去年の今頃は、毎日新聞が血祭りにあげられましたし、アサヒるという言葉は、今や立派な日本語の語彙のひとつになりました。
一方で、新聞やテレビも、今では懐かしい響きすら持つ、「ネットは便所の落書き」という発言に代表されるように、ネットの台頭に警鐘を鳴らし続けています。
こういう状況を見て、かつてのぼくは、「旧メディアと新メディアが反目しあうのは当然」くらいに軽く考えていました。しかし最近では、違う見方をするようになりました。
簡単にいえば、「ネットによるマスメディア叩きは、実はネット自体が持つ特性というより、ネットという場を借りたマスメディアの愛憎劇なのでは?」と思うようにになってきたのです。
これは、ネット掲示板で新聞のコラムなどを叩くときに必ず出てくる「ブログと同じレベル」などというコメントを見るときに強く感じます。こういうコメントは、ブログというものを“他愛もないもの”として見る一方で、旧来のマスメディアを、“きちんとしたもの”として認識していなければでてきません。突き詰めれば、「ネットは便所の落書き」という発言をした人と同じ世界観です。
こういう感覚を捨てきれない人は、とても多いと思います。そういうぼくも、頭のどこかにしみついています。マスメディアの側から、「ネットなんて・・・」といわれるとムッとくるのに、実は自分でもそう思っているのです。
こういう傾向を特に強く持つ人が、新聞やテレビを執拗に叩く理由は、本来そうあるべきである異議申し立てや、権力批判ではありません。「便所の落書きとは違い、すばらしい情報を提供してくれなくてはならないマスメディアに裏切られた」という思いから、叩くのです。
これは、愛の裏返しです。好きでたまらない人に嫌な顔をされたから逆恨みするようなものです。こういう理由からマスメディアを叩く人は、叩くときはやたら激情的ですが、マスメディアへの愛が深いだけに、マスメディアが自分の意趣に沿う主張をしてくれたりすると、喜々として音頭に合わせて踊ることになります。
ドッと批判したりドッと煽られたり。こういう群衆行動は、一見いかにも混沌とした衆愚支配のネットらしく見えて、実はネットの構造にはそぐいません。もしこれがネットらしい行動パターンならば、広告屋は笑いが止まらないでしょう。でも違います。こういう行動パターンは、新聞やテレビに起因するものだからです。
マスメディアというシステムは、情報の送り手だけでなく、受け手がいて初めて成立します。その意味で彼らは、一見するとマスメディア叩きの急先鋒のようでいながら、実は新聞社やテレビ局とともにマスメディア世界を構成する一員、マスメディアを支える熱狂的なサポーターなのです。
いわゆる「ネットいなご」などという現象も、過去100年にわたるマスメディア支配により染みついた行動原理によるものでしょう。「ネットいなご」は、ネットの発展を妨げるノイズのようなもので、ネットの限界のようにもいわれていますが、ノイズの発生源はネットにはないはずです。マスメディア世界の住人たちが、ネットで暴れているのです。マスメディアという集権的な情報システムが、ネットというツールを得て、いよいよ社会の隅々まで、その全体主義的な本性を現しているのです。
というわけで、ネット側からのマスメディア叩きは、実はマスメディアの受け手が送り手を叩いているに過ぎず、マスメディア側からのネット叩きは、実はマスメディアが自分自身の姿を鏡で見て醜いと指摘しているようなものだと、近頃のぼくは思うのです。
ネットとマスメディアは対立していません。影響力を奪われるマスメディア側には、ネットを恨む理由はいくらでもありますが、ネット側には別にないのです。ネットはただ粛々と“マスメディア症”を癒し、そうすればやがては“いなご”も絶滅種になるに違いありません。
しかしネットの普及と共にそれが違うのだとお互いが気付いてしまった。既存マスメディアは自分の競争相手だと攻撃し、受け取り側は、欲しい情報が無いと批判する。
要するに、話しが噛み合ってないのです。
「どういう関係の人間なんだ」「どういう団体の人間なんだ」と逆ギレされるという話を度々目にします。
いや、特別な情報ルートを持たなくても、ネットに置いてある一次ソースでバレバレなんですが・・・と思うのですけど、マスコミの人はわかってないんですかね。
いかにマスコミ以外の手段で情報を得る機会が増えたとはいえ、それが出来ない、やらない人は依然として多く居ますし、マスメディアがスクラムを組んである政治家の応援団になれば小泉内閣発足時に脅威の支持率を叩き出したような、若しくはそれに近い事もまだまだ可能でしょう。
メディアが実質社会を強力に支配しており、ほとんど全ての人が社会で生きている限り、メディアに対する要求はなくならないと思います。
これはマスコミの事です。
マスコミというのは、もともとごく一部の人々が、「巨大な」報道特権を与えられているという特権システムです。
そして、これは、放送倫理、報道の公平中立性などのルールを守った上での「特権」です。マスコミが批判されるのは「特権乱用」をしていることが、「ばれる」時代になったからです。
「扇動」はむしろ巨大報道、マスコミの習性だと思いますね。
ブログは個、マスコミは公。
少し話しがずれますが、以前、作詞家の阿久悠さんが、歌謡曲と最近のJPOPSとの詞の違いについて、それぞれを映画とブログにたとえて、「誰かが喜んでくれるといいな、誰かが興奮してくれるといいな、誰かが美しくなってくれるといいな、という願いを込めながらひとつの世界を作り上げていくのが歌謡曲、そうじゃなくて俺はこんな気持ちで悩んでるから俺の気持ちを分かれよというのがブログ」とおっしゃっていました。
最近のマスコミは、例えばテレビ局で言えば国民の共有財産である電波を占有して商売をさせてもらうかわりに公器としての役割と責任を負うわけですが、どうもいろんな意味で阿久悠さん言うところのブログのようになってしまっているのではないかなと思いますね。