それによれば、例えば渋滞中の車に一斉に、ナビゲーションシステムによりリアルタイムで混雑状況を知らせて抜け道を案内しても、渋滞箇所が広がるばかりでぜんぜん渋滞は緩和されません。情報の送信を全体の3割程度に制限しないと、抜け道情報は抜け道情報として機能せず、渋滞緩和に役立たないのだそうです。
こうした問題は災害時における避難経路の伝達においても見られますが、情報というものの本質を突いていると思います。いかに正しい情報でも、あまりに多くの人々に行き渡り過ぎると、間違った情報、有害な情報に変質してしまうのです。
マスメディアというものが本源的にはらむ問題も、こうした、受け手のボリュームにより変質するという、情報の特性に関係しているように思います。
マスコミというのは、何だかんだ言っても、他にはないコネクションを持ち、情報を引き寄せる引力を持ち、情報を選択、料理する高い技術と経験を持ちます。本来なら、素人の集まる掲示板やつぶやき、ブログなどに負けるはずはありません。しかし実際には、むしろそうした素人発の情報の方に、知的渋滞を抜け出す道を教えられることが多々あります。
そうなる理由は、あまりに大きすぎる露出度が、価値のある情報を有害な情報へと変えてしまうからです。それを肌で知るマスコミは、通常渋滞情報をズバリ知らせません。時折節度を失い、渋滞情報をそのまま流せば(それは客観的でフェアな情報を流すということではありません。ほとんどの情報はバイアスから逃れられず、また真実はある程度のバイアスを通してしか見えてきません)、時に社会を無用に混乱させ、時に偏向と叩かれることになります。
要するにマスコミは、そのあまりに多すぎる受け手のために、どう転んでも役に立つ情報を発信できないというジレンマに陥っているのです。ですから、質において大きく劣る素人論者たちの群れに、しばしばいなされてしまうのです。
人は、比喩としての渋滞から逃れ、抜け道を見つけるために情報を求めます。しかしマスメディアは抜け道を教えてくれず、新たな渋滞へと誘うことしかしてくれません。そしてそれはマスメディアの能力の問題ではなく、マスメディアというシステムそれ自体の問題なのです。
何故それが当てはまるのかの説明が不十分なまま、マスメディア批判に終始するのは如何な物かと…。
どうしても影響を考えると情報を垂れ流すわけにはいかないのでしょうか。
ただ、昔と違ってこのブログしかり今までになかったものも出てきているのである意味情報の制限ってのをかつてのようにし続ける必要なんてないのかもしれないかなと。
もちろんメディアのシステムの問題ならより良くしていくべきだと思うんです。
これまでがそうだったから今後もこんなもんさってなってもちょっと寂しいかなと。
マスメディアと渋滞学大変に興味深いです。
付記のURLは安易な労働移民受入の危険性について、元警視庁通訳捜査官である坂東忠信氏のサイト 『外国人犯罪から分かること』著書『通訳捜査官』があります。
m(_ _)m僭越乍乱文にて 敬具