ひとつは、1990年の湾岸戦争です。
共産ブロックが崩壊し、アメリカも財政赤字を抱えて意気消沈していた当時、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」でした。すでに株式市場は急落していましたが、株価回復への期待は大きく、まだまだイケイケムードでした。
そんな中イラクがクウェートに侵攻。世界秩序を維持するためにアメリカが介入し、日本にも軍事的協力を要請しましたが、日本はきっぱりお断りしました。
主要国のほとんどが参戦したこの戦争に人員を派遣しなかった日本は、国際社会において大いに面目を潰し、さらにバブル崩壊が明白になると、アメリカから袖にされ、中韓から嫌がらせされ、坂を転がり落ちるように没落したのでした。
もしあのとき日本が参戦していたらどうなっていたのか?もちろんそれは、当時の国内政治の状況からして考えにくいことですが、もし参戦していたならば、世界の勢力図は大きく変化していたはずです。
なにしろ当時は冷戦構造が崩れ、新秩序の構築が模索されているときでした。圧倒的な経済力を誇示していた日本が、アメリカに乞われて軍事的にその一翼を担う意志を示したなら、政経軍三拍子揃ったグローバルパワーへと昇格する可能性は十分にありました。政治力に担保された経済も持ち直したに違いありません。
しかし当時の日本は政治家もマスコミも国民も内向きで、世界の変化をドメスティックな物差しでしか測れませんでした。世界は日本にグローバルパワーの席を用意していたのに、日本人にはそれが見えなかったのです。
グローバルパワーとなるもうひとつのチャンスは、1914年の第一次世界大戦です。
20世紀初頭の世界は、大英帝国が秩序を維持していました。しかし、世界の4分の1に及んだ広大な領土のあちこちで軋みが生じ、大英帝国時代の終わりを予感させていました。そんなとき、新進のドイツ帝国と全面衝突したのです。
日英同盟を結んでいた日本は、イギリスから陸上戦力の欧州派遣を乞われました。しかし日本は、「欧州に派兵したらアジアの秩序が守れない」「イギリスの犬になるのは嫌だ」などと派遣を拒否しました。そしてドイツのアジア植民地をちょちょいと占領して、欧州には小艦隊を派遣するくらいで、あとは大戦景気による金儲けに邁進しました。
戦後、日本は戦勝国として世界の五大国に数えられるようになりました。しかし、火事場泥棒的に最小限の出血で利益だけ手にした日本は、自分の利益のためにしか動かないずるい国という烙印を押され、戦後の新秩序構築において限定した発言権しか与えられず、日英同盟の解消と国際的孤立への種を巻いたのでした。
もし日本が陸軍を派遣していたらどうなっていたのか?
日本同様イギリスに派兵を乞われ、結局派兵したアメリカは、「自己中心の金儲け主義者」というそれまでのイメージから、大義を重んじる政治大国と見られるようになり、「民族自決」による戦後の新秩序構築を先導したものでした。
日本が派兵していれば、アメリカと並ぶ「大英帝国の掃除屋」として、世界新秩序の中で主役級の地位を得ていた可能性は大いに考えられます。当時のイギリス人は、自らの帝国を「人道的帝国」「寛容な帝国」と認識して誇りにしており、実際に第二次大戦後、帝国は人道と寛容の精神に押しつぶされて自壊しました。「人種的平等」を訴える有色人種の血により得られた勝利は、大英帝国の解消を20年早め、日本は有色人種の精神的支柱として、アメリカをも凌ぐ地位を得ていたかもしれないのです。
しかしそうした可能性は、日本人自身の内向きな態度により泡と消えました。
いや、1990年も1914年も、日本人に内向きという自覚はなく、グローバルな眼で国益を睨んでいると考えていました。1990年の日本人は、「海外派兵はアジアの人たちの反感を買う」と言い、1914年の日本人は、「欧州に派兵するとアジアの秩序を守れない」と言いました。日本人は日本人なりに国際的視野で身の振り方を判断し、ただ日本人の頭の中では、世界=アジアだったのです。
アジアの旗を掲げてグローバルパワーとなるチャンスを逃し、アジアの旗を掲げて無謀な戦争をし、今もアジアの特定国の顔色を伺って国の指針を決める日本。自分がその一員であるアジアに親愛の情を抱くのと、アジアコンプレックスであるのは違います。日本人はアジアコンプレックスであり、それを自覚し、克服することこそが日本の未来のためであり、またアジア全体のためなのです。