2012年12月31日

「文化テクノロジー」というアナクロニズム

年末年始は、派手な音楽番組が大量にテレビで放送されることもあり、ネット上では「ポップス文化論」的なオピニオンがあちこちで展開されます。

唸らせる内容の上質記事もたくさんありますが、中にはトンデモもあります。そんなトンデモのひとつ、とうか妙にそれらしく書かれているので油断していると頷いしまいそうになるという点で有害とさえ言える記事がこれです。

PSY「GANGNAM STYLE」はいかに世界を変えたか:「文化テクノロジー」としてKーPOP

文化のグローバリゼーションに合わせて文化生産システムを築いたKーPOPの前途は洋々であるという内容で、そうした視点を持たない日本の大衆文化はガラパゴスであると含みをもたせています。

「文化テクノロジー」などと言われると、ついほぉ〜と感心してしまいますが、では「文化テクノロジー」とは何ぞや?と問われると、何のことだかわかりません。この記事は、「文化テクノロジー」というキャッチコピーを軸に、ひたすらKーPOPに砂糖を振りかけて本質をぼかす、分析に見せかけたイメージ売り込み記事だからです。

この記事でたびたび援用されている「ニューヨーカー」誌の元記事にあたると、「文化テクノロジー」の正体は記事のタイトルですぐにわかります。

Factory Girls

「ファクトリー・ガールズ」、すなわちK-POPとは、緻密にマニュアル化された工程に従って作られる、アイドルという名の大量生産商品なのだというわけです。そしてもちろんこの記事は、そんなKーPOPというシステムを肯定してはいません。

「『文化テクノロジー』としてのKーPOP」においては、サイの成功は「文化テクノロジー」戦略の延長として位置づけられています。しかし「ニューヨーカー」の記事では、サイの成功は「文化テクノロジー」への反証として取り上げられています。

皮肉なことに、芸能事務所のアイドル生産への多額な投資にもかかわらず、アメリカで初めてブレークした韓国人ポップ・スター、サイの成功は、大量生産システムの外で起きた。サイはY.G.エージェンシーに所属しているが、アイドルの素材ではない。彼のファーストアルバム「PSY from the PSYcho World!」は「不適当な内容」との理由で糾弾されたし、セカンドアルバムの「Ssa 2」は19歳以下に販売禁止とされた。2001年には大麻吸引で逮捕され、兵役中には職務怠慢により再度兵役を課せられている。彼は韓国のポップ・スターではあるがK-POPではなく、KーPOP的世界観を皮肉る内容の「江南スタイル」により、欧米におけるKーPOPの前途を貶めたとさえ言えるだろう。少なくても、小太り男によるおバカダンスが、緻密な計算により作られたアイドルグループに成し得なかった成功を収めたという事実は、文化テクノロジーの限界を示している。

「江南スタイルはK-POPを殺す」という視点に、自分は全面的に同意します。世界最大のK-POP市場である日本で、江南スタイルが伏せられた最大の理由は、そこに見出されるべきなのです。

「『文化テクノロジー』としてのKーPOP」の筆者は、未来のミュージック・シーンについて次のように書きます。

K-POPの可能性を正面から論じた欧米メディアの報道に従えば、PSY人気を契機として、グローバルヒットを生み出すための「テクノロジー」は、より高品質のプロダクトを目指して、今後世界中でよりいっそうの開発が進むこととなる。そしてその予測が正しければ、未来のヒットチャートは、世界各国の多種多様なアーティストが入り乱れる多言語空間になっていくはずなのだ。

なるほど、ネットの普及による情報のグローバリゼーションが、国境や言語という水平軸の差異を無効化していくことに異論はありません。しかし筆者は、もうひとつの軸、垂直軸の差異の無効化を無視しています。

かつてのミュージック・シーンは、メジャーレーベルを頂点としたヒエラルキーの中で展開されていました。しかしネットは、メジャーレーベルとインディーズの差はもちろん、究極的には音楽の生産者と消費者の差さえ解消してしまいます。未来のヒットチャートは、多言語空間であるとともに、多生産者空間になるに違いないのです。

であるならば、旧態然とした垂直軸を基礎として成り立つKーPOPやAKBのような「アイドル工場」システムは、早晩瓦解するはずです。いや、すでに「アイドル工場」により作られたヒットチャートがミュージック・シーンから完全に乖離し、何やら別のものに変質している現状を見れば、こんなものに未来を見ようとする態度は、どうかしていると言わざるをえません。

「文化テクノロジー」などという軽薄なキャッチコピーに踊らされるビジネスマンや役人が少ないことを祈ります。

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2012年12月28日

便所の落書き

偉大なジャーナリストである筑紫哲也氏が、TBSのニュース23において「ネットは便所の落書き」と述べたのは1999年のことであったと記憶しています。

まだブログさえ存在しなかった当時、2ちゃんねるや「ホームページ」上においては、氏の発言に対して一斉に非難の声があがりました。しかし、グーグルもアマゾンもまだヨチヨチ歩きの頃でしたから、世の大半の人々はネットをお遊びとしか見ておらず、筑紫氏の言葉にウンウンと頷いたものでした。

あれから13年、時代は変わりました。筑紫氏がキャスターを務めていたころのTBSは、テレビジャーナリズムの頂点に君臨していたーー少なくてもその気概がありましたが、この度の選挙特番はテレ東の後塵を拝し、民放で最低の視聴率を記録しました。「報道のTBS」「民放のNHK」というかつてのニックネームは、今やジョークにもなりません。

そして新聞はこのありさまです。

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識者に安倍内閣のニックネームを考えてもらうという企画で、「そつなくまとめてみました内閣」「まぐれ敗者復活内閣」「期待度ゼロ内閣」「福島圧殺内閣」「ネトウヨ内閣」「国防軍オタク内閣」「厚化粧内閣」「学力低下内閣」などなど、書き写しているだけでウンザリする罵倒を書き連ねています。

これを便所の落書きと言わずに何を便所の落書きと言うのか?「チラシの裏」ならぬ「チラシのオマケ」に堕した新聞にふさわしい内容と言えばそれまでですが、安倍内閣には、こうした時代遅れな産業をゾンビとせぬような政策を望みます。

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2012年12月27日

アジアコンプレックス

20世紀、日本には2度グローバルパワーになるチャンスがありました。そして2度とも、同じような態度をしてそのチャンスを逸しました。

ひとつは、1990年の湾岸戦争です。

共産ブロックが崩壊し、アメリカも財政赤字を抱えて意気消沈していた当時、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」でした。すでに株式市場は急落していましたが、株価回復への期待は大きく、まだまだイケイケムードでした。

そんな中イラクがクウェートに侵攻。世界秩序を維持するためにアメリカが介入し、日本にも軍事的協力を要請しましたが、日本はきっぱりお断りしました。

主要国のほとんどが参戦したこの戦争に人員を派遣しなかった日本は、国際社会において大いに面目を潰し、さらにバブル崩壊が明白になると、アメリカから袖にされ、中韓から嫌がらせされ、坂を転がり落ちるように没落したのでした。

もしあのとき日本が参戦していたらどうなっていたのか?もちろんそれは、当時の国内政治の状況からして考えにくいことですが、もし参戦していたならば、世界の勢力図は大きく変化していたはずです。

なにしろ当時は冷戦構造が崩れ、新秩序の構築が模索されているときでした。圧倒的な経済力を誇示していた日本が、アメリカに乞われて軍事的にその一翼を担う意志を示したなら、政経軍三拍子揃ったグローバルパワーへと昇格する可能性は十分にありました。政治力に担保された経済も持ち直したに違いありません。

しかし当時の日本は政治家もマスコミも国民も内向きで、世界の変化をドメスティックな物差しでしか測れませんでした。世界は日本にグローバルパワーの席を用意していたのに、日本人にはそれが見えなかったのです。

グローバルパワーとなるもうひとつのチャンスは、1914年の第一次世界大戦です。

20世紀初頭の世界は、大英帝国が秩序を維持していました。しかし、世界の4分の1に及んだ広大な領土のあちこちで軋みが生じ、大英帝国時代の終わりを予感させていました。そんなとき、新進のドイツ帝国と全面衝突したのです。

日英同盟を結んでいた日本は、イギリスから陸上戦力の欧州派遣を乞われました。しかし日本は、「欧州に派兵したらアジアの秩序が守れない」「イギリスの犬になるのは嫌だ」などと派遣を拒否しました。そしてドイツのアジア植民地をちょちょいと占領して、欧州には小艦隊を派遣するくらいで、あとは大戦景気による金儲けに邁進しました。

戦後、日本は戦勝国として世界の五大国に数えられるようになりました。しかし、火事場泥棒的に最小限の出血で利益だけ手にした日本は、自分の利益のためにしか動かないずるい国という烙印を押され、戦後の新秩序構築において限定した発言権しか与えられず、日英同盟の解消と国際的孤立への種を巻いたのでした。

もし日本が陸軍を派遣していたらどうなっていたのか?

日本同様イギリスに派兵を乞われ、結局派兵したアメリカは、「自己中心の金儲け主義者」というそれまでのイメージから、大義を重んじる政治大国と見られるようになり、「民族自決」による戦後の新秩序構築を先導したものでした。

日本が派兵していれば、アメリカと並ぶ「大英帝国の掃除屋」として、世界新秩序の中で主役級の地位を得ていた可能性は大いに考えられます。当時のイギリス人は、自らの帝国を「人道的帝国」「寛容な帝国」と認識して誇りにしており、実際に第二次大戦後、帝国は人道と寛容の精神に押しつぶされて自壊しました。「人種的平等」を訴える有色人種の血により得られた勝利は、大英帝国の解消を20年早め、日本は有色人種の精神的支柱として、アメリカをも凌ぐ地位を得ていたかもしれないのです。

しかしそうした可能性は、日本人自身の内向きな態度により泡と消えました。

いや、1990年も1914年も、日本人に内向きという自覚はなく、グローバルな眼で国益を睨んでいると考えていました。1990年の日本人は、「海外派兵はアジアの人たちの反感を買う」と言い、1914年の日本人は、「欧州に派兵するとアジアの秩序を守れない」と言いました。日本人は日本人なりに国際的視野で身の振り方を判断し、ただ日本人の頭の中では、世界=アジアだったのです。

アジアの旗を掲げてグローバルパワーとなるチャンスを逃し、アジアの旗を掲げて無謀な戦争をし、今もアジアの特定国の顔色を伺って国の指針を決める日本。自分がその一員であるアジアに親愛の情を抱くのと、アジアコンプレックスであるのは違います。日本人はアジアコンプレックスであり、それを自覚し、克服することこそが日本の未来のためであり、またアジア全体のためなのです。

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2012年12月24日

電力輸出国ドイツの実体

脱原発と再生可能エネルギーへの「エネルギー転換」を進めるドイツは、電力不足に悩んでいるかと思いきや、実は電力の輸出が輸入を上回る、電力輸出国です。

「ドイツを見習え」派の人たちは、こういう話をドヤ顔で拡散します。しかし、電力は輸出超過ならいいというものではありません。

Polen wehrt deutschen Windstrom ab

「ポーランドがドイツの風力電力を拒絶」という、フランクフルター・アルゲマイネ紙の記事です。ドイツの電力輸出に対し、ポーランドやチェコが送電を停止するようドイツ側に求めているというのです。

ヨーロッパの国々は、国境を超えて送電網が張り巡らされており、水が高い所から低い所へと流れるように、電力は多い所から少ない所へと自動的に流れる仕組みになっています。ドイツを例にとると、ドイツ国内で電力が不足気味になると、周辺国で余裕のある所から電力が流れ込み、逆に電力が余ると、周辺国に溢れ出すわけです。

ドイツの場合、電力に余剰が生まれるケースが多く、その結果として輸出超過なわけですが、これに対して周辺国が頭を抱えているのです。なぜならば、電力というのは供給=需要でなければならず、電力不足で停電になるように、供給過剰でも停電になるものだからです。

エネルギー転換を進めるドイツは、脱原発を睨んで、風力発電や太陽光発電施設を続々と建設しています。ところが再生可能エネルギーというのは、発電量が一定しないという欠点を持ちます。天候しだいで、必要なときに十分に発電できないこともあれば、いらないときに無駄に多く発電してしまうのです。

再生可能エネルギーの割合が高いドイツでは、発電量の振幅が大きく、調整能力も限られています。需要を上回る電力を作れば事故になりますが、ドイツの場合余剰電力は周辺国に溢れ出します。結果として周辺国は、ドイツから押し売りされた不要な電力を処理するために、余計なコストをかけてこまめに発電量を調整するなど、電力の最終調整を強いられているのです。

ドイツとしては、周辺国の善意にタダ乗りするわけにもいかず、送電をコントロールする高価な設備を設置した上で、余剰電力を国内で処理する方策を見つけなければなりません。そしてそのためのコストは電気料金に上乗せされ、ただでさえ高騰している電気料金をさらに押し上げることになります。

ドイツ:再生エネ普及で電気代高騰、戸惑う国民 野党批判、首相「想定外」と釈明

ドイツの脱原発は、原発大国のフランスから電気を輸入できるから可能なのだとよく言われますが、それは正確ではありません。ドイツのエネルギー転換は、電力不足のときに輸入できるのに加え、電力余りのときに輸出できるからこそ可能なのであり、二重の意味で周辺国に依存しているのです。

最後に読者のコメントを紹介しておきます。

▽他国に迷惑をかけるわけにはいかんから、余剰電力は国内で意義あることに使わないとな。風力発電パークの前に「コモンセンス」と名付けたでかいロボットを作り、電力が余るとそこに電気が流れ、頭を抱える動作をさせるというのはどうだろうか?

▽それはすばらしい提案だ。ついでにでかいネオンサインも作ろう。電気が余るたびに、「ありがとうユーロ!」「ありがとうゴールドマンサックス!」「すばらしい政治家に恵まれて幸せだ!」「増税大歓迎!」「移民のみなさんのおかげで大儲けだ!」「極右追放!」「悪の原発追放!」とか煌々と点灯するのだよ。

▽ドイツのエコ発電はバッファーとしての周辺国あればこそで、周辺国の迷惑になるなんて予想できたことだろうに。すべての原因はドイツ側の思考停止にあるのだから、勝手な都合でバッファーにしている国々に迷惑料を払うのは当然だな。

▽「ドイツのエネルギー転換は世界のお手本」なんて主張は、エコ利権に絡んでいる奴らのポジトークとしか思えんな。わざわざ税金をかけて周辺国に迷惑かけるだけの余剰電力を作るなんて、ドイツは世界の笑いものだよ。

▽周辺国の主張は文句のつけようもなく正しい。そしてその費用はドイツの消費者に転嫁されるというわけだ。ドイツの政治家たちのお花畑ぶりは、いよいよ明白になりつつあるな。

▽われらの崇高なるエコ電力をいらんとは、ポーランド人とチェコ人はけしからんな。わざわざ深夜にプレゼントしているというのに…。

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2012年12月22日

ネットとリアルの融合

ドワンゴの川上会長が、おもしろい主張をしていました。

「ネットはリアルにどんどん侵食されている」ーーニコ動6周年 川上会長に効く、リアルに投資する理由

今の時代、ネットとリアルの融合が進んでいるのは、誰の眼にも明らかだと思います。しかし、彼の主張はどこかズレているような気がしてなりません。例えば彼は、こんな言い方をします。

「今、大きな力を持っているのは、リアルの従属物としてネットがあるようなサービス。ネットがリアルにどんどん浸食されている。ネットで生きることとリアルで生きることを融合しないと、“ネットの人”の生きる場所がなくなってしまう。隔離された場所はどんどん狭くなっていくので、ネットを拠点として現実とつながらないと、幸せになれないと思う」

彼は、ネットとリアルの融合を、「ネットがリアルにどんどん侵食されている」と表現します。これは単なる言葉のアヤではなくて、他のところでもこの世界観に沿った発言を繰り返しています。例えばーー

リアルイベントを行い、集客してみせることでニコ動は、「現実社会は多様だ」と、オタクに迫る。「ネットは自分が見たい意見しか見えない構造なので、自分の意見が世の中のすべてだと錯覚しやすい。みんなが自分の好きなものだけを見て幸せにやっているならそれでいいが、自分の意に沿わないものを弾圧しようとし、そこに争いが生まれてしまう。世の中はもっと多様だと認識したほうがいいと思う」

これは、ネットがリアルに侵食されるという立場に立ち、ニコ動においてネット文化を創造してきた人たち、彼の言葉でいう「オタク」の人たちに、リアル世界のあり方を啓蒙し、彼らをリアルに引き寄せるという姿勢です。また別のところではこう言います。

最近のニコ生番組は、テレビが作ったフォーマットをネット生放送に載せ替えた番組も多く、「ニコ生が小さなテレビのようになっている」という批判もあるが、「ネットの番組が進化したらテレビに似てくるのは当然。ネットはテレビのレベルを目指すべき」と、川上会長は反論する。「ネットで一番面白い番組と、テレビのそれを比較して、どちらが面白いかは歴然としている。テレビは何十年もの歴史で進化している。テレビと同じだからダメという批判はおかしい」

ネット動画は、既存のテレビ番組=リアルに近づいて当然、ネットはリアルを見習うべきという主張です。これもまた、「リアルがネットを侵食する」という世界観から導かれる姿勢です。

ネットとリアルの融合といえば、クリス・アンダーソンの「MAKERS」です。この本は、まさにネットとリアルの融合について、実体験と多くの実例を絡めつつ語り尽くした一冊です。しかしアンダーソンの視点は、川上会長のそれとは正反対です。



前著の「ロングテール」や「フリー」で、ネットという、従来のリアル世界とは違う価値観を持つ世界を探索したアンダーソンは、この本でさらに一歩考察を進め、ネットによる変革は「ビットから原子」へと進出する時期を迎えたと説きます。ネットはもはやモニターの中の出来事ではなく、手でさわれるハードの世界、ものづくりの世界へと広がりつつあり、それは新たな産業革命を引き起こすだろうという見立てです。

アンダーソンによるネットとリアルの融合は、ネットがリアルの従属物になるのではなく、リアルがネットを侵食するわけでもありません。ネットがリアルを侵食するのです。ネットによるものづくり革命の一翼を担う企業としてあげられる「Etsy」のチャド・ディッカーソンCEOは、もともとオタク的事業として発足したEtsyが、リアルな大企業へと変容していくことについてこう述べます。

「Etsyがその他の世界のようになるのではありません。むしろその他の世界がEtsyのようになってきているんですよ」

川上会長という人は、ネット規制を是認するなど、以前からネット企業の責任者とは思えない発言をしてきました。ネットというのは所詮リアルの従属物であり、リアルに飲み込まれるものだという世界観は、そうした発言と合致します。

ドワンゴはネットを使った企業であるけれど、ネット企業ではないのです。ニコニコ動画は、がんばればテレビ東京にはなれるかもしれませんが、テレビに代わるものではないのです。

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2012年12月20日

リベラル退潮の理由

元朝日新聞編集委員の山田厚史氏が、なぜリベラルは退潮したのだろうと思いを巡らせていました。

中道左派=リベラル退潮の理由 溝埋まられぬ旧左翼と市民運動

彼は「中道左派=リベラル」を自認する人に違いありませんが、彼には大きな誤認があります。彼はこう書き出します。

自民圧勝の総選挙は「中道左派=リベラル」の退潮を印象付けた。米国でオバマ大統領を支えたのはリベラルであり、フランスのオランド大統領は社会党だ。格差を生み出すグローバル市場主義に平等志向で対峙する中道左派はなぜ日本で支持を得られないのか。

海外のいくつかの国で左派が躍進しているのは事実です。しかしその政策はさまざまです。フランスの社会党は、かつて積極的に原発を推進し、今は法人税の大幅控除と公共支出削減を打ち出していますし、2010年に下野したイギリスの労働党政権はグローバリズムを推進し、対テロ戦争にも積極関与していました。そしてオバマ政権の政策は、前回書いたように自民党の政策と変わりません。

一口に中道左派(アメリカ流の言い方でリベラル)と言っても、各国ごと、またその時々により政策はそれぞれなのです。肝心なのは、中道左派たる大きな理念、軸足の置き方です。ではそれは何なのか?著者は言います。

リベラルの要素を平等社会・環境との共生・平和重視に置くなら、未来の党から緑の党まで、あるいは民主党の一部まで、多少の温度差はあっても理念は共通している。現実の政策では脱原発、反消費税増税、TPP反対、憲法9条改正反対などの国政の骨格である政策で足並みが揃っている。

だが組織の事情や過去のいきさつなど些細な対立で足並みが揃わない。

平等社会・環境との共生・平和重視?日本の格差の小ささは世界屈指ですし、環境基準の厳しさ、エコな生活ぶりも世界屈指です。そして半世紀以上どこの国とも交戦していない、世界でも稀有な平和国家です。

平等社会・環境との共生・平和重視を中道左派の要素とするなら、日本はそれらを愚直に実践してきた国なのであり、それを率いてきた政党は、他ならぬ自民党なのです。

小泉政権の一時期を除き、自民党は常に、公共支出と規制による社会コントロールを主眼として政治をしてきました。これは諸外国では、社民党の仕事です。世界基準で言えば、自民党は立派な中道左派政党なのです。

では自称中道左派な方々は一体何なのか?

ずばり彼らは急進左派です。例えば彼らの多くは愛国心を否定し、日の丸を手にして選挙応援するのは極右と決めつけているようですが、星条旗はためく米民主党の応援はもとより、今年行われたイギリスの市長選やフランスの大統領選でも、左派政党の支持者は国旗を手にして応援しました。

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愛国心を排外主義と同一視して否定する中道など論理矛盾です。そんな勢力が国民的な支持を集められないのは当然であり、また些細な理由で分裂、内部抗争するのも急進派の宿命なのです。

今日本に必要なのは、自称リベラルこと急進左派の復活ではありません。中道右派の形成です。今回の選挙では、世界基準における保守の条件を備える「維新」と「みんな」が躍進し、比例選で両党合わせて自民の得票率を超えました。彼らを中心にして中道右派がまとまれば、中道左派の自民と対峙する二大政党制が完成するのです。

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2012年12月19日

右翼は保守で保守は左翼

維新の会の橋下氏が、選挙後の記者会見で、アメリカ人記者に息巻いたといいます。

《在阪記者から質問が相次ぐ中で、「ジャパンタイムズ」所属の米国人記者からも質問が出る》

−−海外でこの選挙が注目を浴びている。海外のイメージは日本維新の会は右翼というイメージがある。外交はどのように考えているか

橋下氏「日本維新の会が右傾化しているというが、核兵器もって軍隊もっているアメリカとどっちが右傾化なのか。ビンラーディンを殺害したときは他国の主権の中にどんどん踏み込んでいっている。それと日本維新の会と比べてどう右傾化しているのか。核兵器についてどういうことになるのか頭の片隅に入れるというのは当たり前のことだと思う。どこが右なのか最初の前提を教えてほしい」

「米国に右傾化と言われたくない」 橋下氏、米記者に論戦挑む

橋下氏は「右翼」と呼ばれることが不満なようです。

日本では、右翼という言葉は非常に悪い響きがあって、ネットで右翼的な主張をする人たちも、「オレたちは真正保守だ」とは言いますが、「オレたちは真正右翼だ」とはまず言いません。

日本における「右翼=危ない奴」という先入観は、橋下氏の返答にもよくあらわれています。橋下氏は、右翼と名指しされたことに対して、「アメリカのほうが好戦的だからよほど右翼だ」と切り返しましたが、好戦性に右翼左翼は関係ありません。「右翼=タカ派」と思い込んでしまうのは、左翼のプロパガンダに毒されている証なのです。

アメリカでもヨーロッパでも、「クオリティ・ペイパー」に左翼が多い関係上、右翼は悪い意味で使われがちではあります。しかし、右翼に極がつかない限りは日本ほど危険な響きはなく、あくまで政治的位置づけを表す言葉としてとらえられています。

では、維新の会はどう位置づけられるかというと、紛うことなき右翼です。より正確に言うなら、「右翼ポピュリスト」です。日本でこう言うと、「極右衆愚政治」という感じで最低の称号です。しかし、海外でRight Wing Populist と呼ばれても、必ずしも悪ではありません。

アメリカとヨーロッパでは呼称が一致していないので、混乱を避けるために、ここではアメリカでの呼称で説明します。アメリカで右翼というのは保守のことであり、米共和党的な政治姿勢を指します。すなわちそれは、「政治権力は人々の営みをなるべく邪魔しない」という姿勢です。

維新の会は、ときにリバタリアン的ですらある自由主義を掲げているので、ずばりこの範疇に入ります。また、ポピュリズムというのは、必ずしも衆愚政治のことではなく、「既存の体制を、大衆の支持を背景にして刷新する」という姿勢を指すので、これもずばり維新の会に当てはまります。

従って維新の会は、右翼ポピュリスト以外の何物でもありません。橋下氏は、今後はこうした事情を理解して、冷静に対処すべきです。今回のように頓珍漢な対応をしていると、基地外極右のレッテルを貼られるだけです。

ところで、海外と日本の政治カテゴライズの差が最も珍妙に表れるのは、自民党です。此度の選挙結果は「自民党圧勝で保守政権奪回」などと海外で伝えられていますが、アメリカ人からすると「???」です。

なぜならば、自由民主党を英語にするとLiberal Democratic Partyであり、アメリカでは「リベラル=左翼」を意味し、また「リベラル=民主党」だからです。だから自民党は「左翼主義左翼党」ということになり、それを保守と言われるとどうにも違和感があるのです。

しかもこれは、ただの言葉遊びではありません。今の自民党は、中央銀行の独立を犯して金融緩和し、公共事業拡大により景気回復すると訴えていますが、これは米民主党の中でも最左翼の発想です。自民党は、名称も政策もガチガチの左翼なのに、なぜか日本では保守と呼ばれているのです。

昔からよく言われるように、日本は世界で最も成功した社会主義国家であり、中国の保守がゴリゴリの共産主義者であるように、日本の保守は模範的社会主義者ということなのかもしれません。

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2012年12月17日

小沢一郎は終わるか

今回の選挙には勝者はいない、と言われます。その通りだと思います。しかし敗者はいます。それは民主党であり、未来の党であり、一口で言うなら小沢一郎です。

1980年代の末以来、小沢一郎は日本の政治を動かすキーマンでした。しかし今回の選挙の結果、「維新」と「みんな」が民主の残党と手を組むというバカな選択をしない限り、小沢一郎は政局に何ら関与できない立場に転落しました。過去20年で初めての状況です。

では小沢一郎とは何かと問えば、「反自民」です。1990年代初頭に自民党を飛び出した頃の小沢一郎氏は、外交的にはタカ派であり、また「新自由主義者」でした。しかし小泉政権時代に自民党が自由主義×タカ派に舵を切ると、それまでの姿勢を180度転換して、社民主義的経済政策×ハト派な主張をするようになりました。小沢氏には確固とした政治理念はなく、とにかくただ「反自民」なのです。

あれから20年、小沢一郎は自民党を壊せませんでした。「国土強靭化計画」を掲げた自民党は、20年前の姿そのままです。結果だけを見るならば、小沢一郎の闘争は、サヨク勢力を抱きかかえて自爆するという、わけのわからない終幕を迎えたのです。

もちろん小沢一郎復活の可能性はないわけではありません。サヨクの残党となんとなく組んだまま、「日本改造計画」をポケットに入れてちらつかせれば、維新を抱き込んでの「反自民」再結集はありえないシナリオではありません。

しかし、そんなことをして何になるのでしょうか?今回自民党は、圧勝こそしましたが支持率は落としています。「自民vs反自民」という枠組み自体が意義を失いつつあり、小沢一郎の最大の敗因はそこにこそあるのです。

であるならば、今望まれるているのは、自民でも反自民でもない価値観を持った政党、要するに、「政治理念など二の次で、政局次第でころころと主張を変える野合」ではない集団、マニフェストではなく、イズムを示せる集団ということになります。

その一番の早道は、小沢氏が自民党に復党することです。そのとき小沢一郎という政治システムの本質は誰の眼にも明らかになり、政治は大きく動くに違いないのです。

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2012年12月15日

二大政党制の終焉と危機

最近、自民vs民主という実現しかけたに見えた二大政党制の崩壊を予見して、二大政党制の瓦解とともに軍国主義化した戦前の日本と現代を比較した論考をあちこちで見かけるようになりました。

そう、戦前の日本は、「大正デモクラシー」と謳われた民主化風潮の中、保守の「政友会」と自由主義的な「民政党」による事実上の二大政党制が実現していました。しかし、両党は政争に明け暮れて政治混乱を招き、軍の介入を招いたのです。

この比較に従えば、民主党壊滅後の「総右翼」状態は、中国大陸での紛争から対英米戦へと突き進んだ暗黒時代ということになります。

しかしこの見方は安直すぎです。確かに、現代と20世紀初頭の政治状況は比較に値します。しかし、世界の政治トレンドを考慮し、世界の中の日本を見なければ片手落ちです。そして世界の政治潮流を考えたとき、そこにはまるで違う風景が見えてくるのです。

では20世紀初頭の世界の政治トレンドはいかなるものだったのでしょうか?一口で言えば、当時の世界は大きなパラダイム転換を迎えていました。

それ以前、19世紀後半の欧米各国における政治は、保守勢力と自由主義勢力の対立を軸に動いていました。しかし20世紀の初頭にその構図は崩れました。それが最も明確に表れたのはイギリスです。

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イギリス主要政党の得票率推移


それまで保守党(青)と自由党(黄色)の二大政党で動いていたイギリスでは、この時期に自由党が劇的に退潮し、代わって急速に台頭した新たな勢力(赤)が二大政党の一翼を担うようになりました。社会主義を信奉する労働党です。

19世紀中頃までは、自由主義はまさに革新的な政治思想でした。しかし、自由主義が社会に浸透し、保守勢力が自由主義的政策を取り入れるに至り、保守vs自由の対立軸は消滅してしまいました。一方で工場労働者の増加で社会主義思想が広がり、保守/自由vs社会主義という新たな構図が生まれたのです。

同じような状況はアメリカでも見られました。南北戦争後のアメリカでは、自由主義的な共和党と保守的な民主党が二大政党を形成し、元来自由を尊ぶ土地柄、共和党の独壇場が続いていました。しかし20世紀を迎える頃から、社会主義的な政策を掲げる「進歩党」が第三極として登場するなど既存の枠組みが崩れ始め、1920年代末には、民主党がアメリカ流の社民主義である「リベラリズム」を信奉する政党に変身するに至りました。

このように、20世紀初頭の世界は、社会主義というニューウェーブの台頭により、従来の政治構図の崩壊と再構築の時を迎えていたのです。

その兆しは日本でも見られました。欧米からやや遅れて社会主義運動が盛んになり、1930年代には「社会大衆党」という社民主義政党が第三極にまで成長していました。1920年代に成立した保守vs自由という日本の二大政党制は、成立した当初からすでに時代遅れであり、早晩瓦解することを運命づけられていたのです。

20世紀前半に暴走した国には共通点があります。ドイツ、日本、イタリアの枢軸三国は、台頭著しい社会主義思想を手なずけ、イギリスやアメリカのように穏健な形で政治システムに取り込むことに失敗しました。その結果社会主義思想は歪な形で過激化し、社会を全体主義へと向かわせたのです。

イタリアとドイツでは、社会主義政党は早々に政治の表舞台に立ちました。しかし第一次大戦後の社会混乱があまりに大きすぎ、社会主義勢力は大分裂。過激分子の中から、階級闘争を民族闘争に差し替えた国家社会主義が勃興するに至りました。

日本の場合は、社会主義政党の主流化が遅れすぎていました。そのため、社会主義思想は政党政治ではなく、軍人や官僚の「革新化」として発芽し、時代に乗り遅れた議会政治を捨てて、エリートの牽引で強引に社会改造を進める方向へと走りました。

マスメディアの画一的な情報に浴し、巨大資本による大量生産ラインで働いて大量生産品を消費し、社会の歯車として生きることを課せられた20世紀人にとり、社会主義は必要不可欠な解毒剤でした。それを民主主義の枠内で受容できるかどうかが明暗を分けたのです。

さて、そんな100年前の状況と今を比べると、現代の状況が当時と酷似していることに気づきます。

およそ100年前に成立した、保守vs社民という政治構図は、今はもう世界的に形骸化しています。保守勢力は社会主義的政策を取り入れて左傾化し、一方の社民勢力は民間の活力を重視する政策を取り入れて右傾化し、今や両者の差はほとんどありません。選択肢を喪失した有権者の二大政党離れは、どこの国にも共通して見られる現象です。例えばイギリスでは、1970年頃までは9割の有権者が保守党か労働党に投票していたのに、今では両党合わせての得票率は6割程度にすぎません。

一方で社会構造も大きく変化しています。すでに1970年代から「蟹工船」的なブルーカラー像は過去のものとなり、特にインターネット普及以降は、人々の置かれた状況は大きく変わりました。クリス・アンダーソンが「MAKERS―21世紀の産業革命が始まる
」で描いているように、21世紀人はもはや歯車として生きる必要はないのです。

ですから、問題なのは二大政党制の実現失敗による左派の退潮ではなく、その次なのです。社会主義的な考え方、アメリカ流に言えばリベラルな世界観は、此度の選挙で勝つだろう「右翼」の中にも十分すぎるほど根を下ろしており、それについて心配する必要はありません。

戦前の失敗に学ぶのならば、旧い政治構図を一刻も早く捨てて、新しい時代に合わせた新しい対立軸ーー脱歯車時代に合わせた政治理念を確立し、新しい政治構図の構築に傾注せねなりません。それに失敗したとき、社会は罰を受けるのです。

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2012年12月14日

ドイツほのぼのニュース

ドイツのヴェルト紙のサイトを見ていたら、なんだかほっこりするニュースを見つけてつい紹介したくなってしまいました。

Boris Becker erntet "Shitstorm" für Twitter-Meldung

記事のタイトルは、「ボリス・ベッカー、ツイッターで炎上」

ベッカーといえば、1980年後半〜90年代に活躍した偉大なテニス選手です。その彼が、EUのノーベル平和賞受賞によせてこんなツイートをしたそうです。

「すごいぞアンゲラ・メルケル!ノーベル平和賞優勝したせいで、誇らしくて愛国心燃えるぜ」

ノーベル平和賞を何かのコンペのように勘違いし、国家ではないEUの受賞に愛国心をくすぐられ、さらになぜかEU構成国の一首脳にすぎないメルケル首相を賞賛し、ついでに基礎的な文法まで間違えるという、幾重にも滅茶苦茶なツイート。これにドイツのインターネッターたちが呆れ、「バカに国家を否定されて愛国に目覚めたわ」「どうでもいいけどドイツに税金払えよ(*ベッカーは外国暮らししているのです)」などと炎上したのです。

で、そんなヴェルト紙の記事に対する読者のコメントはこんな感じです。

こいつは真性のバカだよ。バカランキングでローター・マテウスと1、2位を争うんじゃないか?

マテウスとベッカーの宿命のバカ争いは永遠に勝負つかないだろうな。それにしてもツイッターの瞬間バカ拡声器ぶりはすごいな。

おいヴェルト、ツイッターを見て記事を書くなんて楽な仕事だな。これが新時代のジャーナリズムってか?お前らの未来は暗いよ。

コメントに出てくるマテウスは、W杯最多出場記録をを持つ偉大なサッカー選手ですが、別れた妻から「良い人だけど、バカすぎて…」と言われるほどにオツムが弱く、相次ぐおバカ発言と監督としての無能ぶりから、ドイツでは筋金入りのバカとして知られています。

それにしても、この記事についてのあらゆる点ーースポーツ選手がバカなこと、ツイッターで馬鹿発言して炎上すること、ツイッターが馬鹿発見器として認識されていること、そして新聞サイトがそれを記事にして読者に呆れられていることまで、日本と何から何まで一緒で、妙にほのぼのとした気分にさせられてしまいました。

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2012年12月13日

ステマは規制ではなくならない

2012年は「食べログ」のステマ騒動で始まり、「ペニオク」のステマ詐欺で終わる、ステマの年になりました。

「ワールドオークション」をめぐっては、グラビア出身の人気女性タレント(35)が2年前、自身のブログに、同サイトを利用して空気清浄機を1080円で落札したと記載していたことが判明。12日付の読売新聞によると、このタレント側は「落札は嘘で、知人から『サイトの運営者から30万円をもらえる。アルバイトをしないか』と誘われた。サイトは利用していない」と警察に説明したという。

有名芸能人が宣伝していた詐欺容疑の「ペニーオークション」

ファンを騙して詐欺サイトに導いていたわけで、しかもこのタレント以外にも多くのタレントたちが「アメブロ」を舞台に犯罪幇助をしていたようで、なんとも哀れな話です。

こういう事件がおきると、必ず規制しろという人が出てきます。しかし自分は規制には反対です。

イギリスのように明確にステマを禁止している国もあります。しかしその効果は疑問視されています。どこまでがステマでなく、どこからがステマなのかは非常に微妙な問題で、その判定はとてもむずかしく、一方で法律の裏をかいくぐるのは簡単だからです。

ネット犯罪をめぐる日本の警察の無能ぶり、あるいは秋元康氏にカモにされる役人たちの体たらくを見れば、役所というものがいかにそうした「創造的な判断」に適していないかわかります。そういうことにかけては役人はプロの広告屋の敵ではなく、本当に悪質なステマは悠々と生き延び、一方で弱い者いじめーー例えば匿名掲示板つぶしの口実に使われたりするが関の山です。

だからステマ対策は規制に頼るのではなく、教育と自警団に任せるべきです。

教育については説明するまでもありません。ステマの被害者を出さないため、ついでに「バカッター」の被害者を出さないため、「情報」科目を新設して、小学校から教えるべきです。「横断歩道を渡るときは、右を見て左を見て、もう一度右を見てから渡りましょう」と子供の頃習うように、この情報戦争時代に、情報との付き合い方を教えずに放り出すのはむごすぎます。

大人の人は、英語の勉強をかねてこの本でも読んで、ステマの怖さを再確認しましょう。少し古い本ですが、世の中がステマに満ちていることがよくわかります。



そして、悪質なステマ業者への罰は、自警団に任せます。炎上も悪いことばかりではありません。悪質なステマを企んだ主犯と、その片棒を担いだタレント、さらには「うちは関係ない」と関与を否定する周辺の組織まで、徹底的に炎上させて、思い知らせてやるのです。

ステマ広告屋にしてみれば、カネとクチでどうにでもなる規制よりも、教育と自警団で対抗された方が100倍怖いのです。

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2012年12月11日

政治をスルーすることの意義

選挙中だけあって、ネットと政治の融合を考えようだとか、タレントもどんどん政治発言すべきだとか、若者はより積極的に政治参加すべきだとか、そんな話をあちこちで聞きます。

こういう呼びかけに、何らおかしなところはありません。しかし、どこか白々しさを感じて引いてしまう人も多いと思います。そうすると、「それが日本人の悪いところだ」「欧米では家族間、友人間で政治の議論をするのは普通のこと。そうやって政治意識を持たないと、この国は変わらない!」なんて力まれてしまいます。

たしかに欧米、とくにヨーロッパ人の政治意識は高いです。しかしその内実は、大方の日本人の想像とは違います。仕事がなくなると「仕事くれー!」とデモし、物価が上がると「物価下げろー!」とデモし、「カネ持ちからカネを巻きあげて、社会保障と公共事業でバンバンみんなに分配しますよー」などと主張する政党に嬉々として投票して、結局実現できなくてますます不景気になり、仕方ないので企業優遇して、そうすると「話違うぞー!」とまたデモる。その程度のものです。

つまり彼らの政治意識というのは、必ずしも政治について深く考えて政治参加するというわけではありません。社会のあらゆる問題を政治の問題としてとらえ、政治の力で解決しようとする、そんな発想のパターンをしているにすぎないのです。

だから「高い政治意識=より良き政治」ではありません。それは、19世紀から今日にかけて、ヨーロッパが生んだ政治作品を見ればわかります。植民地主義、共産主義、国家社会主義、そして今は巨大な時限爆弾であるEU。まるで世界の癌です。

もちろん悪いことばかりではありません。「ものごとを政治的にとらえる」というヨーロッパ人の姿勢は、社会に欠かせない政治というシステムを改善し、人類の進歩に貢献してきました。ただ政治は万能ではないのです。ヨーロッパの政治オタクぶりは、そこから学ぶことは多いとしても、成り立ちの違う別の文明が一様に模倣すべき姿勢とは言えません。

ヨーロッパ文明から派生したアメリカ文明は、ヨーロッパの伝統をある程度引き継ぎ、政治意識もなかなか高いですが、ヨーロッパ文明のアウトサイダーたちにより築かれただけあり、ヨーロッパとは異質な世界観を育みました。世界をビジネスとして眺める姿勢です。アメリカ人は、社会の停滞をビジネスで打開しようとするのです。そこでは政治は、ビジネスのしやすい環境と、ビジネス・イノベーションの生まれやすい土壌を作るサブ的役割しか与えられていません。

ビジネスは社会において重要なピースですが、政治同様万能ではありません。他の文明はアメリカから学ぶべきことは多くても、アメリカのようになるべきとは言えませんし、なれません。それぞれの文明には、それぞれに違う視点があり、社会的難題の乗り越え方もまたそれぞれなのです。

では日本文明は社会の危機をどのように克服してきたかというと、たいていの場合、現実に背を向けて苦しみを乗り越えてきました。無常を尊び、もののあはれを愛でる日本人は、世の中が不穏になるとき、現実と格闘して変化を勝ち取るのではなく、現実をスルーして内面に平和を見出すことで苦難を乗り越えてきたのです。

と書くとただの負け犬のようにも見えますが、そうではありません。歪んだ社会を放置しておくと文明は滅んでしまいますが、日本は長きに渡り西欧文明に負けない物質的繁栄を築いてきました。日本文明は、現実に背を向けつつ現実を改良するシステムを備えているのです。

それは、日本史において社会不安が高まるたびにあらわれる奇妙な現象、「傾(かぶ)く」行為にあると考えます。

傾くとは、社会の権威に背を向けて、派手な格好や突飛な行動をすることを指します。南北朝時代の「ばさら」、戦国時代の「傾奇(かぶき)者」、さらには幕末の「ええじゃないか」と、日本史においては、大きな時代の変わり目になると、殺伐たる現実をスルーして、世の権威を笑い蹴飛ばすようなふざけたムーブメントが起きるのです。

これは、ユング心理学における「トリックスター」=道化にあたります。トリックスターは、組織の再生や新たな価値の創造には欠かせない存在とされます。バカなだけに世間のあらゆる常識やしきたりをスイスイと飛び越えて従来の価値観をかき回し、それにより硬化した社会秩序を破壊し、思いもよらない変化を招来するのです。

歴史的に見て、日本文明はどうもこのトリックスターによる破壊と再生を、システムとして内包しているように思えてなりません。社会問題をスルーすることによる社会変革です。

ヨーロッパに倣い政治的に社会改良を志すのも、アメリカに倣いビジネス・イノベーションで世の中を変えようとするのも大いに意義のあることです。しかし、政治をスルーした、一見非建設的な傾く行為も、特に日本のような文明的性癖を持つ社会においては、決して無意味なことではありません。というより、むしろこの国の変化は、そこからしか生まれてこないに違いないのです。

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2012年12月07日

マクドナルドのメニューの穴

マクドナルドが低迷しているそうです。

自分は最近いやにマックづいていて、過去2ヶ月くらい一度もマックに行かなかったのに、先月末から立て続けに3回もマックに通ってしまいました。牛丼もそうですが、ファストフードというのは、美味しい美味しくないの問題ではなく、定期的に無性に食べたくなるものです。

で、味音痴な自分は、その3回とも同じパターンで注文しました。チキンクリスプバーガー、ペッパーレタスバーガー、チョコパイ。それに、どこかで手に入れたタダ券でアイスコーヒーをつけて、ついでにチョコパイはクーポンで値引きしてしめて320円。これでお腹いっぱいです。マクドナルドにすれば困った客なのかもしれません。

巷では、マクドナルドの低迷の理由は、メニューをなくしたからだとか、低価格路線がイカンのだとか、その逆に高すぎるからだとかいろいろ言われています。しかし、いかに庶民向けのファストフードチェーンとは言っても食堂なのですから、売れない理由をマーケティング的に考える前に、まずは「味が悪いのでは?」と考えてほしいものです。

アメリカのファストフードチェーンの王様(と自分では勝手に思っている)タコベルは、2011年に商品表示に偽りがある(使用している肉が偽肉との疑い)として訴えられて、著しく評判を落としたのですが、2012年にV字回復して話題を呼んでいます。

業績回復の理由は新商品で、タコスのシェルにでかいドリトスを使った「ドリトス・ラコス」というやつが大当たりしたのです。1個100円くらいの商品で、自分はまだ食べたことはないのですが、どうやら癖になる味なようで、ツボにはまった人はついドカ食いしてしまうみたいです。体には良くなさそうですが。

日本のマクドナルドも、食堂の原点に帰り、まずはこれぞファストフードという中毒性のある商品開発に力を入れるべきではないでしょうか。そしてその値段は、ずばり190円にすべきです。

というのも、今回マクドナルドに通って、メニューを見てつくづく思ったのですが、マクドナルドの商品ラインナップは妙に歪です。

ボリ価格のセットメニューは無視するとして、単品メニューの品ぞろえがヘンなのです。100円、120円の低価格商品群から、その上の商品がいきなり300円前後にまでジャンプアップしてしまい、中間の200円マックがありません。自動車メーカーのラインナップが、軽自動車と300万円オーバーの車種しかないようなものです。

しかも300円以上の商品を選んでも所詮はファストフードで、100円マック×3のクオリティとクオンティティはありません。300円前後の商品を軸にして空腹を満たそうとすると、無料券でも使わない限り600円超えは確実で、それならお気に入りのラーメン屋で、トロトロチャーシュー入りの工夫をこらした一杯を食うほうが何倍も満足感があります。

もし、100円マックよりボリュームがあり、なおかつパンチのある味の200円マックがあれば、100円マックからアップグレードする客が続出し、またそれ以上の価格帯の商品との間に連続性も生まれると思うのですが…マクドナルドには200円マックを出せない理由でもあるのでしょうか?

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2012年12月04日

FIFAのメッセージ

オリンピックで「ドクトは我が領土」メッセージをかざした韓国選手に対し、比較的軽い懲罰にとどめたFIFA(国際サッカー連盟)は、絶好の機会を逸したと思います。

FIFA、ロンドン五輪の竹島プラカード選手の処分決定

サッカーに乱闘やファンの差別的行動はつきもので、FIFAの懲罰委員会は年中そうしたケースを審議して罰を下しています。しかし、あのように明白な政治的メッセージの発信は稀で、今回はそれに対するFIFAの態度を明確にする絶好のチャンスでした。しかも今ほど、毅然とした態度表明の求められている時はありません。

とうのも、2013年のサッカー界は、数十年に一度あるかないかの政治的に微妙なマッチを控えているからです。それは、ワールドカップ欧州予選グループA、セルビア対クロアチアの試合です。

1991年に勃発したユーゴスラビア内戦を経て分裂した両国の相互憎悪は病的で、韓国の日本に対するウルトラナショナリズムを10倍に濃くして腐らせたようなレベルです。両者ともに自らをホロコーストの被害者と認識し、相手をホロコーストの加害者と見て憎んでいます。

しかも両国は世界に名だたるフーリガンの国で、サッカーに絡んだ殺傷事件は日常茶飯事です。今現在も、U21のイングランド戦と、W杯予選のウェールズ戦での不祥事で、セルビアのサッカー協会は処分待ちの状態で、セルビアを対外試合禁止にすべきとの声も聞かれます。

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また先日、ユーゴ内戦で戦犯容疑をかけられていたクロアチアの2人の将軍に無罪判決が下った折には、クロアチア代表の監督が、2人をセルビア戦の始球式に呼びたいと発言して物議を醸していました。

Political tensions spill over to soccer in Serbia and Croatia following UN court acquittal.

そもそも1991年の内戦も、サッカーの試合を契機にして起きたという過去を持ち、歴史的、政治的、領土的に紛争を抱える両国の初の直接対決は、サッカー関係者の手に余る悩みの種と言えます。

来年の3月にクロアチアの首都ザグレブで第一戦が行われる両国の対戦に先立ち、あるいはその試合に関して重大な不祥事が起きた場合、もしFIFA/UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)がそれを軽く扱えば、それはサッカー界の秩序崩壊を意味します。

しかし一方で厳罰を下しても、それもまた将来に禍根を残します。何しろ両国の歪んだ憎悪の根幹には、「国際社会はフェアではない」という被害者意識があるからです。実際、サッカー大国のスペイン等でたびたび見られるファンの差別的行為は見逃されるのに、セルビアやクロアチアのフーリガンばかり問題視されるという傾向はあり、アンフェアな厳罰は両国の被害者意識を増幅させ、民族対立を先鋭化させかねません。

そんな折に起きた、韓国選手の明白な政治的行為です。もし厳罰を下していれば、それはバルカン半島の危ないサッカーファン、ひいては世界のサッカーファンに強烈なメッセージを送り、FIFAはアンフェアだという批判を封じ込め、将来の類似案件の処理を楽にしたことでしょう。

しかしFIFAは、違うメッセージを送ってしまいました。

今年の6月、デンマーク代表のニクラス・ベントナーは、ゴールセレブレーションで個人スポンサー(デンマーク代表のスポンサーにはライバル企業が名を連ねていた)の名入りパンツを見せて処罰されました。

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事件の後1週間を待たずに下された1試合出場停止と罰金10万ユーロ(約1千70万円)というペナルティは、韓国選手に対する3ヶ月を超える審議と31万円という罰金に比べていかに重く、迅速に下されたことか。メッセージは明確です。

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2012年12月02日

中国は世界で平和を最も愛する大国

中国の新華社が次のように報じていました。

ドイツ紙は29日、「ここ数年、中国は自国軍事力の増強に乗り出しているが、中国は世界で平和を最も愛する大国であり、中日両国間で衝突が起こることは懸念していない」とのドイツのヘルムート・シュミット元首相の談話を掲載した。

同氏によると、「中国は大規模に軍備を拡張しているが、戦争する野心はない」という。11月29日、ハンブルクで開かれた独中経済会議でシュミット元首相は、「中国は世界で平和を最も愛する大国であり、これからのこの伝統は変わらない」と語った。

過去数年間、中国は軍事力の増強に取り組んでいる。先ごろ、初の空母「遼寧」を就航させたが、同氏は、「中国は他国を侵略した歴史もなければ、他国を殖民統治した歴史もない」と強調する。ドイツ国防長官を務めた経験もあるシュミット氏は、中日両国の領土紛争に懸念を抱いてはいない。

今夏、シュミット元首相は計12日間にわたって中国とシンガポールを訪問し、現在は中国に関する新書を執筆している。



伝えているのが新華社で、しかも当該記事に添えられた写真がシュミット元首相ではなく、なぜかシュレーダー前首相だったりするので、記事は捏造なのではと疑わしくなります。

しかしこの記事は事実を伝えており、シュミット元首相は確かに「中国は世界史上最も平和的な国だ」と発言し、ドイツでそう伝えられています。

"China ist das friedlichste Land der Weltgeschichte"

ドイツで最も尊敬されている、94歳になる御大のこんな発言を聞くと、「やはりドイツは反日親中か」と溜息を付く人もいるかもしれません。

というのもかつてのドイツは、明治維新以来の日本のドイツ愛にもかかわらず、基本的に日本に懐疑的で、ヒトラーの一存で日本と同盟を組むまでは、常に中国大陸の政権に肩入れして日本を困らせた過去を持つからです。

シュミット元首相は、そんなドイツの伝統を引く一人かもしれません。上にあげたDie Welt紙の記事にもあるように、彼は在任中から親中国として知られ、今年2月には、天安門事件について中国政府の対応を擁護する発言までしています。

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シュミット元首相といえばタバコです


しかし、ドイツ人の名誉のために強調しておきますが、シュミット元首相の姿勢は、決してドイツ人全般の声を反映していません。

かつてリニアモーターカー絡みで技術だけ盗られて馬鹿を見た経験を持つドイツは、ビジネスパートナーとしての中国に根深い不信を抱いていますし、ダライ・ラマ訪独の折には各地で大歓迎するなど、中国の覇権主義を容認しているわけでもありません。

「中国は世界で最も平和を愛する大国」というシュミット元首相の発言に対する読者の意見はこんな感じでした。

中国の膨張主義的ナショナリズムは、オスマントルコ復活を夢見るトルコのナショナリズムと同じくらいひどいものだ。シュミットのボケは痛々しいレベルだな。

シュミットは部分健忘症に違いない。中国は平和国家でなんかないよ。今の中国が戦争をしかけないのは、しても利益にならないからにすぎない。

ドイツ政界の長老なんて肩書きも風前の灯だな。シュミットのボケはもう堪えられない。年寄りが賢人とは限らないんだよ。

シュミットの戯言を神の言葉のように扱うマスコミに、王様は裸だって誰かそろそろ言ってやれよ。

シュミットは表に出てくるのをやめるべきだな。この前もテレビで、ギリシャ救済でドイツの納税者の負担はゼロだと主張してたぞ。完全にイカれてるだろ。

毛沢東が7000万人殺した国を世界一平和な国とはね。こんな主張聞かされると、他の発言も疑わしくなるな。

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2012年12月01日

ナイジェリアの手紙のカラクリ

「ナイジェリアの手紙」というのがあります。世界的に有名なスパムメールで、「ナイジェリアの王子」などと名乗り、いかがわしい投資話を持ちかけてカネを振り込ませる詐欺メールです。

ナイジェリアの手紙は昔からあるあまりにバカげた手口なので、もはやネタ化してしまい、意図的に犯人の誘いに乗って逆に犯人を引っ掛け、バカな写真を撮らせて楽しむ人もいるほどです。

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しかし、ナイジェリアの手紙はなくなりません。犯人たちは相変わらず「ナイジェリアの王子」を名乗り、いかがわしさ満点のブロークン・イングリッシュで、ひと目で詐欺と分かる代わり映えのしないバカげた投資話を発信し続けています。

なぜ彼らは、あたかも「これは詐欺メールです」と自己紹介するかのような低レベルなスパムを送り続けるのか?マイクロソフトリサーチのコーマック・ハーリー氏は、この現象をとても興味深い観点から分析しています。

Why do Nigerian Scammers Say They are from Nigeria?

論文によれば、見え透いた内容のメールを送ることは、詐欺をするうえで極めて重要な役割を持っています。それは、騙されやすい「カモ」のフィルタリングです。

へたに巧妙すぎる詐欺話をばらまくと、食いつく人は増えるでしょうが、それへの対応に手間がかかります。しかもいくら熱心に対応したところで、実際にカネを振り込むところまで行く人は少数です。こうなると、いくら騙しても経費ばかりかかり、商売になりません。

だからこの手の詐欺では、ターゲットのフィルタリングが重要になります。騙されやすいカモだけに聞こえる笛を吹いて、カモだけを集められれば、そこにリソースを重点的に投入して、効率的に利益をあげられるのです。ひと目でそれと分かる詐欺メールは、カモを判別するフィルタリング装置というわけです。

実際、世の中にはとんでもなく騙されやすい人は相当数存在して、極端な話し、老人性痴呆の人などは、彼らをピンポイントで見つけられさえすれば、高確率で仕留められるはずです。オランダのセキュリティ会社の試算によれば、ナイジェリアの手紙のような投資詐欺の被害額は2009年で93億ドルにのぼり、その額は年々上昇しているといいます。

正直ナイジェリアの手紙の送り主に、そこまでの深慮があるとも思えません。しかしこの説は、ナイジェリアの手紙のようなプリミティブな詐欺手法が、より洗練された詐欺メールに駆逐されることなく生存し続けている理由として説得力があります。

考えてみれば、メール詐欺に限らず、あらゆる詐欺という犯罪の肝は、詐欺の手法そのものにあるのではなく、いかにカモを効率的に見つけられるかにあるのかもしれません。

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