2013年01月15日

無関心層にすがる燃えかす

去年くらいから、「ネトウヨ」という言葉がメインストリーム・メディアでも語られ始めています。ネトウヨという言葉を駆使した論説の肝は、ネトウヨの主張に正面から挑もうとせず、ネトウヨの主張を主張以前のものとして片付けたうえで、そのような傾向を有する者たちをひとつのカテゴリーでくくり、「社会の負け犬」「アンクールなやつら」というイメージを植え付けることにあります。

この記事にもそうした傾向が見て取れます。

差別はネットの娯楽なのか(9)――新大久保で反韓デモに遭遇した若者たち「日本人として恥ずかしい」

記事では、先日新大久保で行われた「在特会」のデモについて、ツイッター民の次のようなコメントを紹介しています。

「デモやってるけど周りの人たち超引いてる。本人達しか盛り上がってなくて、見てるのが恥ずかしくなるレベル」

「めっちゃ気持ち悪いおじさん過ぎてまじむかつくわー」

「おっさん。お前人間として恥ずかしくないの?」

「このおじさん頭大丈夫?デモとかさやっても意味ないし!日本の恥!!」

記事では、こうしたコメントを、在特会の思想と行動がいかに歪んでいるかを表現するために使用しています。しかし、「恥ずかしい」「気持ち悪い」という糾弾は、政治運動に対する批判たりえません。

いかに排外的であろうとも、在特会の主張と行動は政治的なものです。それに対して「恥ずかしい」「気持ち悪い」という評価は、極めて非政治的な態度です。この記事の筆者は、自分と相容れない政治的主張を、相対する政治的主張により論破するのではなく、「あいつらキモクナーイ?」と、政治的無関心の観点から否定しようとしているのです。

筆者の立ち位置が、「デモとかさやっても意味ないし!楽しけりゃいいじゃーん!!」というものならそれで結構です。でもそうではありません。筆者の李伸恵氏は、リング上で在特会とにらみ合う立場にあります。それなのに政治的無関心を奨励するような態度をとるのは、「このマッチはくだらないよー」と吹聴しているも同然で、自分の立場さえ無意味化してしまいます。

筆者はそれを感じているようで、次のようにも記しています。

このデモに関連したまとめのなかに「同じ日本人として恥ずかしい」との言葉が、何度も出て来た。私は、この言葉にも少しの違和感がある。在特会を「自分とは違う、恥ずかしいもの」として他者化することは、自分のなかの「差別する心」を見えなくしてしまうような気がするのだが、気にし過ぎだろうか。

違和感を感じるのは尤もです。しかし違和感の原因は、在特会を他者化するツイッター民の姿勢ではなく、筆者の姿勢にあるのです。

小熊英二氏の「1968」によれば、日本人は韓国や中国に対して加害者であるというストーリーは、1960年代末以降にメインストリーム化したといいます。それまでの左翼運動が退潮し、世間の政治的無関心が広がる中、良心に訴える加害者論は、人々に政治化を促すツールでした。革命を熱く語る左翼人士に対し、「危ない」「気持ち悪い」と白い眼で見始めた世間を、「お前たちには血も涙もないのか!」と揺さぶり、運動を再生させようとしたのです。

ところが今や、左翼の燃えかすは人々の政治的無関心にすがる有様です。無関心層の政治意識を高めようとすれば、日本人商店のショーウィンドウを割り、日本人への憎悪を子どもたちに植え付け、日本憎しの感情の前に法さえ捻じ曲げる韓国や中国の姿を避けて通ることはできません。

ありもしない「ネトウヨ」の幻影と格闘し、在特会のような泡沫ムーブメントをライバルとするまでに落ちぶれた日本の左翼は、非政治的な無関心の中に埋もれていこうとしているのです。

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