2012年07月18日

衆愚の正体

読売新聞のドン、ナベツネさんが本を出したそうです。タイトルは「反ポピュリズム論」。



彼はもともと頑強な反ポピュリズム(反衆愚政治)論者として知られていますが、大衆を衆愚と認識する姿勢は、ナベツネ氏に限らず新聞人によく見られます。

ナベツネ氏は朝日新聞的な左翼のお花畑論説を衆愚制の典型ととらえているようですが、インターネットの黎明期に「ネットは狂人に凶器を持たせるようなもの」的なトンデモ衆愚論をまき散らしたのは、ナベツネ陣営よりもむしろ朝日陣営でした。おかげで日本のネットのオピニオンリーダーといわれる人たちは自虐的で、ネットに人智を超えたモラルを求める始末・・・ともあれ新聞人は、別にナベツネ氏でなくても大衆を衆愚視する傾向を持つのです。

こうした新聞人、マスコミ人の姿勢は、マスコミの外にいる人たちの眼には傲慢と映ります。しかしこれは傲慢だとか謙虚だとかいう話ではありません。マスコミ人からすれば、どう贔屓目に見ても大衆は愚かなのです。

大衆の愚かさは、しばらくマスコミで働いてみれば誰にでもわかるはずです。どれだけ大衆の理性を信じて記事を書き、複雑な事象を複雑な事象として紹介したところで、大衆はそれを理解してくれません。大衆は常に単純でセンセーショナルな方向に流れ、裏切られることになります。

テレビでの仕事を通じて、自分も大衆の愚かさを幾度となく思い知らされました。感動の押し売りに辟易して、ありのままに伝えようとしても大衆は見向きもしてくれず、作られた軽薄な感動をありがたがります。エーケービーとケーポップを聴きながら、「ホテルのバー通い許せない!」と詐欺団に権力を委ね、スカイツリーとパンダのまわりで踊るのが大衆なのです。大衆を説得できないのは自分の表現力のなさとかそういうレベルではなく、畜生のようにバカなのです。

実体験から大衆の衆愚性を思い知らされたマスコミ人には、大衆は衆愚であると公言して憚らないナベツネ氏のようなタイプか、心底では大衆を見下しつつそんな自己を偽り大衆を担ぐ朝日新聞的タイプの2パターンしかありません。

ところが、そんな衆愚のプレイグラウンドであるはずのインターネットは、マスコミ人的感覚から予見した姿とかなりかけ離れています。牧童の管理を離れた愚かな羊たちは、意外に理性的なのです。

インターネットは決して賢者の集いではありません。しかし愚者の饗宴でもありません。先の総選挙で狂的な民主党アゲに明確な拒否を示したのも、ケーポップやパンダ祭りに違和感を唱えるのもネットです。

311地震とそれに続く原発事故では、ネットによるデマ拡散が憂慮されましたが、総じて極めて冷静な反応でした。牧童たるマスコミが衆愚をコントロールしたからではありません。悪質なデマが生じると、ネット内でそれを否定する意見がわき起こり、ネットはネットに内在する力によりパニック化するのを抑えたのです。

というわけで、マスコミの中から見た大衆と、実際の大衆の行動には大きなズレがあります。なぜなのでしょうか?最もシンプルな答えは「マスコミの中から見た大衆と、実際の大衆は別」というものです。

マスコミの中から見た大衆は、簡単にいえば読者、視聴者としての大衆のことであり、あくまでマスメディアというシステム内における大衆にすぎません。マスメディアシステムとは、情報の送り手と受け手が分離され、送り手が大量の情報を一方的に送りつけるようなシステムのことであり、ここでの「大衆」とは、そんなシステムが定着した社会で生じる現象のことを指すのです。

例えばそれは、脳から四肢への命令伝達力のみが異様に発達した人間のようなものです。そのとき人は、極めて俊敏に動けるようになるでしょうが、四肢の末梢神経から脳へのフィードバックが遅いため、目視して気をつけていないと、四肢をうまくコントロールできずにケガをすることになります。脳からすれば、四肢というのは注意を怠ると暴走して自壊する危険なバカと見えるわけです。

しかし問題なのは四肢ではなく、脳から四肢への下り情報のみの流れを良くしたカタワの神経システム=マスメディアというシステムにあるのは言うまでもありません。衆愚ははじめからそこにあるのではなく、マスメディアとともに生まれたマスメディアの一要素、さらに言えばマスメディアそのもののことなのです。

20世紀初頭の思想家オルテガ・イ・ガセットは、「大衆の反逆」において、大衆とは世紀の変わり目に現れた現象であるとし、その原因を工業化や民主化に求めました。しかしそれは文学的すぎる解釈で、理由は単に「マスメディアが確立したから」なのです。



衆愚を構成する「マス・マン」であることから脱するには、悲劇的な信念は必要ありません。ただ新聞を捨て、テレビを捨てればいいのです。衆愚制はイカンというナベツネ氏の主張に、自分は全面的に同意します。

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この記事へのコメント
>311地震とそれに続く原発事故では、ネットによるデマ拡散が憂慮されましたが、総じて極めて冷静な反応でした。牧童たるマスコミが衆愚をコントロールしたからではありません。悪質なデマが生じると、ネット内でそれを否定する意見がわき起こり、ネットはネットに内在する力によりパニック化するのを抑えたのです。

いやいやいやいやいや(笑)
Posted by ポポイ at 2012年07月20日 01:24
例えばツイッターは馬鹿発見機ともデマ拡散機とも言われてますね
自分自身も震災後は
・とあるデマ発見→・慌てデマ注意→・しかし更にその情報がなんとデマ
というなんともお馬鹿な事態に陥った事が…
もっとも、全体で見ればデマの拡散は防げたのかもしれませんが
それでも反原発デモ支持者の「平和を愛する私最高!」なツイートなんかが大量にリツイートされてるの見るとテレビとか関係なく扇動される馬鹿だけの国なんかとも考えちゃいますね…
Posted by 損正義 at 2012年07月21日 04:01
大変興味深い指摘だと思います。

かねてから個人的に二、マスコミの民衆への情報波及には、心理学で言う「傍観者効果」的なものがあるように思っていました。

「傍観者効果」を成立させる要件となるものの内、
「責任分散」、および「評価懸念」がまたらす悪い形での付和雷同性は、マスコミによる一方的な情報がもたらす大衆化の成立原因と似ている点があるのではないでしょうか。
Posted by MUTI at 2012年07月21日 22:06
御意見拜讀しました。

 基本としての疑問なのですが、何故マスコミ人と呼ばれる人は集合名詞である大衆の説得とか教化をされようとするのでせうか。例へば大工がテレビの編輯室に乘り込んで只管大工關聯の話を延々としたところで、編輯室にゐる人間には説得とか教化などされるよりもまずこの狂人は何しにここに來たのだらうと思ふだけのことでせう。若しその事態を大工が悲憤慷慨するなどすれば、獨りよがりの姿に映るのは火を見るよりも明らかでせう。

 しからばこれを反對にすれば、マスコミ人が興味を持つた或る事柄を誠實に記事にしたり、複雜な事象を複雜な事象として紹介したりしても、その内容がある大工鳶石屋左官疉屋瓦屋のやうな人々に興味が惹かれるものが無ければ、そんな話など左から右に成るのが當然のことでしかなく、それを見て衆愚と蔑視したり、裏切られたなどと悲憤慷慨したりするなどお門違ひもいいところで率直に言へば獨善と狂人の人の姿にしか私の眼には映りません。

 無禮は承知ですが貴方のマスコミ論とインターネット論といふのは數百年前のパスカルが「正義は論議の種になる。力は非常にはつきりしてゐて、論議無用である。そのために、人は正義に力を與へることが出來なかつた。なぜなら、力が正義に反對して、それは正しくなく、正しいのは自分だと言つたからである。このやうにして人は、正しいものを強く出來なかつたので、強いものを正しいとしたのである。」とあるやうに、既存マスコミの中でも特にテレビの力が凋落し、代はりにインターネットが興隆してきたために、その力を正しいものとしたいと云ふ欲求の表明をしてゐるやうに思へてならないのです。
Posted by 枯山 at 2012年07月22日 07:41
反ポピュリズムも結構だけど、そもそも現状のマスコミは公正公平でもなんでもなく特定の論調を好むユーザに対してアピールすることで利益を得ているに過ぎないということをナベツネは自覚してんのかねぇ
Posted by TIG at 2012年07月27日 10:07
そもそも韓流もAKBも流行っていない。むしろ愚劣なのはただ文系あるのみ。
Posted by 大洋 at 2012年10月14日 07:22
「意外と理性的」といっても、ネットの場合、「自分の考え方だけが正しい」っていう色彩が濃厚なんだよね。いわゆる「賢明な人物」とはかけ離れてますから、理性的だといってもやはり衆愚は衆愚だと思います。まあ、ネット社会みたいなものが現実の社会にあるのは中国みたいなものでしょうか。この前の反日デモを見ていて思いました。95%かそれ以上の中国人は無関心でしたね。
Posted by しろくま at 2014年05月26日 10:37
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