クロンカイトというと、日本では筑紫哲也氏が日本のクロンカイトを目指していたことで知られていますが、1972年に行われたアンケートで「アメリカで最も信頼できる男」に選出されたことで、今もそのキャッチフレーズで呼ばれています。
そのクロンカイトさんで最も有名なエピソードのひとつが、ベトナム戦争の帰趨を決したといわれる放送です。1968年2月27日、クロンカイトさんは、終結したばかりの「テト攻勢」について伝え、「今やベトナムで勝てないことが明白になった」と訴え、アメリカの厭戦ムードを決定的にしました。
テト攻勢というのは、南ベトナムの主要都市に対して北ベトナムが仕掛けた大規模なゲリラ戦で、米軍の反撃により、北ベトナム軍が壊滅的な打撃を受けていたことがその後明らかになっています。しかし「アメリカで最も信頼できる男」のひと言でアメリカの銃後は総崩れとなり、時のジョンソン大統領に「クロンカイトを敵に回したらもうだめだ」と嘆かせたのでした。
1968年2月、歴史的“論説”をするクロンカイト(→youtube)
クロンカイトさんがそれほどの影響力を得られたのは、彼のそうした主張に説得力があったからではありません。それまでの彼が私情を交えない客観報道に徹していたからです。「客観的でフェア」というのが彼の代名詞であり、だからこそ視聴者は、ここぞという所で出た彼の意見を素直に吸収したのです。
これは視聴者に対するひどい裏切りです。テレビジャーナリズムの絶頂期を生き抜いたクロンカイトさんは今も尊敬を集め、劣化した現代のジャーナリズムが立ち返るべき存在と讃えられていますが、現代のジャーナリズム不信へと至る種は、クロンカイトさん自身によりまかれていたのです。
さて、「客観的でフェア」を売り文句にして、ゴミ情報を高く売りつけるーーこれは前回のエントリーで紹介したコメディアン、ジョン・スチュワートの姿勢と正反対です。
スチュワートさんの番組はあくまで「偽ニュース」ですから、客観的でもフェアでもありません。あえて笑い声の効果音を入れてコメディであることを強調した上で、意図してバイアスをかけまくります。そうしてあらゆる情報をゴミ扱いすることで、逆に真実を浮かび上がらせるのです。
これは「なぜニュース報道は劣化したのか?」という問いに対するひとつの解答であり、スチュワートさんに与えられた「現代のクロンカイト」という称号は、大げさではなく真理を突いているといえます。
クロンカイトさんは、「客観的でフェア」という権威を武器にして政治を動かしましたが、もしスチュワートさんが政治を動かそうとすれば番組はコメディではなくなり、彼に対する信頼は瞬時に失われます。いくら人気が出ても権威は持てないこの状況は、正統ジャーナリズムがそうあるべきとしながらできない姿勢で、その意味でもコメディニュースは、マスコミ権力の暴走を心配せずに楽しめる、現代に残された数少ないニュース鑑賞媒体なのです。
これからのマスメディアニュースは、徹底してたんたんと客観的な事実を伝えるもの(人気はまったく期待できませんが)と、絶妙のバランス感覚を備えたコメディアンにより仕切られる偽ニュースに二極化していくのかもしれません。
なんというか、立て札と瓦版ですね。
↑これが日本人のありがたがるニューヨークタイムズの記事かと思うと呆れ返ります
あとニュースショーでいけるのはたかじんのそこまで言って委員会くらいかなあ。
ただこの記事を読んでいて思ったのはキャスターも人間なんだから感情はどこまでも絡むものなのかもって事です。筑紫哲也さんも亡くなる1年前くらいの病院でのインタビュー記事で世の中がこうあって欲しいと思って伝えようとしてきたが、ほとんどそうなることはなかったと述懐してるのが印象的でした。
ゆうさんの訴えたいこともよく分かりますがたぶん自分の国にない得体の知れないものには恐怖するんですよ。
絵で視覚で目に見えてしまうというのも問題かもしれませんね。
その点、たけしさんなら、きっと茶化してくれるだろうと言う安心感があります。
マスコミもそれなりに悩んでるんだなーと云う感じで、ここ1,2回のブログは好感がもてます。
oribeさんも、民主党の躍進で元気になってきて、良き哉と云う感じ。
また、客観性といっても、構成・編集での取捨選択といった過程のみにおいてさえも、主観の混入は完全には避けられません。個別の情報発信者に対する客観性の追及を主題にするよりも、健全に機能する大きなシステムの確立を目指したほうが良いように思います。インターネットを嫌悪するような一部のテレビ・新聞関係者たちの態度はなんだか気に入りません。
為政者が「民に知らせむべからず、寄らせむべし」と考え勝ちなのもまったく理が無い訳じゃないんだな。
ただ判断の材料も為政者にしても十分に持ってる訳じゃない。どこまで船長に任せるか難しい所だね。
生存を脅かす存在になりえていると。
それでも新聞とかは色んな種類の新聞がネット上で確認できますし、最近のネットは色々揃いすぎて何だかカオスみたいになっているかなあと感じます。
NHKオンラインとかTV側もインターネットを活用した動きは活発になってきてますよ。
ニュースを見れる時間にTV画面前にいなくても視聴できてしまうから便利です。
むしろインターネットでどのような反応(どちらかと言えば問題点の指摘など)があるのかを確認したうえで上手にTVの世界でうまく立ち回られてる方が多いように感じます。
なのでセンスのあるコメディアンがマスメディアに寄り付くのか?という疑問があります。
日本のテレビで持て囃されるのは「横柄なご意見番」なんですよね。
ズケズケ物を言うのはいいんですが、反対意見が出ると顔を真っ赤にして罵るという具合で、見ていて「ユー・・モア?」という感じです。
バランス感覚のない、ただの傲慢な中年ばっかりです。
あれは怖かった。戦争映画で怖かったのはあれ位かな。
> これからのマスメディアニュースは、徹底してたんたんと客観的な事実を
> 伝えるもの(人気はまったく期待できませんが)と、絶妙のバランス感覚を
> 備えたコメディアンにより仕切られる偽ニュースに二極化していくのかも
同感というか、前者は「その様な番組が主流であって欲しい」と思います。
また、前者に人気が出ないとは全く思えないのですよ。本当に日本の視聴者は、番組としての演出や出演者による意見を求めているのでしょうか。そんなの「地方の料理紹介でコントしながら飯喰らう三流タレント」同様、僕は邪魔だと思うし、多くの人もそう思ってると思いますよ。少なくとも親はそう言ってますね。
勿論、複雑な問題もある訳で、解説や図解はあって良い。識者によるコメントもあって良い。ただ「これは私の意見ですが」と断るべきだし「こういう意見もある」と他の意見も述べて、1つの見解が支配的にならない様に配慮すべきです。
また、その意見の基準ですが、安易な正義や理想論にかぶれるべきではありません。健全なエゴイズムを認めて「我々はどうすれば生き残れるか、幸せで有り得るか」を論ずる基準として「A案とB案がある、それ以外にもあるかもしれない」とすべきです。
採り上げる事件の取捨選択、提示する写真などの資料と順番、解説や図解の内容、そして、識者のコメント。どれ1つをしても特定の意見への誘導になることを重々意識し、それを極力排して「材料を提示し視聴者に考えさせる」様に配慮することがジャーナリズム・ニュースキャスティングの要諦であり、そのプロの矜持となるでしょう。
それは大変に難しいことですが、それのみが国民の良識を育てる糧になると思います。
NHKの「週刊こどもニュース」には、この様な報道の在り方を模索し志向した何かが見える様な気がしたのですが・・・打ち切りやがったな。