まずは、「グルーポンおせち事件」。グルーポンを通じて販売されたバードカフェの半額おせちが見掛け倒しだったというこの事件は、某ブログの「告発」により明らかになり、それが2ちゃんねるを始めとするネット空間で大々的に取り上げられ、新聞とテレビがこれを後追いしました。
そして、広島市、秋葉市長のユーチューブによる不出馬宣言。マスコミのインタビューを拒否し、ユーチューブのみを通して市民に語りかけました。
ようやく時代はここまで来ました。あらゆるものがマスコミをあからさまにパッシングし始めたのです。
尖閣ビデオ、ウィキリークスのケーブルゲート、ツイッター不倫暴露事件と、すべてはひとつにつながっています。マスコミという20世紀の遺物が、音を立てて、加速度的に崩壊しているのです。
こういう事態に対して、マスコミは信頼を取り戻す努力をせよ!と叫ぶ人もいるでしょう。でもそれは難しいことです。マスコミが本気で信頼回復しようとするなら、マスコミ以外の何かになるしかないからです。
そう、かつてマスコミは、マスコミ以外の何かになろうとしていました。マスコミの王様テレビは、その影響力が頂点に達した1990年代初頭に、テレビを超える存在になろうと模索していたのです。
その頃のテレビの課題は、テレビというメディアの限界である、「一方通行性」と「1日は24時間しかない」という問題をどう乗り越えるかにありました。ステージと客席の区別を取り払い、視聴者を受身な存在ではなく積極的な参与者とすることでより没入させ、放送時間という物理的な枠を拡大出来れば、テレビの力はより大きくなるはずだからです。そのため当時のテレビは、番組作りにおいては「いかに視聴者を巻き込むか」を主眼におき、営業においてはイベントやグッズ販売、映画制作など、ブラウン管の外へと進出するようになりました。
それは進化しようという意志であり、その意志があればこそテレビは人々を惹きつけ、そこに信頼が生まれていたのです。
そして今、その野望は果たされつつあります。ただしそれはテレビとは呼ばれず、別の名で呼ばれています。インタラクティブでオンデマンドのインターネットこそ、テレビが夢見た、テレビの未来だったのです。
「地デジにしたらもっと色々な事がやれるのかと思ったらそうでもないのね」
という声を聞きますね。
http://twitter.com/JPN_LISA/status/23554429772890112
NHKがようやく韓国で感染が拡大中で収集がつかない状況の口蹄疫について、
しぶしぶ報道を始めた。しかしネットを見ている人間は、もう1カ月も前から知っていた。
ツイッターにも書き込まれる農業従事者、獣医師、そしておそらくは農水官僚の方々の
詳細で専門的な情報が、もはや一次情報となった。
記者総スカンで番組も生放送で1番組のみという行為は
五輪誘致やオバマジョリティなどで広島の恥部と化してた秋葉市長の見事な最期だと
しかし市長がそれほどまでにマスコミに対して不信感を抱いていたのかと思うと
恥部と「思っていた事」がマスコミに誘導されて「そう思わされていた事」に変わる可能性があります
市政に無関心だったバカ市民にとってはこの秋葉市長の行為は株の急上昇なのですが
それさえも裏を読む知識と素質が必要なのかも知れないと思い悩みます
まあそれでも、誰かに言わされたのかもしれないけど
オバマジョリティは無かった事にしてほしいです広島の黒歴史です
共通していたのは「ネット情報は混沌だ、だから新聞の情報フィルター機能はいよいよ
重要である」という理屈でした
まさにその「フィルターで情報が操作される」ことこそ新聞不信の理由なのですが
こいつら全く判ってないなと失笑させられてしまいます