ネットが守るべき言論の自由とは何か?
もとの発言は、釣りかとも見ていたのですが、記事を読んでみたら、そうでもないようです。
ネットの言論が問題な部分はどこなのか、それについての自分の意見は持っている。
それは「他人の言論の自由を妨害する自由は言論の自由とは違う」という主張だ。このふたつを混同しているひとがネットに多くいるのだ。
そういう意味では、ぼくは言論の自由を守られるべきだと強く思っている。そしてネットの言論の自由を本当に守るためには、ネットで他人の言論の自由を妨害する自由を規制しなければならないと思っているということだ。
この記事をよんだ「はてなブックマーク」のコメントも、結構この意見に賛同していました。
この主張の是非はおいておきます。しかしこういう風景を見ていて強く感じるのは、日本と海外のネットをめぐる空気の差です。このような議論は、アメリカ、ヨーロッパではありえません。それどころか、たとえばアメリカでネット企業の会長が規制の必要性を唱えたとなれば、その主張のウラにどれほど深遠な理由があるにせよ、炎上どころか、ボイコットされかねません。
それほどまでに、欧米におけるネット規制への拒否感はハンパではありません。アメリカでは、知財権保護のために立案されたネット検閲法案(SOPA)にからんで行われた電話調査で、71パーセントの有権者が、違法コピーよりも政府のネット規制に大きな脅威を感じると答えていました。おじいちゃんもおばあちゃんも含めての数字です。知財権はアメリカの富を支える大きな柱ですが、それを差し出してでも、ネットを規制してはならないと考えているのです。
ヨーロッパはアメリカの上を行きます。各国に誕生した「海賊党」は、知財権を認めず、リアルワードのあり方をインターネットに合わせようと運動し、地方議会とヨーロッパ議会に議席を確保して勢力を伸ばしています。SOPAの国際版であるACTAへの反対では、零下数十度の中、超党派デモの嵐が吹き荒れ、ポーランドやブルガリアの議員は、ハッカー集団「アノニマス」に賛同するマスクをつけて抗議しました。
というように欧米では、ネットの自由を守れと訴えるにあたり、誰もその自由を疑いません。ネットの問題とは、著作権保護の問題をはじめとする古い社会システムとの軋轢に集約され、ネットのモブぶりをつつくのは、著作権で食べている企業か、それにぶら下がる人と相場は決まっています。
ところが日本では、ネットの顔を自認するような人たちまでが、ネットのダメっぷりを指摘します。まずはネットの醜悪さを認めてからでないと、議論にはならないという感じです。欧米では最も強硬なネット主義者の巣窟である匿名掲示板ですら、日本では「ネットは醜いところだから、規制も仕方ないよなー」という雰囲気を漂わせています。
なぜなのでしょうか?
欧米のインターネッターは実名主義で、ネット参加者のモラルが保たれている、なんてことはありません。あちらも匿名掲示板は大盛況ですし、炎上も日常茶飯事で、人々は憂いています。ただ、あちらには「炎上」という言葉はなく、「サイバーストーキング」、「サイバーボリイング(ネットいじめ)」などと呼ばれています。
この用語の違いは重要です。「炎上」という概念は、ネットに固有な現象を指しますが、「ストーカー行為」や「いじめ」は、ネットがなくても起きる現象で、それに「サイバー」をつけているにすぎません。ようするに、炎上などという現象は、どこにでも起きることがネットで起きているだけととらえているわけです。
川上会長が憂いる「言論の自由」の問題にしても同じです。言論の自由の侵害は、ネットが生まれる以前から、社会のあちこちで見られていた態度です。ネット以前の社会で、高度な言論の自由が達成されていたわけでもありません。だから欧米では、言論の自由の侵害を、ネットに内在する問題として議論することはないのです。しかし日本では、そうした根源的な問題が、ネットの責任として語られます。
こうした転倒した視点を生んだ背景は、ネット登場以前の日本社会では、人間社会の醜い部分が、他のどの国よりも巧妙に隠されていたからと考えられます。
ネットを手にした日本社会というのは、いわば突然眼が見えるようになった盲人の寓話のようなものです。それまでさぞかし美しい所と想像していた世界が、いざ自分の眼で見てみたらぜんぜん美しくない。それで、「この眼になにか問題があるに違いない」と思いこんでいるのです。
ネット以前に、日本社会に「編集済みの世界」を提供していたのはマスメディアです。言語の問題、地理的な問題、同質的な社会の問題、そしてマスコミ各社に有利な産業構造の問題と、いろいろ要因はありますが、日本は他のどの国にもまして、マスメディアの拘束力が強い社会だということは、意識しておくべきです。
マスメディアにより植えつけられた、編集済みの世界観を払拭できない日本のネット文化は、とても内省的で自虐的です。そしていつの間にか、世界との間に大きな認識の差を生むに至りました。世界は変革の渦中にあり、今ほど斬新な着想が求められるときはないのに、自ら足かせをつけて歩く日本のネット文化は、前途多難だなと思います。
そんなもの無いのにね。
権利や自由は他者との関係性でいくらでも制約されるものでしょう。
日本人だけが異質な考え方になるのは、“和”が根本に有るからというのが大きいからだと思いますね。
シーシェパードなんかと同じ独善臭しか感じないこの主張に、賛同する日本人は少ないんじゃないかな。
oribeさんの文でなるほどなと関心し、コメント読んでなるほどそういう考えもあるのかと、毎度毎度感心しきりであります。
生まれつきほとんど視力がなく、中年になってから手術で視力回復したマッサージ師の話を読んだことがあります。
それまで単に暖かくすべすべした物だと思っていた人間の皮膚がシミやシワだらけだという事に驚き、色とりどりの商品がびっしりと並んだスーパーの陳列棚を見ると非常に目が疲れ、脳が視覚情報を遮断してしまい「見えているはずなのに見えない」という奇妙な症状に悩まされるようになりました。
結局そのマッサージ師は体調を崩し高熱で寝込んだ後にふたたび視力を失い、やっと心の平安を取り戻したそうです、
2ちゃんには書き込まないし見ないけど、まとめサイトを読むのは好きだとか、ネットは通販やチケット購入などにしか使わない人って多いですね。
欧米でもヘイトスピーチやタブーのナチ党については言論の自由を制限する事もありますよね。
別の話ですがここのコメント欄がレベルが高いって何かのステマ()ですか?
自分の考えを「常識」として大上段に振りかざす、議論の出来ない人がやたらと目に付くんですが。
日本人って、普段官僚を批判してる割に何かあったらすぐ「規制しろ!」と叫ぶ、官僚依存者が多いですよね。
欧米の「ネットの自由を守れ」は、個人では太刀打ちできないような国家権力や大企業の横暴からネットの自由を保証しろ、ということではないですか?
これは国家権力からの干渉を排し、民主主義を守るための抗議運動だと思います。
これに対し川上会長は、例えが悪いので失敗していますが、匿名の個人または集団が行う半ば犯罪行為のようなものは国家で取り締まれと言いたいのだと思います。
最近の日本では、御用学者Wikiというもの立ち上げられ、そこに晒し上げられた人たちやその周辺の人たちを萎縮させています。
こんなものは言論の自由とは言いません。
あまりに行き過ぎた行為は規制したほうが、結局は言語の自由、ひいては民主主義は守られていくのかもしれません。
そういう意味では、今回のエントリのタイトルのように、「言論の自由」の「自由」に対して日本と海外の認識ギャップはあるのだと思います。
御用学者wikiなんて、作った方が馬鹿を晒してるだけではないですか?
少なくとも、それを法規制する事で放射「脳」の連中がどう解釈するか、リアクションに対する想像力を働かせるべきだと思いますね。