ところが、行列の映像を見てびっくり。並んでいたのは全員アフリカ系でした。黒人には低所得者が多いわけで、彼らの多くは、高いシューズになけなしのカネをはたいていたのです。これは、浮かれた資本主義社会とかそういう話ではぜんぜんありません。
持たざるものが物質的欲望を刺激されて、不必要なものにお布施する図です。そしてこれは、今日の経済のあり方そのものだと思います。
人は現在の経済の停滞を、例えば自動車が売れないのは、みなカネがないからだといいます。でも、カネがあったら買うだろうか?とぼくは疑問に思います。いや、現代の人は、たとえバブル期なみに景気がよくなったとしても、ホイホイ車を買うとは思えません。懐に余裕があったとしても、いらないものを買うのはバカだと、車に欲望を掻き立てられないのではないかと思うのです。
昔の人は、とくに若い世代はやたらと車を欲しがりました。ちょっと稼ぐと、生活を切り詰めてでも月賦で車を買いました。都会人に車は必需品ではありませんが、高い駐車場を借りて、高い車検代を払い、高い税金を納めて、わざわざ週末に渋滞にハマるために車を持とうとしたのです。エアジョーダンに目を血走らせる黒人たちのようにです。その合理的でない自傷的な欲望はどこから来たのか?外から来たに決まっています。
テレビ、雑誌、新聞、流行歌、ラジオ、そうしたマスメディアがフル回転して、人々の頭の中に欲望の種を植えつけたのです。20世紀の経済は、このマスメディアにより作られた欲望をエンジンとして回り、成長してきました。
ところが21世紀の人は、欲望の植え付けに対抗する術を手にしました。インターネットを通じてマスメディアを外部化し、批判的な目で見ることを覚えたのです。が、これはすべての層で一斉に起きる変化ではありません。知的レベルが比較的高い人、そしてそれは経済的にまずまず恵まれている層と重なるのですが、そういう中間層以上の人からマスメディア・パッシングは始まり、「欲望から必要へ」の回帰が始まるのです。
だから車をはじめとした、中間層以上をターゲットとした高価な商品はあまり売れません。広告屋がどうマスメディアを動員しようと、かつて肥沃な欲望の畑であった中間層は食いついて来ません。そうなると広告屋は、利ざやは小さくとも食いつきのいい層へとターゲットをシフトせざるをえなくなります。老年層と低所得者層を軸とした、いわゆる情弱層へのシフトです。
そしてこのシフトにより、マーケティングの手法にも大きな変化が起きます。かつてのマーケティングで一番大事なことは、企画書の存在を隠すことでした。プロパガンダの肝は、プロパガンダであると気づかせないことにあるからです。たとえば歌手を売り出すときは、非凡な才能だとか芸術性を前面に出し、また人々の予測のウラをかいて、それが商品であることを懸命に隠したものです。
しかし、クリティカルな思考力を欠く情弱を相手にするなら、その限りではありません。売り込みたい情報をただ闇雲に大量投下する方が、ずっと簡単で効果的です。
だから最近売れていると言われているAKBにしろKポップにしろ、またテレビの各番組にしても、どれもこれも企画書が透けて見えるような粗野な売り方で、商品であることを隠そうとしません。情強の人はバカにするなと文句を言います。でも何も変わりません。ターゲットは彼らではないからです。
とうわけで、今日の経済は、新興国の消費者を目当てとした国際的なレベルは言うに及ばず、国内的にも、持たざる者の欲望をエンジンにして回っているといえます。スニーカーにお布施、携帯ゲームにお布施、企画書を首から下げたアイドルにお布施と、情弱層向けに特化したマスメディアは、彼らの欲望を節操なく煽りに煽り、バッタの大群のように彼らの財布をカラにしていくのです。
僕はいわゆるアニメオタクの部類に入る人間なのですが、最近のアニメの売り方がまさに今回のエントリーのままなので勉強になりました。
こんな荒い売り方でよくみんな食いつくなあと疑問に思っていたことが解消されました。
ひとつ私見を加えさせていただくと、若者は情弱というよりも情報を集めすぎて企画書が透けて見えいるのを承知で購買し、売り手にとってただの消費者であるのにもかかわらず、自分たちをブームの担い手・共同参画者だと思っているのではないでしょうか。
黒人=低所得者層=搾取される人々
と結びつけることに違和感を覚えました。
エア・ジョーダンに黒人が殺到したのは、マイケル・ジョーダンが彼らのヒーローだったからじゃないでしょうか。
他の商品だったら、また違う人種が集まるのだと思います。
難癖つけてるみたいですみません。人種の問題が本質ではないことはわかっていますが、書かずにはいられませんでした。
いやAKBは20数年前のおニャンコ商法の焼き直し。
企画書こそが秋元の商品だったって大塚英志が言ってた。