2012年11月25日

ゴリ押し再考

先日、常々ネットでゴリ押し視されている某若手女優が原作とまるでイメージの合わないテレビドラマの主演に抜擢され、話題を呼んでいました。

人々が「ゴリ押し」について文句を言うようになったのは、近年マスコミがゴリ押しを始めたからではなく、以前はゴリ押ししても誰もそれと気づかなかったのに、ネットの普及で多くの人がそれに気づくようになったのが主因です。

しかし、ネットにゴリ押しという言葉が定着してからすでに3、4年はたつのに、相変わらずゴリ押しが止まないというのは、世間の空気に敏感なはずのマスコミと広告屋にしては仕事が雑すぎます。

どうして彼らは、世間からゴリ押しと批判されながら、態度を改めようとせずにゴリ押しを続けるのでしょうか?

考えられる理由のひとつは、「ゴリ押しだろうと何だろうと、名前を売り込んだほうが勝ち」だからです。これは古くからある宣伝の大原則で、かのゲッベルスも、「無関心よりは憎まれた方がいい」と説きました。ネット時代の現代でも、「炎上商法」として受け継がれています。

しかしこの手法が成功するには条件があります。ゴリ押しする商品に中味がないと、本当にバカにされるだけで終わってしまうのです。ナチスの理念は、時代を考えれば十分中味を伴うものであり、ゲッベルスの発言は、ナチズムの本物ぶりを前提とした上でなされたものでした。

広告的手法でただの石ころを宝石に変えるという、アンディ・ウォーホルやマルコム・マクラレンが皮肉って見せた倒錯的状況は、マスメディアが情報を独占していたほんの一時期だけに見られた特殊な現象で、今日ではもはや通用しません。

長期間にわたり、人々から「ゴリ押しだ!」と指摘される商品は、中味がないと判断されたも同然であり、宣伝としては大失敗なのです。

しかし、広告屋はバカではありませんから、そんなことは重々承知しているはずです。でもゴリ押しを続けます。どうしてなんでしょう?

その最大の理由は、ゴリ押しのターゲットは大衆ではないからです。

テレビ屋や広告屋は、ゴリ押しで大衆を洗脳しようとしているのではありません。別の対象をかどわかすために工作し、それがゴリ押ししているように見えるのです。

その対象とは、広告主です。

メディアというメディアに露出させて、スターとしての体裁を整え、「今若者に大人気でマスコミから引っ張りだこのこのタレントを使えば、広告効果抜群ですよ!」と広告主を惹きつけるのです。きちんとした企業や官庁は、新聞やテレビを見て世情を判断しますから、コロリです。

もちろんこんなやり方は長続きしません。しかし、マスメディアとそれを牛耳る広告屋に、中長期的な視野で活動する余裕はありません。とにかく騙せるところから騙して、カネを集めるので精一杯なのです。

もしかしたら彼らには、もはや広告主を引っ掛けているという意識すらなく、自分たちの広告に自分たちで引っ掛かっているかもしれません。末期的な業界ではよく見られる光景です。

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