成人の日にー尾崎豊を知っているか
社説では、大学の授業で学生に尾崎の歌を聴かせ、感想を問うてきたという、精神科医の香山リカ氏のエピソードを紹介してますが、5年前もやはりこのエピソードを紹介し、ここ数年批判的な意見が増えていると嘆かせていました。
5年前の記事では、尾崎の歌に対する若者の反応として、「まわりに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」「ひとりよがりの詞で不愉快」などの意見を紹介し、今回の社説では、「自己中心的なだけじゃないのか」「何が不満かわからない」という声をあげています。
現在も5年前も、尾崎豊の歌に対する感想は同じなのですね。では10年前、20年前、そしてそれ以前の若者はどう見ていたのでしょうか?10年前の若者がどう見ていたかはぼくにはわかりません。でも、それより前の時代の若者がどう見ていたかはわかります。ぼくは尾崎豊と同世代ですから。で、どう見ていたかというと、今の若者と同じでした。
朝日新聞のように権威ある言論機関がさかんに尾崎豊を宣伝するので、最近の若い人の中には、1980年代の若者は尾崎豊ワールドに生きていたと思う人もいるかもしれません。そんなことはありません。サンプルとして、試しに妻に「おまえたしか、尾崎豊好きだったよな?」とカマをかけてみたら、「バカにするな」と怒られました。
80年代という時代は、尾崎豊をありがたがるには擦れすぎていました。ぼくの友人には、ビートたけしの信奉者が何人かいましたが、時代の空気としては、往時の彼のようなシニカルな態度の方がしっくりきます。また、年長者の顔をしかめさせる反抗的音楽としては、インモラルなパンクや、無機質なピコピコサウンドがありました。そんな中にあり、尾崎豊ワールドというのは、好きな人に歩絵夢を書いて贈ってしまうような、なんとも言えないきまりの悪さを漂わせていました。
だいたい、バイクを盗んで乗り回したり、校舎のガラスを割って歩くなどという、尾崎の詞にある自分探しの発露は、彼と同世代の者からすると、ひどく非現実的でした。「校内暴力」全盛の当時、たしかにそういう反社会的行為をマスコミは連日伝えました。しかし、それを自分探しと結びつけるのは「金八先生」の世界であり、現実世界でそういう行為をしていたのは、弱い者からカツアゲしてケロリとしている感性の鈍いヤンキー、DQNばかりでした。
要するに尾崎豊というのは、登場した時から若者の感覚とズレていたのです。
ぼくが20歳のころ、バイト先の上司だった30代後半の女性に、学生運動をしていたときの話を聞かされました。「冬の寒い夜、校舎をバリケードで塞いで、大きなかがり火をたいて気勢を上げていたら、まわりの桜の木が狂い咲きしたのよ…」と振り返る彼女の青春の風景は、尾崎豊ワールドそのものだと感じたものです。
思うに尾崎豊というのは、登場した当初から若者のイコンなどではありませんでした。彼は当時の年配者の郷愁をくすぐる、括弧つきの「若者」の象徴、年長者の玩具として生まれ、走り、死んだのです。
朝日新聞的な尾崎豊礼賛をする人は、総じて50歳以上の人たちです。彼らは、尾崎豊を理解できない現代の若者に対して、「成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と驚いたり(香山リカ)、「彼の歌は、内面に深く食い込んできて、いまの若い人にとって触れて欲しくないところに及ぶ」と推測(吉岡忍)したりしています。しかし、尾崎豊ワールドを理解した若者世代など、最初からどこにも存在しませんでした。
現代の若者たちに、自分たちと同じように考え、行動して欲しいのであれば、率直にそう主張するべきです。デモ行進して打倒日帝米帝を叫び、みなで肩を組んで青春の歌を歌い、青臭い議論に花を咲かせて欲しいならそう訴えるべきです。妙なイコンを捏造して、そちらに誘導しようとするのは姑息なことこの上ありません。
また、80年代に思春期、青春期を過ごしたぼくにすれば、尾崎豊を神格化するのは、あの頃の記憶に土足で踏み入られて、勝手に書きかえられているような気分の悪さを覚えます。自分たちの青春を大事にするのは結構ですが、そのために他の世代の青春を踏みにじるのは、まさに青春の冒涜とは言えますまいか。
でも内容には共感する。
やっぱり僕のアイドルは戸川純。カラス族。
アニメの主人公も、自らすすんで正義を行う熱血漢の兜甲児じゃなくて、本当は嫌なんだけど女に尻を叩かれてしょうがなく、みたいなアムロや一条輝のような軟弱者だよな。
庵野のようなオタクが誕生したのもこの頃からで、オタクは尾崎は嫌いだろ。
書かれてることはおおむね同意です。
歌メロはまあ譲っても、あの恥ずかしい詩と恥ずかしいパフォーマンス、
聴いてるやつの神経を疑うって感じでしたね。
70年代?フォークロック?スプリングスティーンのコピーがまた一人、みたいな。
(スプリングスティーンはずっと深みがありますが、=偉いってわけでもないしな)
でも10くらい下の子達で神格化?ってくらい好きな子がいてびっくりしたり。
自分から遠い世界だから、あこがれを持って見てるのかなと思ったり。
ちなみに尾崎豊は生前のインタビューで、自分の曲や表現に対する受け取られ方は
自覚してるが、それでもやるんだみたいなことを言ってたような覚えがあります。
(覚え違いかも)
それを読んだ時、ああこいつ分かっててなおかつやるんだ、ただのバカじゃねえのかな?
と少し見直した覚えがあります。
今でもたまに耳にすると、尾崎豊の曲ってひでーなーとは思いますが、
少なくとも自己の表現から生まれる恥ずかしさやいろいろなものを自身に引き受けて進もうとした彼と、
「これ聴いてどう思う?」的に自分が他人に振りかざす踏み絵に利用する人間とは、
一緒にして欲しくないなと思いました。
でも、尾崎君、君ルックスも声も良かったけど、やっぱりダサかったなw。
高校の当時、クラスにファンだった奴が一人いたけど、そもそも当時は尾崎自体がマイナーな存在で曲もそんなに広く知られてばかったと思う。コアな信者がいただけ。
俺も興味がなかったからよく知らなかったけど、それでも「尾崎豊は青臭くてダサイ」という認識はあったw。確かに尾崎の歌詞は学園紛争的で時代遅れな感じがあったからね。
尾崎が本当の意味でメジャーになったのは死んでからじゃないかな?伝説扱いになってからだね。
大学入ってから、友人がカラオケで尾崎の曲を歌うのを聞かされて「ノスタルジックでいいかも」と思う様になってから、私も少しファンになりましたw
カラオケで歌う分にはいいですよ、尾崎の曲はキーが高くないから歌いやすいw
書いている人が何人かいるような気がするのは何故だろうか?
ところで、私は50代前半なのだけれども、
ブログ主の50代についての認識にはかなり違和感を感じますね。
私が全ての50代を知っているわけではないので、人それぞれという事です。
それにしても、朝日新聞が権威ある言論機関とは寡聞にして知りませんでした。そういう認識の人もいるのですね。
ちょうどカラオケハウスができた(?)世代で、よく通いましたが、尾崎豊の歌は「恥ずかしい」(特にセリフパートが)という印象でした。
それが30代になり、逆にカラオケで尾崎を歌うのが楽しくなったというのも不思議な気持ちです(あのセリフパートも、30代のオヤジが歌えば笑えます)。一緒にカラオケに行く20代の中に熱烈な尾崎ファンが居たりして、これも不思議な気がします。
>>朝日新聞
ちょうど「入試に朝日が出る」なんて騒がれたのが記憶に残っています(今調べたら、2011年の今でも喧伝しているようですがw)。
>>通りすがりの50代さん
に理解できる喩えなら「巨人・大鵬・玉子焼き」
でしょうか?大人になれば産経や地方紙も
読みますが、あの頃の受験生(子供)には強烈に
「朝日が権威」として刷り込まれたように思います。
もちろんこの齢になれば皮肉としての喩えですが。
世界観は似ている気はしますが、ブルーハーツの方がより現実的でしょうか。
では当時、尾崎の歌のどこに共感していたのかト考えると、表面的にはよく言われるように十代の若者が感じるような大人たちが創り上げた不条理な世界への反発心とそれに対する無力感を表現していたところだと思いますが、背景にはそういった思いを共感できない同世代に対して感じる孤独感が含まれていたというのが大きかったように思います。
そういう意味では亡くなった事で有名になるまではリア充の尾崎好きはあまりいなかったんじゃないかと思います。タケちゃんマンを見て友人たちとコミュニケーションする事にきちんと意味を見いだせているような大人な中高生にはダサくて共感できなかったというのは頷けます。
バイクを盗んで窓ガラスを壊す歌詞ばかりが話題になりますが、数ある作品の中で実は犯罪的な表現が出てくるその二つだけです(スピード違反とテロリストになる話をのぞけば…)。自分を売る少女を批判し、ひたむきに働く親の姿に涙を流し、俺はいつか這い上がれるだろうかと苦悩し、若すぎる二人の愛に悩む…というのが十代の尾崎の詩の世界であって他人の痛みに鈍感なヤンキーにしか共感できないような内容ではないと思います。
まあ歌詞の意味も考えずに窓ガラスを壊してまわるようなこれからの時代もいなくなる事はないでしょうね。
68年生まれです。同じ下宿の高校の先輩は延々と尾崎豊を聞いてましいた。僕は19あたりからハマりました。
直接知っている尾崎ファンにはドロップアウトした人間もいたけれど東大生も普通のサラリーマンも公務員もいた。コンサートに行くとヤンキーは見当たらず、新宿や渋谷で歩いていそうな10-20代のファッションに適度に気を使うタイプが男女比半々でいました。
彼のファンが反抗・反逆に惹かれているというのは外側から見た誤った解釈であり、本質はガキの無力の辛さとそこからの脱出への願いです。
「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」も「盗んだバイクで走り出す」も、そのようにエネルギーを使ってしまう混乱が表現されていて、賞賛や自慢ではありません。その部分を歌う彼の歌声を聞いてみれば分かります。
私は、反論です。
ずいぶん過ぎ去った過去を、
表面的なごく少量のデータで、お書きになりたいんだなと感じます。
私は68年生まれ、リアルタイムです。
デビュー前から尾崎は、普通の若者、多数に支持されてきました。
もちろん、ひばりさんのような国民的アイドルではありませんから、
尾崎が好きかってきけば、違うと答えるヒトは少なくないでしょう。
あなたのブログで何を表現されても良いのですが、
その時代を過ごされたと思えないほど間違いばかりのため、
見過ごすことができずに記しておきます。
ファンでもなんでもない人が客観的に見ればこの記事と同じ反応に
なると思うよ。
自分の周りも「尾崎?はぁ?」ってな感じだったしね。
曲を聞いたのはもっと遅く、YouTubeが出来てから。
私も80年代をリアルに体験した世代なので、尾崎豊の芸風が当時の主流ではないのは理解出来ます。
彼がもっと早く生まれ、70年代に活躍してたら、ばっちりと社会にはまったんでしょうね。
それこそ本当に若者のカリスマになったかも。
私は尾崎と同じ1965年生ですが、この方の意見に概ね同意です。
と同時に、それより少し上の香山リカ氏(51歳)や茂木健一郎氏(49歳)が未だに熱く尾崎を語っていたり、NHKのある番組で80年代のリーダーとして紹介されていたのにはすごく違和感を覚えました。
>地球人さん
>デビュー前から尾崎は、普通の若者、多数に支持されてきました
これこそ嘘でしょ。ごく一部の熱狂的なファンが居たことは否定しませんが。一般人にとっては笑いの対象でした。
これなら意見できるw
他はひたすらお勉強をさせて頂くのみです。いつもお世話になっております。
71年生まれです。薬や亡くなり方はともかく、私の周囲にもファンはいませんでした。米米CLUBやプリプリやBOWYが時代背景とは思いますが、尾崎豊は残念ながら。
過去も現在も優れていることは認めていますが。
彼の歌の犯罪性に反応するより、「卒業」などに、高校嫌なら辞めて働けよ(中卒も可能な時代でしたね)と思っていました。
シニカルと言うより、現実的な考え方のほうでしょうか。
時代はバブル期のはずなのに、浮かれているのはテレビのみでした。
こんな所にもテレビの商業主義と実社会の乖離が見える気がしますが、大げさですかね。
しかし懐かしいですね。
現在ですら二匹目のドジョウを狙うマスメディアを背景に、とても懐かしいスタアのお話でした。ありがとうございました。
あまり 暴力的な要素のある歌は 何度も聴いていないかナァ。
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私は バランスを 考えて 心の栄養を いろいろ聞いたり 観たりする。 音楽同好会(名前検討中
確かに歌詞に稚拙なところがあると思いますけど、歌に情熱をそのまま込めるスタイルは日本的でもあって、自分は素晴らしいと思います。
oribeさんの批判はちょっと一面的に過ぎて尾崎豊の良さを捉えていないかなと思います。
多数の安寧の為に犠牲になるものの存在に目を背け仕方ない事だろうと言う連中、社会とはそうあるものだと言っては踏みにじられる側を擁護する者を青臭いと笑うという、歪人な間性が多数派の社会の構図だ
国家がそれを容認しているのだから自分は間違ってなどいないという価値観しか持ち合わせない連中って道徳的な自己批判など持ち合わせない生きながらにして死んでいるゾンビだろ
しょーもねえ糞だな
この記事もそうだと思うけど、尾崎批評の大半は尾崎の持ち上げられ方や時代との関わりといった点で過大評価だったり事実誤認だったりすることへの指摘に過ぎず、実は尾崎本人が批判の鉾先ではないことが大半だったりする(むしろ同情するケースも多い)。
そうした批評の本質を尾崎ファンは大抵理解できず、顔を真っ赤にして色々反論力説する結果、それが尾崎と尾崎ファンの評価を更に落としていく不幸なスパイラルってケースが多いような気がする。
当時の同級生や友人など周りに尾崎ファンは3人いましたがみんなごく真面目で心優しい人間(少なくとも酒を飲まない間はまとも)でしたよ。
彼らは尾崎が暗いと言われたり笑いのネタにされたりしているのを知っていたけど、だからってそのことで誰かを敵視することなんてなかったし、逆に尾崎ファンだからという理由で馬鹿にされたりすることもありませんでした。
要するに私の出会った尾崎ファンはちょっと痛いけど悪い奴じゃないと言いたいのです。
少数の声の大きな狂信者のせいで尾崎ファンがミイラ取りがミイラになったような、押しつけがましい大人ばかりだと思われたりしたらたまりません。