目が覚めたら、朝まで生テレビやっていた。日本の就職問題について、「新卒」だとか、「卒業後何年」だとか、現状、ないしはそれを小手先でいじっただけの制度についてしたり顔で言っているやつを見ると、本当に腹が立つ。
だいたい、大学卒業だとか、新卒だとか、そういう「制服」みたいな定規に人を当てはめて、それだけで判断して後は口を拭っているやつは、一人残らずバカだ。つまり、原理原則にかえって考えるという態度が全くできていないんだよな。
日本の風土病の最も深刻な点は、人間が作った奇妙な制度を、そのまま受け入れて、「そんなこと言ったってねえ、チミ、現実はこうなんだよ」と言って何かを説明した気になっている愚鈍なやつらを大量に生み出すことだろう。批判する学生側も、案外そういう制度に囚われている。
茂木健一郎氏激怒する;「朝生での就職談義」における「学生と企業の不毛さ」
この主張を読んでいて、ある言葉が頭に浮かびました。「甘い!」というやつです。これは典型的な「甘い」主張なのです。「茂木健一郎クン、いい歳してキミは甘いよ。そんなこと言ったって問題は何も解決しないから。もうちょっと建設的な意見を言いなさいな」。
ところがこういう反応に対する茂木氏の返答は、すでに冒頭の主張の中に含まれています。彼はまさにこういう反応を「愚鈍」と呼んでいるのです。
「『甘え』の構造」という本があります。精神分析医、土居健郎により1971年に出版された本で、「甘え」を日本社会に独特な現象としてとらえて分析した内容です。ぼくは18歳のとき、父の友人の団塊世代の人からその本をもらいました。たぶん彼は、反抗期のぼくに典型的な甘えを見て、この本を読むことでぼくにそれを気づかせようとしたのだと思います。
しかし当時のぼくはその本に激しい違和感を抱きました。そして自分の甘えを省みるどころか、「甘えという言葉を軽々しく使う人を信用しない」「自分は金輪際甘えという言葉を使わない」という2つの誓いを建てるに至りました。おかげでその後の人生で大いに疲れ、また大いに損をすることになりました。「甘い!」という一喝は、日本の社会で楽に生き抜くためにとても便利なツールだからです。
自分より経験の浅い人と議論していると、しばしば非現実的な理想論を聞かされることになります。「甘い!」と叫びたくなる場面です。しかしそれを封じ手にすると、自分の頭の中で非常にくたびれる「翻訳作業」をしなくてはならなくなります。
それが非現実的な意見であるなら、なぜ非現実的であるかを説明できなくてはなりません。説明できないのなら、自分の方に思い込みがある可能性が大なので、考え方の見直しを迫られます。これだけでもたいへん疲れる作業です。しかしよりキツいのは、それでもなお「甘い!」と叫びたいときです。この欲求を別の表現に翻訳するとこうなります。「正しい正しくないじゃないんだよ。オレの言う事を黙って聞きやがれコノヤロウ!」。和を尊ぶ日本の風土においてこう主張するのは勇気のいることです。また、仕事の場面でこれをするのは、上司として失敗したときの責任を負うと表明することと同義です。
土居健郎は、欧米に「甘え」にあたる概念がないことから、甘えは日本独特な現象だとし、そこから議論を出発しました。たしかに、たとえば英語には日本語の甘えにあたる語彙はありません。厳密に言えばないことはないのですが、日本語におけるような使われ方をすることはありません。しかしぼくは、その理由はもっと単純なところにあると見ています。「オマエは甘い」というセリフは、まず何よりも対話を否定する態度です。ことばではなく権威で会話することの証、日本が権威的な社会であることの現れなのです。
権威的な社会というのは、ただ単に、偉い人が下々の者を問答無用で服従させる社会ではありません。偉い人が、下々の服従の代価として責任を負い、失敗したときに失脚するのであれば、それは権威的な社会とは言えません。偉い人が、責任を負わずに下々に服従を強いる社会こそが、真に権威的な社会なのです。「甘え」という概念は、そういう社会を成り立たせるのに恰好な概念なのです。
社会のあり方を変えるのは時間がかかります。あちこちパッチワークしたところで、古い革袋になんとやらです。
しかしぼくは悲観していません。なぜなら「甘い!」という、20年前には日常的に使われていたセリフは、日本語の語彙として急速に廃れてきているように感じるからです。その背景に、ネットの影響は大きいと思います。ネットは対話がすべてで、甘いと思うのであれば、なぜそう思うのか説明することを迫られます。「甘い!」の一喝で議論を終わらせようとするのは、ノイズ以外のなにものでもありません。ネットで培われた習慣は、現実の世界をどんどん変えているのです。
茂木氏のように立場のある人たちが、原理原則に立ち返った「甘い」議論をすることはとてもいいことです。これまでの日本の社会は、あまりにそれをしなさすぎました。
「情弱乙」なんて言葉は20年前に使われてたとは思えないし…。
送り手側にとっても、「思考の単純化」を招くのでしょうが、妙な背景を考察する必要もなく、それだけ楽な作業なんですよね。
まず「議論ありき」の世界じゃないのは今も昔も変わらないと思います。
かつて、情報を多くもてるのは
人選経験のある年長者であり、
人脈を多く持つ有力者であり、
多くの情報に触れる権限がある役職者あり、
論文を読み解ける高学歴者であったのです。
インターネットの登場により
インターネットに費やす時間が多い
暇人が情報強者を名のれるようになったのは
なかなかすばらしいことなのではないかと
「キミそれは甘えだよ」=「あなたの行動は、根拠薄弱な自己肯定感にもとづく他者からの留保なき支持受容を期待しすぎてますね」
「キミそれは甘いよ」=「あなたの判断は現状認識の評価が楽観的すぎるか、当然考慮すべきパラメーターが不足しているか、おバカなだけのどれかですね」