットで議論を呼んでいました。一昔前のネットなら、批判の対象はテレビ番組に集中するところです。「たかがバラエティの企画にそこまで目くじら立てなくても…」と言いたくなるほどにマスコミ不信を露わにするのがネットの常でした。しかし今回批判の槍玉に挙げられていたのは、感動に水を差すツイートをした登山家に対してでした。

またこれはマスメディアとは直接関係ありませんが、今年の年初に「黒人を差別する白人女性客を、見事な対応でギャフンと言わせたスチュワーデス」の古くからある有名なコピペが、感動的な実話としてフェイスブックを中心に拡散されました。この手のチープな話を無批判に事実と受け取り感動するのは、かつてのネットには見られなかった現象です。こうした態度がマスメディアを盲信する心性と同根であることは言うまでもありません。

8月に銀座で行われたオリンピックの凱旋パレードに、50万人ともいわれる記録的な大群衆が押しかけたのも同じ臭いがします。20世紀のスポーツ産業というのは、マスメディアとともに生まれた、マスメディアと一卵性双生児の感動生産機ですが、テレビ画面を通じて拡散された感動がここまで大勢の人々を動かす様子は、20年どころか50年前にタイムスリップしたかのような錯覚を抱かせます。

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マスメディアの凋落傾向に変化は見られないのですから、時代に本質的な巻き戻しが起きているとは考えられません。しかし、ネット空間とそれを取り巻く世界で、巻き戻しが生じているかのように見える出来事が多発しているのです。なぜなのでしょうか?

おそらくその理由は単純です。犯人はツイッターとフェイスブックとスマホの普及です。スマホを使い、ツイッターやフェイスブックを通じてネット上に自分の声を送り込む人たちが、ここ2年ほどで劇的に増えたのです。

ネットにハマったばかりの「にわかインターネッター」は、ネットの世界に20世紀的感性をそのまま持ち込んできます。誰でも最初はそうで、時に危ないことや掟破りをして痛い目にあいながら、時間とともに新しい情報システムになじんでいくものです。今ネットとそれを取り巻く社会で起きている退行現象は、一斉に誕生して大きな塊を形成する、そんなニューカマーたちにより引き起こされていると推測できます。

彼らは20世紀のマスメディア的感性をそのままネットに持ち込み、粗製された感動をありがたがり、その幻想を壊すものを叩きます。20世紀的感性に道具としてのネットを接ぎ木し、ヴァイラル(クチコミ)で感動を拡散し、街頭に群衆を動員するのです。

では、彼ら「ネット空間の団塊世代」が作り出したこの新しいトレンドは、これからのネットのあり方を変えるのでしょうか?あるいは彼らこそが、進化の末辿り着いたインターネッターの最終型なのでしょうか?

もしそうならば、有吉弘行は涙の準備をしておかなくてはなりません。そしてこれまで退却戦を強いられていたマスメディアは、一発逆転どころかネットの持つクチコミの力を味方につけて、20世紀以上の引力で大衆を操作、動員することができるようになるはずです。

しかしそれは考えにくいことです。にわかインターネッターは、時間とともに普通のインターネッターになるからです。ネットを体の一部とすることは、あなたを優れた人間にすることはないでしょうが、情報のあり方に対する認識を大きく変えるのは必然です。マスメディアというシステムは、集団における情報伝達方法の一形態にすぎないのですから、マスメディアに都合よく作り出された括弧つきの感動につきあう必要はどこにもなく、やがては脱ぎ捨てられていく運命なのです。

そう考えると、表面的にはマスメディア時代への揺り戻しに見える現在の状況は、実はマスメディアにとってゾッとする事態の前兆であることに気づきます。一斉にネットにはまったにわかインターネッターたちは、一斉ににわかを卒業するからです。

それが半年後か1年後なのかはわかりませんが、その時マスメディアの吸引力は、これまでのように徐々にではなく、誰の眼にも明白にガクンと落ちるはずです。そしてようやく日本の情報産業は、解体、再編の緒につくのです。

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2012年10月15日

ルーズベルトの遺産

中国人たちが尖閣領有の核心として頻繁にあげるのは「カイロ宣言」です。1943年末に連合国より発せられたこの宣言は、日本が「中国人から盗んだ領土」をすべて返還することを要求しています。1945年のポツダム宣言はカイロ宣言の履行を条件としてあげており、日本はこれを受諾したのであるから、尖閣は中国のものだと彼らは主張します。

日本から見れば、これはひたすらに馬鹿げた主張です。尖閣は中国人から盗んだ土地ではなく、琉球諸島の一部であり、連合国の親玉であるアメリカはもちろん、当の中国も1960年代までそう認識していたことは、数々の証拠が示しているからです。

しかし、説得力に欠ける古い宣言を持ちだして悦に入る中国の態度を、ただの底の浅いこじつけと切り捨てて笑うのは生産的な態度ではありません。なぜ中国人たちはこんな隙だらけの根拠をもちだし、それをあたかも葵の御紋のように振りかざすのか、その一見軽薄な行動の裏にあるストーリーを見極め、それを壊さない限り、何も変わりはしないのです。

その鍵は「カイロ宣言」にあります。中国人たちは、尖閣を領有するためにカイロ宣言を持ちだしてきたのではありません。逆です。彼らはカイロ宣言の延長として尖閣領有を主張しているのであり、そう解釈するとすべての辻褄は合うのです。

ではカイロ宣言とは何か?1943年11月にエジプトのカイロおいて、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中華民国総統の3者間で行われたカイロ会談と、そのコミュニケとしてのカイロ宣言は、初めて日本に降伏条件を示したことで知られています。

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しかしカイロ会談には、それより大きな意義があります。東アジアの戦後秩序を討議、決定した場だということです。そしてその秩序とは、東アジアは米英ソと並ぶ4大国として位置づけられた中国の影響圏となり、中国は東アジアの警察を務める、というものでした。

中華民国の後継国家である中華人民共和国は、その契約が現在でも有効であるという願望と幻想と信仰をないまぜにした思いを抱いており、尖閣領有はそれを確認するための手段なのです。

カイロ会談当時、中国を連合国の主要国に列して大国扱いすることには、チャーチルとスターリンは反対していました。イギリスとソ連の最高指導者2人は、中国は対日戦を戦う上で一切頼りにならないのはもちろん、国家としての統治能力さえ疑われる脆弱な存在であり、単独講和をちらつかせては援助を引き出すチンピラと見ていました。

それをゴリ押ししたのはルーズベルトです。筋金入りの親中派として知られたこのアメリカ民主党の大統領は、君は中国を過大評価しすぎだと批判するチャーチルに対し、今はそうかもしれないが、いつの日か必ず経済的、軍事的に強力な同盟国になるだろうとたしなめ、中国をアジアの盟主に任命したのでした。いわばルーズベルトは、成人したら使いなさいと、中国に白紙委任状を残したのです。

だから中国人たちはこう訴えているのです。「ルーズベルトさんが期待した通り、中国は強く豊かに成長しましたよ。ルーズベルトさんとの契約を今から果たします!」。そして尖閣を譲ろうとしない日本にこう言うのです。「カイロ宣言を見ろ。敗戦国のくせに偉そうな口を利くな!」

そういうわけですから、尖閣の問題を日中間の話し合いで解決しようとしてもどうにもなりません。アメリカが乗り出して、「領土に関する日本の戦後処理は、旧ソ連占領地域を除いてすべて完了している。カイロ宣言は歴史的遺物で、現在的価値は一切ない」と、ルーズベルトの発行した手形は無効であることを宣言しないかぎりダメなのです。

アメリカ人は、日中の領土紛争を対岸の火事であるかのように眺めていますが、そうではありません。今もアメリカがカイロ会談で取り決めたように中国に東アジアを任せるつもりならばばともかく、そうでないなら、これは日中の問題ではなく、米中の問題なのです。

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2012年10月01日

日中韓の対立をナショナリズムで語ることの愚

中国の反日暴動や、韓国の反日姿勢を目の当たりにして、両国の過度なナショナリズムにあらためて驚いている人は多いと思います。そしてそれへの反動として日本でもナショナリズムが高まり、やがては衝突するのではないかと危惧する人も少なくないはずです。

軽薄なジャーナリズムは、ナショナリズムを嗅ぎ取るととにかく危険だと叫び、ただひたすら冷静になれと繰り返します。しかし歴史を見ると、ナショナリズムはそれほど危険なものではありません。睨み合う2つの国のナショナリズムが共振して増幅し、コントロール不能に陥って暴発するという現象は、ありそうでないのです。

人々がナショナリズムを意識し、ナショナリズムに突き動かされるようになったのはナポレオン戦争以降のことで、19世紀から20世紀初頭にかけての西洋は、遮るものなしにナショナリズムの暴風が吹き荒れた時代といえます。しかしこの時代は、戦争が常態ともいえる西欧史において例外的に平和な時代でした。国家間の摩擦は国際会議で妥協が探られ、何度か起きた大きな紛争の原因も、単純なナショナリズムに帰すことはできません。

ナショナリズム時代の最終的破滅とされる第一次大戦も、起爆スイッチを押したのはナショナリズムではありませんでした。なるほどオーストリアの皇太子夫妻を射殺したのはセルビア人のナショナリストでした。しかしそのときは誰も戦争になるとは予想しませんでした。最初に超えてはならない一線を超えたのは、ロシア、フランスと組んだセルビアに報復戦争をしかけたオーストリアです。そしてオーストリア=ハンガリー帝国という国家は目眩のするような多民族国家であり、当時の欧州において例外的にナショナリズムを否定し、皇帝を中心に「友愛」による共生を目指す国家でした。ナショナリズムの時代である19世紀は、ナショナリズムの高揚ではなく、アンチ・ナショナリズムにより暴発したのです。

そんなわけで、ナショナリズムというイズムは言われるほど危険なものではありません。ナショナリズムによる対立には、それがいかに激しい対立であろうと、相手もまた愛国者であるという了解を通じて互いへのリスペクトがあるため、国民と国家をヒステリカルな行動に走らせる要因にはなりにくいのです。では国家はどんなときに正気を失うのでしょうか?

1914年の夏にアンチ・ナショナリズム国オーストリアを軽率な行動に走らせた理由は明白です。セルビア人のナショナリズムを見過ごせば、セルビア人はもちろん、国内にいるその他の諸民族、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、ウクライナ人、スロベニア人、クロアチア人、ルーマニア人等々のナショナリズムを刺激して分離独立運動を加速させ、友愛多民族国家のオーストリアは存在意義を失い瓦解してしまうからです。

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オーストリアのプロパガンダ。「セルビア人(Serbien)」と「死ね(sterben)」の語呂合わせで「セルビア人を殺せ」と呼びかけている

国家というのは必ず国家統合の理念を持ちます。日本のように言語や文化、歴史を共有する人々の集合体である「国民国家」はナショナリズムを基盤とし、アメリカ合衆国は自由を基盤とし、いくつかのイスラム諸国は宗教を基盤とし、かつて存在したソ連のような国は共産主義、そしてオーストリア帝国は友愛を基盤としました。そんな統合の理念が脅かされたとき、国家は激しく動揺し、ヒステリカルになりやすいのです。

ナショナリズムは統合の理念のひとつにすぎません。そしてあらゆる理念の中で最も自然で無理がないだけに、安定していて壊れにくいイズムです。外国との関係がどう変化しようと、外国に何を言われようと、ナショナリズムに立脚した国家の正当性は揺らぎません。ナショナリズムは目立つので危険視されがちですが、実のところ地に足がついた、ヒステリカルになりにくい理念なのです。

ですから本当に危険なのはナショナリズムではありません。危険なのは、人工的で自足できない国家統合の理念です。たとえばオーストリア帝国の「友愛」は、あまりに人工的で説得力を欠き、最終的には力でナショナリズムを叩き潰さない限り生存できない理念でした。ソ連の共産主義やドイツのナチズムは、常に「国際資本主義」に対する優位性を示し続けないと説得力を失うため、情報鎖国して幻想の中に閉じこもるか、軍事的に勝負に出るしかない理念でした。

では、今日本の周辺で吹き荒れる領土紛争は心配するに及ばないのでしょうか?

それがナショナリズムによって引き起こされているものなら、そうだと言えます。ナショナリズムによる摩擦など、酔っぱらいのケンカのようなもので、酔が覚めれば話し合いで解決します。しかしこの度の中韓の怒りは、見れば見るほどただのナショナリズムではありません。残念ながら、彼らの怒りは人工的で自足できない国家統合の理念に起因しているとしか考えられないのです。

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中国、韓国ともに非常にナショナリズムの強い国です。しかし両国ともに、ナショナリズムだけでなりたっている普通の国民国家ではありません。

かつての中国には、ナショナリズムと並んで共産主義という理念があり、それが一党独裁強権政治の正当性を支えてきました。韓国の場合は、ナショナリズムと並んで「反共」という理念があり、それを北朝鮮に対して朝鮮半島の正当政権であることの拠り所としてきました。

しかし両国の国家統合の理念は、冷戦の終結により1990年前後に瓦解してしまいました。本来であれば、このとき中国の共産党政権は崩壊し、中国大陸の地図は塗り替わるはずでした。韓国は破綻国家の北朝鮮を吸収したのち普通の国民国家へと脱皮するはずでした。

ところがそうはなりませんでした。ロシアから旧東欧ブロックにかけて、統合の理念を失った国家が相次いで崩壊したヨーロッパに対して、アジアではものの見事にステータス・クオ(現状維持)が続いています。このグロテスクな不自然を可能にしているのが、「世界最凶の極悪国家日本によるホロコーストの被害者」という神話、「ホロコースト・ドグマ」なのです。

両国ともに、かつてはそれほど反日ではありませんでした。中国などは、政府レベルでも市民レベルでも世界有数の親日国でした。しかし1990年に前後して反日教育、反日プロパガンダに力を入れ始め、日本の悪行を告発する記念館を建設したり、新たな抗日記念日を制定したり、反日ドラマを量産したり、半世紀以上前の親日派を裁く法律を制定したりして、古い傷跡を切り開き、傷などなかった部位にまで新たな傷をつくる作業を始めました。

価値を失った共産主義や反共という理念のプロキシ(代理)として、自らをホロコーストの被害者とするイデオロギーを確立するためです。これにより、中国共産党は一党独裁を継続する大義名分を獲得し、韓国は北朝鮮の同胞を見殺しにして経済的繁栄を享受しつつ、都合よく民族愛を叫べる特殊な立場に立てるのです。

ユダヤ人作家ジェーン・デリンの次の言葉は、「ホロコーストの被害者」であることが現代においてどれほど強力なイデオロギーになるかを示しています。

私は核廃絶を支持しますが、イスラエルが核を保有していることは嬉しく思いますし、イスラエルの生き残りのためなら核の使用もやむを得ないと思います。あえて醜い言葉で極論するなら、もしイスラエルの生存とその他の人類60億のどちらをとるかと選択を迫られたら、私は400万人のイスラエル人をとります。

社会的に認められている作家にここまで言わせるのは、ただのナショナリズムではありません。ナショナリズムとは似て非なる病んだイデオロギー、カルトです。今回、反日暴動について議論する英語の掲示板で、次のような中国系と思わしき人々によるコメントをあちこちで見かけました。

3500万人のアジア人を虐殺し、数百万人を性奴隷にするというナチスを遥かに凌駕する犯罪を犯しておきながら、その罪を認めようとしない日本人の所業について知れば、その被害者である中国人や韓国人の怒りは理解できる。人類共通の価値観を共有できない日本人は、世界で力を合わせて打倒すべきだ。

典型的なホロコースト・シンドロームです。しかしこのイデオロギーの恐ろしさはこれにとどまりません。イスラエルの心理学者ベンジャミン・ベイト・ハラミ氏は「政治目的を正当化するためにホロコースト・ドグマが使用されると、すべての議論がストップしてしまう」と警鐘を鳴らしていますが、こんなことが言えるのも氏がユダヤ人だからです。

さまざまな人種の人が書き込む英語の掲示板では、通常誰かが偏狭なコメントをすると、別の誰かが必ず皮肉を込めた反論を返すのですが、今回上のようなコメント対する反論はほとんど見られませんでした。

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中韓の日本叩きをナショナリズムで語り、その観点から解決を探るのは的外れで不毛な行為です。今東アジアを揺るがしているのは、ナショナリズムなどという生ぬるいものではなく、もっと切実で醜く歪んだ怪物なのです。そして残念ながら、このような状況を平和的に解決した事例はまだありません。

イスラエルとアラブの抗争は言うに及ばず、各民族が「我こそはホロコーストの被害者。お前たちはナチスに協力した加害者である!」と主張して武器を手にした多民族国家ユーゴスラビアの分裂戦争は、互いに民族浄化の応酬で疲れ果てるまで鎮まることはなく、今なお諸民族間の憎悪は消えていません。

いくら日本のマスコミが「お互いに頭を冷やして」と訴えたところで、中韓は頭を冷やしませんし、日本人が単独で頭を冷やしたところでどうにもなりません。中韓がステータス・クオのために悪鬼日本を必要とする限り、領土を差し出しても、頭を下げても、金を出しても、その結果たとえ日本という国家が消滅してしまったとしても、日本と日本人への憎悪は消えないのです。

中韓がホロコースト・ドグマの構築に力を入れ始めた1990年にティーンエイジャーだった人たちは、今はまだ40歳以下です。彼らが社会の要職につくのはこれからで、先が思いやられます。

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