2013年01月31日

醜いスポーツ

大阪の体育高校の体罰自殺事件の本質は、暴力とか体罰そのものの問題ではなくて、生徒をそこまで追い込む構造にあると思うのですが、体罰、体罰と騒いでいるうちに、今後は五輪女子柔道の監督が体罰で告発されたりして、思わぬ展開を見せつつあります。

自分は体罰には反対ですが、真剣にスポーツに取り組む競技スポーツの世界で、体罰ごときに大騒ぎするのはおかしいと考えます。体罰に効果があるからではありません。現実として、体罰のないスポーツなど世界のどこにもないからです。

アメリカの高校アメフトでは、コーチはちょくちょく生徒をぶちのめしますし、イギリスのラグビーやサッカーのコーチも同様です。コーチが優しくても先輩が陰湿にしごき、それで泣きでもすれば、「お譲ちゃんはバレーボールでもやってな」と笑われます。ときどき訴訟沙汰になったりしますがもぐら叩きで、抜本的に体罰を根絶した国などありません。

繰り返しますが、自分は体罰に反対です。しかし例外的事例を除いては、体罰はスポーツの一部であり、スポーツと体罰は同じコインのオモテウラの関係であり、体罰のないスポーツはスポーツではないのです。スポーツ界の体罰に憤り、体罰のないスポーツを夢見る人は、スポーツを美化しすぎです。

スポーツの醜さは体罰に限りません。トップアスリートともなれば、白々しくウソをついてドーピングしますし、またスポーツ界は一般人の想像を絶する階級社会でパワハラ天国です。日本では元五輪柔道選手が教え子をレイプしたと訴えられましたが、世界でも同様で、トップレベルになればなるほど教え子へのセクハラは日常茶飯事です。

このようにスポーツというのは人間のプリミティブな醜さを凝縮した世界なのですが、なぜか世間ではそうは扱われません。醜い側面を一切隠して、美しい面ばかり強調されます。美しい面も事実に即していればまだいいのですが、誇張と脚色で大感動物語に仕立てられて感動的な音楽とともに語られ、成功したアスリートはロールモデルとして賞賛され、五輪招致に燃える都知事は、五輪招致に狂喜乱舞しない人を引きこもりと表現して二級市民扱いします。

この極めて歪なスポーツ過剰美化の理由は、マスメディアにあります。19世紀までのスポーツは「ハラハラ・ドキドキ」ではありましたが感動とは無縁な存在でした。しかし20世紀の初頭、新聞とラジオはスポーツに感動の要素を加えて新たなスポーツを創造し、戦争とならぶキラーコンテンツに仕立てました。今あるスポーツはスポーツそのものではなく、マスメディアの成立とともに生まれたマスメディアのコンテンツなのです。

だからマスメディアのない世界にスポーツは存在しません。ここ数年続々とスポーツの不祥事が明らかになり、その一方でスポーツの美化が激しいのは、マスメディアの衰えと焦りの証です。まもなくスポーツは感動の仮面を剥がされ、ハラハラ・ドキドキの正常な姿に回帰していくことでしょう。

それは商品としてのスポーツの価値を下げることにはなりますが、社会全体にとってはプラスだと思います。今の世の中、スポーツ界ほど神棚に祀られて保護され、その結果原始時代的価値観が堂々とまかり通っている世界はありません。そんな修羅の世界に子どもたちを投げ込み、肉体的精神的に痛めつけてはいけないのです。

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2013年01月30日

みんなでやってる感

自分には常々、テレビというのは必要悪であるという思いがありました。マスメディアには害悪としか呼べない醜悪な面もあるけれど、社会を動かす情報の伝達にはマスメディアは欠かせません。だからかつての自分は、劇薬を取り扱う者として自らを認識し、それなりに重責を感じてテレビの仕事をしていました。

しかしインターネットの普及後、マスメディアは必要不可欠な存在ではなくなりました。鈍感な自分が初めてそれを感じたのは2004年頃でしたが、その思いは日々強まり、それとともにテレビの仕事をするのが苦痛になり、やがて業界を去る決意をするに至りました。薬にならない劇薬はただの毒です。目の前の利益と既得権を守るために悪に奉仕することは、自分にはできませんでした。モラルというよりプライドの問題です。

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ハイパーメディアクリエイター氏が、4Kテレビにからめてテレビ業界の現状を次のように語っていました。

昨年末、久しぶりに日本で年末年始を過ごし、久しぶりに「紅白歌合戦」をチラ見したが、
出演者の数にビックリした。無意味に演歌歌手の後ろに、団体を配置するのに善し悪しはともかく、十年後には、総出演者はのべ1000人を超える事になるのではないだろうか?

現在、日本のテレビが創出しているのは「みんなでやってる感」である。インターネットに顧客を取られたテレビは、テレビでしかできないことをそれなりに考え、それは、大画面で「みんなでやってる感」を演出し、視聴者をその「みんな」に入れてしまう手段である。よって、テレビは日々「みんなでやってる感」が跋扈し、これには、この正月最高興行収入を出した「ワンピース」から「サッカー」の国際試合までこれに含まれるのだろう。

4Kテレビ

情報媒体としての地位をインターネットに脅かされたテレビが、テレビにしかできないことを追求し、それが「みんなでやってる感」であるという見方に完全に同意します。そしてそれこそがマスメディアの毒なのです。

「みんなでやってる感」の何が悪いのか疑問に思う人もいると思います。人々が意識してひとつになるのであれば問題はありません。しかし今のマスメディア、とくにテレビがしているのは、人々をモブ化して群衆を操作する行為であり、これは「ひとつになろう」の持つ肯定的な側面とは対極に位置する毒に他なりません。

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観測することでその観測対象が変化してしまうというのは、ハイゼンベルクの不確定性原理ですが、マスメディアというのはまさにこれで、透明な観察者になることはできません。ある事件の闇を第三者的立場から告発すると、その瞬間にマスメディアは事件の関与者となり、事件そのものの性質が変化してしまいます。だからマスメディアには元来2種類のタイプの人間がいました。ひとつは、そんなマスメディアの性質を利用して積極的に社会を変えようとする者、もうひとつは、あくまで傍観者であろうとして社会に及ぼす変化を極力小さくしようとする者です。

後者は、本音を言えないという欠点を持ちます。極論を避け、感情を押し殺し、穏健な両論併記でなるべく世の中を煽らないようにするため、受け手からすれば奥歯に物が挟まったように歯がゆく刺激が足りません。インターネットの普及に最も打撃を受けて衰退したのはこのタイプです。本音を語らずにバランスをとろうとする態度と、本音をぶつけあいつつ全体としてバランスをとるインターネットでは勝負になりません。その結果マスメディアは、前者のタイプ、大衆扇動機関としての性質を積極的に利用して社会を動かそうとするタイプに一元化されつつあります。

「みんなでやってる感」は、そうした態度の顕れのひとつです。政治、事件、エンタメ、彼らはあらゆる分野において国民的なヘッドラインを作り、大衆を同一の対象に注目させ、人々の関心と欲望をコントロールしようとします。そして自分の関心と欲望を支配された人はもはや個人ではなく、モブの部分にすぎないのです。

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ハイパー氏は「みんなでやってる感」が危険な理由を「ソフトなナショナリズム」に向かうからだと述べています。これはある面誤解を誘い、ある面正しい見解です。

自分はナショナリズムはそれほど悪いものだとは思いません。ナショナリズムは誰の中にも自然にあるものです。そしてナショナリズムを下らぬものと唾棄できるのは、よほど生活に恵まれたごく一部の人に限られます。

ただし、ナショナリズムは誰の中にもあるものだけに求心性が極めて高く、多くの人の関心と欲望をコントロールするのに最高のネタとなりえます。だからナショナリズムは危険なのです。ナショナリズム自体が悪いのではなく、今日のマスメディアのような輩にナショナリズムを扱わせると、人々は簡単にモブ化してしまい、あまりの威力に暴走して水蒸気爆発してしまうから危険なのです。

インターネットにも独自の力学でブームを作り出す力があります。クチコミというやつです。日本でも世界でも、クチコミという下からのブーム創生力は年々増しています。ブームを作る主導権まで奪われたら、マスメディアは本当に終わりです。だから彼らはこれからますます死にものぐるいで人々の関心と欲望をコントロールしようとするはずです。そしてその過程でナショナリズムに手を出すのは確実です。

それがいつになるかはわかりません。しかし差し当たりは、ハイパー氏の言うように、「ブラジルワールドカップの際には、国家をあげて国民に4Kテレビがゴリ押しされる」のは間違いないと思います。

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2013年01月29日

肩書きはチラ裏を金言に変える

借金地獄に陥り破産の危機に立たされている南欧諸国は、金融支援と引き換えに社会保障費や公務員の大規模削減を強いられています。そんな国のひとつポルトガルで、アルトゥール・バプティスタ・ダ・シルヴァ教授は反緊縮を訴える論客の一人でした。

元ポルトガル大統領のアドバイザーであり、世界銀行の元アドバイザー、今はアメリカンのミルトン大学で教鞭をとりつつ国連の金融リサーチャーを務めるダ・シルヴァ氏は、去年4月にポルトガルの論壇に登場して以来大活躍で、知識人たちを前に講演を行い大喝采を受け、労組の指導者たちと会談し、テレビ、新聞で盛んにコメントを取り上げられました。去年12月にダ・シルヴァ氏のインタビューを掲載した高級ニュース誌「エスプレッソ」の記事は、ロイターを通じて世界に発信されました。

金融支援計画について再交渉しないとポルトガルは大変な社会混乱を招くと、南欧問題に取り組む国連の経済学者は訴えた。

土曜日に発売されたエスプレッソ誌で、負債に苦しむ南欧諸国を調査する国連開発プログラム(UNDP)のコーディネーター、アルトゥール・バプティスタ・ダ・シルヴァ氏は、ポルトガル支援は「非常に悪い結果」をもたらしており、計画について再交渉すべきと述べた。…

UN economist: Portugal needs partial debt renegotiation


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しかし、ダ・シルヴァ氏の肩書きはすべて偽りでした。国連はダ・シルヴァ氏との関係を否定し、アメリカのミルトン大学は1982年に廃校していました。また彼には経済学を学んだ形跡もありませんでした。ダ・シルヴァ氏は、過去2度詐欺罪で服役した前科を持つただの詐欺師でした。

The fraudster who fooled a whole nation: Portuguese media pundit exposed as conman

ダ・シルヴァは、精巧なニセの名刺と口の巧さだけで、ポルトガルの人々を8ヶ月もの間騙し続けたのです。

正体を暴かれたダ・シルヴァは言います。「私を詐欺師と言うのはたやすい。しかしなぜ金融資本家たちを詐欺師と呼ばないのだ!」。彼の主張は所詮は陳腐な金融マフィア批判にすぎませんでした。

しかしポルトガルの人たちは彼のチラ裏をありがたがりました。もしダ・シルヴァの肩書きさえ本物ならば、主張の質度外視で人々は彼に喝采しつづけ、チラ裏は政治を動かし、EUと世界をも揺るがしたかもしれません。そして残念なことに、ポルトガル人を笑える人は極めて少ないのです。

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2013年01月27日

過去は清算できない

日本とドイツの過去に対する態度を比較して、「ドイツは徹底的に過去の償いをしている。だから周辺国は文句を言わないのだ。それに比べて日本は…」という言説をたびたび見かけます。これに対して日本の愛国者は「日本も過去の償いをしている。ただドイツとはやり方が違うのだ」と反論します。

しかしこの議論は重大な点を見逃しています。ドイツの周辺国がドイツの過去を赦しているように見えるのは、ドイツが反省して過去を清算したからではありません。ドイツの周辺国にはドイツの過去を糾弾する資格がないからなのです。

先日チェコで大統領選が行われ、左派のミロシュ・ゼマン氏が右派のカレル・シュワルツェンベルグ氏を接戦の末破りました。チェコの未来を決めるこの選挙には、実は60年以上前の過去が影を落としていました。1月中旬に行われたテレビ討論会で、シュワルツェンベルグ氏はチェコの暗い過去を指摘して国論を二分する感情的な軋轢を生じさせ、結果としてこれが選挙結果を大きく左右したのです。

シュワルツェンベルグ氏が指摘した過去とは「ズデーテンドイツ人」の追放です。戦前のチェコには250万人を越えるドイツ人が暮らしていましたが、戦後のチェコ政府はドイツ系住民たちの財産を没収して根こそぎ国外追放しました。シュワルツェンベルグ氏はこれをチェコ国民が向き合うべき過去であると指摘し、自らの脛の傷を見せられたチェコ人は激しく動揺したのです。

民族浄化をしたのはチェコだけではありません。ドイツに侵略された中東欧の各国は徹底してドイツ系住民を追放しました。合わせて1200万人のドイツ人が故郷を追われ、その過程で最低でも50万人が命を落としたと記録されています。

この歴史上最悪のエクソダスは、中東欧の国父レベルの人たちの手で行われました。チェコの場合、ドイツ人追放令を出したのは独立の志士の一人であるエドヴァルド・ベネシュです。彼らの罪を認めることは、建国の神話を否定することに他なりません。だからドイツに侵略された周辺国は過去に眼をつぶるのです。ドイツが反省しているから過去を責めないのではなく、ドイツの過去を責めると自分たちの犯罪とも向き合わざるをえないから過去に触れないのです。

ドイツとその周辺国にはこの暗黙の了解があり、それが少しでも破られると今でも醜い感情が噴出します。数年前には、追放ドイツ人たちの小団体が過去の補償について声をあげただけで、ポーランドではカチンスキ兄弟を先頭に激しい反独の嵐が吹き荒れ、ドイツはドイツで態度を硬化させ、両国関係は険悪になりました。今回のチェコの大統領選でも過去が大きな影響を及ぼしました。欧州では過去は死んでおらず、ただ双方の利害関係からフタをしているだけなのです。

日本と周辺国の間には、この相互の罪がありません。戦前の中国は日本人住民に酷いテロを繰り返し、戦後の朝鮮人は戦勝国気取りで日本人を足蹴にしました。しかしドイツの周辺国のような大犯罪を犯したわけではありません。日本の戦争をナチスと同格の大犯罪とするなら、罪は片務的であり、中国人も朝鮮人も、日本の過去を責めれば責めるだけ彼らの歴史はバラ色になります。こんな構造では過去にフタできるわけありません。

日本とドイツを比較して、日本は反省が足りないとする考え方は、1980年代後半に日本の新聞で盛んに叫ばれるようになり、1990年代初頭に頂点を迎えるとともに周辺国に輸出されました。ドイツのように謝れば、過去を清算して隣国と仲良くなれますよと彼らは囁きました。しかし、ドイツの過去は清算されていないのです。戦後70年近く経過しても過去は生き続けており、ただ双方の利害一致により協力して過去を振り返らないようにしているから、過去を清算したように見えるだけなのです。

誤認に基づいた日独比較論は日本国と日本人にとんでもない重荷を負わせました。過去にフタをする動機を持たない周辺国は、その動機が生じるまで延々と被害者を演じ、日本人はこれに付き合ってゆかねばならないのです。

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2013年01月25日

英のEU離脱と日英ブロック

イギリスのキャメロン首相が、2017年末までにEU離脱を問う国民投票を実施すると宣言しました。イギリスのEU不信は以前から顕著でしたが、明確にタイムラインを示されるとやはり衝撃的です。

EUの集権的官僚主義は、ファシズムや共産主義の基底にあるエガリタリアニズムの流れを汲むきわめて大陸的な姿勢で、海洋国のイギリスとは相容れません。しかし現実問題としてイギリスに、EUという自由貿易圏から離脱することによる経済的損失に堪えられるとは思えません。

仮にイギリスがEUを脱退したとしても、EUはイギリスとの交易をストップするわけではありません。しかし経済ブロックというのは、ブロック内にいることによる経済的恩恵は目に見えなくても、ブロック外におかれることによる経済的損失は甚大という特性を持ちます。EUという経済ブロックの外にポツンと孤立することは、イギリスの経済的凋落を意味します。

気持ちとしてはEUと別れたいけれど、別れると自立できないイギリスのジレンマを解決するには、別の経済ブロックに加入するしかありません。

ひとつはアメリカの経済ブロックに入ることです。イギリスの最大貿易相手国はアメリカですから、経済的には最も合理的な選択です。しかしそれは、アメリカと欧州の間で「バランサー」としての役割に存在意義を見出してきたイギリスが、アメリカのポチに転落することを意味します。独立心の強いイギリス人にすれば、大陸ヨーロッパと組む以上の屈辱です。

もうひとつの選択は、今や形式的な存在でしかない英連邦を強化し、経済ブロックとして復活させることです。しかしカナダはすでに米ブロックに属していますし、もはや大国とはいえないイギリスが今さら日の沈まない帝国の復活を叫んでも、雑魚国しかついてこないのは目に見えています。

このようなイギリスの状況を見ると、日本の置かれた状況に酷似しているのがわかります。世界のブロック化が止まらないのであれば、日本は中国ブロックかアメリカブロックに入るしかありません。どちらか選べとなるとアメリカブロック(TPP)しかないのですが、米帝の衛星国になるようで、プライドの高い日本人には厳しい選択です。

さて、こうした世界の状況を見てつくづく思うのですが、似たもの同士の日英は手を組めないものでしょうか?ユーラシア大陸の東西の端に浮かぶ両国を合わせた経済規模はなかなかのもので、米、欧、中の覇権に拒否感を抱く国々を惹きつけるだけの魅力を持ちます。

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イギリスのEU離れの理由には、EU経由でやってくる移民を制御したい思いもありますから、そこでも日本との価値観にズレはありません。日本からすれば、英語宗主国イギリスの発言権は頼もしく、アメリカを敵に回す可能性も小さくなりますし、英連邦に属すインドやアフリカ諸国との関係強化も見込めます。世界は、米・中・独仏・日英+印・ロシアの5ブロックに分割されるというわけです。

もちろん日本の最大の国益は、世界からあらゆる経済ブロックが消滅することです。しかし黙って座していてもどうにもなりません。イギリスとの海洋ブロック構築に乗り出すことは、地域ブロック化する世界への防衛策であると同時に、仮に実現しないとしても、イギリスにEU脱退をうながすことによりEUの弱体化と崩壊を引き起こし、ひいては世界のブロック化を阻止する一手となりえるのです。

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2013年01月24日

イーベン・バイヤーズの悲劇

先日、「The Untold History of the United States」という米帝バッシングの本を読んでいたら、そこにほんの少し出てきたエピソードが妙に印象深く、本題とは関係のないそのエピソードが頭から離れないので記しておきます。

それは、イーベン・バイヤーズのお話です。

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1880年に鉄鋼王の御曹司として生まれたイーベン・バイヤーズは、スポーツに秀でた華麗なプレーボーイでした。とくにゴルフの腕前は超一流で、1906年には全米アマで優勝したほどでした。映画「ボビー・ジョーンズ ~球聖とよばれた男 ~」には、14歳のボビー・ジョーンズにマッチプレーで敗れる役として登場しています。

やがてバイヤーズは製鉄会社の会長におさまり、未曾有の好景気に沸いた「狂乱の1920年代」を優雅に過ごしていました。しかし1927年にチャーター列車の寝台から落ちて腕を打撲し、それ以来腕の痛みに悩まされるようになりました。医者はバイヤーズにある薬をすすめました。「Radithor(レディトー)」です。

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レディトーというのは蒸留水にラジウムとトリウムを混ぜた放射能水です。濃度は1本あたり7万4000ベクレルでした。先日、福島第1原発の港で採取した魚から、今までの最高値である1kgあたり25万4000ベクレルの放射性物質が検出されたと騒がれましたが、1本60mlのレディトーの場合、1kgあたりに換算すると実に123万ベクレルを超えます。

なぜそんな汚染水を飲むのだと思うかもしれませんが、当時の人々は放射線は健康に良いと考えており、放射線物質入りの歯磨き粉だとか、放射能水を作るポットなどの放射能健康グッズが氾濫していたのです。レディトーはそのひとつで、販売者は「表示以下の含有放射能なら1000ドル差し上げます!」と品質を保障していました。

さて、レディトーを飲んだバイヤーズはすぐに気に入りました。本人曰く腕の痛みは消え、肌の艶は良くなり、精力も増したそうです。バイヤーズはレディトーをケースで買い込み、1日に2本から3本欠かさず飲み続けました。しかし飲み始めてから1年ほどすると、体は痩せ、やがて歯も抜け始めました。検査を受けた時にはすでに手遅れでした。

およそ2年間にわたり1400本におよぶレディトーを飲んだバイヤーズは、計1億8500万ベクレルの放射性物質を体内に入れたと推定されています。やがて顎の骨は壊死して脱落し、脳は膿み、頭蓋骨は崩れて穴だらけになりました。苦しみ抜いた末に1932年に死亡したバイヤーズは、鉛でコーティングされた棺桶で葬られたといいます。

怖い話です。しかしより怖いのは、当時の人々は決して放射線の危険性に無知だったわけではないということです。

1904年に放射線障害で両腕を切断して癌で死んだエジソンの助手を筆頭に、放射線による悲惨な症例は数多く報告され、専門家たちは放射線の危険性を十分に認識していました。しかしそうした事実ははなから放射線を良きものと思い込む人たちの頭には届かず、バイヤーズは自らの身を滅ぼしたのです。

放射線信仰は1945年の原爆投下まで続き、その後は180度転回して今日に至ります。

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2013年01月22日

「国家ブランディング」は国を滅ぼす

まもなく退任する韓国の李明博大統領が、韓流ブームによる国家ブランドの上昇を自画自賛していました。

李大統領は、国のブランド価値が上がれば有形・無形の相乗効果が絶大としながら、「今や『コリア・プレミアム』時代であり、韓国の商品価値も上がった」と力説した。

李大統領 韓国の「格」上昇を協調

この考えを改めないかぎり、韓国は大変なことになると思います。

韓流最大の成果としてあげられる「江南スタイル」のヒットは、ケーポップ路線から逸脱した計算外の出来事であり、「ニューヨーカー誌」の指摘する通り、むしろケーポップの「文化テクノロジー」という哲学を真向から否定します。

また、韓流が韓国製品の価値を高めるのに貢献しているというのも俗説の域をでません。韓国製品躍進の理由は、高品質の製品を安く提供できたからに尽きます。韓流が韓国製品のイメージアップをもたらしているとするなら、世界最大の韓流消費地である日本で、サムスンとヒュンダイはオシャレ企業としての地位を確立しているはずです。

「国家ブランド」という概念を最初に提唱したのは、イギリスの政策アドバイザー、サイモン・アンホルト氏ですが、以前にも書いたように、彼は国家ブランドという言葉を広めたのを後悔していると繰り返し述べています。なぜならば、国家ブランドという言葉は、国家のイメージをマーケティングで変えられるという誤解を生みやすいからです。

アンホルト氏によれば、「国家ブランド」は確かにありますが、「国家ブランディング」はできません。つまり、国家イメージはマーケティングにより操作できるものではないのです。しかし「国家ブランド」というキャッチコピーは政治家と官僚の間にそのような誤解を広めてしまい、おかげで広告屋のカモにされていると嘆きます。

下の映像で、アンホルト氏は国家ブランディング行為の無意味さを強く主張し、「ブランド」という意味曖昧な英単語は使用禁止にすべきだとまで述べています。アンホルト氏によれば、国家ブランディングというのは、自分の華々しい血筋や学歴や職歴を他人の前で滔々とまくしたてるのと同じであり、そんなことをしてもまわりから性格破綻者と認定されるだけなのです。



日本の嫌韓ムードは、典型的な反日左翼政権である盧武鉉政権時代に激しく高まりました。しかし、李明博政権の成立とともに急速に減退しました。盧武鉉政権とは違い「まともな政権」である李明博政権は、ファナティカルな反日姿勢を見せませんでしたから当然の展開です。

しかし2010年頃から再び嫌韓は強くなり始めました。日韓の間に感情的な政治問題は存在しないというのにです。この不可解な嫌韓復活の背景に、2009年に設立された「韓国コンテンツ振興院」による、国策としての韓流ゴリ押しを見ようとしないのはどうかしています。

今日の日本の嫌韓は、李明博大統領の竹島上陸や天皇土下座発言により突如として噴出したのではありません。むしろあの事件は、韓流ゴリ押しにより醸造されていた嫌韓ムードに、爆発の契機を与えただけにすぎないのです。

韓国の新政権は国家による韓流ゴリ押しを継続するそうですから、韓国の自傷行為はまだしばらく続くことになりそうです。この愚かな行為は、韓国という国家の未来に致命的な損害を与えるに違いありません。日本の政治家と官僚には、広告屋の口車に乗せられて韓国の轍を踏まないように願うばかりです。

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2013年01月21日

もっと感動を!

大学アメフト=カレッジ・フットボールは、アメリカで非常に人気があります。大学のくせに収容人数10万人クラスのアメフト専用スタジアムを持つ大学がゴロゴロしています。そんなカレッジフットで、マンタイ・テオ選手は最も注目される一人でした。

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名門ノートルダム大のラインバッカーである彼は、カレッジフットで最も栄誉ある賞「ハイズマン・トロフィー」の投票で2位に入る実力者であり、プロアメフトNFLのドラフトの目玉でもありました。そんな彼が、今大変なスキャンダルに見舞われています。

事の起こりは去年の秋、ミシガン州立大との伝統の一戦を前に、テオ選手は祖母と恋人を相次いで失う悲劇に襲われたと伝えられました。そして白血病で死亡した恋人の「わたしの葬儀に出るよりも試合を優先して。プレーで私を追悼して」という遺言通りテオ選手は試合に出場し、12タックルをあげる大活躍でチームを勝利に導きました。

悲しみを乗り越えて栄光をつかんだ感動物語は、スポーツ・イラストレイテッド誌をはじめとする雑誌、CBS、ESPNをはじめとするテレビ、そして各新聞で大々的に報道されました。死んだルネイ・ケクアさんを偲んで白血病治療のための基金が立ち上げられ、テオ選手は辛い体験を語り、白血病病棟を見舞いました。全米は泣き、テオ選手はロールモデルになりました。

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朝のニュースで悲恋を紹介しテオ選手を讃えたCBS


しかし今年になり、驚くべき事実が判明しました。ルネイ・ケクアの死亡記録はなく、在籍していたとされる大学にも在籍の記録はなく、彼女の写真として紹介された写真は別人のフェイスブックから拝借したものでした。

彼女はもともとこの世に存在しない、架空の人物だったのです。

今、アメリカのマスコミはテオ選手の背信に憤り、悲恋が捏造された経緯を追及しています。しかし、仮にテオ選手が自ら感動物語を捏造していたとしても、はたして彼は全米を揺るがすほどの極悪人なのでしょうか?

なるほど彼はどうかしているレベルにまで話を盛りました。しかし、たとえば二次元の彼女に入れあげ、彼女の死をリアル恋人の死のように悲しむ男がいたとしても、少し気持ち悪いだけで、モラルに反する行動とは言えません。問題があるとするなら彼ではなく、そんな彼の話に飛びついて美談に仕上げ、拡散したマスコミにあるのです。

アメリカのマスコミの中には、なぜ事実を確認することなく記事にしたのか自省するものもあります。しかしそれは、フィクション作家がウソを書いたのを後悔するような白々しい態度です。

かつてテレビでスポーツドキュメンタリーを作っていた頃、「もっと感動を!」という上からの注文にどれほど辟易したことか。そしていつの間にかそれに違和感を抱かなくなり、誰に言われなくても「もっと感動を!」という姿勢でストーリーを盛りまくる自分を見つけて唖然としたことか。

マスコミ、とくにスポーツマスコミというのは、常に頭の中に「もっと感動を!」という声をこだまさせながら取材をしています。スポーツという素材から感動物語を紡ぎだすのが彼らの仕事であり、フィールドに散らばるパズルのピースをいろいろと組み合わせて、そこに「感動」という要素を見つけたときに彼らは小躍りします。

そんな彼らがテオ選手の悲恋に飛びつくのは当然です。事実を確認しろと言われても無理な話です。スポーツの感動というのは程度の差こそあれほぼすべてが虚構に基いており、事実にこだわり始めると、玉ねぎの皮を剥くように何もなくなってしまうからです。

例えばテオ選手の場合、ルネイ・ケクアが実在し、ただし恋人関係と呼ぶには微妙な関係だった場合どうなるのでしょうか?2人の間に恋愛関係がなければ、ルネイ・ケクアが実在しないのと同様にテオ選手の悲恋は虚構になります。しかしスポーツマスコミの常識に従えば、わざわざそこを追求し、恋愛関係の有無にこだわるべきではありません。そこまですると、スポーツにまつわる感動物語はほぼすべて捨てなければならなくなるからです。

今回テオ選手の感動物語の虚構を暴いたのは「Deadspin」というウェブメディアでした。「家内制メディア」を可能としたインターネットは、スポーツ報道の世界にオルタナティブな視点を持ち込み、マスコミという資本集約型感動生産工場で作られた神話を揺るがします。

このままいけば、やがて多くのメインストリーム・スポーツはチープな感動の仮面を剥がされ、それとともにあまりカネを生まない存在へと変容してゆくのは避けられません。それを恐れるからこそ、アメリカのマスコミとスポーツ界はテオ選手事件に血相を変えて話をすり替え、事件の「主犯」を見つけてスケープゴートにしようとしているのです。

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2013年01月18日

Too good to bear

ドイツは日本同様少子化に悩んでいます。出生率は1.34で、日本の1.39をも下回ります。2.0で人口維持ですから、これでは人口激減です。

そんなドイツで、なぜ子供を作らないのか、50歳以下の子がいない人たちにその理由を聞きました。するととても興味深い結果が出ました。

Was die Deutschen vom Kindermachen abhält

1位 「ふさわしい伴侶が見つからないから」40%
2位 「子を持つには若すぎると感じるから」39%
3位 「自分のために使える時間が少なくなるから」34%
4位 「自分の将来が見えないから」30%

ドイツ政府は10年前にも同じ調査をしたのですが、そのときの1位は圧倒的に「家計に余裕がないから」でした。だからドイツはそれ以来子育て支援を拡充し、2000億ユーロにのぼる予算を少子化対策につぎ込んでいます。

その結果今のドイツでは、子供を作ることによる負担増はほとんどなくなりました。しかし出生率は上昇しません。そしてその理由を聞いてみたら、今度は上のように解答されたというわけです。

この調査結果は衝撃的です。少子化はライフスタイルの問題であり、政府にできる対策はないということを示しているからです。ドイツには家族相が、日本には少子化担当相がいますが、彼らは無駄な仕事をしているのであり、国民のライフスタイルを強権的に改造でもしない限り子供は増えないのです。

子作りしないドイツ人たちの理由を見て、ドイツ人は自分勝手だと感じる人は多いと思います。しかし自分はそうは思いません。

上ににあげられた理由を反転して考えると、ドイツ人の子育て観が見えてきます。すなわちそれは、「子育ては、社会的に安定した地位を得た経験ある大人が、立派な伴侶を得た上で手塩をかけて行うもの」という感覚です。要するにドイツ人は、子供をとても神聖なものととらえており、自分勝手どころか、自分に子育てする資格はないと考えているフシがあるように思うのです。

これは日本でも同様です。子供は社会の宝であり、子に尽くす母は社会の鑑です。子供を作らない理由を聞かれて、「見通しの暗い社会に生まれてくる子供が可哀想だから」などと答える人がいて、それは白々しいと思うのですが、未来が暗いのではなく、子供が神聖すぎると考えると合点がいきます。子供は「too good to be born in this world」で、そんな宝を世話する責任は「too heavy to bear」、そして自分にその用意ができたと感じる頃には「too late to bear」なのです。

ドイツのお隣のフランスは出生率が2.0を超えていて、政府の手厚い子育て支援の成果だと謳われています。しかし、同じように手厚い支援をしているドイツで出生率が上がらないとなると、理由は別にあると言わざるをえません。

一説によれば、フランス女性は先進国で最も子供と接する時間が短く、子供を生んでもろくに世話しようとしない「DQN母」なのだといいます。親は自分の生活優先で、子供に合わせたりしないのがフランス文化です。子供と一緒に過ごすために生活スタイルを変えたり、子供の喜ぶ食事を作るのは論外で、誰もそれを問題視しません。

少子化になればなるほど子供は神聖視されがちですが、少子化を阻止するのはその逆ーー子供に対する無責任、「親はなくても子は育つ」精神のような気がしてなりません。

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2013年01月17日

過去を反省しない日本の原点

オリヴァー・ストーンの「Untold History of the United States」という本を読みました。20世紀初頭から現代にかけて、いかにアメリカが悪事を重ねてきたかを滔々と語る本です。



オリヴァー・ストーンは、リベラルというより急進左翼、社会主義者なので、内容は大いに偏っています。本書で語られる悪はアメリカ右翼の悪、すなわち軍産複合体の悪であり、逆に社会主義化を進めたF.D.ルーズベルト大統領時代はバラ色の時代として描かれます。

実際には、ルーズベルト時代のアメリカは平均40%の高関税で国内産業を守り、そのくせ外国に対してはアメリカ製品に門戸を開けと迫るジャイアンであり、世界に保護貿易レースを仕掛けた主犯でした。世界の自由主義者たちに死刑宣告を下し、「持たざる国々」を決起に追い込んだ張本人でした。

そうしたアメリカ左翼の悪も暴けば、この本は党派を超えて説得力ある「アメリカ黒書」の決定版となれたかもしれないのに残念です。

さて、そんな米帝バッシング本を読んだ後にこのような報道を目にするとあきれてしまいます。

旧日本軍の従軍慰安婦問題は「20世紀に起きた最大規模の人身売買だ」として、ニューヨーク州上下両院の議員が16日までに、被害女性らへ謝罪するよう日本政府に求める決議案を両院それぞれに提出した。…

決議案は、2007年に連邦下院で可決された日本政府に公式謝罪を求める決議を支持し「歴史的責任を認め、未来の世代にこれらの犯罪について教育する」ことを日本政府に求めている。

日本政府に謝罪要求 慰安婦でNY州決議案「最大規模の人身売買だ」

盗人猛々しいとはこのことです。米帝に他国の過去を断罪する資格などありません。たとえ日帝が組織的に性奴隷狩りをしていたとしても、米帝はそれ以上の罪を犯して頬かむりし続けています。原爆投下の罪です。

日本人が原爆について口を開くと、アメリカ人は「戦争を始めたのは日本の方だ」とか「悪虐な日帝に原爆に文句を言う資格はない」とか「本土決戦を避けるため仕方なく落としたのだ」とか反論してきます。しかし、原爆投下には日帝の悪も戦争も関係ありません。

1945年8月にはすでに戦争の帰趨は決しており、日本はひたすら敗戦交渉のテーブルにつく道を模索していました。当時の日本政府が降伏の条件としていたのは「国体護持」、すなわち天皇制存続の保障のみでした。しかしアメリカはそれを認めようとしませんでした。アメリカはただその一点だけのために、「消化試合」を何ヶ月も続け、瀕死の日本を殴り続けたのです。

そのくせアメリカは、終戦後は余裕で天皇を恩赦しました。アメリカ人からすれば、天皇制の存続など些事にすぎぬという証です。アメリカ人は、彼らからすればどうでもいい「国体護持」カードをチラつかせれば日本がひれ伏すことを知りつつ、あえてそうせず、戦争を引き伸ばしたのです。戦後の国際秩序において主導権を握るためです。

ドイツとの戦闘をほとんど一国で引き受け、ドイツを轢き潰したのはソ連です。欧州戦線の終結にあたり、ロシア人の発言権は圧倒的になりつつありました。しかし原爆投下により、米ソの立場は劇的に逆転しました。アメリカは、ただ国益のために数十万人の市民の命を吹き飛ばしたのです。

このような空前絶後の国家犯罪を、アメリカはいまだに認めようとしません。国際社会においてモラルなど存在しないことの何よりの証拠です。冷酷なレアルポリティークのダシにされた日本人は、国際政治をモラルで語ることの無意味さを思い知らされました。もし日本人が過去に対してタンパクであるなら、その理由は、広島、長崎という戦後日本の原体験にあるのです。

日本人に、「歴史的責任を認め、未来の世代にこれらの犯罪について教育する」のを求めるのであれば、日本人をモラルなき虚無的な国民としたあの出来事についてモラルが示されなければなりません。アメリカ人が「歴史的責任を認め、未来の世代にこれらの犯罪について教育」し、オバマ大統領が広島と長崎で頭を下げてはじめて、日本人はモラルの存在を目の当たりにし、請われなくても自分を鞭打つようになるのです。

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2013年01月15日

無関心層にすがる燃えかす

去年くらいから、「ネトウヨ」という言葉がメインストリーム・メディアでも語られ始めています。ネトウヨという言葉を駆使した論説の肝は、ネトウヨの主張に正面から挑もうとせず、ネトウヨの主張を主張以前のものとして片付けたうえで、そのような傾向を有する者たちをひとつのカテゴリーでくくり、「社会の負け犬」「アンクールなやつら」というイメージを植え付けることにあります。

この記事にもそうした傾向が見て取れます。

差別はネットの娯楽なのか(9)――新大久保で反韓デモに遭遇した若者たち「日本人として恥ずかしい」

記事では、先日新大久保で行われた「在特会」のデモについて、ツイッター民の次のようなコメントを紹介しています。

「デモやってるけど周りの人たち超引いてる。本人達しか盛り上がってなくて、見てるのが恥ずかしくなるレベル」

「めっちゃ気持ち悪いおじさん過ぎてまじむかつくわー」

「おっさん。お前人間として恥ずかしくないの?」

「このおじさん頭大丈夫?デモとかさやっても意味ないし!日本の恥!!」

記事では、こうしたコメントを、在特会の思想と行動がいかに歪んでいるかを表現するために使用しています。しかし、「恥ずかしい」「気持ち悪い」という糾弾は、政治運動に対する批判たりえません。

いかに排外的であろうとも、在特会の主張と行動は政治的なものです。それに対して「恥ずかしい」「気持ち悪い」という評価は、極めて非政治的な態度です。この記事の筆者は、自分と相容れない政治的主張を、相対する政治的主張により論破するのではなく、「あいつらキモクナーイ?」と、政治的無関心の観点から否定しようとしているのです。

筆者の立ち位置が、「デモとかさやっても意味ないし!楽しけりゃいいじゃーん!!」というものならそれで結構です。でもそうではありません。筆者の李伸恵氏は、リング上で在特会とにらみ合う立場にあります。それなのに政治的無関心を奨励するような態度をとるのは、「このマッチはくだらないよー」と吹聴しているも同然で、自分の立場さえ無意味化してしまいます。

筆者はそれを感じているようで、次のようにも記しています。

このデモに関連したまとめのなかに「同じ日本人として恥ずかしい」との言葉が、何度も出て来た。私は、この言葉にも少しの違和感がある。在特会を「自分とは違う、恥ずかしいもの」として他者化することは、自分のなかの「差別する心」を見えなくしてしまうような気がするのだが、気にし過ぎだろうか。

違和感を感じるのは尤もです。しかし違和感の原因は、在特会を他者化するツイッター民の姿勢ではなく、筆者の姿勢にあるのです。

小熊英二氏の「1968」によれば、日本人は韓国や中国に対して加害者であるというストーリーは、1960年代末以降にメインストリーム化したといいます。それまでの左翼運動が退潮し、世間の政治的無関心が広がる中、良心に訴える加害者論は、人々に政治化を促すツールでした。革命を熱く語る左翼人士に対し、「危ない」「気持ち悪い」と白い眼で見始めた世間を、「お前たちには血も涙もないのか!」と揺さぶり、運動を再生させようとしたのです。

ところが今や、左翼の燃えかすは人々の政治的無関心にすがる有様です。無関心層の政治意識を高めようとすれば、日本人商店のショーウィンドウを割り、日本人への憎悪を子どもたちに植え付け、日本憎しの感情の前に法さえ捻じ曲げる韓国や中国の姿を避けて通ることはできません。

ありもしない「ネトウヨ」の幻影と格闘し、在特会のような泡沫ムーブメントをライバルとするまでに落ちぶれた日本の左翼は、非政治的な無関心の中に埋もれていこうとしているのです。

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2013年01月13日

なぜ彼らは正常な判断力を失ったのか?

顧問の体罰を苦に自殺した高校バスケ部の主将のニュースが世間を騒がせています。

桜宮高校の男子バスケットボール部顧問は、高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、16歳以下の男子日本代表チームのアシスタントコーチも務めていた。以前から体罰も含めた“熱血”指導で知られ、同部を全国大会の「常連校」に育てたという。

…顧問は平成6年4月から保健体育科教諭として勤務。学校での評判について、顧問を知る卒業生からは「先生がやってきたことは間違っていない」などと擁護する声も聞かれた。

「先生は間違っていない」”熱血”指導で全国大会常連校にした顧問

顧問は次のようなシゴキをしていたと言います。

市教委や学校関係者などによると、生徒は自殺前日の12月22日の練習試合で顧問から叱責や体罰を受けた後、桜宮高の体育教官室で約1時間にわたり顧問と面談。顧問がより厳しく接する主将を続けることについて「しんどい」と気持ちを伝えた。

これに対し顧問は、生徒が主将をやめれば2軍に落とすことを迫りながら翻意を促し、「キャプテンをやめて一線を退くか、殴られてもキャプテンを続けるか、どっちや」と質問。主将を続ける意思を示した生徒に対し、「ほんなら(殴られても)ええねんな」とさらに迫った。

「主将続ける」悲壮な決意の生徒に顧問「今後も殴られてもええな」

このニュースを聞いた世間は、「顧問は許せない!」「顧問を擁護するやつらは頭おかしい!」と憤り、問題は体罰の是非になりつつあります。

しかしこのニュースには、シゴけばシゴくほど立派な選手になると考えているような顧問の勘違いと同等か、あるいはそれ以上に異常な要素があります。自殺した生徒の判断です。生徒は、「キャプテンをやめて一線を退く」か「死ぬ」かの二択を与えられて、死を選びました。判断として歪んでいます。

似たようなことは以前にもありました。去年の初頭、ワタミの女性社員が過酷な仕事を苦に自殺した事件です。世間はワタミのブラックぶりを非難しましたが、ほとんどの人は女性社員の姿勢はスルーしました。「仕事をやめる」か「死ぬ」かの判断を迫られて、死を選んだことをです。

「キャプテンをやめて一線を退く」のも「仕事をやめる」のも、当の本人にとって極めて重大なことであるのは否定しません。しかし断じて、自分の死と引換にするほど大事なことではありません。

それがいかにおかしな判断であるかピンと来ない人は、自分にこう問うてみてください。「あなたにとって、自分の命と子供の命(あるいは親、伴侶の命)のどちらが重いですか?」。中には自分の命の方が圧倒的に大事と答える人もいるかもしれませんが、恐らくほとんどの人は、自分の命と大切な人の命は同等に重いと考えるのではないでしょうか。価値の重さとしては、「自分の命=大切な人の命」です。では、「キャプテンをやめて一線を退く」のと「大切な人の死」の二択を迫られたら?

答えは「キャプテンをやめて一線を退く」に決まっています。冷酷な自己中と思われたくないからではありません。どう考えても大切な人の命の方が重いからです。なのに彼らは、「大切な人の死」を選んでしまいました。一等地に建つ持ち家を100円で売るくらいありえないことです。彼らは正常な価値判断能力を失っていたのです。

ですからこのような事件は、メンタルヘルスの問題か、あるいはそうした精神の歪みを生む構造の問題としてとらえるべきで、「ブラック企業」とか「体罰の是非」の問題に矮小化すべきではありません。ブラックも体罰も、その重さは相対的なもので、いくら体罰教師を処罰したところで、あるいは「生徒に指一本触れてはいけない」と法制化したところで、精神の歪みを生み出す構造が残されている限り問題はなくなりません。体罰教師は生徒に指一本触れずとも、ブラック企業は社員にムチを振るわなくても、死刑宣告できるのです。

以前、40代の元プロ野球選手と話していて、大学時代のシゴキについて聞いたことがあります。いわゆる「脳筋大学」出身の彼の口からは、普通の人には想像もできないようなおぞましい体罰とイジメの数々が語られたのですが、最近母校に顔を出してみたらシゴキは消えていたといいます。「近頃の子はヤワだからさ、シゴくとすぐ大学やめちゃうし、部員も集まらないんだそうだよ。ただでさえ学生の数が減ってるのにそれだと困るだろ?だから今の時代、部員は大学の大事なお客様なんだとさ」と彼は嘆いていました。「やめる」という選択肢を考慮できる正常な判断力さえあれば、みんな幸せになれるのです。

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2013年01月12日

トクヴィルに学ぶ中国

尖閣諸島に領空侵犯するなど、中国は年明け早々気合十分です。

中国外務省の洪磊報道官は11日の定例記者会見で、安倍晋三首相が沖縄県・尖閣諸島の国有化を受けた反日デモで日系企業が襲撃された昨年の事件を踏まえ中国を批判したことに対し「中日間の困難な局面は日本が招いた。日本は現実を直視して適切に問題解決を図るべきだ」と反論した。

安倍首相の批判に反論 中国外務省「現実直視を」

そんな中国で、今密かにブームを呼んでいる本があるそうです。それは、19世紀フランスの歴史家、アレクシ・ド・トクヴィルの「旧体制と大革命 」です。

Tocqueville classic becomes Chinese bestseller

トクヴィルといえば、日本では「アメリカのデモクラシー 」が有名で、福沢諭吉に紹介されて以来、日本人のアメリカ観、民主主義観の形成に大きな影響を与えてきました。「民主主義国は国民にふさわしい政府を持つ」「民主主義は多数派による専制である」なんていう格言もトクヴィル発です。

そんなトクヴィルが今中国で流行している理由は、改めてアメリカを研究しようとしているのでも、民主主義を学習しようとしているのでも、ましてや共産主義国として革命の元祖であるフランス革命に思いを馳せようとしているからでもありません。

国務院副総理の王岐山氏が推薦したことに端を発し、とくに指導層の間で熱心に読まれているという理由は、フランス革命分析におけるトクヴィルの次のような考察にあります。

悪い政府にとって最も危険な時期は、改革を始めたときである。

(大変動の到来は)誰の眼にも明らかであり、しかし同時に誰にも予測できなかった。

トクヴィルは、フランス革命は民衆の貧困ではなく、総体的な豊かさと絶望的な社会格差により起きたとします。そして汚職まみれのフランス政府は革命のはるか以前から民衆の支持を失っており、ただ経済発展することで気持ちをつなぎとめ、景気の停滞とともに思いもよらぬ形で暴発したと分析します。

中国の状況とあまりに似ています。だから指導層はトクヴィルを読み、そこから教訓を得ようとしているのです。

ではトクヴィルの処方箋は何か?残念ながらトクヴィルは、旧体制の問題点を指摘するばかりで、その解決策は提示していません。それどころか、改革に乗り出したときに危機は到来するとします。改革は不可避、しかし改革すると危険。ではどうすれば?…海外に資産を移す高級党員たちの気持ちもわかります。

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2013年01月10日

英語警察

猪瀬都知事が英語でツイートして、それが拙くて恥ずかしいと一部で批判にさらされていました。

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実際に猪瀬知事の英語ツイートを読んでみると、確かに典型的な翻訳調英語ではありますが、とんでもない誤解を受けるような内容ではないし、それどころかもともと英語のえの字も知らないはずの猪瀬氏にしては上達したなと感心しました。まあ、TOEIC750点くらいの部下に代筆させたものだとは思いますけれど。

それはともかく、下手な英語をこき下ろす風潮にはげんなりします。以前、首相時代の麻生氏がオバマ大統領との会見で英語を喋ったら、それが下手だとマスコミで叩かれ、みのもんたが「恥ずかしい!」と叫んでいたときも感じましたが、下手な英語を取り締まる「英語警察」は、日本人の英語オンチの最大の要因だと思います。

自分はまわりがアメリカ人やオージーばかりのときは英語を喋るのに何ら苦痛を感じず、そのうち英語で会話していることさえ忘れてしまうのですが、多少とも英語がわかる日本人がいるとそれだけで緊張します。そして案の定ネイティブたちが場を離れると、「oribeちゃん、英語あんまりうまくないね?」なんて耳打ちしてきます。会話の内容さえろくに理解できないようなレベルの人がです。

思うに日本人は、英語というものを高度な特殊技能扱いしすぎており、それが社会的な利害関係の中で確立してしまっています。英語で食べている英語の達人からすれば、英語というものが奥義であればあるほど自分の地位は安泰です。逆に英語ができない人からすれば、英語が難しいものであればあるほど、英語ができない自分を正当化してくれます。だから彼らは、中途半端なポジションにいる英語話者ーーそしてそれは日本の英語話者のほとんどに当てはまるのですがーーを叩くのです。

ではネイティブの人たちは、日本人の下手な英語をどう見ているのでしょうか?聞いていてイライラして、通訳を使ってくれたほうがありがたいと思うのでしょうか?ビジネスの契約をする場合などはそうかもしれません。しかしほとんどの場合はそうではありません。いくら拙い英語でも、直接会話したほうが、通訳を挟むよりも人と人は100倍つながるのです。

そもそも自分の経験からすれば、英語のネイティブというのは英語の許容範囲がとても広く、多少拙くても意に介しません。仕事の相談をしていて、「そういえば明日のA氏の都合はどうだったっけ?事務所に電話して確認してみてよ」などと何気なく要求してくるのはザラです。日本人の英語警察からすれば失格なレベルでも早々に合格証を与えて、そうなるともうネイティブと同じ扱いをして気にもとめません。

先日どこかの掲示板で、「ノン・ネイティブのやつらはなんで書き込みの最後に『下手な英語でごめんなさい』と謝るんだろう?」という話題で盛り上がっているのを見ましたが、「ネイティブよりきれいな英語なのに謝るのおかしいよな」とか「バカなアメリカ人がバイリンガルを妬むから謝るんだろ」とか書かれていました。その程度の認識なのです。

また、英語は世界言語であり、さまざまな国の人々が使うため、「英語は英語人のもの」という意識も薄いように感じます。アジア系アメリカ人の中には、「非論理的だから」という理由で意図的に名詞の複数形を使わない人がいたり、ロシア系アメリカ人の中には、これまたわざと冠詞(aとthe)を使わない人がいたりするのですが、そういう正しくない英語を、「一理あるな」とすんなり受け入れたりします。

というように、当のネイティブの人たちがおおらかなのに、日本人の英語警察は反則切符をちらつかせて、英語を使おうとする人たちを萎縮させます。インターネットで生の英語に触れる機会が多い現代、自らの心の中にいる英語警察を殺しさえすれば、ほとんどの日本人は日常生活に困らない程度の英語はすぐに使えるようになると思うのですが…。

最後に、普通の人はブロークンな英語を使えばいいが、猪瀬氏や麻生氏のような地位のある人がそれではマズい、と考える人もいると思います。しかしそれは違います。ツイッターやテレビカメラを前にしての会見は誰に向けられて、何の目的で行われるかといえば、それは英語ネイティブの普通の市民たちに向けて、彼らに親近感を抱いてもらうためにするのですから、下手な英語で何ら問題はありません。

英語ネイティブの普通の市民たちには、外国人の下手な英語を卑下する習慣はありませんし、それどころか、例えばオージーたちの前で妙にきれいなアメリカンイングリッシュを喋ったりすると気持ち悪がられたりするものです。心を通わせるのが目的なのに、通訳を挟んだのがミエミエの癖のない教科書英語を使って何になるというのでしょうか?それならば、「All your base are belong to us」の方がよほど効果があるというものです。まあ、都知事のツイートは英語以前に内容が凡庸すぎて、問題はそっちだと思うのですが。

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2013年01月08日

安倍政権は歴史を語るべきではない

先日のNYTの煽り社説や、エコノミスト誌のナイーブな記事を読むと、愛国的な日本人としては暗澹たる気分になります。

Back to the future

「新政権を『保守』と表現するのはその真の性格をとらえていない。これは急進的国家主義内閣なのだ」とは穏やかではありません。

が、「日本は世界で孤立している!」とか「中韓のプロパガンダに負けないように真実を発信していかないと!」などと慌ててはいけません。「性奴隷」や「レイプオブ南京」を始めとする歴史問題において最も大事なのは、問題の本質を見極めることであり、直情的に動くのは逆効果です。

過去問題とは歴史の問題ではありません。過去問題は今日の政治問題なのであり、また心理学的な認知バイアスの問題なのです。

中国人や韓国人が過去にこだわる動機は単純です。それが利益になるからです。20世紀的価値観において、自らを犠牲者と位置づけるのは倫理的に上位に立つことを意味し、極めて大きな武器となります。第一次次大戦以降のあらゆる国際紛争は、犠牲者の椅子を取り合う椅子取りゲームであり、その椅子に座った者が常に勝利を手にしています。

中国人と韓国人は、そんな20世紀のワンダーウェポンである犠牲者カードの効果を確実なものとするため、自らを「ホロコーストの被害者」としようとするのです。

だから歴史的事実を指摘し、「あれはホロコーストではない」と主張しても何の解決にもなりません。ことの真贋は二の次だからです。過去問題を解決するには、歴史的事実を主張するのではなく、まずは犠牲者カードの無力化に注力せねばなりません。

国内の極左勢力が老衰を迎えようとしている今、これは簡単です。中国や韓国との間に揉め事が起きたとき、日本側は過去カードを黙殺し、過去問題の混入を毅然として拒否すればいいのです。犠牲者カードという葵の印籠に対して、「で?」と返せば黄門様はただの爺です。

ところが難しいのはここからです。犠牲者カードという武器のすごさは、やじうまの中から同調者を集めやすいという性質にあるからです。葵の印籠を無視していると第三者たちがぞろぞろと集まり、激しく糾弾されて土下座を強いられてしまうのです。NYTの社説やエコノミスト誌の記事はこれにあたります。

やじうまたちは、中国人や韓国人たちのように政治的動機から糾弾するのではありません。彼らは正義感からそうした行動を取ります。であるならば、彼らに歴史的事実を提示すれば理解してもらえるようにも思えます。しかしそれは早計です。所詮第三者である彼らは、日中韓の歴史問題を認知バイアスで見ており、面倒な歴史的事実など耳に入らないからです。

認知バイアスについては、D・カーネマンの『ファスト&スロー」に詳述されていますが、思い切り簡単に言えば、あらゆる人間は情に流されやすく、しかも情を理と勘違いしてしまいがちで、並大抵なことではその誤謬に気づかないという頭の構造のことです。



いわば過去問題をめぐる日本は、エレベーター事故を起こした「シンドラー社」のようなものです。当時やじうまの多くは、調査中の事故の詳細はもちろん、エレベーター事故の統計さえ知らないのに、悲惨な事故描写と限られた情報をもとにシンドラー社に土下座を迫りました。事故機の製造会社がいくら理を説いたところで誰が我に返るでしょうか?むしろ袋叩きにされるだけです。

ですからここでも、歴史的事実を説くのは何の効果もありません。やじうまに対しては、心理学的手法でのぞまねばダメで、やじうまたちに「オレたちは情に振り回されているだけなのでは?」という気づきを起こさせるのが先決なのです。

非情な言い方ですが、シンドラー社が不当な非難をかわすのに最も効果的なのは、別の大手エレベーター会社が大事故を起こすことです。人々の理性を呼び覚ますには、理性ではなく情に訴える事件が必要なのです。実はこの点日本は恵まれています。

何しろ中国はああいうタチで、放っておけば周辺国を恫喝し、やがてはアメリカと衝突します。アジアの人々とアメリカ人が中国を怪物と認識したときーーそれもまた認知バイアスに基づくものではありますがーーそのときやじうまたちは、日本の過去にまつわるファンタジーに心を動かされることがなくなり、理性的に判断しようとするのです。

ですから、安倍政権が歴史問題を解決しようとするなら、歴史を語ってはダメなのです。歴史問題については譲歩もプッシュもすべきではなく、中国人と韓国人が持ち出す過去についてはそれを政治的威嚇として対処し、第三者が持ち出す過去については認知バイアスとして対処し、ただもくもくと中国包囲網を構築していれば、必ず「そのとき」はやって来ます。

歴史問題は一息で片付く問題ではありません。安倍政権は土壌の整備に専念すべきで、それが問題解決への一番の早道であり、またそれさえできればあとは歴史家たちがスイスイと片付けてくれるはずなのです。

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2013年01月05日

NYT's shameful impulse

ニューヨーク・タイムズが、年明け早々紋切り型の安倍政権批判を炸裂させていました。

Another Attempt to Deny Japan's History

「歴史を否定する再度の試み」などという型通りのタイトルのこの記事は--

日韓関係はアジア情勢の安定において最重要の要素である。にもかかわらず安倍新首相は、両国の関係を悪化させて協調を難しいものとする重篤なミスにより政権をスタートするようだ。

と、さすがは「アメリカの朝日」と唸らせる直情的な断定口調で書き出し、「セックス・スレーブ」問題についてのあらましを述べ、次のように締めくくります。

安倍氏の恥ずべき衝動は、北朝鮮の核問題などにおいて極めて重要な両国の協調を脅かしかねない。このような歴史修正主義は日本にとり赤面モノだ。日本の重要課題は長期の経済停滞からの脱出であり、過去の歪曲ではないのである。

なんというか、やたらと大上段からの物言いです。左翼紙とはいえ読ませる記事も多いニューヨーク・タイムズですが、この社説はただただ陳腐で、NYTというブランドを傷つけかねない恥ずべき駄文であり、売上拡大に力を入れるべき立場の旧メディアとしては赤面モノと言わざるをえない。

しかし、欧米の安倍政権評論が一様にこんな有様かというとそうではありません。オーストラリアのジャーナリストは、まるでNYTの社説に対する返歌のような意見を書いています。

Has Japan Twisted To The Right?

日本の安倍新首相が志向する方向は、必ずしも「右翼」な方向ととらえるべきではない。総選挙における自民党の勝利を劇的な右傾化とするなら、それは単に、左に寄り過ぎていた戦後日本の政治の中道化にすぎない。

…安倍は前任者たちに比べればタカ派的に見えるが、日本全体が右傾化しているという見方は短絡的であり、日本のおかれた政治状況を無視している。

記事を書いたサラ・デ・シルヴァ氏は、自衛隊の国軍化は不自然な状況の正常化にすぎず、中国と韓国の過剰な警戒を「パラノイア」であるとし、安倍政権の積極姿勢を好意的に解釈します。

安倍はアメリカとの同盟を強化するとともに、インド、オーストラリア、アセアン諸国との安全保障関係の緊密化を志向している。新政権は、アジアにおいて戦略的視野に基づいたより積極的な外交を展開しようとしているのだ。平身低頭することで「友好」維持に努めてきたこれまでの路線からは大きな転換である。安全保障政策において過去と決別する安倍のアプローチは、地域における日本の役割の再定義を必要とする。

…日本に関わる政治家や識者は、新政権に対する右翼連呼報道に惑わされてはならない。日本に対しては、安易な解釈に基づく不正確な分析ではなく、長期的視野に立脚した状況分析が求められる。解釈の誤りは戦略的な失敗につながり、地域諸国と世界の利益を損なうことにつながりかねないのだ。

というように、海外の意見はそれぞれなのであり、安倍首相には、安易な解釈に基づく不正確な分析記事に惑わされずに、毅然とした振る舞いを望みたいものです。

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2013年01月02日

ブロック経済と自由貿易圏

ブロック経済というと、ある経済圏を高い関税で囲い込み、その他の国を締め出すというイメージがあります。しかしブロック経済というのは、必ずしもそういうものではありません。

ブロック経済で有名なのは、20世紀序盤の英連邦です。1929年の世界恐慌を乗り切るために構築された、世界の4分の1に及ぶこの巨大な経済ブロックは、世界的な不況を長引かせ、日本を膨張主義に走らせた理由のひとつと考えられています。

ところが英連邦のブロック経済は、なにも関税障壁により外に対して市場を閉ざしたというわけではありません。

もともと大英帝国は、カナダ、オーストラリア、南アなどの植民地に「ドミニオン」という高度な自治権を与えており、それぞれのドミニオンは独自に通貨を発行して経済運営していました。関税の設定も独自に行い、イギリス本国との貿易にも高関税をかけるほどでした。

英連邦のブロック化とは、そうした植民地間の関税障壁を撤廃するとともに、通貨を英ポンドにペッグするというものでした。外に対する関税障壁は二の次で、当初は英連邦外からの輸入に一律10%の関税をかけただけでした。アメリカが平均40%の輸入関税をかけていた当時、これはとても保護貿易とは呼べないレベルです。

このように英連邦の経済ブロック化とは、外に対して高い壁を築いたというよりも、中の風通しを良くしたというのが本質なのです。しかしながら結果としてそれが高い壁となりました。壁とは内外の相対的差により生じるものだからです。

こうして見ると、ブロック経済というのは、現代のEUやNAFTA、そして昨今議論されているTPPそのものであることがわかります。自由貿易圏の構築とは、自由貿易の精神に反する態度なのです。

TPPに批判的な人たちは、「TPPから得られる恩恵は小さい」と言います。確かに歴史的に見ても、自由貿易圏から得られる恩恵は微妙です。1932年に経済ブロックを構築した英連邦諸国は、第二次大戦により特需が生まれるまで不況を抜けだせませんでしたし、EU諸国にしても、域内自由化により目に見えて豊かさが増したかと言えば、そんなことはありません。自由貿易圏の恩恵は、誰の眼にも明らかな類のものではないのです。

しかし損をする者は明白です。それは、自由貿易圏からハブられた国です。経済ブロックからハブられた戦前の日本は、自ら大東亜共栄圏という経済ブロックの建設を意図するまでに追い詰められましたし、欧州のEU非加盟国は、かなりの痛みを伴う改革を断行してまでEUに入ろうとします。日本の貿易が中国一辺倒に傾く理由も、中国の発展だけではなく、欧州と北米からハブられたことにあります。壁の中に入れないことによる損失は、目に見えて大きいのです。

ですからTPPについての議論は、TPPから得られる恩恵ではなく、TPPからハブられたときの損失を考慮してなされなければなりません。世界のブロック化が避けられない趨勢であるなら、どこのブロックにも属さないのは衰退必至です。どこかに所属するか、自分でブロックを作るかしかないのです。

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