自殺当日トイレでいじめ ズボンずり下ろされる
詳しい経緯はわかりませんが、先頃世間を騒がせた、遺書を残して教室で首つり自殺した女児の事件に通じるものがあります。地位のある大人たちが自殺した女児の遺影に土下座し、マスコミから糾弾されたあの光景が、今回の自殺に何の関係もないとは言えないでしょう。自殺すればみんな自分の訴えを聞いてくれる。自分を疎んだ者たちは糾弾され、自分に頭を垂れる。疎外感に苦しむ思春期の子供たちの眼に、その光景は魅惑的に映ったはずです。
思春期の頃の悩みなど、大人になってみればたいてい笑い話にしかなりません。しかし、それは子供には理解できません。ぼくもそうでした。友達から無視されただけで世界が崩壊するようなショックを受けて、もし自殺することが武器になると教えてもらえば、命を絶つことも躊躇しなかったでしょう。
しかし幸運にも、ぼくが中学生だった二十数年前には、誰もそう教えてくれませんでした。仲間はずれにされたり、ズボンを下ろされたりしたことはありますが、それを悔やんで自殺した所で、誰もぼくの遺影に向かって土下座してくれそうもなかったし、「バカなヤツ」と言われておしまいなのは目に見えていたので、自殺など思いつきもしませんでした。
もしこの文章を若い子が読んでいたら言いたいのですが、世間にだまされてはいけません。テレビに出ている偉い人たちが、神妙な顔をして責任者を追及していても、世間の人たちがそれを見てうんうんとうなずいていても、そんなのは流行に過ぎません。半年もすればみんなケロリと忘れて、何事もなかったかのように世界は流れていきます。
いくら思いの丈を込めて遺書を書いても、衝撃的な死に方をしても、結局は死人に口なしで、死んでしまったら後の世に関与することはできません。自殺することが世の中を動かす武器になるように見えても、それは幻想です。「許せない」とか「かわいそう」とか言ってる人に限って別の話題にすぐ気移りするものですし、だいたい報いを受けるべきいじめの実行犯は、悪質であればあるほど良心の呵責など覚えないし、責任を逃れる術を心得ているものです。死に損、ただそれだけです。
自分をいじめる憎むべき人間がいるなら、自分に冷たい世の中が憎いなら、だからこそ死ぬな。死んで一番損をするのは自分だ。生きて見返してやれ。
昔、おじいさんが良く言ってた言葉。
仕事先で失敗した時の言葉
命まではとられる事はない!
こんな言葉今の子は聞いた事無いのかな。
毎日興味深く読ませていただいております。
本日のコメント、深く同感。
テレビと、ケイタイとコンビニが世界のすべてである若者たちに、どうやって錐をもたせるか、どうやってその世界を引き裂いて脱出させるか。エセに立ち向かう孤独力が決してかっこわるいものでない事をどうやって印象づけ、応援すればよいのか、できることしかできませんね。
漠然とした印象ですが 私も女児の事件についてマスコミの流す映像を見て 嫌悪感を持ちました。流すということについてです。
だから、いじめっ子を殺せ!
の方が効率いいように見える。このエントリーを読んでいると。
従って、保護者、教師に守ってやる義務があります。
私は札付きの荒れた学校に通った経験を持ってます。
噂が立つと、全校生徒の進学に影響するからできるだけ隠せって雰囲気でしたよ。
教師の関わりたくないという自己保身もあったように見受けました。
イジメに経験の無い保護者はオロオロするばかりで役立たずでしたな。
これらの事を社会制度を変えることで解決するのは、至難だと思います。
なぜなら、全体ルールが変わっても村社会の中では別ルールが通るからです、裏でね。
だからこそ、「陰湿な」イジメと呼ばれます。
経験ですが、
自分が耐えられる程に強いと思うなら、耐えて可能な限り早くオサラバしましょう。
自分が耐えられそうも無いと思ったら、とにかく大騒ぎを起こしましょう。
村社会の外に聞こえれば、その村社会を制裁できます。
逆襲して刑務所に行く方が、黄泉の国に逝くより健全です。
そんな事とんでもないなんて綺麗事を言う人間がいたら、「なら、おまえが盾になって死ね」と言ってやってください。
ああやって学校や先生に謝らせても
何の解決にもならないんじゃないでしょうか。
いじめない、いじめられない子に育てること、
そして集団で一人をいじめるのは
「人として卑怯で軽蔑される」ことを小さい時から
教えるしかないと思います。
自分の目の届かない所では守りきれないと思うなら、その子供に私の言ったことを伝えてやってください。
その子供が騒ぎを起こし、あなたが示唆した事が明るみに出たなら、私の説明を使って反論すべし。
受け入れられず処罰された?
あなたが、その子供を守りきれなかった報いです。
甘んじて受けましょう。
できれば、その子供の保護者とイジメた人間を道連れに.......その方が、社会が健全になるはずです。
ま、弱く卑劣な人間に実行は無理ですね。
だからこそ無くならないのさ。
自殺とは逆ですが、一部の少年犯罪にも似たような感じを受けます。
それは通常の非行行為であれば「不良」というレッテルを貼られて批難されるのに、限度を超えた殺人などになると「心の闇」を解き明かせとばかりに加害者側を弁護するような意見が出てくることです。
限度を超えた過激な行動を起こすことで逆に弁護して貰える雰囲気というのは当事者である少年たちに「過激な行動を起こせば味方が出来る」という錯覚を与え道を誤らせるだけです。
「その子供の保護者」ではなく、
「その村社会」ですね。
「その子供の保護者」が満足に保護義務を果たさずとも、養育者がいなくなれば子供は困ります。
数年前、旦那の同僚が自殺しました。誰の目にも上司が原因なのに人事、組合、御遺族等いろいろ調整された結果、結局お咎めなしの死に損でした。
学校と教育委員会の責任を問い詰めるだけの滝川の自殺報道の時、「いろいろ事情があって、テレビは都合のいい一部のことしか言えないんだよ」と子供に言いました。子供は「テレビはいじめた人の責任を言わない」と言っていました。
学校の外の世の中はもっとそれぞれの事情が込み入っていて、複雑で非情なこともあるんだとどうやって教えればいいのか頭が痛いです。身近に「上っ面喧伝箱(テレビです)」がありますので、なおさら・・・
不幸な亡くなり方を選択してしまった滝川の小学生と福岡県の中学生の親御さんにはいたく同情申し上げます。
・いじめの限度がわからない。
・いじめの相談相手が少ない。
・加害者、被害者ともに親からのプレッシャーが強い。
ありきたりだが一言!
生きていれば、そこそこ楽しい事もあるぞ 中学生。
会社が不利になり、あなたの旦那さんがトバッチリくらっても、同情はできないです私。
旦那さんが同僚を、守りきれなかったんですもの。
キビシーね私、でも事情もしらんと...では無いよ。
前に務めてた会社で、同僚から嫌がらせ絶えなくてね。
経験を積むまで耐えて、独立した。
個人経営は大変だよぉ、膨大なエネルギーいるし。
ハイサヨーナラって訳で、以来関わらない。
上司は良い人だったんだけどね。
それに対応する薬を投与することで少しおさまるというのも・・・。
ストレスに対する耐性って人によって差があるとおもいます。
何が言いたいかって言うと、えーと
そういったこともあるかとおもうので感情で「がんばれ」だの「目先をかえて生きてみかえよ!」って言われたって心の(?)機能として聞こえてないこともあるかとおもいます。
これとは別に、人生に絶望しての自殺というのは誰にもあると思います。
僕も子供の時は些細な事で、大人になっても深刻な精神的打撃や酷い鬱状態の時は引き寄せられましたが、oribeさんも書かれている様に、一種の「悪魔の囁き」であり、後になってみると、まぁ、生きてて正解と思います。心の傷は何時か癒えるものです。鬱病は精神力で強引に克服しましたが・・・
まぁ、そんな場合でも、同情はともかく、他人がケアしてやる義務はないと思います。弱い者は(運の悪さも含め)死んで強者に場を譲るのが世の習い。その場合、僕は単に人生に負けただけです。
ここを読む人が心弱くなった時のために、私が敬愛するディスティ・ノヴァ教授の言葉を贈ります。
出生の秘密を知り世界に絶望した愛弟子ロスコー君への呼びかけです:
『ロスコー君・・・宿命というものは確かにある。
人は場所・時代・環境を選んで生まれる事はできない、
ゆえに、生まれた瞬間にそれぞれの人間の生きる条件は異なっている、
これが宿命です。
そして世界が残酷なのは当たり前の事です。
生の始まりは化学反応にすぎず、魂は存在せず、
精神は神経細胞の火花にすぎず、人間存在はただの記憶情報の影にすぎず、
神のいない無慈悲な世界でたった一人生きねばならぬとしても、
・・・なお・・・なお、我は意志の名の元に命ずる。
「生きよ」と!!
君はまだ若い、世界のカルマの負荷に膝を屈するのもやむを得ぬかもしれない、
悪を目指すも良し! 善を目指すも良し! 道を探るのもいいでしょう。
しかし生きていなければ !
生きていなければどんな才能でも実を結ぶことは決してないのですよ!』
漫画の台詞とは思えない言葉です。ノヴァ先生の日頃の所業(笑)がまた深みを増すと云うか・・・是非検索して作品を探し読んでみて下さい。もうひとつ。これはウロ覚えで多分、詩かエッセイの一部。誰の言葉かも忘れてしまったけど心が軽くなる言葉です。
『一服の煙草、そして熱い風呂、それだけで人生は生きるに値する』
僕は煙草は吸わないですけどね。これが僕が最後に縋る言葉ですね、多分。
自分はそんなに自殺に否定的ではありません。
死人に口なしと同じように、死人には目も思考もありません。
ですから自殺者のとっては、死んだあとに自分の死が世間で忘れられようとたいした問題ではないのです。
死の瞬間に苦痛から逃れられる幸福感と自分の死が、たとえ幻想でも自分の死が起こす騒ぎを想像する満足感があればそれで十分な理由になると思っています。
あとはまあ自殺を止めるのはエゴではないかといったよくある意見になるので省略します。
自分は、死を止めるのが是であるといった風潮も、死なないように人間関係でがんじがらめにする世界もあまり好きではありません。
極論を、失礼しました。
死んだら、おしめぇよ! の続きの言葉
だから生きろ! ですよ!
むしろイジメを許すなと大人が言うほどに子供達が賢しくなってイジメが陰湿化している実体をよーく経験させてもらったよ。
イジメ容認の学校ではイジメとは生徒が一丸となってギャラリーと化す見せ物だったので処分も楽勝だった。恨む相手もはっきりするし、それをやり返すのはヒーローだった。
だがイジメを容認出来ない学校ではイジメが陰湿そのものでもの凄く辛かった。各々が隠蔽工作を計るもんで訴える先も無い。まさに地獄だった。
大人になったら某事件のように同窓会で全員毒殺してやるクソ共がとか考えてたっけ・・・厨房の頃は。あー青い青い。
>自分の死が、たとえ幻想でも自分の死が起こす騒ぎを
>想像する満足感があればそれで十分な理由
こういった(若者ならではの?)物欲しげな心性と、自殺に対する
ロマンチシズムには我慢ならない。
逆説的な言い方ですが、少し頭を冷やしてから粛々と死ねと。
病気をなくすことが出来ないからその対処法として医学が発達したように、いじめをなくすことが出来ないのであればそれに対する対処法というものを考案すべきだと思いますね。
「いじめをなくそう」などというスローガンは共産主義と一緒で画に描いた餅にしか過ぎません。
確かに私も(事の是非は兎も角)自殺するくらいなら、憎い相手を殺せば良いのにって単純に思いますけどね・・・・。
ましょう。私は読んでいないのですが、
「心にナイフを忍ばせて」という本でしたか?
あれは参考になると思います。
悪辣な苛めに対して正攻法で挑もうとするには
限界があります。
まるで、日本の外交を見ているようです。
呉智英言うところの「差別“も”ある明るい社会」ならぬ「いじめ“も”ある明るい社会」をデフォにすべく、負の側面にも日のあたる風通しのよさが必要では。
>K.Cさん
サレジオ事件は単純にいじめられっ子の逆襲という構図だけではないようです。
加害少年は、クラスのリーダー格である被害者の歓心を買うべくナイフを見せた際、自身の小太りの容姿への揶揄を受けたのが、殺害の直接のきっかけだそうですが、首を切り落とすという異常性には、加害者が潜在的に持っていた被害者への同性愛的感情も指摘されています。
(ソース:文芸春秋)
記録を残し続けたのは、自殺の遺書にするのではなく、いじめっこの「将来」をメチャクチャにするつもりでした。「結婚相手の家族」とか「進学先」とか「就職先」に送り付けたら……と、勝手に想像していました。
自分の趣味ができ、そっちに夢中になるともうどうでもよくなって、イジメ記録を送りつけたりはしてません。が、今でも記録ノートは残してありますので、いつかは、周囲とか本人とか義理の身内とかに送ってみたいですね(笑)ええ、いつかは。
レス有難う御座います。
なるほど、ちょっとググってみましたが、事はそう単純ではなさそうですね。
この件についてちょっと調べてみようかな?
ほんとうにそうですよね。
見返すというのは単純にいじめた相手に報復することではなく、生き続けていくだけでもいいと思う。やがて社会に出たときまっとうに働いて生活していくことでも充分見返すことに繋がっていくのではないかと思う。
また、いじめの問題は、もしも転校が可能であればそれで改善されるケースが多いのではないかと思います。新学年となってクラスが変わることで解決する場合もあります。
自殺を考えるほど追いつめられる深刻ないじめは、環境を変えることがいちばんだと思うのです。
私もあるグループにいじめられており、それに反撃し相手側のグループの子が一人学校(高校)をやめてしまう原因を作った身としては反撃はもうバリバリ推奨しますがあんま相手を追いつめ過ぎないようにとしか言いようがない(笑)
しかし結構毅然と殴り合いや公衆面前での罵倒のしあいをすると相手はこちらを避けるようになりましたが(その代わりクラスの男子の中で浮きましたが)
いざって時はかっこ悪くても学校側に圧力かけて(訴訟を起こすって脅したりしてました、親が)しまえば結構どうとでもなったりしましたが…
転校するっていう手もあるんですがね
なぜ死んでしまうんでしょうね?
>だから生きろ
って言葉がもう手に届かないところまで追い込められてしまってるんです。そりゃ、死ねば終わりなのはわかります。でもね、死ねば苦しみも終わる、そういう意味で「死ねば終わり」を選択するまで追い込まれるってこともあるんです。
私が希望するのは、今度の事件を鑑にして、もう少し多くの教師がイジメに注意を払ってくれ、今より少しでもイジメをする子供が減ることです。今度の事件で、今やっているイジメのために、人が死ぬこともあるんだとわかってくれることを望みます。
いじめられっ子に「耐えろ」って言ったって、周りが変わらなければどうしようもないでしょうに
「耐えろ」
って書いてる人が多いですが、それは自殺をするぐらいのイジメを容認してるんですか?どうも、自殺をした子を責める意見が多いですが、いじめをするのは全然OKなのでしょうか?皆様は、自殺に追い込むほどのイジメを肯定されるのですか?
いじめられたら、
首謀者を殺してよいと思います。
殺したもんがちです。
今の世の中、ひと一人ぐらい殺しても、
少年なら五年で復帰できますし、
いじめられっこなら、更正は早く済みます。
情状酌量の余地充分ですし。
「いじめられて、これ以上いじめられると、
自らの命にかかわるので、緊急回避で、
相手を殺傷するに及んだ」
「殺傷せざるを得ないと思い込んだのは、
少年ゆえなので、ちゃんと教育されれば、
社会復帰は可能」
という理屈です。
これは大人にも通じます。
「殺傷せざるを得ないと思い込んだのは、
いじめによって精神が不安定になり、
心神耗弱状態にあったからなので、
罪を問えない」
ですね。
ちなみに殺すときには、
「悪魔だ…お前には悪魔がついている!
私には見えるんだぁぁぁぁぁ」
と叫びましょう。
でもってなるべく残忍な殺し方をしましょう。
なにせ心神耗弱ですから。
今の日本の法律では、
悪い奴を一人ぐらい殺しても、
絶対に死刑になりません。
殺したもの勝ちです。
少なくとも、自分にあからさまに危害を及ぼす輩は殺さなきゃ損です。
裏でやるから、「陰湿」なイジメなんだと思うよ。
表でやるのは、単にケンカだと思う。
ギャラリーがいるなら、ハッキリしてるから陰湿ではないし。
証拠があるなら、やり返す正当性もあるしね。
その人が強ければやれますね。
もっとも口裏合わせて証拠隠滅されるなら、そいつらはギャラリーではない、協力者か壁役だと思う。
ただ、ここで議論してるのは「陰湿」なイジメの方だよ。
イジメを容認すればケンカに変わる?ウソ〜。
いいえ私の意見は、村社会の外に聞こえるように騒ぎを起せです。
どんな手を使ってもいいから、自殺よりマシ。
子供に伝えましょう。
人間は苦しかったら身を守って良いのですよ。
やられ放題でいる必要はありません。
あなたのように、必ずしも頼れる大人がいるとは限らないからだと思います。
ご両親は義務を果たしましたね。
毎日毎日繰り返される拷問だ。
明日も明後日もその先も痛めつけられるために登校しつづける気持ちを想像できるか。
苦しくて苦しくてどうしようもないなら不登校が最も正しい選択肢なのだが、
現在の所、不登校がイジメ回避として認められる風潮はない。本人に問題があると見なされる。
勉強が難しいなんて理由で不登校になるやつはいない。
家庭に問題があるなら、不良とつるんだり街で過ごしたりするものだ。
不登校になったらまずイジメを疑うべきなのだ。
なにより、イジメるやつを野放しにしてるクラスは基本的にクソなのだからして、解決の努力をするより、転校を容易にする事が自殺回避には有効だと思う。
親が他人と揉めるのを恐れて事なかれ主義になっていたり、自分が正しい場合でも主張をすることなく我慢する、という場面を子供は見ています。
そして真似ます。
問題になった場合に頼りにならないということも知っています。
やはり親が毅然とした所を見せる、正しいと思うことはきちんと主張する、おとなしいだけでなく牙を剥くこともある、ということを自分の姿で教えることですね。
私も小学生時代に、しつこい嫌がらせを受けたことがあります。
とうとう堪忍袋の緒が切れて、ぶん殴って嫌がらせを止めさせました。
虐めを受けた経験はそれ一回きりで、その後数十年、誰からも苛められたことはありませんでした。苛めにくい雰囲気が身についたのかも。
首謀者を殺す勇気があるのなら、ぶん殴ればよろしいのでは。
自殺統計を見ると、子供の自殺率は横這いですが、50歳代男性の自殺率が高まっております。
小父さん達を励ましてあげましょう。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/3.html
死ぬんじゃない。
仕事できなくたっていいじゃないか。
無職だって良いじゃないか。
望まれることなく、浮き世から捨てられし彼等を動かすもの。
それは、生きる意思を持つ者の意地に他ならない。
「善く」生きることであり、幸せになることなのです。
一人寂しく死んでゆくなんて奴らの思うツボなんですよ。
くやしいと思うのならば奴らより不幸になってはいけないのです。
子供の頃は教室から逃れられないものだと思っていたし、
逃げるように移っても(転校しても)またそこで同じことが起こるような気がしていた。
でも教室の仲間なんて思っているほど重要な集団じゃないって大人になってから気がついたよ。
転校を恐れるべきではないと思うね。
殴り倒せる程、その子供が強いとは限りませんよ。
ズボンをずり下ろされたら、襲われて強姦されかけたと主張して、乱れた服装のまま職員室に駆け込む事もできます。
でもね、子供は未熟だからこそ生き抜くテクニックに長けていませんから、思いつかないかもしれません。
不器用なやりかたで、反撃するしかないかも知れないのです。
人間も動物なのですから、弱い者、異端な者を排除しようとするのは悲しいかな本能のような気がします。
私は好き嫌いがはっきりしてるタイプで敵を作りやすい上に工作も嫌いなので、気が付いたら孤立してることがあります。そうなったら自力で居場所をつくるか、さっさとその場所から消えます。
嫌がらせされたら金玉蹴り上げて黙らせば良いことです。
そんな度胸がなければ逃げればいい。親や教師に状況を話して新しい環境を変えてもらえばいいことです。
こういう自殺の話は歯がゆくて仕方がありません。
そうですね、両親には感謝してます。実は私は小・中ともにいじめで1年の不登校をしていました。(現在高2)その際私も両親も何をどうすればよいのかわからず状況を悪化させた経験があり、
高校では両親(というか父)が相手を社会的に追い詰めてでも(それをできるだけの資産と地位が一応ありました)いじめにけりをつけようとしました。
結局それはせずにけりは私が自分でつけましたが、(殴り合いをしました(笑)
学校のほうへの尻拭いは両親が手伝ってくれました。
やっぱ恵まれてますね、でもいいわけですがちゃんと自分で主張し相手グループと戦いましたよ。(まあ中3からですが…)
あと私の場合、いじめが小・中・高とエスカレーター式の学校のため持ち越されてしまい、結構今でも苦労してます。(あいつはなぶりやすいんだーみたいな情報をばら撒かれてしまって…)
例えば会社、家族、それだけでも二つあります。もし両方嫌なら、サークル、スポーツ、他にもある。多く作れば作るほど、「逃げ場」が出来ます。
「自分」は一つじゃない。自分を取り巻く「社会」だって一つじゃない。
自慢じゃないが私も自殺寸前まで行ったことがある。クラス中、先生含めて敵だったこともある。
駄目な先生は、こんな事件があったって変わりはしない。学習能力があれば、そんな教師にはならない。
一番大切なのは「何が正しいか」なんてことじゃなくて、「あなたが生き延びること」それだけです。
決定権は大人が握ってるから、親や教師が行動してくれれば良いんだけどね。
意外と動かないんだこれが。
私の場合は、大人が頼りになりませんでした。
自力でカタをつけましたよ。
その結果、成人後に親との関係はスキマ風が吹いてます。
自力で解決する事は、素晴らしいとは限らない。
他人が(親でも)いらなくなるんだよね。
孤独でも平気でいられる、「冷えた鉄塊」のような怪物の魂が残りました。
健全ではないと分かっていますが、
大人になった現在、自分の魂を打ち直すには遅すぎるようです。
無理すると、砕け散ってしまいそうだ。
どうか、あなたは暖かい家庭を築いて下さい。
その意見にはすごく同意します。
追い詰められて死ぬ子供は、盤面が一つのゲームを戦っているようなものだと思う。
学校が全てで、家と学校の往復が世界の全て。
だからそこで追い詰められたら逃げ場がなくなってしまう。
でも世界は一つじゃないし、どこか別の場所に行けばヒーローにすらなれるかもしれない。
一つの盤で追い詰められたら他の盤に逃げればいい。
私はありがたい事に学校が全てではないと知っていたので、そこでの虐めを耐える事が出来ました。
それを知らない子が多すぎると思います。
それもまた子供であるという事なのだろうとは思いますけれども。
>MACA−1さん、言葉の深読みしすぎ、単純に小さい頃、死ぬのは怖い事、親不孝になる、死ぬのは馬鹿らしい、と親、祖父から言われて来た事。そう言われて来たから、自殺なんて、しようと思っても出来ません。
いじめは、もちろん許せませんが、(コメントされている皆はいじめを肯定していません)
周りも変わらなければいけないが、それに耐えるだけの子供に育てる事も大事です。親も注意深く子供を見る事も大事です。親として、友達関係、教師関係、関心を持って見てたら、変化があればわかります。あなたの意見もわかりますが、「学校、教師、いじめた相手」だけしか出てきませんね、一番身近な守る存在の親に対しては、言うべき言葉は無いのでしょうか? 子供に逃げる事を教え、戦う事を教え、かわす事を教え、死ぬと言う事を教えるのが親の役目です。
ちなみに、私は、いじめの経験があります。
だから、子供には細心の注意をはらいました。
>コメントされている皆はいじめを肯定していません
天邪鬼だが、ちょっと肯定したい様な(笑)。
大人社会へ出ても、国家間でも、結局「いじめ」は有る訳です。故に、子供は子供なりに「いじめ」を体験して、空気を読み、耐えたり、反撃したり、矛先をかわしたり、自他力で解決するなどの技を磨く機会が与えられるべきだと思います。仮に、完璧に「いじめ」を防ぐ手段があったとしても、それはすべきではありません。子供社会では 『野生の猿山で起こり得ること』 は全て起こる環境であるべきで、少数の極めて適応力や運の無い個体のために、全体の教育の機会を奪うべきではないと思います。
いやぁ、生半可な勉強より役に立ってる様な。
つまり、必要なのは「自殺の回避」と「再起する場所の確保」であり「いじめの撲滅」ではない。
具体的には「死んでは駄目」ということの刷り込みと、救難信号の出し方の周知、再起のための転校・寄宿舎などの支援が必要ですかね。
後、教師が生徒に対して「制御されたいじめ=躾け」を公平に行うことです。
弱者同士の感情の交感が生まれ、全体に緩和されるかもしれません。が、逆に「弱者はさらに弱者を虐めり」という更に陰惨な光景になるかも知れないので難しいもんですな。ちなみに、プアホワイトが最も黒人を苛烈に扱った歴史的事実からして、これは人間の普遍的な性向であり、『最近の子供は歪んでいる! これも小泉政権の弱者切捨ての・・・』 という様な現象ではありません(笑)。
>表でやるのは、単にケンカだと思う。
衆人環視の下でなぶりものにするタイプのいじめはよくあります。
授業中、教師が特定の生徒を晒し上げて笑いをとったりとかね。
それにしてもandoさんみたい若い方も来てるんですなあ。。
いじめがなくならないのは当たり前だよね
まさに同感です。私も自分が自殺することが、私を追いつめた者に対する最大の復讐だと考えていましたが、結局それは私の自己満足にしか過ぎないのだと年を取るにつれて考え直すようになりました。
私の場合は、読書を通じて数多くの賢人たちの言葉を聞くことで考えを改めていくことに至りましたが、現代の十代の子供たちはどうなんでしょうか…。
彼らにまず必要なのは、彼らの声を真摯に聞く誰かなのでしょう。しかし、現実には彼らの声はどこへも届かないことが多いんですよね…。そんな現実を変える努力を我々大人は惜しまずしていかなければなりませんよね。
>授業中、教師が特定の生徒を晒し上げて笑いをとったりとかね。
それ、全員がイジメの協力者ではないですか。
外部に通報したら、口裏合わせるのでは?
「陰湿」な部類に入ると思います。
後で外部に訴えた時、証人になってくれる人がいないなら、裏でやるのと同じ事だと思います。
経験ありますよ、20人位で袋叩きにされたっけ。
他に大勢見てる人もいました。
後で訴えでたけど、全員しらばっくれました。
「無かった事」にできるんですよ。
ウワサが広まると、進学に影響するそうです。
札付きの学校の生徒は、リスクを考えて敬遠される訳ですね。
私の経験では、学校が全校生徒や父母会にハッキリその事を告げていました。
面倒を起すな、起きてしまったら穏便にって暗黙の了解による、村社会ルールを形成したのです。
村社会の外に不祥事が知られても、最初は必死に隠そうとする訳です。
ええ、人間の訓練の為に多少は毒を残すべきですね。
でもたぶん、人間の性質から考えると、全力で叩き潰してもイジメは無くならないと思いますよ。
今回の福岡の事件は、1年の頃から「虐め」を主導していた元担任教師が手の平返して「一生償っていきます。」と頭を下げた。
滝川の事件は、数日前まで「遺書? あれは手紙です。」「手紙に『虐め』という言葉はないから、虐めかどうか判らない」「(1年以上経つが)調査中で、いつ結論を出すかも判らない。」とTVカメラの前で嘯いていた教育委員会が、いきなり土下座・・・でしたね。
強者は意外と弱者を理解しているものですが、「驕者の論理」が支配している社会ですと、前日まで特権的地位にあると思い込んでいた者が、いきなり弱者に転落する醜態は、滑稽でさえあります。
同じ虐めに遭っても皆が死ぬわけではないので、対処法は個々異なるでしょうが、被害者個人への対症療法で自殺は防げません。
子供を「からかいやすい」と虐めていた教師、「母親1人なら握り潰せる」と考えていたかもしれない教育委員会とその指導下にある学校現場、彼らの行為は何れも、勤務中の違法行為や職務怠慢です。
親が誰しも子供を守れるとは限らない中で、社会が子供を守るという認識が必要ではないでしょうか。
私は、親からも、学校からも逃げる場所として、図書室に入りびたり本を読む事で、なんとかしのぎました。
>福原さん、「社会が子供を守るという認識が必要」これは、教育の現場を改善して欲しいと、本当に思います。ひどい先生は首にして欲しい!
尊敬できる先生になれとは言わないが、もう少し常識がある先生がなって欲しいと思います。
・生徒をイチゴの品種に例えてランク付け
・他人が落としたものを拾う生徒を「偽善者」と呼ぶ
・「自殺した生徒はからかいやすかった」発言
等々
これではどうにもなりませんね・・・
先日女子中学生の自殺遺書問題の時、あるワイドショーでコメンテーターが「我々大人だっていじめをやめられないわけじゃないですか。それをどうやって子供にやめさせる事が出来るんですか」と発言してスタジオが一瞬シーンとした事がありましたが、まさにその通りとなりました。
公立の学校の教師は滅多な事でもない限り、クビにはなりません。特殊学級に異動させられたり、担任を持たない学年主任にしたりするのがせいぜいです。私学も縁故採用などありますし・・・
大人が同じ事をやったらイジメではなく犯罪となります。
学校内で行われている犯罪を「イジメ」という言葉で全てくくる方がおかしいのです。
先生という大人の責任にするのは簡単ですが、この学校の生徒の中には性犯罪者とその予備軍が沢山居るという事から目を背けてはならないのですよ。
でも「行き過ぎた指導」という事で、逮捕もされなかったし、翌年異動しただけでしたよ。
私の従兄弟は蕎麦アレルギーなのに担任に「蕎麦アレルギーなんて聞いた事が無い」と無理矢理給食のお蕎麦を食べさせられ、死にそうになった事がありました。
分別がついていなければならない教師がしでかした事については、それなりの追求がされなければならないでしょう。
問題にならなきゃいじめ放題。
いじめられた方は鬱になりひきこもり、いじめた方は楽しくやっていく。
つまり死んだ方がマシってことだ。
でも、死んだら終わりなんですよ。
死んでしまったら復讐もできない。死に損です。
鬱になろうとひきこもりだろうと、生きていなければ、相手に復讐できません。
最近の子供なら、ネットでいじめの実態を記録し公表する…という方法もとれるはず。相手の一生をメチャクチャにするためには、自分も生きないと。
そうです、多のパワーに抗ずるテクニックを伝授するには
生きていてもらわねば。
学校へは 行かなくてもよいのです。
私事ですが
第一子 このままでは地獄です
第二子 だまって額に押された担任のはんこを示しました
第三子 オカアサン フツーの学校生活がしたい
なんとかのりきらねば。
「苛められて死ぬくらいなら相手を殺せ」と、
死にたくなる程辛い思いをした子供に更に復讐の為とはいえ犯罪という十字架を背負わせようとしてる無神経な論が見受けられるのが読んでて気になります。
>「苛められて死ぬくらいなら相手を殺せ」と、
>死にたくなる程辛い思いをした子供に更に復讐
>の為とはいえ犯罪という十字架を背負わせよう
>としてる無神経な論が見受けられるのが読んで
>て気になります。
敢えて反論します。
当事者の子供にとっては
いじめる方もいじめられる方も現実そのものの世界です。
>気になります>
程度の認識ではないと思います。
子供たちにとっては食うか食われるかの現実なのです。
私はこう思います。
子供たちの発達段階で「いじめ」が発生するのは
子供たちの社会が大人たちから外れて、
独立性を発揮し始めた兆候であり、
ある意味「健全な集団」の表れなのだと。
問題はそのいじめが、子供であるがゆえに、
いじめる側にブレーキが利かなくなる危険性と、
いじめられた子供が耐えることができない脆弱性、
両者の問題があるということです。
これを克服するためには、
「いじめがない」ということを目指すより、
「いじめはある」という前提にたち、
いじめが発生する初期段階の生徒集団に対して、
シミュレーションをさせることだと考えます。
その際に(極端に)いじめられた者は殺人にまで至るのだ、
いじめる側の思考は、
相手を完全に支配したくなるもので、
そこまで至るのは行きすぎだ、
ということを生徒に認識させることだと思います。
実は私、
(軽い)いじめを肯定しています。
OK、少し乱暴な言葉使いで申し訳ないけど。
以前の私の宣言どおり、この言葉を送ります。
「なら、おまえが盾になって死ね」
自殺した子供にとって、その綺麗事に意味あるでしょうか?
その子供が何しでかしたって、守りきれなかった大人は文句言えませんよ。
「十字架背負って苦しみ続ける位なら、おとなしく自殺した方が良い」
と子供に教えるのですか?
人間は苦しくなったら、生き延びる努力をする権利があるはずだと思うけど。
被害者である子供やその親の対処方について批判する前に、教師・学校や教育委員会は、その対処の対価として賃金、即ち私達の税金を得ているのを忘れているのではありませんかね。
社会の一員である私達は、子供を守る限りについてはボランティアですから、本職の教師・学校や教育委員会に「給料分働け」と主張する権利行使が、結果として子供を守るんでしょうな。
両親の一方的な訴えにも違和感があります。
人間皆一緒という悪平等な考えはやめて、皆違うんだから頑張るんだという前向きな考えは持つ余裕はなかったのでしょうね。昔は「死んでも一文の得にもならない」「死んだらお終い」とかよく言われた言葉だったのに、最近は死んで自己主張しようという輩が物凄く増えたように思えます。
いじめに耐えろという意見が多いですが、根本的に悪いのはいじめるほうだと思うのですが・・・。
いじめに耐え切れずに、また復讐として自殺したとしても基本的に責められるべきはいじめっ子で、もし死に損なら死に損にならない社会を作るべきだと思います。
まあそれはそれとして、自殺が増えたのには、がんばりようが分からないというのもあると思います。昔は勉強でがんばっていい学校を出て、いい会社に入ってというモデルが有ったのですが、現在はこれといった成功モデル(一般人でも真似できそうな)がないですからね。2,3年我慢してがんばればというならともかく、これから一生お先真っ暗とかなるとなかなか耐えられるもんじゃないような気がします。
お咎めはいじめられたやつにしか向かない現状じゃ殺すリスクが高すぎる
っていうか、本当に殺したら殺したで
なにもそれぐらいで殺さなくても自分勝手だなって発言するやつがほとんどだろ
自分がやられた時は「殺したい」とは思うが、他人のことで「殺した方がいい」というやつは無責任
この話は本当に瀬戸際にある人の為に、無抵抗で死んで逝く必要は無いよと呼びかけてるだけだ。
ただの正当防衛の勧めじゃないか。
無責任とは思わないな。
それでも生きたいかでしょう?
以下ただの感想ですが。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
シェイクスピア
ハムレットはイジメ関係ないけどね。
自殺の誘惑を前にした心理を、実に良く表していますね。
殺した方が非になる現状でか
上にも書いてるけど過剰防衛だしね
俺自身なら周りから正当性を認めもらえんでも殺すかもしれんが、
正当性を認めてもらえんようなものを他人に勧めることは無責任だろ
シルバニアさんが書いてあるとおりの社会になれば
「殺す」という選択肢も有意義だがね
ほっとけば死んでしまうほど弱い人に。
耐えたり、上手な反撃ができる強い人間ばかりじゃないでしょう。
適度な助言や保護をもらえる、恵まれた人ばかりでもないだろうし。
強者の傲慢さも良い所じゃないかな?
ほっておくのが責任ある行動なのか?
諦めろと告げるのが責任ある行動なのか?
それともあなたが世界中の恵まれない人を24時間保護し続ける自身でもあるのかい?
最後の逃げ道を塞ぐような事を、良く言えるね。
人を殺した後その後の人生に耐えたりできるのかね?
殺せというのが適切な助言なのかね?
弱者ならば殺すのも致し方なしと?
殺せと言うのが責任ある発言なのか?
それしかないよというのが責任ある発言なのか?
殺せという人が、それを実行した人のその後の人生をちゃんと面倒みる自信でもあるのかい?
人の人生の道を塞ぐようなことをよく言えるね。
こういう場で「貴方が〜できるの?」なんて言っちゃいけないんだけどね
今回は反語で返すために使いましたがどちらもできるわけないんですから
ここで議論していることを全否定しているわけじゃないよ
あくまで「殺せ」と推奨している人に対して言っているだけなのであしからず
ほとんどの人が、他人をいじめた経験も、いじめられた経験も持ち合わせているのでは?また、子供達に対して<大人に対しても、なのかもしれませんが>「いじめはいけない。無くしましょう」と説いたとしても、「何故いけないの?」と問い返されたとき、合理的かつ説得力のある説明ができる人間が、果たしてどれだけいるのかが激しく疑問です。
実際問題、いじめ以外にも、例えば殺人や戦争なども、「してはいけない」合理的理由はないのではないか?
いじめを無くすことは、殺人や戦争を無くすことと同じくらい、限りなく不可能なことだと思うわけです。現実問題として。
そこで、抑止力になり得る概念のひとつとして、加害者側に他人の死に対する恐怖感を持たせることができないか、と私は考えるのですが、いかがでしょうか。突き詰めれば生死観の問題になるので、宗教観を論じるつもりはないのですが、もしも加害者に、「他人を殺したら」「いじめた相手が恨んで自殺したら」=「祟られるかも」という恐怖感が過ぎったとき、一定の抑止力効果があるのではないか、と。日本の神話やお伽噺や古典には、かなりの割合でそのような「怪談」めいた逸話が見られますが、先人の「知恵」だったのではないか。菅原道真を祀った天満宮しかり、将門塚しかり、靖国も同様の生死観の発露なのではないかと思います。いじめた相手を自殺に追い込んでしまう子供達に、「人権」を説いて抑止できるとはとても思えない。刑法を改正して厳罰化することは一定の効果があるかもしれませんが、加害者に極刑を恐れる生死観がなければ、効果は限定的でしょう。人命・人権を尊重しよう、と叫ぶ前に、前提として生死観、死者に対する畏怖・鎮魂の念を植え付けるべきなのではないか。何も教科書に載せるまでもなく、コミックでもホラー映画でも、作品を通してでも良いから。「いじめは有ったか無かったか」「遺書なのか手紙なのか」「教師の言動が直接的な原因だったのか間接的な原因なのか」など、いくら解明したところでなんの解決にもならないことだけは確かでしょう。
まず、加害者を作らない、そのためのより効果的な抑止力を考えるべきです。
いじめは無くならない、という現実を直視して、「やめておいた方がよい」理由を説いていくべきだと思う。
最初に誰かが、探したほうが良かったな資料を。
統計によると、自殺者の数に占める割合は多くないな。
年間に学校問題で、35人が自殺したらしい。
男女問題や、家庭問題を除いての数です。
遺書なしで自殺した子供が438人もいるから、実際にはより多いと思う。
それらの中には、進学に悩んだ者も混ざってるだろうけど、相当数のイジメによる自殺者も含むと考えるべきだと思う。
明らかにマスコミで話題になってる犠牲者の数は少なく、一部にすぎない。
実際には、ずっと多くの子供達が孤立無援のまま、自殺という形で精神的攻撃により殺害されたと、私は考えます。
いじめに関しては加害者側に罪の意識が低すぎるのが問題だと思います。
例えば病気で苦しんでいr人がいて、動くことが出来ないので自殺を助けてくれと頼まれ、自殺を助けたら、殺人罪、もしくは殺人ほう助に問われるでしょう。なぜなら自殺も罪だからです(まあ本人は死んでいるので罪には問えませんが)。
下手したら延命措置を取らないだけで殺人罪です。それなのに死ぬような目にあわせた人物がなぜ罪に問われないのでしょう?
大人の世界でもセクハラは犯罪ですし、このような事例だったら十分犯罪として成り立ちます。というか痴漢でも(こういっては失礼とは思いますが)この事件よりは犯罪として扱われています。私は電車の痴漢よりもこのような長年にわたるいじめのほうがはるかに罪は重いと思うのですが・・・。なぜまだ子供だからといってそれが許されるのでしょう?ましてや今度は大人の教師がしたことなのに・・・。
結局は周りの雰囲気も耐えていればや、大人になってみればや、自殺するぐらいなら死ぬ気でがんばれ、ということばかりでいじめられっ子個人に努力や能力を求めるものが多いのが罪の意識の低さにも繋がっていると思います。つまりそうなったのはいじめられっ子自身の努力が足りなかったというわけです。
まあ世の中弱肉強食だからと言われればそうかもしれませんが、仮にそうならば競争に負けた弱者を苦しませながら生かせておくと言うこともないと思います。もし生きろと言うならば弱者も生きれる社会というのを目指す(実現は難しいでしょうが)べきではないでしょうか。
長文失礼しました。まあ私は体が大きく、力も強かったのでここまでは追い込まれませんでしたが、そうでなかったらと思うと、他人事のような感じがしませんので。
相手が死んだなら殺人だと思います、法律に規定されていなくとも、それは人間社会に上手く裁く能力が無いだけです。
子供から不器用な正当防衛の権利を奪ったり、妨げたりする行為は、人権侵害だと思います。
不祥事を隠そうとする村社会の外に、非常事態を伝える為なら、子供の不器用なやり方を非難する権利は誰にも無いはずです。
もちろん、正当防衛の呼びかけを非難される覚えはありません。
死んだら希望は残りません、
どんなにみっともなくとも、
まず生き残る事です。
生き残る権利を否定するのは「人権侵害」であり、
正当防衛の呼びかけを否定し、綺麗事を言うのは偽善者だと思います。
今思えば、考え方が他人とずれてる上に超マイペースだったからなんでしょうが。
毎日、学校から帰ってきて、泥のように眠る。精神が疲れてたんでしょうね。
でも、死のうとは思いませんでした。あいつらの所為で自分の人生終わらせるなんて馬鹿馬鹿しいと思ってたから。
トラウマは残りましたけどね。今でも人の目を見て話すのは苦手だし、自分に自信が持てないし。
でも、死ななくて良かったとは思ってます。
今は宗教観(?)も無いみたいだし、子供に教えるのは難しいのかな?(悪いことすれば必ず報いがあるとか、死後の世界観(天国と地獄のような)とか)
俺がいつ「相手を殺さずに自殺しろ」なんていいましたかね
殺人という一択しか言わない、考えることを動くことを放棄させようとしている人を非難しているのですがね
故に堕天使さんとシルバニアさんの意見は有意義と判断します。
ああ、それと綺麗事並べて偽善者ぶってるのは貴方もですのでお忘れなく
本当に善の心の持ち主なら議論する前に上記2つのできるわけがないことのどちらかの活動なりしてるでしょうね。
私はいじめられっ子にも一因が合ったとしても責任は感じる必要はないと思っています。
なぜなら物事最初から上手くいかないように、学校生活だって上手くいかないこともあるのは当然だからだと思っています。
しかし、学校で上手くいかなくてもその後社会で成功する人は結構いますよね?それなのにいじめられっ子に初めから能力がないと決め付けているのは逆に低く見すぎではないでしょうか?
その頃の子供にしては体格が良かったのが原因でしょうが。
当時は暴力的な行動に走るのが主流で、授業中に教師が板書している最中に殴る、蹴る、弁当はゴミ箱に捨てられ、物は無くなり、汚物をあらゆる場所に詰め込まれるの毎日。勿論、教師は見て見ぬ振りです。
当時は両親にも兄弟にも、虐められているとは情けなくて、恥ずかしくて言えませんでした。
何とか自分で解決してみようと、一世一代の勇気を振り絞り学年主任の教師にに直訴すれば、お前のような(虐められる)生徒が居て、俺は迷惑だと言われ、遂にマジギレ。
当然のように、授業中に殴りに来た男子女子の中で主犯格の男子生徒を、思い切り殴り倒しました。
まさか、逆に殴り返されるとは夢とも思わずに居たんでしょうね、知らぬ存ぜぬを通していた教師も大口あけて魂消てましたよ。
多少 騒ぎにはなったものの、その後はノリで虐めていた生徒からの虐めは無くなり、主犯格の男子とは数ヶ月、遣り合いましたが虐めは収束しました。
まぁ、現在進行形で虐められている子全員に逞しくあれ!とは言いませんが、自分独りが死んでも、生き残るんですよ奴らは。成長し楽しい人生を送る・・・
悔しい、少しでも思ったら何より先ず生き残ることです。勝ち残る必要は無いです。
生きていれば、そのうち色んなチャンスがやってきます。
子供自身には生き残る強さを持って欲しいし、親には生き残る術を子供に与えるべきだと思います。
私は、殺人という一択しか認めないと言ってません。
村社会の外に非常事態を伝える為に、未熟な子供が不器用な反撃を行っても、守れなかった大人に文句を言う資格はなく、そうした正当防衛の勧めも、24時間も見張れない周囲の大人の最終手段だと言っているのです。
その結果に何が起きても、その子供を守りきれなかった周囲の大人の責任です。
できるわけが無い活動を他人に勧めて、何の意味があるのです?
自殺した子供にとって、空理空論など何の意味もありません。
生き残れなかった子供に希望は残らないのです。
・周りの人間関係や他人との違いに無頓着
・学力や運動などで劣る部分がある、容姿に特徴的な部分がある
・生意気
・不潔
・自宅が貧しい、または特別裕福
・ロマンチストというか依存心が強く、いじめている側、共同体との精神的・物理的決別
を最後の部分では躊躇してる
・意外にプライドが高く、どんなにイジメられようが、親や学校そして周囲にはバレていない
と思い込んでいる。そして自分がイジめられていると認めることが一番の苦痛と考えている
こうしたイジメられる側の傾向は、実際にイジメを受けながら社会によって矯正されていき周囲と上手くやれる社会適応者へと成長していくというところもありますよね。
ではそれに順応できない人は死ぬしかないのか?
もちろん僕の応えは断じてNO!です。
だからといっていじめられる側の問題はまったく
問題にされずに殺し返すことだけを大人が強調して推奨するのはどうかと思います(ただ実際には僕も自殺で死ぬ子達について死ぬくらいなら殺してから死ね!なんて言ったりしますが)。
成長にともなって適度な試練を受け、適応者に育っていくのが普通だし、理想です。
その為に必要な、周囲の大人によるサポートが十分でない子供が、犠牲者になるのだと思いますよ。
皆がそういうサポートを受けられると良いのですが、難しそうです。
受けられない子供は、どうすべきなのでしょう。
地域に相談できる所を設置してみては・・・と思うものの、イジメられている子供は自分がイジメられているということを親や学校にバレるのを一番の屈辱だと考えますから(逆にすぐに周りにカミングアウトして自分が弱者であることを認める子供は長期的なイジメには遭いにくい気がします)定着させていくのに時間はかなりかかりますよね。
大人や社会ができることは、やはりイジメを受ける彼等が拠り所になる価値観を社会の多くの場面で見つけられる環境を守ってあげることではないでしょうか?oribe様が一番最初に書かれた強く生きろといった言葉や格闘技、ロック、コミック(特に梶原一騎の作品など)などの中には社会と適合がなかなかできないマイノリティーの価値観を持つものが一人でも、どんな苦境に立っていても踏みとどまって闘う勇気を与えてくれます。
家庭においてもイジメや差別、その他の社会の汚い面、矛盾などに蓋をせず大いに議論して親は親として子供に強く生きていく価値観や知恵を授けてあげるべきではないでしょうか。
犯罪の被害者に対しに対して耐えるべきだとか、試練だとかおかしいと思いませんか?
万引きは窃盗罪です。万引きをされた商店は万引きをされるような対策しかしていない商店が悪いんですか?そんなことはないですよね。
そうはいっても現実問題として、犯罪がなくならないようにいじめもなくならないでしょう。それに対する、あくまで犯罪に対する自主防衛策として心の強さや耐性または処世術を身に付ける事は大事だと思います。そういった方向での話なら、生き抜く強さを身に付けろ、と言うのには賛成です。ただここの話はそういった方向での話では無いように思われます。
そうですね。いじめは犯罪ですよね。窃盗も犯罪。強姦も犯罪。すべて同じように犯罪です。
だから高額な商品を扱う店舗ではショーケースに入れて鍵をかけたり、若い女性は暗い人通りの少ない夜道を薄着で通らないない・・・などの自衛策をとらないといけませんよね。犯罪で厳しく裁くとしても、それは犯罪が起きた後ですから。犯罪をエスカレートさせない自衛策を一人一人が身に着けていかないといけないのでしょうね。
イジメに関して厳格に裁く一方で、大人達は「この世の中にはイジメや差別といった【犯罪】が厳然として存在していて、それは誰しもが加害者になるし誰しもが被害者になりうるものなのだ」という事実を教えた上で、そうしたことに立ち向かう知恵を子供達に教えていく必要も重要だと思います。
それに、刑法は成立時点で想定される事案に対し、あくまで、事後的に、罰を与えるために規定されているとすれば、立件できない事案には、なんら抑止力にはならないと思われます。それ故、理論・理屈で「いじめを無くそう」と子供達に説いて解決することは、限りなく不可能に近いと思うのです。
重複しますが、子供達に「なんでいじめちゃいけないの?」と問い返されたら、的確に反論できますか?
一方で、より犯罪的だと思われるのは、教育行政側から発せられる、「いじめを無くそう」というスローガンが、現実を把握していないのではなく、「無いことにしてしまいたい」というきわめて官僚的な発想だからです。それが現在問題になっている、「7年連続いじめによる自殺者ゼロ」という統計結果に表れているわけですから。そんなわけがないでしょう。教育行政側もきっと、「そんなわけがない」と思いながらやっているところが、より一層犯罪的です。
いじめは「ある」・「完全に無くすことはできない」という現実を直視して、いじめを苦に自殺するかもしれない子供を一刻も早く保護するスキームを確立し、いじめてしまうかもしれない子供達に、より効果的な抑止力を考えることが必要だと考えます。
いじめの相談を、直接学校に持ち込むことは逆効果な場合が多いし<現場の教師も当事者の可能性がある以上>、なんらかの第三者的な救済機関が必要でしょう。これは教育行政側の責任で検討するべきです。
そして、抑止力については、法理論的に明確な犯罪と規定できないうえ、倫理的・道徳的に的確な説得ができないとすれば、さらにその前の段階として、先人の知恵と思われる、「生死観」を説いていくことを提案したいと思います。我が子を加害者にしないために、一個人、一家庭で対応可能なことではないでしょうか。
いじめは集団が加害者になるケースがほとんどですから、ひとりの自殺事案が、多くの加害者「かもしれない」子供達の心にも、生涯消えないであろう深い傷を負わせることになります。早急で、現実的な対策を、それぞれの立場で考えてみる必要がありそうです。学校だけ、行政だけに頼って解決できる問題ではありません。
私が小学生の頃はいじめが原因で不登校なんて6年間一度も聞いた事がありませんでしたが、現在私の住む市内では小・中合わせて千人単位の不登校児がおり、その原因の多くはいじめによる物だと言われています。
私の通っていた小学校は比較的厳しい学校で、担任がいつもニラミをきかせており、あまりに変なあだ名をつけてからかったり、暴力行為があったりするとすぐに「何やってんだ!」「やめなさい!」と怒られ、子供のエスカレートに歯止めをかけていました。
中学の担任は学園ドラマみたいな熱血教師でなにかと言うと「クラスの団結!」と叫び、それで皆がしらけてしまって、これもいじめの抑止になっていました。
今は注意をされた子供の親が逆ギレしてしまうケースが多く、教師も事なかれ主義の悪循環です。
何が良くて何が悪いのか、皆訳が分からなくなってきているのです。
一時期法律を扱ったバラエティ番組が流行りましたが、モラルが崩壊して事の良し悪しを判断するよりどころが法律以外になくなってしまったように思います。
大人の社会で違法な事はいけない、と指導するしかないのかもしれませんが、スカートめくりしている幼稚園児には「それは違法だから」と言うより、「そんな事ばかりしていると恥ずかしいよ」という自覚を持たせる方がいいのではないか、と個人的には思ってしまうのですが・・・
現実問題として外部に傷が出ない段階での立件は非常に困難だと思います。腕の良い弁護士に頼むことも必要でしょうし、たかが子供の間のちょっとしたいじめ(この感覚が一番むっと来るのですが)に大人が出るなんて、と世間の風当たりも強くなるかもしれません。最終的に揉めまくり転校という措置が必要になるかもしれません。
ですが、死ぬ気でがんばれとか、どんなに苦しくても死ぬなとかいう以上は、親やその周りのものは子供のために例え世間を敵に回しても戦うと言う覚悟を決めるべきだと思います。
そのような覚悟を持って親子一体となって戦うのであれば、例え戦いに破れ、逃げるように転校することになっても、子供は親と言う信頼できる味方を得たことで大分状況が改善されるのではないかと思います。
あと古来からの宗教観の復活は大いに賛成です。私は荒れてしまった一つの原因として宗教観の低下と言うのは確かに有ると思います。
自己抑制がきちんとできる人間は良いのでしょうが、そんなに人間は強いものばかりではありません。罰が当たる、たたられる、そういったことで自己抑制を働かせる必要があると思います。宗教は大事ですよ。カルトはいけませんけどね。
統計に、今まで無かったイジメによる自殺という項目が加わるそうです。
今まで軽視してきた証拠ですね。
何かの理由で、社会の保護や助言が受けられない子供達の中から、自殺に至る例が出るのだと思います。
社会の側で、そういう子供達を減らす努力をするのは当然の事ですが、境遇の差を無くすのは難しいでしょう。
もちろん努力は大いにすべきですが、成果はかなり限定的ではないでしょうか。
恵まれた子供が助かるのは分かっています。
恵まれない子供が生き残れる方法を見つけないと、イジメによる自殺者が大幅に減る事は無いと思います。
弱者を救うには、弱者の視点に立つ事も必要です。
恵まれた強者の視点で、対策を練っても限界があります。
私も妙案がある訳ではないのですが、どなたか思いつく方はいませんか?
孤立無援で追い詰められた人間が、それでも生きていける可能性のある方法を。
完璧を求めません、生き残れる可能性が残る方法、わずかでも希望が残る方法でも構いません。
> 恵まれた強者の視点で、対策を練っても限界があります。
> 私も妙案がある訳ではないのですが、どなたか思いつく方はいませんか?
> 孤立無援で追い詰められた人間が、それでも生きていける可能性のある方法を。
正直、気が進まないですな。
否応無く「地雷原突破用の少年兵士」に仕立て上げられる国もあると思えば、日本人に生まれただけでクソ恵まれた超勝ち組だと思うんですが、そんな勿体無い境遇で自殺に走る精神的弱者を救うのは如何なものかと思うので。
ただ、現実解を求めるならば実にツマラン回答ですが「優秀な教育者」でしょう。
優秀な教育者に「親以上の権限」を与えて、子供の教育・監視・処罰・保護を委ねることです。親が駄目だと思えば親権の剥奪・停止も出来る様にする。勿論、そいつが権力をかさに不正や暴行をする危険性はあります。下手すると戦中の軍事教官ですね。だから国がマジクソになって適正を審査し、大量の候補者から選び抜く。心理テストで性格的に少しでもマズイ点があれば落とす。選別のデータを蓄積し主観で審査しないようにする。行動を厳しく監視する。
難しい話ではありますが、人を救えるのはシステムではなく、やはり人。そして、親や生徒を制御・選別出来ない以上、教師の方をするしかない訳です。
そもそも人生の実戦経験の薄っぺらい若造に教育を任せることが根本的に間違っていると思います。また、ベテラン教師と云っても「学校」という閉鎖環境の偏屈な住人で固められている訳です。そういう教師が、エゴ丸出しの親より下の立場で上手いこと教育できる訳がないのです。
だから、候補者に求められる「優秀さ」というのは、確かな、酸いも甘いも噛み分けた人生経験です。
軍隊では格別優秀な将校や下士官を(戦力低下を敢えて無視して)前線から内地に引っ込めて教官に据えて、次世代の教育に当たらせると云います。理に適ってますな。だから新卒の教師はもう採らない。教育学部も要らない。教師というのは別業種で社会的実戦経験を積んだ40〜50代のおっさん(おばはん)から選び抜かれた人のお仕事となる。中学生位までは極力そういう人に任せる。もう青年教師に憧れる女子とか、美人教師をオカズに萌える厨房という風景は無くなる訳ですな。うんうん、寂しいが仕方が無い。
そんなの候補者が居るのかという気もしますが結構居るんじゃないでしょうか。有能で誠実で勤勉で、それでいて出世競争や経済動物であることに虚しさを覚えてしまった人が。本当に価値あることに献身したい人が。ドロップアウトした人が(教育者として得難い弱者経験)。人によって様々な価値観を持っているでしょうから、子供は様々な面を見て貰えることになるでしょう。そういう本当の「大人」の集団であれば救えるかも知れません。
弱者の内側からシボリ出せるものでないと。
弱者の未熟さからくる「不器用な正当防衛」も、確かに妙案とは言い難いです。
何か無いものか。
適者生存の法則に従って、切り捨てるしか無いのでしょうか.....
その点では塾講師の方がよっぽど優秀。
学校教育に人格人生倫理道徳なんて、ウェットで鬱陶しい要素を持ち込むから
教師も生徒も壊れるんじゃないでしょうか。
家庭が逃げ場にならないときはまた別問題ですが、学校が嫌なら、
働いたり趣味に耽溺しながら予備校にでも通えばいいものを。
しかし自殺や、そこまで至らずとも心が折れてしまうのは、個々人の
精神的強度ではなく、ひとえに運だと思います。
担任が父兄の年齢より上になってしまった時、その頃があぶないそうです。物の考え方、価値観、道徳観が全く違ってしまっていて「子供が宇宙人に見える」なんて言う教師もいるそうです。
授業の上手さを追求するなら、授業は予備校みたいにごく一部の精鋭講師のビデオを流し、教室にいる教師?はパソコン教室のサブインストみたいな事をやればいいのかもしれませんね。
私は今まで3人の友人を自殺で亡くしましたが、やはり皆風変わりだったり、繊細な人達でした。
自殺は通常では機能するはずの「生命を守る」という最低限の防衛本能が働かなくなった状態です。他に不登校になるとか、引きこもるとかいじめから逃避する手段はあるのですから。
実はいじめに会ったがゆえに「思春期うつ病」を発症していたケースも多いのではないか、と思っています。
子供の自殺は、救済するべきだと思います。本当に自殺をすることが、問題の解決なのかどうか、短い経験とあらゆる意味で未熟な心理状態では、判断できないから。私はなんらかの、身体を保護することができる第三者機関が必要だと考えます。「駆け込み寺」や「シェルター」のような。学校関係者はもちろん、すぐには保護者にも情報を秘匿してくれるほど、身体的にも精神的にも、完全に保護してくれるような。専門のカウンセラーや、場合によっては医療関係者も関与する必要があるかもしれません。これは物理的にもシステムとしても、今すぐにでも実現可能な対策ではないか。一方、学校は、教師も当事者の可能性があるし、自殺を決意した子供を保護する能力がそもそも無いし、求めることも困難でしょう。その子供は学校生活全般に絶望しているのだから。家庭も同様。親に「死にたい」と言えるだけの強い精神があれば、自殺を踏みとどまることができるかもしれない。
児童相談所のような機関を、もっと権限と守備範囲を強化することはできないものか、ともどかしく思います。
ついで加害者対策という優先順位になるのでしょう。これはもう、法理論やモラルを説いても効果は限定的な以上、何らかの抜本的な対策が必要でしょうが、私は宗教論に陥ることは危険だと思うので(反社会的カルト教団のように、「仏罰」などという表現を乱発されてはたまりませんから)、幼少期には伝承的、神話的なものから、年齢が進むに従って、映画やコミックなど、サブカルチャーなどを通してでも、「生死観」を醸成していくことは有効だと考えます。
上の方に書かれたものも含めて、堕天使さんの提案は素晴らしいものだと思います。
ただ、第三者機関による保護を重視するというのは、ちょっと違うんじゃないかと思います。
たしかに、家庭内の問題(子供の虐待等)には、逃げ場としての第三者機関の存在が必要でしょう。
だけど、学校でいじめられたからといって安易に逃げ場を作ってやるのは、いじめられた子のためにもならないと思います。
逃げ場として用意するのは保健室までで十分だと思います。
それよりも、社会全体が「弱者」に対して過保護になりすぎていることの方が問題のように思います。
最近では、学校で教師が体罰を加えると、親から苦情が出て問題になるそうです。
親から苦情が出るのはわかります。これは親ですから仕方ありません。
ただ、そこで学校側が「お宅のお子さんが悪いから当然です」ってはっきり言わないから妙なことになる。
そこにマスコミが便乗して鬼の首でも獲ったように過剰に報道する。
子供たちは天使の化身だとでも勘違いしてるのかな。
なんとなく、過保護に甘やかすことを優しさだと勘違いしてる人たちが増えた結果だとも思えます。
今必要なのは、父性的な厳しさだと思います。
いじめてる子供たちも、本心では「はっきりと叱って欲しい、止めて欲しい」って思ってるんじゃないかなあ。
いろんな理由で学校が機能不全に陥っている現状では、たしかに堕天使さんがおっしゃるような第三者機関の設置が有効かもしれません。
ただ、それでは問題の根本的解決にはならないのではないかと思うのです。
それよりもまず、学校の機能不全を解消する方策を探るのが先決なのではないでしょうか。
あと、死生観の醸成については、いじめられてる側に「自殺はよくないことだ」って思わせるように持って行くのも有効だと思います。
私の場合、根が小心者なので「どんな事情であれ自殺は一番悪いことだから、死んでも成仏できないで長い間苦しむんだよ」って言われただけで怖くなって、自殺だけはしないようにしようって決心してましたね。
上で言ったことと矛盾するようですが、いじめの問題はきれいな解決を目指さなくても、卒業等の「時間切れ引き分け」狙いでも十分だと思います。
結局は、死ななかったら勝ち、ということになるんじゃないかな。
今回の問題は、「いじめ」という社会現象と、「子供の自殺」という2つの要素に加え、問題を発見し、解決に導くように指導する役割を担うべき教師が加担していた、という3つ目の問題点があると思うのですが、
「いじめ」は無くすことができない、
「教師の加担」も、過去にいくつかの例があり、教師も人間である以上、不確定要素が多く、完璧に防ぐことはできない、
しかし、どちらにも効果的な抑止力が見当たらない、というのが現実なのでしょう。
(しかし、どちらにも効果がある抑止力は、共通する要素があるはずで、そのひとつとして「生死観」を提案したわけです。)
加害者側の問題については、現行エントリーの「Blame Game」の議論にゆだねようと思います。
しかしながら、ここでは「子供の自殺」における原因の中で、せめて「いじめによる」という要素を少しでも排除できはしないか、と私は考えるのですが、その大きな理由として、子供に先立たれる親の気持ちほど、現実の世間において辛いものもない、と思うからです。戦争の悲劇を語るときも、この「親の気持ち」に共通する要素があるのではないか、と思います。
本来、あらゆる生物は、成体ほど生存率が高く、幼いほど致死率が高いものです。人間も然りで、古来から子供を死から遠ざけるためにあらゆる努力をしてきた結果、現在の人類の繁栄と人口増加につながった、と思うのですがいかがでしょうか?少なくとも先進国においては、医療技術の進歩によって、出産から幼少期にかけての致死率は、格段に低く抑えることができるようになっています。先人から継承した、偉大なる財産なのではないかと思います。
そこで、自殺による子供の死を少しでも防ぐという命題に対し、「いじめによる」という理由をできるだけ排除しようとすると、いじめられている環境から、物理的に隔離する、一時的に非難できる機関があったほうがいい、と私は思うわけです。「いじめからの逃げ場」という精神論的な問題ではなく、「自殺を防ぐ」という現実的な問題として。DVやストーカー対策における「シェルター」のような機関や組織があれば、相当な命が一時的にも救われるのではないか、と思いますがいかがでしょう。
イジメ云々に限った話ではありませんが
過度のストレスを受けると、というか
死にたいと思っただけで死んでしまう、
死にたいと思われただけで死なれてしまうような状況こそ
最上だと思いますよ
誰も奴隷化できなくなりますからね
耐える人間がいるからこそ抑圧は無くならないのです
まぁ、死んだ後の話を言うなら
死んでしまえばその人が見てきた世界は終わるので
死んだ後に興味はないはずですよ
迷惑な死に方や、遺書は、加害者ではなく
救ってくれなかった人へのあてつけですし…
俺自身、変わり者のせいか子供のころから良く苛められました(今も、ですが)。
特に子供のころは客観的に自分を判断できないため、何でからかわれているのか、周囲と自分のどこが違うのか判断できず、苦しんでいるのに笑われたりして(しかも、同級生とかのみならず先生にも)何度も死のうと思いました。
実際、自殺を図ったこともあります。ですが、倒れて運ばれた救急病院での出来事で考え方が変わりました。
睡眠薬を飲み、身体の自由が利かないながらも自分の意識ははっきりしていました。病院についたと見えて、周囲から人の声が聞こえます。管が鼻に通されると、苦しくて思わず咳き込んでしまいました。
すると、病院の誰かが「どうしたのかな?」といいました。はっきりいって、患者を気遣っているような感じではなく、からかっているかのような口調でした。実際、周りにいた人がその発言を聞いて笑いました。
「苦しいんです」と言ったら、途端に笑い声がおさまりました。目は閉じていたのでわかりませんが、何となく気まずい雰囲気だったのを覚えています。
後で考えると、きっと意識がないと思ってあんな軽口を叩いたのではないかと思います。入院してた時はとてもそんなことに意識がまわりませんでしたが、退院して何日か経ってからふと思い出して、すごくショックだった記憶があります。
ですが、この経験を通して自分の中で吹っ切れたのも事実です。つまり、苦しんでいる人間を平気で笑うような人間には何を言っても無駄だし、自殺したってそんなやつらは歯牙にもかけないだろうと。
最近の自殺報道の多さには一抹の不安を覚えます。これを見て、何かしらのメッセージを伝えようと使命感にかられて自殺に走る人間が増えないのだろうかと。あと、風潮に乗った討論番組や特集の多さにも辟易します。oribeさんの言うとおり、その場では眉をしかめて「かわいそう」だとか言う人にかぎって、「キモいから」「変わってるから」とか理由をつけては平気でえげつないことを言ったりしたりするのを実体験として知っています。きっとそう言う人は、場の空気を読むのがうまいのでしょう。
感情にまかせて長文を書いてしまって申しわけありません。
http://d.hatena.ne.jp/essa/20061103/p1
福岡ですから奈良と同じ某団体は絡んでいるとは思いましたが同じことを予想している人がいたようです。
陰謀論の可能性はありますが面白いです。
自分も経験がありますが、教師や友人は直接の利害関係があるので、あまり解決への協力は期待できませんでした。
当事者ではなく、第3者への訴えの方が効果があります。新聞社や教育委員会への投書、児童相談所への電話など。
いじめの発生を根本から無くすことは、非常に困難ですあから、いじめが発生した際の対処のしくみが必要と考えます。
具体的には、被害を訴える機関が学校や会社に必要で、さらに独立した立場の調査機関も必要と考えています。
一般的な犯罪に対する警察への通報・検察の調査と同じように、社会的な対処プロセスを整備しておくことが、いじめ対策には最も有効と考えます。
家族・友人の支援は、いじめの解決より、自殺防止のために必要なのだと思います。